長岡市医師会たより No.487 2020.10


もくじ

 表紙絵 「散居村にて(砺波市)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「開業のご挨拶」 福原康夫(ふくはら内科クリニック)
 「ヘリコプターで角さんがやってくる」 藤井久一(グリーンヒル与板)
 「ぬえの鳴く夏の夜」 岡部正明(立川綜合病院)
 「Let It Be」 江部佑輔(江部医院)
 「巻末エッセイ〜爺ちゃんの料理塾」 星 榮一



「塩沢初夏」  丸岡 稔(丸岡医院)


開業のご挨拶  福原康夫(ふくはら内科クリニック)

 ・不明熱で紹介した10代のT細胞リンパ腫
 ・帯状疱疹による30代の髄膜炎(後遺症なく改善)
 ・インフルエンザの診断2日後に心筋炎を併発した50代女性(残念ながら亡くなられた)
 ・奥歯が痛いと言ってロキソニンを半年以上飲みまくっていた三叉神経痛の高齢女性(eGFR30台)
 ・胃食道逆流症として治療されていた三枝病変(心電図異常で紹介したら何と冠動脈バイパス手術に)
 ・風邪症状で来院され心拡大で紹介した顕微鏡的多発血管炎、急速進行性糸球体腎炎(腎不全には至らず寛解されたとのこと)
 ・鎮痛剤で帰してしまった上腸間膜動脈閉塞症の高齢男性(幸い腸切せずに軽快され今もお元気)
 などなど
 まるで研修医の症例リストのようですが、開業医となった私がこの1年間で経験した症例の一部です。これまで関わることもなかったものばかりで、内科医を20年以上やってきて初めて経験した疾患も1つや2つではありませんでした。もちろん全て自分のところで診断できた訳ではなく、後に病院から頂いた報告書を読んで安堵すると同時にプライマリケアを担うことに対する恐怖感を覚えることもしばしばでした。この場をお借りして、御高診、御加療いただきました各病院の先生方に御礼を申し上げます。
 また勤務医時代にいかにCTと放射線科診断に頼っていたのかを思い知らされました。恥ずかしながら虫垂炎の見逃しも3例ありました(あくまでも自分で把握している限りであるところがまた恐ろしいのですが……)。
 そんな中で、外来の合間を縫って行っている内視鏡検査が唯一心の安らぐ時間になっています。高度な治療内視鏡手技とは縁遠くなり、たまにアニサキスを除去してささやかに盛り上がる程度ですが、内視鏡検査のハードルを下げて今まで検査を敬遠していた方にも気軽に検査を受けていただくことが開業した私の使命だと考えておりますので、負担の少ない内視鏡検査が提供できるよう日々精進していきたいと思っています。
 私は新潟市の出身ですが父の仕事の関係で小学校三年生までは長岡で過ごしました。平成21年から10年間、長岡中央綜合病院消化器内科でお世話になり、縁あって令和元年11月に美沢(悠久山通り)の木口内科クリニックを継承・開業させていただきました。通っていた四郎丸小学校の校区内で開業するとは夢にも思いませんでしたが、幼少期を過ごしたこの地で仕事ができることを本当に嬉しく思っています。
 建物自体はお世辞にも新しいとは言えないのでいろいろと問題もありました。開院2日目の診療中に漏電が原因でブレーカーが落ちて停電してしまった時には愕然としましたが、文句を言う患者さんが誰一人いなかったことに救われ何とか乗り切りました。また冬場に暖を求めた?小動物が屋根裏に居着いてしまうという信じられないような珍事件も起こりました。結局姿は確認できなかったものの専門業者によればテンかハクビシンとのことで、隣に住んでいる大家さんの話では栖吉川に沿って山から下りてくるらしいです。東山の雄大な自然を感じる出来事でした……などと悠長なことを言っている場合ではなく、また今年の冬にも現れたらどうしようかと頭を悩ませています。そして開業して半年も経たない問題山積の中、コロナ禍がやってきました。目に見えない敵というのは本当に厄介です。
 決して楽をしようと開業医を志した訳ではありませんが、やるべきことが想像以上に多く、勤務医時代にいかに多くの方に支えられて仕事をしていたのかを改めて実感した1年間でした。半人前以下の院長にとっては休む暇もない毎日ですが、朝まで起こされることなく眠れる生活にすっかり慣れてしまって後戻りはできないので、微力ながら地域医療に貢献できるよう頑張っていきたいと思っております。
 医師会の諸先生方には今後とも何かとお世話になると思いますが、どうぞよろしくお願い致します。

