長岡市医師会たより No.484 2020.7


もくじ

 表紙絵 「赦すという愛」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「副会長就任のご挨拶」 副会長 高橋 暁(高橋内科医院)
 「理事就任のご挨拶」 理事 田中 晋(三島病院)
 「良寛名歌百選を俳句に「注釈付き」〜その四」 江部達夫(江部医院)
 「蛍の瓦版〜その59」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜世界三大爆布制覇」 富樫賢一



「赦すという愛」  福居憲和(福居皮膚科医院)

赦さない心は自分をも苦しめますが、赦すことで自分が楽になり逆に赦されることになるのです。


副会長就任のご挨拶 副会長 高橋 暁(高橋内科医院)

 去る6月1日に行われた定時総会において、副会長を拝命いたしました。太田裕元会長、長尾政之助前会長の下8年間理事を務めさせていただきましたが、引き続き医師会活動に携わらせていただく事となり、改めて身の引き締まる思いです。これからの2年間は、草間昭夫新会長の下、微力ながらも精一杯仕事をさせていただきたいと思います。本来ならば、理事就任時にご挨拶させていただくべきところ、なぜか私だけこのタイミングとなってしまいました。というわけで、簡単に自己紹介をさせていただきます。
 長岡で育った私は、平成2年に東京慈恵会医科大学を卒業後、第1内科(現消化器・肝臓内科)に入局し、ウイルス性肝炎、アルコール性肝障害、肝癌の局所治療などを主に行う研究室に所属しておりました。C型肝炎ウイルスが発見されて間もない時期でしたので、病棟はC型慢性肝炎の患者であふれており、治らないインターフェロン治療をせっせと行っていたのを懐かしく思います。
 平成14年に、父の病気に伴い長岡に戻り、その後診療所を継承してから、あっという間に18年の歳月が過ぎました。よちよち歩きだった長男は大学生となり、高校2年の次男、中学3年の三男、そして愛する妻と仲良く暮らしています。去年から我が家に、子犬のチャコちゃんが仲間入りをしました。茶色のポメラニアンなのでチャコと名付けたのですが、妻が毛を短くカットしてしまい、小顔のミニチュア柴犬のようになってしまいました。しかし抜群のかわいらしさで、私たち家族を癒してくれています。
 さて、コロナ禍の最中、激務をこなされる病院の先生方には大変お世話になっており、心より感謝しています。これから迎える秋冬シーズンに向けて、どのように発熱患者を診療して行ったら良いのか、そして医師会として何ができるのか、まだまだ明確にはなっておりません。しかしながら、みんなで知恵を絞ってこの厄介なウイルスに立ち向かっていけるよう、どうぞご協力をお願いいたします。

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理事就任のご挨拶 理事 田中 晋(三島病院)

 このたび、長岡市医師会理事として新しく務めさせていただくことになりました田中晋(たなかしん)と申します。今まで何かと長岡市医師会の恩恵にあずかってきました。病院勤務医ということで医師会活動には何かと疎遠でしたが、これからは、極めて微力ではございますが、恩返しのつもりで働かせていただきたいと思います。
 この紙面をお借りして自己紹介をさせていただきます。生まれは上越市なのですが、小学五年の時に父親が旧三島郡三島町で開業し、長岡に引越してきました。以来、本籍はずっと長岡市です。大学は南の島へのあこがれで琉球大学に入学し、ここで現在の家内に出会いました。卒業後はそのまま琉球大学の精神神経科教室に入局し、沖縄県内の精神科病院などで研修をしました。その後は東京の杏林大学病院、国立精神・神経センター武蔵病院(当時)に勤務し、10年前に長岡に戻ってきました。
 現在は三島病院で認知症を中心に、てんかん、一般精神科を診療しています。高齢者を中心に診察する機会が増えたこともあり、長岡に戻ってから本格的に身体合併症についても勉強を始めました。身体疾患について改めて勉強するため、医師会が主催している講演会にも積極的に参加させていただきました。講演そのものも大変勉強になりましたが、その後の懇親会などで他科の先生と交流することで実際の診断や治療の流れを教えていただき、それも非常に参考になっています。
 趣味は体を動かすことです。ダンス、スキー、ダイビングなどを嗜みます。スポーツジムにも長年通い続けています。いずれはゴルフも始めたいと思っています。その際には諸先輩方に教えていただくことになるかと思います。よろしくお願い申し上げます。
 現在、世界的に流行している新型コロナウイルス感染症について、医師会ではPCR検査事業を立ち上げるなどめざましい活動を行っています。検査を積極的に行う環境が整うことで、地域住民のみならず医療者の不安もかなり軽減したと信じています。いずれは感染症も終息すると思われます。今後は閉じこもりによる認知症の顕在化、景気後退によるうつ病や自殺の増加、介護破綻なども重要な課題になる気がします。
 私が現在勤務している三島病院についてですが、私の兄、田中弘(たなかこう)が病院を継承し、理事長院長を務めています。これから兄弟で力を合わせて地域医療の発展に貢献できるよう努めていきます。長岡市に生まれて良かった、長岡市で生活してよかったと全ての市民が思えるような医療環境にすることが目標です。
 医師会の皆様方にはこれからもいろいろと教えていただくことも多いと存じます。今後とも皆様のご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

