長岡市医師会たより No.488 2020.11


もくじ

 表紙絵 「墓地(ニューオーリンズ)」 木村清治
 「世界に先駆けて脚気を根絶した軍医総監〜高木兼寛」 加辺純雄(田宮病院)
 「エイドステーション」 佐藤 充(幸町耳鼻咽喉科)
 「栃尾に邪馬台国?」 岡村直孝(長岡西病院)
 「ディズニーの魔法にかけられて」 鈴木紗也佳(長岡赤十字病院)
 「巻末エッセイ〜幻の黒いタージ・マハル」 福本一朗(長岡保養園)



「墓地(ニューオーリンズ)」 木村清治


世界に先駆けて脚気を根絶した軍医総監〜高木兼寛  加辺純雄(田宮病院)

 以前“ぼん・じゅ〜る”に陸軍の軍医総監―森林太郎(森鴎外)について書いた時(平成25年11月20日)、そのライバルだった海軍の軍医総監―高木兼寛についても書こうと思ったが、そのまま今回になってしまった。高木は慈恵医大の卒業生ならよく知っているが、森ほどは知られていないと思われるのでぜひ紹介したい。高木兼寛は第二代海軍医務局長として、海軍医務衛生の激動期(海軍医務局名称の変化7つのうち4つを経験)に中心的役割をはたした人物であるとともに、成医会講習所(後の慈恵医大)と日本初の看護婦養成所を創設した人物である。兵食を改良する事により日本海軍の脚気を駆逐、我国初の医学博士を受けている。
 最初に彼の経歴を見てみたい。1849年薩摩藩の大工の子供として誕生したが、幼い頃より読み書きに興味を示していた。厳然とした階級制度が人間の将来を規定している事を感じ、優れた医者になれば階級制度に束縛されない道が開ける事から、医者を希望した。18才の時に薩摩藩蘭方医の石神良策に師事し医学を学び初め、漢方医学、西洋医学、オランダ語と学んだ。時代は幕末であり、軍医として従軍した。明治維新後、藩の隊付医師として従軍した功績により藩士の師弟扱いとなり、20才で開成所洋学局に入局を許された。21才の時戊辰戦争の功労者ウィリスを校長として開校した鹿児島医学校に入学した彼は、ウィリスに認められ生徒から一気に教授に任命された。制度が確立していない時代の面白さである。さらに恩師でもある石神が海軍軍医寮の責任者として上京した折、海軍病院の医員として高木を推挙した、23才の時である。日本の医学はドイツ語中心だったが、海軍では英語に精通している必要があり、英国セント・トーマス病院医学校出身のアンダーソンを迎え海軍病院学舎を新設した。高木はアンダーソンに認められセント・トーマス病院医学校に留学した。26才で留学した高木は優等を続け、数々の賞と資格をとり、31才で帰国、海軍病院長に32才で任命された。当時ドイツ医学一色の状況に危機感を持ち成医会を開始した(後に慈恵医大へと発展)。海軍病院長をつとめるかたわら、夜になると成医会講習所で医学を講義する生活であった。34才で海軍医務局副長、35才で第2代海軍医務局長となり、海軍全体の医務衛生を統括する最高責任者となった。副長就任以来、脚気患者の撲滅に力を注ぎ、軍艦「筑波」の脚気予防実験を成功させ、兵食改善を行い、海軍から脚気を駆逐した。37才で軍医総監(少将)に昇進した。部外の活動では日本で初めて看護婦養成所を設立した。
 40才の時第一回の博士号授与があり、法学、医学、工学、文学、理学各5名、計25名で、医学博士として選ばれた。医学で選ばれた5名はいずれも学者としてのみならず、名医としても知られていた。  20年間の海軍勤務(うち後半は医務局長として)を過ごし、44才で予備役に編入された。東京病院、慈恵医院でも院長として活躍し、以前から高かった東京での名医としての評価がますます高まり、新聞が選出した日本第一流人物の医者の部でも選ばれた。
 50才で大日本医師会長、57才で男爵、67才で勲一等に、72才で死亡した時には従二位に叙され、旭日大綬章を授与された。
 話を脚気にもどす。記述のごとく軍艦「筑波」による脚気予防実験を行い、白米を排した主食と、肉・野菜のバランスを考えた副食により脚気の予防、駆逐に成功した。
 一方、脚気は伝染病との考えを持つ陸軍は、日清戦争では戦死者の4倍の脚気死亡者を出した。日露戦争では陸軍総人員110万人のうち21万人の脚気患者を出し、3万名の脚気死亡者を出した。この相違はなぜか。高木に代表される実証的なイギリス医学の流れをくむ海軍は、学理は不明でも現実に効果ある食物に注目し麦食を採用したが、森林太郎(鴎外)に代表される陸軍は学理(細菌説)にこだわったのである。
 高木の説は日本の医学会では無視されたが、欧米ではビタミンの発見者フンクをはじめ多くの学者が、栄養バランスのくずれた食事が脚気の原因とした高木の説が、ビタミンB欠乏を原因であるとする説に発展したとして、高木を脚気研究の第一人者として、南極大陸に「高木岬」として名を残した。その一帯は、世界的な栄養学者ビタミン研究者の名が岬につけられているが日本人では高木のみである。
 (参照「防衛衛生」45(4):113〜122 Apr. 1998)