 

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ヘリコプターで角さんがやってくる  藤井久一(グリーンヒル与板)

 今春燕市医師会より長岡市医師会に転入いたしました。宜しくお願い申し上げます。
 ……これからする話は父から聞いた話です。
 秋晴れの新潟ゴルフ倶楽部(旧巻町)、クラブハウス前の駐車場にパタッパタッパタッとヘリコプターが舞い降りて来た。機中からは角さんがニコニコしながら機嫌よく「いよっ」と手をあげながら降りて来る。辺りから「オ〜」と歓声が上がる。誰にもまねできない、誰もが知っているあのキメポーズだ。
 朝クラブハウスで受付をしているとマネージャーから「これから田中角栄先生がヘリコプターでおいでになります。」と知らせがあったので、その時刻になると一同が全員集合してヘリコプターの着陸を待っていた。実はゴルフ場に着いたときいつもと様子が違い、駐車場が広く空けられて何人かの警備員とパトカーが停まっていた。何かあったなと思っていたが、さすがに角さんがヘリコプターに乗ってやって来るとは思いもしなかった。
 一緒にラウンドするのは田中派の大番頭で建設大臣、厚生大臣を歴任した小沢辰男氏と新潟経済界の顔役が1人、計3人でコースを回る。
 我々の組のだいぶ後ろから角さんの組がスタートしたのだが、しばらくすると角さんがすぐ後ろでプレーをしている。一緒に同行している人がきて、角さんたちが追い越して行くがいいですかと打診があった。「どーぞ、どーぞ」と答えてコースサイドに寄っていたら、「わーりねー」と新潟弁で照れるような仕草で帽子をとってスルーしていった。
 さて、グリーン上。角さんは1・2回パットをするが最後まで入れずに次のホールに移動する。このことは角さんのゴルフスタイルとして有名なエピソードだが、秘書の早坂茂三氏や越山会の女王佐藤昭子氏はそれぞれの著書でそのような話があるが最後までカップに入れていたと2人ともこのことを否定している。それは伝説だし、どっちも正しいし、どっちでもいいんじゃないかな。でも目の前の角さんはカップに入れずにさっさと次のホールに急いでいた。どうも時と場合によるらしい……。
 さてもう一つ。
 分水ライオンズクラブの会合で誰かが、「たまにはいいとこでゴルフでもしょって」と言った。
 その計画が整いさっそく繰り出したのはあの名門、川奈(川奈ホテルゴルフコース・静岡県)。
 新潟の片田舎から出かけた面々は、先ずは駐車場の車を見て驚いた。初めて見る高級外車が何台もとまっていた。「さすがに川奈は違うね〜」と晴天の下これから始まるコンペにおのずと気合が入った。
 スタートの順番を待っていると、館内放送が流れた。きれいな女性の声で「皆様、ご注意ください。これよりヘリコプターがまいります。皆様にはたいへんご迷惑をおかけし、まことに申し訳ございません。」とくり返し放送が流れた。何かあったのかとざわついた。
 パタッパタッパタッとヘリコプターが着陸し、じきにプロペラの回転が止まった。
 最初に降りて来たのは真っ黒に日焼けした本田宗一郎氏。次は角さんだった。角さんもゴルフ焼けして負けてない。2人とも小柄だが眩しいほどのエネルギッシュなオーラをふりまいていた。昭和を駆け抜けたビッグネーム2人の登場に辺りは華やいだ。
 角さんは右や左に「いよっ」と片手を何度もあげながら、集まってくれたみんなに満面の笑顔を返してくれる。続いて気難しそうに本田氏がクラブハウスに入ってくる。オーッと歓声が沸いて拍手がおこった。「こんなとこでいいもん見せてもらった。川奈に来てよかったよかった。」と誰彼ともなく驚き興奮していた。
 あいにくその日の角さんのプレーは見ていない。
 ぐるっとコースを半分回って昼食だ。クラブハウスの食堂にいる。テーブルを囲んであれこれと会話が弾んで楽しく盛り上がっていた。そんなとき、まさか角さん一行が食堂に入ってきた。「先生に挨拶に行こう。」と一同は席を立った。
 当時旧分水町は県立高校新設のため目白の田中邸に陳情をおこなっていた。歩いて通える、自転車で通える高校を分水にもつくりたいと切望していた。何度も県庁に足を運んだが、一向に話は進まず色よい返事をもらえなかった。みんなで知恵を絞った結果、目白へ頼みに行くことに決めた。でも、分水は角さんの選挙区の新潟3区ではなく気が引けた。そこで越山会の重鎮である旧中之島村長に同行を願って、快く引き受けてもらった。
 そこは目白御殿の広い応接間、角さんがテキパキと誰かと電話してる。その受話器を渡されたわれわれ陳情団の一人が驚いて絶句した。電話の相手は県庁の担当責任者だった。まもなく新潟県立分水高校の創設が決まった。
 さて川奈のクラブハウスの食堂にもどる。短い時間ではあったが言葉を交わせて幸運だった。角さんは「今一周終わってきたよ。」と汗をふきふき疲れも見せずに笑っていた。やっぱり前の組を追い越しながら1ラウンドを回ってきたんだねと納得した。
 橋を架けてトンネルを掘って高速道路や新幹線を作った。今では誰もがその恩恵にあずかっている。日曜日と祝祭日が重なると月曜日が振替休日になる。これは1973年第2次田中内閣で改正施行された法案である。へぇーこれも角さんが作ったんだ。

