長岡市医師会たより No.486 2020.9


もくじ

 表紙絵 「グアダルーペ寺院」 木村清治
 「美園内科クリニック〜新たな気持ちで」 戸谷真紀(美園内科クリニック)
 「新型コロナに思う〜自粛を自粛?」 福本一朗(長岡保養園)
 「研究し、教育する開業医」 八百枝 潔(やおえだ眼科)
 「巻末エッセイ〜鯨汁」 江部達夫(江部医院)



「グアダルーペ寺院」 木村清治


美園内科クリニック〜新たな気持ちで  戸谷真紀(美園内科クリニック)

 以前に“ぼん・じゅ〜る”で石川内科医院の院長継承1年目のご挨拶をさせていただきましたが、この度、継承から8年を迎えることとなりました。ほっと一息つくと共に、これまで皆様にお力をお貸しいただき何とか診療所をやってこられましたことを心より感謝申し上げます。
 当院は私が小学生の頃に父が開業した建物をそのまま使用しており、年月の経過と共に設備が老朽化してきておりました。私にとっては懐かしい思い出のある診療所でしたし、父にとっては思い入れのある診療所であったと思いますが、患者様にご不便をかけることも多かったため、令和元年夏にリフォーム工事を行わせていただきました。また、リフォームと同時にこれまで長く親しんでいただきました「石川内科医院」の診療所名を「美園内科クリニック」に変更させていただきました。近隣の方々には「石川さん」として身近に感じていただいておりましたが、より地域に根差した診療所ということで、所在地にちなんだ名称とさせていただきました。
 リフォーム後は内装がきれいになり、収納も増えたためすっきりとして気持ちのいい空間となりました。念願の玄関前スロープもようやく設置することができ、これまでご不便をおかけしていた患者様にも喜んでいただけました。患者様も、スタッフも以前より心なしか明るくなった感じがしております。
 しかし、変化があったのは内装などの外見だけではありませんでした。今回のことをきっかけに私の心の中にも大きな変化が起きておりました。診療所を継承した当時は、父のこれまでの診療の仕方や考え方を中心に、通院していただいていた患者様が安心できるようなスムーズな継承を心がけていました。しかし、診療所のリフォームを考えるにあたり、自分はどんな診療所を目指し、どんな医療を提供したいのか改めて考える機会となりました。新規開業の先生方は、開業時にお考えになることなのだと思いますが、私にとっては今回が良いきっかけでした。どんな診療所を目指すのかいろいろと考えること1年近くにもなりました。そして私は現在の住宅街の中で、徒歩や自転車で来院してくださる周辺住民の方達を大切にしたいと思いました。かかりつけ医として、「いつもそこにある安心」を目指していこうと、「今まで通り」を続けていこうという結論になりました。結局今まで通りなのですが、何となくそれを続けるのと、そうしたいからするのとでは違うのです。「信念を持って、これまでのお馴染みさんを大事にする。」そんな気分でしょうか。当院には親子3代やご夫婦で通院してくださる方がいらっしゃいます。先代の方の看取りをさせていただいたご家族もいらっしゃいます。そんな風に患者様とは健康を守るお手伝いを通じて長いお付き合いをさせていただければと思っております。昭和のにおいの残る、患者様や地域とふれあいのある診療所が私の目指す診療所となりました。そのため、内装も年配の患者様が戸惑われないようレイアウトは変えず、ゆっくりと落ち着けるよう喫茶店のような雰囲気にしてみました。現在の状況ではなかなかゆっくりというわけにはいきませんが、いつか新型コロナウィルスが落ち着きましたら、また患者様と楽しくおしゃべりがしたいと思っております。
 当院は一般内科を主軸に診療をしておりますが、専門医の診療を必要とされる患者様や内科以外の患者様も多く受診されます。その都度、病院や近隣の先生方に患者様をご紹介させていただいており本当に感謝しております。専門の医療機関にすぐにつなげられることは当院にとっても患者様にとっても大きな安心になっております。これからも美園内科クリニックとして地域の方の健康のために微力ながらお手伝いできればと考えておりますので、これまでと同様よろしくお願い申し上げます。

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新型コロナに思う〜自粛を自粛?  福本一朗(長岡保養園)