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エイドステーション  佐藤 充(幸町耳鼻咽喉科)

 いまから10年くらい前でしょうか。ニュースを見ていると自転車の大会で笹寿司が食べれらるとの報。「グランフォンド糸魚川」というレースで、さっそく自前のマウンテンバイクで出場することになりました。コースの所々にエイドステーションという補給所があり、水やスポーツドリンク、バナナやおにぎりなどの食料を提供しています。目当ての笹寿司はというと大したことはありませんでしたが……。この大会は坂がきつく、えっちらおっちらバイクを押している脇をかっこいいロードバイク(ドロップハンドルのスポーツ自転車)が軽快に追い抜いていきます。よし今度はこれだ!というわけで、さっそくロードバイク購入。週末になるとあちこち出かけています。栃尾〜下田方面。小国〜柏崎方面。小千谷〜十日町方面。出雲崎〜寺泊などの海岸線でしょうか。事前にグーグルマップなどを眺めるのも楽しみの一つです。ただ、実際に行ってみると土砂崩れなどで通行止めのこともままありますが、それも結構。別のルートを探してみるのもおもしろい。というわけで現在は週末中心に50〜80q走っています。以前は100q以上走ったこともありましたが、疲れが残ってしまうためほどほどにしています。お気に入りのコースは小国から峠を越えて国道252号線に沿った里山の道路。適度な下り坂で思わず好きな歌をくちずさんでしまいます。帰る途中「鼻岳」という地名を発見。「鼻茸」?と、耳鼻科ならではのニンマリ。下田方面も素晴らしい。粟ケ岳が大好きで(学生時代何回も登山)、八木ケ鼻も眺めながらの走行は最高の気分です。いままでいろいろ大会に出ましたが、一番好きなのは「アルプスあづみのセンチュリーライド」という大会です。松本〜白馬ジャンプ台の往復160qのコースです。とにかく景色が素晴しく、白馬三山など北アルプスの眺望が楽しめます。こういった大会の売り物はエイドステーションの食です。自転車では一時間走るとおおよそ500Kcal程消費すると言われています。水分や食料の補給のため約20qごとにエイドステーションが設けられています。松本の大会も各ステーションごとに特色があり(漬物だけの所もあり)、白いおにぎり+甘めのみそは絶品でした。今年は新型コロナの影響で大会は軒並み中止。来年は出来るように願うばかりです。
 自転車はいろいろな部品の集合体です。自動車とは異なり気軽に交換できるのが長所であり、楽しい。当初はハンドル、サドル、ステム(フレームとハンドルを連結する部品)、とくにホイールをいろいろ交換。目的は軽量化。ロードバイク愛好者にとっては1gでも軽いのが正義なのです。ただ、自転車がどんなに軽くても重い体はいかんともしがたい。最近は熱が冷め、2台の自転車をその日の気分に合わせて交互に乗っています。ただ年々、坂が苦になるようになってきており、eバイク(スポーツバイク向けに開発された電動アシスト付き自転車)でも買おうかなと思っているところです。今後の目標は?80歳にして100q走行!!生きてられるかな……
 話は変わりますが、今年の6月から長男の浩史が院長として医院を継承しております。諸先生方にはなにとぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