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良寛名歌百選を俳句に「注釈付き」〜その四  江部達夫(江部医院)

76 飯乞ふとわが来てみれば萩の花

 みぎりしみみに咲きにけらしも

 日ごと深みゆく紅葉の美しさと、夏の時鳥の鳴き声は、何時になってもわたしは忘れることはない。
 「みぎり」…庭。
 「しみみに」は「茂(しみ)に」、よく茂っての意。

 托鉢に寄る家の庭萩茂り

77 行く秋のあはれを誰に語らまし

 あかざ籠(こ)にれて帰る夕暮れ

 「あかざ」は藜、春は若葉、秋は実を食用とする。
 「籠にれて」の「れて」は「入れて」の略。

 あかざ籠(こ)に帰り行く暮秋あはれ

78 月夜にはいも寝ざりけり大殿(おほとの)の

 林のもとに行き帰りつつ

 「いも寝ざりけり」は「寝(い)も寝(ね)られず」、眠ることもできないの意。
 「大殿」は長岡市寺泊の照明寺観音堂。

 月夜には寝られずお堂の林へと

79 つきてみよ一二三四五六七八(ひふみよいむなや)

 九(ここ)の十(とを)

 十とをさめてまた始まるを

 この歌は貞心尼の「これぞこの仏の道に遊びつつつくや尽きせぬ御法(みのり)なるらむ」に答えた歌。「仏の教えも限りないものですよ」と教えている。

 手毬つき十くり返しまた始む

80 白妙(しろたへ)の衣手寒し秋の夜の

 月なかぞらに澄みわたるかも

 「白妙の」は「衣」の枕詞。
 「衣手」…袖。

 袖寒し秋の夜月は澄み渡る

81 またも来よ柴の庵(いほり)をいとはずば

 薄尾花(すすきおばな)の露を分けわけ

 貞心尼へわかれるときに与えた歌。

 また来られ尾花の露分け柴の庵(いほ)

82 君や忘る道や隠るるこのごろは

 待てど暮らせどおとづれのなき

 貞心尼の訪れを促した歌。

 君が訪れなきまま道は草が生(む)し

83 塩之入(しほのり)の坂は名のみに

 なりにけり

 行く人しぬべよろづ世までに

 「塩之入の坂」は弟由之の住む与板町と良寛の住む和島島埼の間にある峠。この難所の峠を与板藩主井伊直経(なおつね)が改修した。この峠を通る時はいつの世になっても藩主に感謝の気持を持つようにと。