 2020年8月までに世界全体で感染者2200万人と死者77万人(死亡率3.5%)を出した新型コロナウイルスは、それに加えて政府の都市封鎖・外出規制・休業要請などにより、世界のGDPも5.2%縮小し、人々の生活も大きな被害を受けました。
 当院は私が小学生の頃に父が開業した建物をそのまま使用しており、年月の経過と共に設備が老朽化してきておりました。私にとっては懐かしい思い出のある診療所でしたし、父にとっては思い入れのある診療所であったと思いますが、患者様にご不便をかけることも多かったため、令和元年夏にリフォーム工事を行わせていただきました。また、リフォームと同時にこれまで長く親しんでいただきました「石川内科医院」の診療所名を「美園内科クリニック」に変更させていただきました。近隣の方々には「石川さん」として身近に感じていただいておりましたが、より地域に根差した診療所ということで、所在地にちなんだ名称とさせていただきました。
 全国一律の外出規制、営業自粛要請が出されて、学校、保育園、図書館が閉鎖され、2020東京オリンピックや高校野球はじめあらゆる競技が延期中止を余儀なくされ、映画・演劇・コンサート・花火・海水浴・お盆帰省も自粛を要請されて、人間の文化活動全般が停止に追い込まれました。
 コロナ感染を逃れた人も三密を避けるため仕事に行けず、多くの商店企業が閉店・倒産した未曽有の経済的危機に対応して、日本政府は通常国家予算を超える総額108兆円の緊急経済対策を実施しますが、それは全国民がいつかは支払わねばならない借金です。多くの人々が現金収入や職を失い、家庭内でも夫のリモートワークで毎日の炊事に追われ、子供の登校禁止でバイトに行けない主婦達にはストレスがたまり、家庭内不和やDV、コロナ離婚も増えています。さらに脅迫・中傷・投石・落書き・密告などの「コロナ差別事件」「コロナ自警団」「自粛警察」に象徴される同調圧力と相互監視、医療従事者や宅配従業員に対する暴力や差別、「お願い」という名の強制力で強まる私権制限、コロナ感染者とその家族に対する謝罪強制やバッシングなど、明らかな人権問題も増えています。
 これに対してイタリアの哲学者アガンベンは「生き延びること以外の価値を持たない社会になってしまっていいのか?ウイルス危機を口実にした国家の「生権力」強化に警戒すべきだ」と問いかけ、欧州では大きな議論になっています。生権力とは「お前達にとって一番大事なのは個体が生き延びることだろう?」と言って、人々の命に介入することで集団を効率的に管理統治する権力のことです。確かに個人の生命は身体財産とともに第一に守られるべき基本的人権です。しかし日本の思想家吉岡隆明が「共同幻想」と名付けたように、太平洋戦争はじめ歴史上のほとんどの戦争が「自国民の命を守る」という名目で開始されたことを忘れるべきではありません。「人はパンのみにて生きるにあらず」、人間の文明は個体の生を超えて、自由で文化的な社会を次の世代に伝えていくことで守られてきたこともまた真実です。
 これに対してパンデミックは長期戦になることを最初から見越し、「休校休園なし・飲食店営業規制なし・入国規制移動規制なし・外出制限なし・公園閉鎖なし・美容院ジム映画館も通常営業」と、経済にも社会にも負担をかけない道を選んだスウェーデンやアイスランドでは、死亡率もロックダウン組のベルギー・西・伊・英・仏・蘭より低水準で、しかも死者の9割は元々何らかの重篤な病気を持つ70歳以上のシニアばかりでした。また6月の時点での集団免疫率はスウェーデンでは既に27%でしたが、日本は0.1%にも達しませんでした(Fig. 1)。その結果、8月現在の日本は既に第二波パンデミックが発生していると思えますが、政府は経済活動を重視して、ニュージーランドのように緊急事態宣言を迅速に再発令することなく、都知事の県を越えた旅行自粛要請に反してGo To Travelキャンペーンを強行しています(Fig. 2)。
 今回の新型コロナの様に人類が遭遇したことがなくワクチンもない新型ウイルスに対して、社会生活を正常に保ちつつ、現存の医療資源を平常通り活用して重症者の救命を第一に考えながら、集団免疫の完成を待つ対処法は北欧独自のものですが、ほとんどの高齢者が普段から三密にならない一人暮らしを望む人生観も役立っています。自活不能の高齢者夫婦は老人専門病院の夫婦部屋で手厚い介護を受け、「子供は社会からの預かり物」と考え、子供達を高校卒業と同時に独立させつつ定期的に訪問してもらって自分流に暮らしています。(Fig. 3〜Fig. 4)教育・医療も原則無料で、夏休みは5週間、老後も年収の高かった5年間の平均額の90%が終身年金として支給されます。「私の財布は政府です」と自信をもって言える合理的精神の北欧人ですが、それに負けないほど誠実・勤勉な日本人も、いつかはこのようにどんな時でも安心して住める幸福な国を作れるのでしょうか?
 幸い日本は台湾や韓国と同じく、感染者数も死亡率も現時点では世界各国に比して少なく、医療崩壊は起きていません(Fig. 5)。しかし医療体制はインフラを始めとして、社会機能が正常に維持されなければ持続できない脆弱なシステムです。全国一律の社会活動規制は避けるとともに、自粛要請も含めて、必要最小限にして可能な限り謙抑的になされるべきです。そのためには感染症学者はエビデンスに基づいた科学的に正確な感染防止策を責任持って提示することが求められます。さらに「常在戦場」の精神で、ECMOや人工呼吸器など重傷者の命を救う高度医療機器を維持運転する臨床工学技士を含む医療技術者を常に養成しておくことが、医療機材の備蓄、ワクチンと治療薬の平時からの開発と並んで重要と考えられます。
 感染症はある意味で自然災害と似ています。コレラ・ペスト・スペイン風邪など人類の歴史上何度もパンデミックは起きてきましたが、今回の新型コロナも「喉元過ぎれば熱さ忘れる」であってはならないと思います。すべての人が塗炭の苦しみを経験した今こそ、必ずやってくる次のパンデミックに備える社会体制の構築に取り掛かるべきなのではないでしょうか?