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栃尾に邪馬台国?  岡村直孝(長岡西病院)

 早いもので、長岡赤十字病院から西病院に来て11年経ちました。当初から「一人外科医」でしたが、整形外科の長部先生に助けていただきながら、そけいヘルニアの手術など行っていました。しかし、運転免許の更新が危ぶまれるほど白内障が進行してきたので、その治療を機に、局麻による小手術さえもやめることにしました。
 現在、外科としての診療の主体は外来業務のみですが、手術しない外科ですので、それに係る患者はほとんどおりません。となると、外来は閑古鳥が鳴きそうですが、幸い、一般外科には乳線疾患が残されていました。私はもともと肝胆膵疾患が専門でした。しかし、西病院に移る際、乳腺疾患の知識も深めようと思っていたところ、当時3人いた女性のレントゲン技師がすべて、マンモグラフィーの「撮影」認定資格を持っており、彼女らの勧めで、「読影」認定資格を取得しました。その結果、診療のみならず、乳がん検診や、その後の二次検診にも関わることとなりました。「乳がん術後パス」への参加もあり、外来は、現在ほとんど女性患者で占められ、それなりの賑わいです。
 外来は月水金の午前中だけなので、残る時間は、仏教を取り入れた緩和ケア病棟であるビハーラに当てています。今年はその病棟で思わぬ本に出会いました。入院していた患者様のご家族から病棟図書として寄贈して頂いたものですが、その内容に驚きました。なんと、邪馬台国は栃尾にあったというのです。著者は栃尾生まれの桐生源一という方で、長岡高校のそばにある「玉源」という文具や事務機器の会社の会長さんですので、ご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか。自ら調べた資料に基づく考察に引き込まれます。氏の、「遺跡から出てこない物や歴史資料に書かれていない事など、『なかったもの』にこそ、目を向けるべき」との指摘には頷かされます。なるほど、大和政権が編纂した歴史書の日本書紀や古事記は、神代の時代から描いていながら、邪馬台国に触れておらず、不思議です。勢力圏外や敵対する勢力だった可能性があります。そもそも、邪馬台国は古くは邪馬壹(いち)(壱の旧字体)国と記され、大和朝廷を連想させる邪馬臺(たい)(台の旧字体)国ではなかったことが分かっています。その出典である魏志倭人伝では、倭人は、「入れ墨し」、「体に赤い顔料を塗る」ことなどが記されていますが、今の日本人の文化的ルーツとしては違和感があります。「古志」は古くは、北陸から青森までの日本海側地帯を指していましたが、氏は、人類学的な考察も交え、「『古志』には中国の越の末裔の国『夜麻越(ヤマエツ)国』があり、訪れた魏の遣いが『邪馬壹(ヤマイチ)国』と記した」とし、更に、栃尾は古くは古志郡夜麻郷と呼ばれていたことなどから、「栃尾が邪馬台国である」と結論し、むしろ大和政権とは別の文化圏の勢力と位置付けています。そのうえで、「古事記に『高志之八俣遠呂智』と記されたヤマタノオロチは古志(高志)地方の大王であった可能性がある」、「スサノオノミコトに退治された話は、出雲の勢力と古志地方の勢力の戦いを、神話として描いたもの」等と指摘しておりますが、長岡市民の一人として興味心をそそられます。先日、このコロナ禍で遠出もできないので、氏が「オロチ」の墓と推測している旧栃尾市楡原にある岩野蔵王堂に行って参りました。氏によると、あの有名な蔵王山や長岡市の蔵王神社の名の由来となった神社とのことです。ただ、「大王」を祭る神社としては少し寂しい造りです。また、氏が「土まんじゅう」と称する埋葬した墓もわずかな土の隆起でしかありません。期待をやや裏切る造作ですが、その土の上に生える松は、本の記載通り、「龍の骨格を思わせる」ような「異形」であり、「幹が根元で8本に枝分かれして生え」、偶然とは思いますが、オロチを連想させます。栃尾には以前よりドライブがてら、「油揚げ」を求め時々行っていましたが、邪馬台国の候補の1つになるような特別な場所と思うと、行くのが益々楽しくなりました。