 塩之入(しおのり)の坂を直しし人ぞ知れ

84 うちつけに死なば死なずて

 永らへて

 かかる憂き目を見るがわびしさ

 「うちつけに」…突然に、だしぬけに。

 文政十一年十一月の三条大地震、その時の山田杜皐(とこう)への見舞状。

 永らへてかかる憂き目を見るわびし

85 天(あめ)が下に満つる玉より黄金より

 春の初めの君がおとづれ

 「君」は貞心尼。

 「おとづれ」…訪問、便り。

 初春の君が便りは玉よりも

86 世の中に恋(こほ)しきものは浜辺なる

 栄螺(さざえ)の殻の蓋にぞありける

 良寛は目薬を入れる壺の蓋に、栄螺の殻の蓋を探してくるよう弟由之に頼んだ。

 恋しきは浜の栄螺の殻の蓋

87 手を折りてかき数ふれば

 あづさ弓

 春は半ばになりにけらしも

 指折りて数ふる春はもう半ば

88 あすよりの後のよすがは

 いさ知らず

 今日の一日(ひとひ)は酔ひにけらしも

 「よすが」…頼りとする方法。

 苦労を掛けている弟由之と酒杯を重ねて詠み交わした歌。

 明日からのこといざ知らず今日は酔ひ

89 みずぐきの跡も涙にかすみけり

 在りし昔のことを思へば

 「みずぐきの跡」…筆跡。
 「父の書けるものを見て」の詞書がある。

 父の書に在りし日思へば涙(なだ)かすみ

90 形見とて何か残さむ春は花

 山ほととぎす秋はもみぢ葉

 「山ほととぎす」…「夏ほととぎす」とも。

 我が形見花時鳥紅葉かな

91 あはれさはいつはあれども

 葛(くず)の葉の

 うら吹き返す秋の初風

 「あわれ」…しみじみと心を動かされる。

 あはれさは葛の葉返す初風よ

92 今よりは千草は植ゑじ

 きりぎりす

 汝(な)が鳴く声のいと物憂きに

 「物憂きに」…「物憂し」なんとなく心が重い。

 こほろぎの鳴く音物憂し草植ゑじ

93 秋萩の花の盛りも過ぎにけり

 契りしこともまだ遂げなくに

 貞心尼宛ての書状中にある歌。この頃良寛は体調を崩していた。

 萩盛り過ぐるも契(ちぎ)り果たせずに

94 夕暮れの岡の松の木人ならば

 昔のことを問はましものを

 「夕暮れの岡」…旧分水町石港にある地名。

 夕暮れの岡松人ならば昔問ふ

95 秋の雨日に日に降るに

 あしびきの

 山田の小父(おじ)は奥手刈るらむ

 「奥手」…遅く実る稲。

 秋雨(しゅうう)続く山田に老爺(ろうや)奥手刈り

96 紅(くれない)の七の宝をもろ手もて

 おし戴きぬ人のたまもの

 「紅の七の宝」…紅色の宝のような七個の柘榴(ざくろ)。
 「もろ手もて」は「もろ手して」とも。

 ざくろ七個賜りもろ手捧げ持ち

97 あづさゆみ春になりなば

 草の庵(いほ)を

 とく出て来ませ逢ひたきものを

 貞心尼に詠み贈った歌。

 春来(く)らば庵出(いほい)で来ませ逢ひたきし

98 ぬば玉の夜(よる)はすがらにくそまり

 明かし

 あからひく昼は厠(かはや)に走りあへなく

 「ぬば玉の」…「夜」の枕詞。
 「すがらに」…ずっと。

 「くそまり」…排便する。

 「あからひく」…赤ら引く、「日」「月」「朝」「昼」などに掛かる枕詞。

 夜通し下痢昼は厠に間に合はず

99 いついつと待ちにし人は

 来たりけり

 今は相見て何か思はむ

 貞心尼が病気見舞いに来てくれた喜びの歌。

 待ち人も来たり相見て何思ふ

100 うちつけに飯(いひ)絶つとには

 あらねども

 かつ休らひて時をし待たむ

 「うちつけに」…だしぬけに。
 貞心尼の「かひなしと薬も飲まず飯絶ちてみづから雪の消ゆるをや待つ」への返歌。

 死期を待つ身心休め飯(いひ)絶つを

 ここに取り上げられた良寛の名歌百首を読んでみても、良寛の人間性がよく分かる。
 良寛(1758−1831年)は江戸時代(1603−1867年)の中後期にかけて生きた禅僧、詩人、歌人、書家である。
 良寛の残した和歌(漢詩に対して、上代から日本に行われた定型の歌。長歌・短歌・旋頭歌・片歌などの総称。)は千六百首を越え、その中で、短歌は千三百余首とも、千四百余首とも云われている。その他、俳句は百七句残している。漢詩も六百余首残している。
 良寛の生まれた山本家は、新潟県三島郡出雲崎の名主兼石井神社の神官。父以南(晩年出家後の号)は歌人であり、俳人でもあった。以南の長男として生まれた良寛(幼名は栄蔵、元服して文孝、出家後大愚良寛と名乗る)は少年時代、大森子陽(しよう)の狭川塾(きょうせんじゅく)(分水町地蔵堂、現燕市)で漢詩、漢文を学んだ。
 十八歳でいったん名主職を継ぐが、すぐに出家、同じ出雲崎の光照寺にて剃髪する。二十二歳、岡山の円通寺で国仙和尚のもと禅の修行に励む。三十四歳、国仙の死を機に諸国行脚の旅に出、三十九歳の頃越後に帰る。各地の空庵を転々とした後、四十七歳の頃国上山の五合庵に定住する。六十歳の頃、乙子(おとこ)神社(分水町国上、現燕市)の草庵に。六十九歳、和島村(現長岡市和島)の木村家の草庵に移り、この頃から二十九歳の貞心尼との清らかな交際が始まる。ここに取り上げた百選の短歌の中、後半は貞心尼に係わる歌が多い。五年後の七十四歳の時、良寛は木村家の草庵で、貞心尼に見取られ最期を迎えた。
 短歌を俳句に詠み替えるということは、五七五七七の三十一文字を五七五の十七文字に短縮することではあるが、そのためには元歌の短歌を十分に咀嚼し、そのエキスを俳句に詠みあげることになる。しかし元歌に込められた思いが深いと五七五の中で表現しきることは困難で、背景を読む方に推量して頂くことになる。

