長岡市医師会たより No.485 2020.8
表紙絵 「8月の奥入瀬渓流」 丸岡稔(丸岡医院)
「よろしくお願いします」 理事 佐伯牧彦(さえき内科)
「理事就任のご挨拶」 理事 岩島 明(長岡中央綜合病院)
「長岡ドクターヘリ 1200日」 江部克也(長岡赤十字病院)
「長岡野菜神楽南蛮異聞」 伊藤 猛(長岡赤十字病院)
「蛍の瓦版〜その60」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
「巻末エッセイ〜ある小児科医の夜の小話」 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)
「8月の奥入瀬渓流」 丸岡 稔(丸岡医院)
今回理事を務めさせていただくことになりました、さえき内科の佐伯牧彦と申します。今年の1月の新年会だったように記憶しておりますが、以前から親しくさせていただいている当時の長尾会長が急につかつかと近寄ってこられて、“循環器の先生、理事に欲しいんだよね”とおっしゃったので、まさか、と思っておりましたが、あれよという間に事が進み、理事を拝命いたしました。
もとより不勉強で、持続力に欠けるのに加え、最近は視力聴力、さらには記憶力も自信がなくなってきまして、患者さんの下の名前がなかなか出てこないこともしばしばです。お引き受けするからには立派に努めますと胸をはって言いたいところでございますが、他の先生方の足を引っ張らぬよう、必死についていきます、というのが精一杯というところです。皆様のご指導、ご協力を切にお願いいたします。
今現在の内科の喫緊の課題といえば、やはり2025年問題として有名な、爆発的に増える高齢者をどうやって診ていくか、だと思います。日々の診療の中で、患者さんが段々年老いていって廃用性変化が徐々に増悪、認知障害も進み、やがて症状を訴えることすらできなくなることはよく経験することです。先行きが非常に心細いにもかかわらず、家族の理解は進まず介護サービス利用も後手に回り、やがて急変して救急病院にお世話になる。しかしいろいろな臓器が弱っているため完全な治療はおろか、かなりの後遺症や生活制限が残ってしまい退院しようにもとても元の家庭では暮らせない、そういう方がいかに大勢いることでしょうか。12年前そういった予想を克服すべく地域包括ケア研究会が立ち上げられました。何度か改良を加えられたその概念のなかで、私がもっとも大事だと思われるのが、“本人の選択(初めは“覚悟”だったらしい)”というところです。子供や孫ではなく、“本人”並びに(もしいらっしゃる場合は)“配偶者(あるいは実質上のパートナー)”の総合的な意思、を一番に尊重してその他すべてのことを決めていきましょう、という部分です。末期のことを相談することは忌み嫌われるから、宗教的バックボーンがないから、等々日本人が自分自身の末期の在り方を具体的にしないことには諸説ありますが、“自分の死に方を自分で考えていく”、という姿勢なしには地域包括ケアの機能は半減してしまうように思います。今後そのような視点から、日常診療の中でも機会をみつけて患者さんならびにご家族とお話ししていってみたいと考えております。
折角の機会ですから少し自己紹介を。茨城県で酪農家をしていた両親の元で生まれ育ち、しばしば乳牛の世話を手伝いながら新潟大学に入学。ずっとやってみたかった硬式テニス部に入部して日中ずっとコートで過ごしてきました。テニス以外は地道に努力することが嫌いでしたが何とか卒業。妻(長岡赤十字病院、内科。旧姓:堀)とはテニス部で知り合い、当時テニス部の部長をしていらっしゃった小児外科の岩渕眞教授に仲人をしていただきました。実家は農場をたたんでおり、茨城の医療事情があまり好きではなかったため新潟に残ることを決意。長く現場で専門性を生かしながら医者をしたかったので内科を選び、当時癌が嫌いだったのと内科の中では外科っぽいところが好きで循環器を選び、第一内科柴田昭教授の門を叩いて、約10年研修いたしました。平成6年に縁あって長岡中央綜合病院に赴任、杉山一教院長、吉川明院長、富所隆先生、八幡和明先生には大変お世話になりました。皆様の助けを借りて何とか10年間勤めあげ、開業医だった岳父の後を継ぐ形で中之島で旧堀医院を継承して今にいたっております。