桐生氏がオロチを埋葬したと推測する「土まんじゅう」に生える松(岩野蔵王堂)

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ディズニーの魔法にかけられて  鈴木紗也佳(長岡赤十字病院)

 「夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は必ず実現できる。いつだって忘れないでほしい。すべて1匹のねずみから始まったということを。」これは尊敬するウォルト・ディズニーの言葉です。私はディズニーが好きで、2歳に東京ディズニーランドデビューし、それ以降毎年のように行っています。今までの来園数は年齢数よりも上回る程です。また幼い頃よりディズニー映画も好きで、何度も繰り返し観る程です。なぜこれほどまでにディズニーの魅力に取りつかれてしまったのでしょうか。今まで考えたこともありませんでしたが、今回このような機会を頂いたので考えてみたいと思います。
 まずは「永遠に完成しないテーマパーク」ということです。どんなに楽しいものであっても何度も体験するうちに飽きてしまいます。しかしディズニーランドは来園者(ゲスト)が何度来ても飽きることがないように工夫されています。季節ごとにイベントが企画されていたり、アトラクションも1983年にオープンしてから2020年までの37年間で22ものアトラクションを追加しています。これがリピーターを増やしている理由であると思います。「ディズニーランドが完成することはない。世の中に想像力がある限り進化し続けるだろう。」「現状維持では後退するばかりである。」まさしくディズニーランドは好奇心であふれたウォルト・ディズニーの精神の象徴です。
 次に「徹底した夢の国づくり」にあると思います。園内から園外の様子は見ることができませんし、逆もしかりです。このように日常の空間からディズニーランドという世界を切り取ることで人々は日常を忘れられ、ディズニーの世界観に浸ることができます。また園内には時計がないことにお気づきでしょうか。これはゲストに時間を気にせずに楽しんでもらいたいという思いが込められています。さらにディズニーランドにはそこで働いているキャストしか知りえない秘密の通路があり、この出入口は決してゲストから見ることができません。この秘密の通路のおかげでキャストが移動したり、荷物が搬送される様子を見ることがないため、我々ゲストはキャストが働いているということをあまり感じさせられることがないのです。
 3つ目に「ストーリーとリアリティーの追求」にあると思います。ディズニーランドのアトラクションは登場するキャラクターの動きや表情がとてもリアルです。例えば「ジャングルクルーズ」という愉快な船長と共に神秘的なジャングル体験ができるアトラクションを例に挙げます。私が幼稚園の頃、恥ずかしながらこのアトラクションに登場する動物が本物だと思い込んでいました。怖くて身をかがめた際に船長さんに「お嬢ちゃん、もう大丈夫だよ。」と言われてしまいました。本物と思い込むほどリアルなつくりになっています。また園内にあるレストランもその近くのアトラクションに基づいたストーリーがあり、関連性を見つけていくのがとても楽しいです。
 しかしディズニーの魅力はそれだけではないと、医師として働き始めて気が付きました。意外かもしれませんが、医療に通ずるところがあると考えます。例えば、先ほどのウォルト・ディズニーの名言「ディズニーランドは完成しない」「現状維持では後退するばかりである」これは医療も同じです。常に医療は進歩しており、治療も進んできています。また現状維持で満足していては最新の治療についていけず、後退していきます。だからこそ医師は常に勉強しなければならないのでしょう。またキャストの接客の仕方も日常診療において勉強になります。ディズニーのキャストはゲストの目線の高さで目をみて話してくれますし、最後にはゲストに笑顔で「行ってらっしゃい。」と言ってくれます。“パソコンばかりみて、患者さんの顔をみない医師”という言葉をよく耳にしますが、目をみてきちんと話すことで患者さんは安心感が生まれます。私は研修医であるため、外来診療はまだできませんが、救急外来で内科・外科ウォークインの患者さんを診るときは必ず患者さんの顔をみることを心掛けています。また診察後には必ず患者さんに身体を向けて「お大事になさってください。」と言う(キャストさんの「行ってらっしゃい」に相当すると勝手に思い込んでいますが)ようにしています。
 ディズニーは私の人生に多くの影響を与えてくれます。現在はコロナの影響で行くことはできませんが、いつか再び感染のリスクがなく自由に行ける日が来ることを切に願っています。