「いつもと同じ様に平静なストックホルム中心部」

「日本における新型コロナ第二波」

「スウェーデン医学生実習先のカーランダシュカ老人専門病院」

「北欧老健施設の夫婦部屋はまるで自宅の様」

「各国の新型コロナ死亡率比較(左の国から感染者数が多い順)」

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研究し、教育する開業医  八百枝 潔(やおえだ眼科)

 小生は令和2年4月から、新潟医療福祉大学大学院保健学専攻視覚病態学分野非常勤講師を拝命し、もともと拝命していた新潟大学大学院医歯学総合研究科視覚病態学分野非常勤講師と自院院長含め、現在3つの役職を兼務しています。新潟大学においては特に責務はなく、たまに後進の論文指導を行うくらいでしたが、新潟医療福祉大学においては、年間90分の講義8コマを請け負うことになり、令和2年7月20日に第1回講義をオンラインで行いました。
 今回の役職を拝命した経緯は長く、平成20年10月に眼科八百枝医院を継承しましたが、新潟大学での各種データ解析の仕事が残っていて、責務を果たしている間に、先輩である川崎医科大学眼科学教室三木淳司教授から、「当教室の論文指導を手伝って下さい」とお願いされ、メールで何度もやり取りしながらいくつかの英文論文の共同執筆者として名前を入れて下さいました。平成26年6月より福島淳志副院長を招聘し、やおえだ眼科として移転開業したのですが、当初は時間を持て余し、川崎医科大学の研究のお手伝いをしている中で、今でも論文が書けるのかもと思い、自分でも数本執筆しました。研究内容は主に眼圧に関わることで、環境による眼圧変動や、各種眼圧計の比較、短期の眼圧変動などです。その後英文和文合わせて、現在まで約6年間で13本の論文が発行されました。英文論文の査読も行っており、現在年間5〜6本ほど依頼を受けています。そんな中で、川崎医科大学から前田史篤先生が教授として新潟医療福祉大学視機能科学科に異動することになり、新潟医療福祉大学の論文指導も請けることになりました。前田史篤先生と実際に面会してお話しする中で、今どきは教員が少なく、「是非大学院生に講義をお願いします」と依頼されたのがきっかけです。
 もちろん今までも60分くらいの講演は行ったことがありますが、90分はなかなか大変なことと思われました。何を教えていいのかもさっぱりわかりません。統計学は詳しい方だとは思いますが、公衆衛生学教室などで学んだことがあるわけではなく、統計検定も受けたことはないので、大変困ってしまいました。そこで、これまでの論文指導と言いますか、自分の臨床研究の経験を基に、大学院生を相手に研究テーマの決め方、基礎的な生物統計学、実際の論文の書き方を総括的に教えることにしました。偉そうな文言ですが、要するに自分が研修医で全くの素人だった時から、今に至るまで、どのように研究に向き合っていたかをお話しすることにしました。
 現職を拝命することが決まったものの、新型コロナウイルスの問題で講義の日程や行い方がなかなか決まらず、しかしながら事を先に進めていかないといけないので、3カ月くらい休日を返上して講義8コマ分500枚くらいのスライドを作成しました。第1回の講義の日程が決まったのはその2週間前、リモートワークのためのMicrosoft Teamsを用いて自院院長室から行いました。小生は当然ながら自院院長でもあるので、決まり上診療時間に抜け出すわけにもいかず、同大学の一番遅い講義時間19時50分〜21時20分を選択しました。講義の相手は大学院生3人と前田史篤先生の計4人。機械音痴でリモートワークもほとんど経験がなかったため、なかなか緊張して臨みましたが、始まってみれば和気藹々と言いますか、皆さん研究熱心だったため、講義というよりはディスカッションという感じでリラックスして行えました。
 開業医が研究や教育に携わることは、余った時間を使わないといけないので結構大変です。本来であれば研究成果を上げたところで、(小生は幸いな成り行きから新しい役職を拝命しましたが、一般的には)出世する訳ではないので、時間の無駄なのかもしれません。しかしながら新しい知見に触れることで自分の知識が充実すること、教育を通じて広く自分の経験を伝えること、何より医学者の本質は研究であると信じていることより、今後も無理せず、時間の許す限り行っていく所存です。ということで親父譲りの飲兵衛ではありますが、なかなか各種会合には出席してないことをご容赦下さい。最後は言い訳で申し訳ありません。