 

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ぬえの鳴く夏の夜  岡部正明(立川綜合病院)

 私が住むマンション4階の部屋のベランダからは、ちょっとした公園を見下ろすことができる。そこにはマンションの6階ぐらいまでの高さまで伸びた青々とした樹木が数本並び、広場には子供の遊具が置かれ、そこで遊ぶ親子の姿が見られたり、町内会の人たちが近くに迫った祭りの準備に勤しんでいたりする。大きな樹木にはさまざまな鳥がやってくる。初夏にはカッコウの声が聞かれ、盛夏には蝉時雨の巣となる。
 この数年、夏の夜にキイーー……キイーー……と数秒間のゆったりした周期で繰り返す音が聞こえて来ることがある。その響きは、いかにも誰かが、吊りの部分が錆びれたブランコに乗って揺らしているようであり、あるいは支点の金属が擦れ合うシーソーに乗って遊んでいるような音である。時に夜中といってもいい時間帯に聞こえてくるので、なんでこんな夜中に遊具にのっているのだろうと思っていた。誰か訳ありの人物が、暑い夏の夜に眠れず公園に出てきたのだろうか?でもこんな音を立てては、公園のすぐ隣の家の人にはさぞ迷惑であろう、などと思いをめぐらしていた。
 この夏の外来で、かかりつけの患者さんが、このところトラツグミがうるさくて眠れないと訴える。私はその時、ピンときた。そこでトラツグミの鳴き声を尋ねると、まさにマンションで聞いていたあの音のようであった。
 トラツグミを検索してみると、ヒヨドリ並みの大きさの鳥で、スズメ目ツグミ科に属し、黄褐色で黒い鱗状の斑が密にあることから、トラ(虎)と名付けられたようである。今は便利なもので、その鳴き声もネットで検索、確認できる。その鳴き声は、大変特徴的で、横溝正史原作の映画、「悪霊島」のキャッチコピー「ぬえの鳴く夜は恐ろしい」とあるように、ぬえ=怪物・妖怪の鳴き声として、平安時代から知られている気味の悪い鳴き声である。これが鳥の声と分かったのは、江戸時代に入ってからとある。このぬえ(漢字で鵺)がまさにトラツグミであった。確かに、あの声を、月明かりと蝋燭の光しかなかった時代の闇夜に聞いたら、さぞ不気味で、身の毛のよだつ思いであっただろう。
 私には、金属の擦れる音に聞こえたが、同じ音を聞いても、環境によって感じ方は異なるものであることを改めて再体験した。この夏知った新知識、患者さんから教わったトラツグミの話でした。

「トラツグミ」

 

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Let It Be  江部佑輔(江部医院)