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巻末エッセイ〜幻の黒いタージ・マハル 福本一朗(長岡保養園)

 新型コロナウィルスは地球上の全ての人間の人生に少なからず影響を与えました。我々夫婦も25周年記念に長年計画してきたタージ・マハル廟見学ツアーをインド政府の渡航禁止命令により断念せざるをえませんでしたが、“ピンチはチャンス”としてこの機会にインドと中央アジアの歴史について勉強しなおしてみました。白亜の大理石で造られたタージ・マハルは、16世紀初頭から19世紀後半のイギリス東インド会社による植民地化まで300年の間、インド南端部を除くインド亜大陸を支配したトルコ系イスラム王朝であるムガール帝国(1526〜1858)の首都となったアグラ市内を流れるヤムナ河のほとりにあります。一見すると宮殿のように見えますが、実はムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの愛妃ムムターズ・マハルのお墓で、「ムムターズ・マハル」が縮まって「タージ・マハル」になったと言われています。シャー・ジャハーンは絶世の美女ムムターズを溺愛して戦場にも同伴するほどでしたが、遠征先で14人目の子を産んだときに産褥熱のため36歳の若さで昇天します。「私のために世界で一番綺麗なお墓を造って!」との願いに、悲嘆にくれたシャー・ジャハーンが22年の歳月をかけて作ったお墓がこのタージ・マハルで、1655年に完成しました。廟の中心には繊細な透かし彫りが施された大理石に囲まれた王妃の棺が安置されていますが、棺の表面はメノウやヒスイなどを惜しげもなく使った装飾が施され、王妃に対するこのうえない愛情が表現されています。このタージ・マハルを作った工匠も秘かにムムターズ・マハルを慕っていたと言われており、その想いを知った王は完成後「褒美を取らせるので両腕を前へ」と命じ、そのまま匠の両腕を切り落としたという逸話がありますが、タージ・マハルのあまりの美しい出来栄えに、二度と誰も同じものを作れないように匠の腕を切り落としたのだとも伝えられています。ところで印欧語族でヒンズー教を信じるインドにどうしてペルシャ・イスラム建築の精華タージ・マハルがあるのでしょうか?それはチンギス=ハンの子孫であるティムールから5代目の孫に当たるバーブルが、1526年のパーニパットの戦いで北インドの王国ロディ朝を破ってデリーに入り建国したのが、イスラム教スンナ派を奉じるムガール帝国だったからです。ムガールとはモンゴルのことで、ムガール帝国の支配者層は人種的にはトルコ=モンゴル系で、公用語にはペルシア語が用いられていましたが、文化面ではデリー=スルタン朝に始まるイスラム文化とインド文化が融合したインド=イスラム文化を生み出しました。タージ・マハルが造られたころ、ムガール帝国は絶頂期にあり、シャー・ジャハーンは生前、ヤムナ河を挟んだ向かい側にタージ・マハルと同じ設計の自分の墓を黒大理石で建設する計画を夢見ていました。しかしタージ・マハルに費やした莫大な費用のため国の財産は底を尽き、最後には実の息子アウラングゼーブによって皇帝の位を追われてアグラ城に幽閉され、窓から見えるタージ・マハルを眺めながら愛妻を偲ぶことが唯一の慰めでした。黒いタージ・マハルの夢は文字通り夢と散ってしまったのです。世界で最も美しい建築物を残して……。

ムムターズ・マハル(左)とシャー・ジャハーン(中)が造った白亜のタージ・マハル(右)

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