草間会長の下で、体力を武器に(これは結構自信があります)、長岡の地域医療の発展と、総合病院の負担軽減に少しでも努める所存ですので、ご教授ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
このたび、長岡市医師会理事を、当院の新国恵也先生の後継として、務めさせていただくことになりました岩島明(いわしま・あきら)と申します。勤務医のご多分に漏れず、今まで、医師会に積極的に関わってきたとは言えませんでした。このような立場になって、反省しております。今回の新型コロナウイルス感染症に対する対応で、医師会の地域医療における重要性を認識しました。また、長岡市医師会の会員の先生方の地域医療に対する情熱と実行力を目の当たりにして、感動いたしました。微力ではありますが、少しでもお役に立ちますように、努力いたしますので、ご指導の程、よろしくお願いいたします。
この機会に、自己紹介をさせていただきます。私は、長岡で生まれ育ちました。身体が弱く、毎月熱を出しているような子供で、医師会の大先輩方に大変お世話になりました。1歳の頃に、腸閉塞の手術を長岡赤十字病院で受けました。すでに、泣くこともできないくらい弱っていたそうです。その後、5歳まで、浦瀬に住んでいて、丸山欽一(丸山医院)先生にお世話になり、やけどを診ていただき、外れた肘の関節を何回もはめていただきました。浦瀬には、原敏夫(原医院)先生もおられて、私が予防接種の時に泣いて、母は叱られて切なかった、と話していました。また、父は、鈴木丈吉先生のお父様と卓を囲んだことがあると言っていました。4歳の時に、大和デパートの屋上で転んで顎に裂傷を負い、長岡赤十字病院で縫ってもらいました。今でも、痕が残っています。5歳の時に、胃潰瘍で、昔の長岡赤十字病院の石造りの病棟に入院して、絶食ですごしました。同室に、白血病の子がいて、何を食べてもいいのが、とてもうらやましかった覚えがあります。その後、父の仕事で栃尾に転居して、先代の荒井栄二先生(荒井医院)にお世話になりました。小学校二年生で再び長岡に移りまして、表町の、今は長岡市社会福祉協議会本部の在るところに開業しておられた渡辺健先生(渡辺小児科医院)にずっと診ていただきました。受診のたびに浣腸されたような気がします。東北中学校の三年生の時に、風疹が流行して、学校から急遽、長尾医院を受診したことがありました。そのころの同学年に田邊一彦先生(田辺医院)の妹さんがおられました。自宅の近くに石川紀一郎先生がご開業されたのは、その頃のように思います。長岡高校に入ってからは、本町に診療所があった谷口昇先生(谷口医院)にお世話になりました。その後は、次第に丈夫になり、医療機関にかかることも少なくなりました。ちなみに長岡中央綜合病院にかかったことは、ありませんでした。
昭和61年に新潟大学を卒業して、新潟市民病院で内科研修を始めました。その頃、三間孝雄先生(現・三間内科医院)が呼吸器内科の指導医でおられました。昭和63年の研修終了の際に、循環器内科と散々迷って、結局、呼吸器内科医を目指し、新潟大学第二内科に入局しました。3年目出張は秋田市の秋田組合総合病院の腎内科でした。何故、呼吸器志望なのに腎内科なんですか、と当時の医局長に尋ねたら、「関連病院の北から、名簿の五十音順だ」と言われて、半年間、毎日透析とたまに腎生検をしてました。今考えると、秋田美人の看護師さんともっと仲良くしておけば良かったなあと思います。その後、県立坂町病院に半年勤務して、3日に1回、当直をしていました。平成元年に大学院に入学して、茨城県つくば市の旧通産省の工業技術院微生物工業技術研究所で研究生活を始めました。平成3年に大学に戻り、平成5年7月に長岡中央綜合病院に出張してきました。2年後に上司であった星野重幸先生が急に開業されることになり、慌てて大学の医局長に電話して、僕はどうなるんでしょう、と尋ねると「おまえは長岡の出身だし、ちょうど良いから、しばらくそこにいろ」と言われ、現在に至ります。生まれてから、長岡で暮らしたのは、43年間になります。