 先日、村上春樹さんの新作を読んだ。そのなかに「ウィズ・ザ・ビートルズWith the Beatles」という1篇があった。高校時代の甘酸っぱい、そして不思議な話である。彼の前を通り過ぎた女子が胸に抱えていたレコードはビートルズの「ウィズ・ザ・ビートルズ」であった。彼はその彼女と2度と巡り合うことはなかった。ただ幻想化された彼女とレコードジャケットの記憶が鮮明に残った。
 私にもビートルズの思い出はある。が、残念ながら甘くも酸っぱくもないものである。幼少のころ、クリスマスの頃、古町大和に連れて行ってもらった時、町に流れていた曲が「レット・イット・ビー」だった。当然それがビートルズの曲だと知る由もなかった。でもその曲はしばらく私の耳に残った。
 小学校時代はテレビでながれる当時のアイドルの曲にハマっていた。中でも天地真理さんはスーパーアイドルで、ドリフターズとの共演番組は毎週欠かさず見ていた。その頃日曜午後に「TVジョッキー日曜大行進」という番組をやっていた。番組の内容などはほぼ記憶していないが、合間のCMが印象に残っている。エドウィンのCMで、下着の女性がジーンズを履くシーンであった。そのバックで「シー・ラブズ・ユー」が流れていた。映像もさることながら、やはり「She loves you Yeah Yeah Yeah」の歌いだしに、経験したことのない激しい衝撃を受けた。それからしばらくは、日曜日午後のテレビを独占した。
 ある日、同級生のS君と一緒にテレビを見ていると、予定通りCMが始まった。「この曲すごいよね」といった感じで彼に話かけた。彼は「これビートルズっていうグループの曲だよ」と教えてくれた。彼はお姉さんの影響で既に多少の外国の曲を聴くようになっていた。「レコード持っている?」と聞くが「ない」とのことであった。ちょうどそのころまだ使っていないお年玉が結構あったのだと思う。私はすぐに長岡大和デパート近くのレコード店に行き「ビートルズ」のレコードを希望した。私としては「シー・ラブズ・ユー」が聴ければよかった。しかし、その時勧められたのが、通称「赤盤」という2枚組のアルバムであった。私のうちには父がカーペンターズなどのポップスを聴くためのポータブルステレオがあった。無論、私も時々一緒に聴いていた。祖父は立派な特注のオーディオセットを持っていたが、私がそれをいじることは許されていなかった。私は「シー・ラブズ・ユー」だけ聴きたかったのだが、CDと違って途中からうまく再生するなどという技はなく、A面一曲目から聴くことになった。私は慎重に針を置いた。「ラブ・ミー・ドゥ」衝撃的であった。さらに「プリーズ・プリーズ・ミー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」と来た。すべてが初体験で、激しい興奮を覚えた。そして「シー・ラブズ・ユー」であった。もうこの日から私にとって、洋楽、いや音楽=ビートルズになった。
 S君も毎日のように我が家に来た。そして、I君も。I君にも数歳年上のお姉さんがいた影響で洋楽を少しかじりかけていた。僕がビートルズ赤盤を持っていることを知り、S君と訪れた。彼の人生はこの日に変わった。さらにI君がビートルズの後期の名曲を集めた青盤もあることを教えてくれた。私はお年玉の他の用途などお構いなく青盤を購入した。一曲目「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」は赤盤の曲とは明らかに違った。そこから続く全ての曲に心が躍った。青盤の2枚目B面、「ヒア・カムズ・サン」から「オクトパス・ガーデン」まで言葉も忘れて聴いた。そして一瞬の静寂のあとあの曲が始まる。私が幼少期に古町で聴いたあの曲であった。私のビートルズの原点にここで出会うことになった。
 私たち3人はその後、各々でレコードを買って貸し合った。TDKのカセットテープが机の上に増えていった。自身で編集したオリジナルアルバムを作成した。その後FMで他のミュージシャンの音楽もチェックするようになり、大学に入ったころにはビートルズはほとんど聴くことはなく、全盛期のMTVで流れるポップな洋楽を視るようになっていた。机の上に散らかっていたカセットテープは消え、CDそしてMDと変わった。仕事が忙しくなると音楽を聴く時間も忘れた。
 数年前にI君と再会した。I君はプロではないが、ミュージシャンとして東京や長岡でライブをこなしていた。バーで飲んでいると、彼の音楽人生を変えたのが、我が家で聴いたビートルズだったと知った。私は久しぶりにビートルズを聴きたくなりCDを買いあさった。懐かしい曲を一曲ずつかみしめた。しかし、レコードで聴いた時ほどの感動がなかった。針を置く煩わしさ、時に針が飛ぶこともCDではないが、何か物足りない感じだった。最近アナログブームでレコードが復刻していると聞いた。衝動買いをすると家内から白い目でみられそうだが、今その日をひそかな楽しみにしている。
 Mother Mary comes to me
 Speaking words of wisdom
 “Let it be”