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蛍の瓦版〜その59 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 働き方改革と医師の長時間労働

 1.初めに

 少子高齢化に伴う生産人口の減少や働く方のニーズの多様化に対応する目的で、現在8個ある労働法(注1)の改定を行うための法律が制定されました。これがいわゆる働き方改革関連法案で、平成31年4月より一部の施行が開始されています。ここでは長時間労働の是正や、多様で柔軟な働き方の実現や、雇用形態によらない公正な待遇の確保を掲げ、継続的な推進を目指しています。
 注1:労働基準法・労働安全衛生法・労働時間等に関する特別措置法・じん肺法・雇用対策法・労働契約法・短時間労働者に関する法律・労働者派遣事業及び派遣労働者に関する法律(一部省略)

 2.長時間労働の上限規定

 時間外労働の上限は原則月45時間かつ年間360時間とし、大企業では平成31年4月に、中小企業では令和2年4月より適応されています。これは1日の残業時間で2時間程度に相当し、休日労働も併せて対象となります。
 しかしこの制限には2つの例外規定があり、特定の業種と想定外の状況変化に限っては、上限規制の適用が猶予または除外されています。
 まず通常予見することのできない業務量の大幅な増加等に対しては、臨時に6カ月以内に限り労使の合意があれば次のような範囲で例外が認められています。年間720時間以内(時間外労働のみ)かつ単月最大100時間未満(時間外+休日労働)または複数月の平均80時間以内です。ちなみに過労死ラインとされる残業時間はこの例外規定の上限である、発症前の1カ月に100時間以上または発症前2〜6カ月の平均80時間以上です。
 また自動車運転の業務・建設事業・医師及び一部地域の砂糖製造業では今回の上限規制の適応が5年間猶予されています。いずれも人手不足が深刻な業務ですが、医師以外では5年後に一般則に準じた上限規制の適応を目指しています。一方医師の時間外労働に関しては、5年後に医療界を含めて検討するとされています。新技術や新製品の研究開発業務に関しても、時間外労働の上限規制は適応されませんが、一定時間を超える場合は医師の面接が義務付けられています。

 3.医師の時間外労働

 医師の時間外労働に関する厚労省の検討会の資料によると、勤務医のうち月の時間外労働が平均80時間を超える過労死レベルの者は全体の40%になります。救急車の受け入れ件数が多く、病院の規模が大きいほど長時間労働者の割合が増加します。
 休日についても、年間の就業日数が300日を越える者の割合は勤務医全体の35%あり、他の専門技術的職業の9%に比べても4倍となります。

 4.リビー・ザイオン事件

 現在アメリカのレジデントは、週の労働時間が80時間や、連続して24時間を越える労働は法律によって厳しく禁止されています。昭和59年にニューヨーク州でおきた“リビー・ザイオン事件”を契機に始まった規制で、それ以前は米国でも現在の日本同様に長時間労働が一般的でした。この事件は、リビーという高校生が長時間勤務のレジデントによって誤投与された薬剤の相互作用のために死亡した件です。彼女の父親はレジデント個人のミスではなく、長時間勤務が引き起こした構造的な医療ミスであると主張し、制度の改革を訴えました。
 当直に相当する24時間の断眠状態での仕事能力は、酒気帯び運転に相当します。医師の過重労働は医師本人の健康を損なうだけではなく、作業能力の低下をきたし判断ミスを生じて患者さんの健康をも損なうものです。

 5.今後

 医師の過重労働を回避するためには、労働力となる医師の供給を増やすか仕事量の軽減を図ることとなります。厚労省の推計に拠ると、供給は緩徐ですが増加する一方、医療需要は令和12年ころにピークを迎え減少に転じる見込みです。それでも現状のままの仕事量では、時間外労働が一般労働者の上限の2倍である年間720時間以内に改善されるのは、地域差等もあり令和18年以降となります。
 そこで厚労省では勤務医の業務量の軽減のために、いわゆるタスク・シェアとタスク・シフトを導入し、労働の効率化を目指しています。タスク・シェアは医師間での業務の見直しによる効率化のことで、病院運営や医師の意識の改革も目指しています。タスク・シフトは業務の一部を看護師や事務職員等の他職種に肩代わりしてもらうことです。
 まず看護師を対象に特定行為研修制度を設け、外科術後管理や術中麻酔管理・在宅慢性期領域等において、今まで医師が行ってきた業務の一部を担ってもらう制度が新設されます。また医師や看護師の業務補助を行う医療事務員の導入に対して、今回の診療報酬改訂でもさらに加算が認められました。人員に関しても常勤換算の要件緩和やICTを活用したオンライン診療や会議への参加等の要件が緩和され、それらのために診療報酬126億円の充当が見込まれています。地域医療介護総合確保基金からも、看護師の特定行為研修制度への対応や病院の業務改善への支援等に対し143億円程度が予定されています。