今回のコロナ禍に直面し、受診抑制の中、急性期病院が社会に対して果たさねばならない役割や適正な規模など様々な問題と向き合っています。コロナ後の世界が変容していく中で、医療の世界も変化に柔軟に対応できるように、準備しなければならないと感じています。
2017年(平成29年)3月29日に新潟県2機目のドクターヘリとして、新潟県西部ドクターヘリ(通称「長岡ドクターヘリ」)が運航を開始して、はや1200日を越えました。その間、2019年の群馬県消防防災ヘリ墜落死亡事故や2020年の福島県ドクターヘリ不時着事故など、ヘリコプターにおける事故は時々報道されていますが、長岡ドクターヘリでは、幸い大きな事故もなく順調に運航を続けています。この度“ぼん・じゅ〜る”の紙面をお借りして、長岡ドクターヘリ運航1200日の近況報告をさせていただきます。
運航実績については、ヘリ要請は初年度からそれぞれ600件−734件−927件、出動は444件−562件−688件と順調に増加し、1200日の累計では要請約2500件・出動約2000件となっています。出動地域は、長岡・小千谷・柏崎などの中越地域がおよそ半数、十日町・魚沼地域が25−30%、新潟県東部ドクターヘリ管轄地域である三条以北への応援出動が20%となっています。長岡にドクターヘリの基地病院が設置された理由は、新潟県全体の8割を占める新潟・長岡の人口集中地域をカバーできること、しかも重複要請のため要請を断る回数が増加しつつある新潟ドクターヘリを補完するに有利な位置である、というものでした。予想を上回るドクターヘリ要請の増加は、この考えが正しかったことを示しているものと思います。
しかし、糸魚川も含めた上越地域は人口も救急車の出動回数も中越地域の約半数の規模ですが、ドクターヘリ要請は全体の5%弱で、中越地域の10分の1にとどまっているだけでなく、なお減少傾向です。ドクターヘリの利点は、医師・看護師による医療が〈現場で〉開始できることが最も大きいとされています。病院までの距離が近く、救急車による搬送と比べてさほど搬送時間短縮とならなくとも、中越地域からのヘリ要請が多いのは、この点を救急隊側に理解いただいているものと考えております。ドクターヘリの事業主体は新潟県であり、できれば上越地域も含めた新潟県民全体がドクターヘリ利用によるメリットを享受していただきたいところです。
さて、長岡市の救急体制は、長岡赤十字病院・長岡中央綜合病院・立川綜合病院による二次輪番体制がしっかりしています。しかしドクターヘリについては、中央病院だけが敷地内ヘリポートの使用ができず、直近として登録している除雪ステーションも使用できないことが多いです。そのため中央病院への患者搬送は、日赤病院や千歳の防災公園にいったん着陸してから救急車に乗り換えて、という事態が続いておりました。中央病院のかかりつけであっても搬送が間に合わないような病態の場合は、患者さんや家族を説得して他の2病院に搬送することが多かったです。今年の7月からは、東北電力のご厚意で中央病院近くのヘリポートの使用が可能となり、二次輪番に準じた搬送が可能となりました。それ以降は中央病院への受け入れ要請が増加しております。また、新潟ドクターヘリの飛来時などでは、一時的に退避着陸させていただくなど、立川病院のご協力で屋上へリポートも引き続き使用させていただいております。3病院の協力があってこその救急体制というのは、ドクターヘリも同じであります。