 

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巻末エッセイ〜爺ちゃんの料理塾 星 榮一

 平成二十三年九月三日、まちなかキャンパス・オープニングイベントで枝元なほみ氏の「食と人のおいしい関係」という講演を聞いて、男子も料理をしなければならないと考えた。我々後期高齢者は「男子厨房に入らず」と教育され、本格的な料理を学ばずに来た。これからは平均寿命が伸び、「男子お一人様」となる可能性もあるので、我々男子も料理を本格的に学ぶべきだと思った。

 方々の公民館で年一回位の「男の料理教室」を開催している所もあるが、定期的に継続して開催している所はない。そこで自分で男の料理教室を主宰しようと考えた。

 平成二十三年秋から、僕の友人・知人から料理教室の受講希望者を募り、ある程度の人員が存在することを把握した。料理実習の会場を数か所見学し、設備や使用料金、駐車場などを比べた。次に講師の先生も何人かに当たっていろいろな条件を検討した。

 平成二十四年一月より、四郎丸コミュニティセンターにおいて十四名で開始した。定員は調理台が四台あり、十六名だが、直ぐに満員になった。調理台は一台に三名位が理想だと思うが、四名でも仕方がない。五名になると遊ぶ人が出て来てしまう。

 講師の先生は星野智子先生で、助手は大湊一枝先生にお願いした。停年退職者を対象としているので、講座名を「爺ちゃんの料理塾」とした。会場を借用できる毎月第三月曜日九時から十三時とし、月謝は食材込みで毎月二千円とした。

 ユニホームは揃いのコック帽とエプロンに刺繍で「爺ちゃんの料理塾」とそれぞれの氏名を入れた。

 平成二十四年一月の県医師会の会報に、一年間続けることが目標だと書いたが、既に九年目に入っている。受講生の入れ替えはあったが、約半数は八年間続けている。令和元年の秋に数名の欠員が出たので、令和二年一月号の「長岡市政だより」で塾生募集をしたところ、多数の応募があり、キャセル待ちをお願いするありさまであった。

 昨年の秋の段階で、料理塾を始めて八年が経過し、一応の役割は果たしたかと考えていたが、「市政だより」の反応を見ても、まだまだ需要があることを知り、もうしばらく続けなければならないと確信した。

 平成二十四年一月より開塾して一度も休止することがなかったが、今年は新型コロナウイルスで四月から七月まで会場の借用が出来なくて休塾せざるを得なかった。

 料理の基本は、まず料理の道具の種類と使い方を覚え、野菜の切り方(野菜の種類によっても沢山の切り方がある)、魚の下処理とおろし方。ゆでる、煮る、炒める、焼く、揚げる、蒸すなどの処理の仕方、調味料の種類とそれによる味付けなどなど覚えることは多い。

 料理塾を経験すると、料理の手順が良くなり、台所の整理整頓が出来て来る。さらに料理本やテレビの料理番組を見ても、最初はチンプンカンプンで全く理解できなかったが、ある程度理解でき、応用も出来るようになった。

 今迄は講師の先生がレシピを作り、食材と調味料を揃えて下さり、我々は当日料理を作ればいいだけであった。本来は自分で食材を準備して調理しなければならないので、自分でレシピを考え、スーパーで食材をそろえて、調理できるようになれば一人前である。

 「男子お一人様」になって、自分で毎日炊事をしなければならなくなったら、業者の「レシピ付き食材宅配サービス」を利用するのも一方法かと考える。そして時々は自分らしい特別な料理に腕をふるって作るのも楽しいだろう。

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