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巻末エッセイ〜鯨汁 江部達夫(江部医院)

 私の夏場の汁物の好物の一つに鯨汁がある。
 俳句の世界では、鯨や鯨汁は冬の季語になっています。鯨は回遊の途中、冬、日本近海に姿を現すことが多く、捕獲し、食べていたので冬の季語になっているようです。
 鯨は日本人の食文化の中では大切な食材の一つです。日本各地で縄文遺跡の貝塚から、鯨の骨が出土しています。
 縄文の人々は丸木船で海に出て鯨を捕獲したり、海岸に打ち上げられた鯨を天の恵みと食べていたのだろう。
 日本で鯨を組織的に捕獲するようになったのは、十七世紀の初め(慶長年間)、紀州で銛突法が考案され、その後網取法による捕鯨技術も発達し、和歌山、高知、北九州に鯨組という組織が生まれ、商業捕鯨の始まりとなった。セミクジラやザトウクジラが漁の対象であった。
 二十世紀に入ると、南氷洋での大型の鯨(ナガスクジラやシロナガスクジラ)を狙った母船式捕鯨が主流となるが、鯨組の捕鯨は小型漁船での沿岸式漁法として残っていた。
 母船式捕鯨は船内で鯨を解体し、貯蔵できる大型母船と鯨を捕獲する捕鯨船の船団で行われた。
 日本で母船を造ったのは一九三六年の日新丸(川崎造船所、一六七〇〇総トン)が初めてで、これは間もなく始まる太平洋戦争で軍用船となり、海の藻屑となった。一九五一年に同型の母船が再建された。
 その後も外国から二万トン級の大型母船が導入され捕鯨大国になるも、一九四九年に発足した国際捕鯨委員会(IWC)で捕獲頭数に制限が加えられ、一九八六年には商業捕鯨は禁止となった。日本は調査捕鯨としてミンククジラなど小型の鯨を細々と捕獲していた。
 現在の日本の食卓に上がってる鯨はIWCに参加していないアイスランド、ノルウェーやグリーンランド(デンマーク)からの輸入ものである。
 鯨で美味いのは大型のひげ鯨であるナガスクジラ、シロナガスクジラとされているが、シロナガスは絶滅危惧種で捕獲禁止。
 鯨汁の材料は皮下に厚く蓄えられた脂肪組織である。塩蔵されたナガスクジラの脂身はスーパーに常時置いてある。鮮魚センターに行くと冷凍された脂身が手に入ることがある。
 夏の鯨汁に欠かせぬ具材に夕顔の実がある。これは長岡だけの食習慣かも知れないが、子供の頃から鯨汁と云えば夕顔であった。鯨の臭みを消すためか、笹掻き牛蒡も欠かせない。各家庭の好みで茄子、じゃがいも、ねぎを入れたりしている。
 春、山菜の取れる頃はみず、うるい、うど、じだけなどを具材にしている。山菜の鯨汁は絶品だ。ここでは笹掻き牛蒡は入れない方が良い。
 味付けはお酒を少量加え、味噌か醤油味にするが、私は味噌が好きだ。
 鯨の下ごしらえとして、黒い皮を付けたまま、細長く切り、塩鯨は一〇分ほど塩出しする。その後湯通しすると臭みも抜け、食べやすくなるが食通には物足りない。
 夏の鯨汁は夏ばて気味の体に元気を与える。冬は冷えた体を温める効果がある。
 鯨汁冷えし体を温めり
 山菜のどっさり入りし鯨汁
 夏ばてを癒してくれん鯨汁
 鯨汁欠かせぬ具材夕顔の実
 どの句も季重ねの句であるが、鯨汁は一年を通して食べたい食物です。

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