なお、時々、各診療所の先生方から、ヘリの飛行音(爆音?)について、「真上で飛ぶとけっこううるさいね〜」などのコメントをいただくことがあります。できるだけ信濃川の上を飛行したり、住宅地などでは高度を高めにするなどの工夫をしていますが、空の上では遮るものないので、かなり離れた飛行コースであっても「真上を飛んでいる」と思われるようです。また、どうしてもヘリポート近くでは、飛行コースがほぼ決まってしまいますので、「いつも」と感じる人が多くなってしまうようです。
今後も、安全に配慮しながら、地域に貢献するドクターヘリでありたいとスタッフ一同念じております。長岡市医師会の諸先生におかれましても、ドクターヘリにつきましてご理解を賜りますよう、よろしくお願いいたします。
先日の江部達夫先生が本誌上に掲載された神楽南蛮についてのエッセイを楽しく読ませていただきましたが、ふと10年ほど前の長岡赤十字病院救急外来での出来事が思い出されました。こんな話です。
私の記憶が確かならば、あれは長岡まつりが近づく頃の暑い夏の夕方のこと、内科系当直を担当していた私のところへ急性のアレルギーが疑われるという若い女性が回ってきました。看護師の問診によると、食事の支度でカレーを作っていたところ急に顔が真っ赤にはれあがり、凄まじい痛みと流涙が出現したのだそうです。通常は蕁麻疹など接触性のものは外科系の先生が担当するのですが、あまりの症状の激しさに内科でみてくれとのこと。話を聞くとピーマンを切っていたところ急に激痛が生じた。これはピーマンアレルギーに間違いないというのです。放射線科専門のヤブ医者の私でも、さすがにそれは変だろう、と思いました。
しかし診察してみると顔面浮腫は明らかで結膜は真っ赤、話をしている最中も、涙がとまりません。ひょっとしたらピーマンによるアナフィラキシー反応?残留農薬が付着して生じたものなら中毒センターとかに電話しなきゃいかんだろうか、と不安になります。そこで思い出したのは、子供のころ焼肉の付け合わせのシシトウと間違えて唐辛子をガブっと食べて死ぬ思いをした苦い思い出。担当看護師に「それ唐辛子じゃないの、良く聞いてみてよ」と頼んで、とりあえず点滴と検査のオーダーを出します。私は新潟生れの新潟育ちなので、神楽南蛮なる食べ物のことは聞いたことがありません。でもさすがにピーマンと唐辛子は間違えないよなあ、さてどうしたもんかな、となやんでおりました。そこへ「先生、あれピーマンじゃなくて神楽南蛮だわ」との看護師の声。なんでも義理の母が玄関に野菜をたくさん持ってきてくれて置いてそのまま帰ったそうで、そのなかからピーマンと信じてカレーに入れるために調理したのだそうです。わたしと同じで、長岡の異邦人。まさかそんな野菜があろうとは。大笑いしたいのを我慢して、とりあえずは診断がついて一安心しましたが、症状を緩和するのにはすごく苦労しました。あれはすごい作物ですねえ。
教訓、女をみたら妊娠と思え、ピーマンを見たら神楽南蛮と思え、と胸に刻んだ一夜でした。乱文失礼。
新型コロナウイルス感染症
1.感染状況の区分
新潟県では、県内の感染状況を4つの区分(平時・注意報・警報・さらなる警報)で表示し、県民に警戒レベルを伝える等の様々な施策の拠所としています。この区分は新潟県独自のもので、新型コロナウイルスの感染拡大に備えて5月27日には公表され、新規感染者数・感染経路不明者数・入院病床利用者数・重傷者数の4点を指標に決定されます。
“警報”は原則として新規感染者数が2週連続して12名/週以上発生し、感染経路不明者が30%以上あり、入院病床利用者数が60名以上またはその内の重傷者が11名以上のいずれかに達した状況です。“注意報”は“警報”の半分程度の水準に設定されています。幸い8月15日現在では新潟県は“注意報”にも達せず“平時”の水準です。
2.病床確保
県の新型コロナウイルス感染症対策協議会では、県内の感染状況をさらにフェーズ1・2・3と段階付けし、フェーズごとに病床確保の協力要請を行うこととしています。3.PCRセンター