 6.最後に

 医師の過重労働は医師本人だけの問題ではなく、患者さんや他の医療スタッフにとっても不利益となります。人生の様々な段階で、働き方改革関連法案の目指す“多様で柔軟な働き方”を選べる状況は、医師に限らず誰もが目指すべき状況だと考えます。

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巻末エッセイ〜世界三大爆布制覇  富樫賢一

 イグアスはアルゼンチンとブラジル、ナイアガラはカナダとUSA、ビクトリアはザンビアとジンバブエというように、世界三大瀑布はいずれも国境を流れる川の流域にある。

 2017年9月21日リマ(ペルー)からフォス・ド・イグアス(ブラジル)へ。そこは名ばかりの国際空港。泊まったホテルは環境保護の観点からバスタブなしシャワーのみ。とはいえ寝室の他にキッチンと居間付き。早速その居間で夜景を見ながらワインを楽しむ。

 翌日バスでイグアス国立公園に。ブラジル側の入口から入園。その後申し込んでおいたヘリコプターで遊覧飛行。3qに及ぶ全景が見渡せたものの余りに上空すぎて全く迫力なし。その代わりというのか切手無しで出せる絵葉書をもらった。やはりオプションはボートツアーにしておけばよかったと後悔。

 次の日は国境の橋を渡りアルゼンチン側へ。歩道が滝のすぐ近くまで整備されている。進むにつれて轟音が響いてきた。そして最大落差80mの悪魔のノド笛に到着。これまでに出会ったことがない迫力に感激。滝の前に出たり消えたりする虹も美しい。滝の前でポーズをとりプロに写真を撮ってもらう女性続出。女房は遠慮。

 2019年6月11日シカゴからバッファロー空港、そこからバスでレインボー橋(国境)を越えナイアガラ・フォールズ(カナダ)へ。真夜中にホテル着。フロント階の窓からライトアップされた滝が見え疲れは半減。早速に滝を見に出かける。滝の色は赤、青、緑、黄色、ピンク、紫と次々変化。女房は何とか写真に収めようと奮闘するも上手くいかず。

 この滝は五大湖の一つオンタリオ湖から出るナイアガラ川流域にある。クルーズはアメリカ側とカナダ側の両方から出ていて、2014年からはアメリカの会社が運行。現地ガイドがアメリカ人は商売上手だと言っていた。エレベーターで船着場まで降り乗船。1846年から続く名物、霧の乙女号はアメリカ側に移ったので乗ったのは別の船。アメリカ側滝の前を通り過ぎカナダ側滝壺に停留。前もって配られていたポンチョを着込むも何の役にも立たず全身ずぶ濡れ。勿論写真も撮れず。昼食後テーブルロック展望台まで歩いて行き女房何とか気に入った写真をゲット。

 2020年3月6日ヨハネスバーグ(南ア共和国)からリビングストーン空港(ジンバブエ)、そこからビクトリア・フォールズのホテルへ。窓から湧き上がる雲のような水煙が見えた。この滝はザンベジ川流域にあり最大落差は100m以上。

 翌日ザンビア側の16カ所あるビュー・ポイントを1番から回り始める。8番でカッパ着用。次第に雨が土砂降りに。これは水煙が風で押され降り注いできたもの。肝腎の滝は水煙の合間に切れ切れにしか見えない。おっと、女房のサンダルが壊れた。バンダナで固定し何とか歩き続ける。それにもめげず立ち入り禁止の崖淵まで入り込み覗き込むガッツ。仕方なくジンバブエ側に行く前にサンダル購入。10ドルは高いと女房大いに怒る。日本語で怒っても通じず。ジンバブエ側は風上で水煙は降ってこないが迫力も無い。

 次の日はヘリコプター遊覧飛行。低空飛行で迫力満点。滝は深く切れ込んだ渓谷に沿っている。そのため驚くような高さまで水煙が上るとのこと。降りた後はビデオ鑑賞。余りに爺くさい自分の姿を見ては購入意欲全くわかず。

 1週間後我が家の居間に三大瀑布の写真が並ぶ。女房の夢遂に叶う。

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