新潟県の委託によって開始した長岡地区のPCRセンターは、有志の会員や看護師さんのご協力のお陰で順調に運営されています。ここでは専ら検体採取を行い、検査の必要性の判断や結果の連絡は個々のかかりつけ医によって行われています。4.新型コロナウイルスの感染症緊急包括支援事業(医療分)
先日新潟県福祉保健部から医療機関宛に、新型コロナウイルスの感染症緊急包括支援事業(医療分)に関する冊子が届いたと存じます。診療所の対象となるものは“新型コロナウイルス感染症対応従事者慰労金”と“感染拡大防止等支援事業”の二点です。巻末エッセイ〜ある小児科医の夜の小話 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)
あるウイークデイの夜、薬の説明会の途中、病院からコールがあって、慌てて飛び出した。薬の説明会はあるビジネスビルの4階で行われていた。病院からの呼び出しのコールであり、2回目で製薬会社さんに事情を話して、オフィス街から飛び出した。大通りを駅に向かって走るとちょうどいいタイミングで個人タクシーが来た。手を挙げて、飛び乗った。「○○総合病院まで。急いで。」といった。「はい。」と運転手。ちょうど渋滞にはまったので、「あの、急いでもらっていいですか。」といった。年老いた白髪頭の運転手さんは面倒くさそうに「はあ。でも、ここはいつも混むんだよね。」といった。「あの、少しくらい遠回りしてもいいので、緊急事態なんですよ。」「了解しました。少し、飛ばしますね」と運転手は言った。タクシーは脇道にそれた。渋滞を避けるといいながら、やっぱりその脇道も混んでいた。皆考えることは同じだ。私は我慢しきれず、病院に電話した。つながらないので、病棟に直接電話した。「あの〜磯部ですけど、あの、あれ、あの、赤ちゃん、どう?」「○○○」「今、むかっているんだけど。」「△△△」「だから、今、タクシーで向かっている。なるべく、急いでもらっているんだ。」「□□□」「ともかく、佐藤先生を呼んだんですか?」「☆☆☆」「昨日から具合悪そうだったよ。いつ帝王切開になったの?」「◎◎◎」「帝王切開になる前に呼んでよ。」「***」「で、うまれた?」「@@@」「ああ、よかった。ふー。五体満足で、今のところ、母子ともに異常なし?ああ、よかった」と胸を撫でおろして、いったん電話を切った。病院についたら、すぐに呼吸循環、血糖や、血圧の確認が必要だと思った。
* * *
携帯電話を切った後、白髪頭の年老いたタクシー運転手は「お客さん!おめでとうございます!」と私にいった。その時点でちょっとした違和感が発生した。「本当におめでとうございます。ようやくパパですね。私も孫が生まれたばかりです。赤ちゃんっていいですよね。まあ、男は産ませるばかりで、お産の時は何もできずに、邪魔なだけなんですが。赤ちゃんが生まれた時には、すっ飛んでいかないと、奥さんにあとで何て言われるか、わからんですからね。本当におめでとうございます。」といった。
やっとわかった。勘違いしているのだ。この運転手さんは私をパパだと思っているのだ。小児科医とは思ってないのだ。(いや、この病院の小児科医ですよ)と言いたかったが、ぐっと我慢した。
「いやね、この病院の先生は評判がいいんですよ。産婦人科も腕はいいし、小児科もしっかりしてるそうですよ。だから、心配いりませんよ。でも、新米パパは心配症になりますよね。」「はあ。」と真実を言い出せずに困っていた。
病院につくと、宿直の警備さんから、タクシーチケットをもらってきて、運転手さんに渡す決まりになっているのだが、言い出せずに、飛び降りた。「おつりはいいです。」とかっこつけて、五千円札を渡した。
私は新米パパのふりをして病院に走って入っていった。
当時、私はまだ青年医師。若いから小児科医よりもパパに見えたのであろうか。落ち着きがなく頼りなくみえたのだろうか。皆さんだったらどうしますか。真実を伝えて訂正しますか?
不思議なタクシーの話でした。どうでもいい話でした。