長岡市医師会たより No.489 2020.12
表紙絵 「魚沼師走」 丸岡稔(丸岡医院)
「会いたい、触れたい話したい」 田中 晋(三島病院)
「発病と閉院してからの生活(その1)」 阿部良興(元あべ内科クリニック)
「私の好きな国、台湾」 齋藤 修(耳鼻咽喉科斎藤医院)
「初期研修」 神田睦生(長岡中央綜合病院)
「蛍の瓦版〜その61」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
「Let It Be」 江部佑輔(江部医院)
「巻末エッセイ〜南十字星(サザンクロス)」 富樫賢一
「魚沼師走」 丸岡 稔(丸岡医院)
コロナで始まりコロナで終わる2020年です。コロナウイルスを漢字で表すことができるのでしたら、年末に清水寺で発表される今年の漢字はそれになることでしょう。
本来なら、2020年は56年ぶりに日本で開催されるオリンピックで日本中が沸くはずでした。海外から観光客が増え、「おもてなし」するために準備してきた観光業、飲食業の関係者も多かったはずです。それを思うと現在の状況は寂しい限りです。
多くの産業が今回のパンデミックによる影響を受けました。私たちの分野である医療界もまたそのコロナ騒動の渦中にあります。感染予防対策、PCR検査、ワクチン、治療薬など取り組むべきことが山積しています。
医療界で山積している大きな課題について、私の能力で解決することは難しいようです。そのため、今回の文章では、私の身近に起きたコロナによる小さな生活の変化などについて書いてみたいと思います。少しでも会員の皆様の共感を得ることができましたら幸いです。
まず一つ。コロナで人と会う機会が極端に減りました。2月下旬から少しずつ人と会う会議や講演会のキャンセルが始まり、緊急事態宣言がはじまってからは、すべての院外での予定が中止になりました。家で過ごす時間が増え、外食が減り、飲酒機会が減少し、睡眠不足も解消され、健康になりました。とても良いことです。現在でも職場、家庭、市内に住むとても親しい人以外での接触はほとんどありません。閉塞感がありますが、今のところ問題はありません。
2つめは会議の運営方法の変化です。6月ごろからZoomやTeamsでの会議が始まりました。多少の違和感がありますが、慣れると便利です。1時間程度の会議のために新潟市や東京へ行く必要がなくなりました。時間とお金の節約になります。資料も電子媒体で保存できるので、資料の管理もとても楽になりました。
学会や講演会もネットでの開催が主になりました。オンデマンドでの聴講はとても便利です。通常の学会だと同じ時間帯に興味がある演題が重なることがあります。その場合でも、どちらを聴講すべきか迷うことはありません。あとからゆっくりと聴講できます。会場に満員で入れないこともありません。疲れたら途中でポーズしたり、わかりにくいところを繰り返して再生したりするのも自由です。メモを書いている途中で勝手に次のスライドに行くこともありません。期待はずれで面白くないときは、気がねなく途中退席できます。狭い会場で動くこともままならず1時間以上拘束されることを考えると楽です。
ネットだと会場は選びません。先日も学会は東京会場でしたが、座長が仙台で、講師が長崎、私は長岡市で聴講することがあり、特に問題はありませんでした。今まで大きな学会や研究会は大きな都市しか開催できませんでしたが、これからは実力がある地方の人でも開催を躊躇しなくてもよさそうです。
ただ、全てが良いかと言うとそうでもありません。生活に刺激がなく何となく味気なく感じます。
まず偶然の出会いの楽しみがなくなりました。今までの学会の場合、聴きたい講義が満員で入れないことがありました。そのような時に時間つぶしのつもりで今まで興味がなかった分野の講義を聞いて、思いがけず感銘を受ける、ということがなくなってしまいました。何十年も会ってない同級生とばったり出会い、その夜は旧交を温めるといったこともありません。新しい知識を得るにはネットでも問題ありませんが、新しい友人を得るにはまだ難しいものがあります。
買い物の方法も変わりました。ネットで購入することがとても増えました。ネット通販にも慣れてきましたが、写真や文章だけではわかりにくいものがあります。私の場合、衣類は必ず質感を確認するため触ります。工具や文房具なども使いやすいかどうか手にとります。若い人に尋ねると、服はほとんど通販で購入すると言う人も多く、世代による移行期なのかもしれません。
コロナ後の新しい生活様式で、仕事や人との付き合いは変わると思います。感染予防と言う観点のみではありません。コロナ騒動をきっかけに、慣習で行っていた対面での仕事が見直されるのでしょう。ハンコ文化や出張文化が減っていくのだと思います。
150年ほど前、電話が発明された時、どこにいる人でも電話で会話ができるから人は旅行しなくなるだろうという観測があったようです。今となってはそんなことはないことは自明です。電話で話すことができても人は直接会うために飛行機まで使って会いに行きます。最近、ネットで表情の動きを見ながら会話できるようになっています。それでも直接会いたいという欲求は変わりません。ネットに慣れた若い人でも、オンラインでの交流では足りないようです。
自分の子供、孫を抱きしめたい。一緒に食事をしながら話をしたい。寂しい時にペットを触りたい。これらはネットではまだ難しいようです。
今後、技術が進歩し、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などが全てリアルに感じることができる時代が来るのかもしれません。そんな時代がきても、人は直接会いたくなるし、触りたくなるし、話したくなるのだと思います。近い距離に一緒にいたいという本能があるのでしょう。これは、ヒトに残された動物的な本能の1つなのです。
自分の子供、孫を抱きしめたい。一緒に食事をしながら話をしたい。寂しい時にペットを触りたい。これらはネットではまだ難しいようです。
「会いたい、触れたい、話したい」というのは人間の欲求の中で大きいものです。コロナ禍でネットでの交流が増えるにつれ、最近つくづく感じます。
発病と閉院してからの生活(その1) 阿部良興(元あべ内科クリニック)
まずは、2016年5月突然閉院して、夜間救急外来や休日診療所の当番予定を狂わせてしまい、また産業医や学校医の仕事も投げ出すことになり、ご迷惑おかけした医師会の先生方や職員の皆様にこの場を借りてお詫びさせて頂きます。大変すみませんでした。
2016年4月17日この日は日曜日で東京国際フォーラムの内科学会に出席していましたが、怠くて眠くなり、ずーと眠っていました。実は1年ほど前から倦怠感が続き、なんとなく死期が近い感じがしていましたが、血液検査や胃内視鏡検査では異常なく、1月25日の豪雪の時は医院周囲の除雪を何時間も出来ましたので、体力低下はなく、60歳超えると急に気力が衰えると言うから歳のせいかなとも考えたりしていました。4月19日朝食摂らずに腹部エコーをしてみると、明らかに主膵管が3oに拡張していました。実は2月に腹部エコーの機械を新調したので、その際にも検査しておりましたが1oでした。これは膵臓がんに違いないと思い、厚かましくもA病院のB先生に電話で事情を話すと、翌日に腹部CTを撮ってくれました。CTでは、膵頭部に最大径31oの腫瘍があり主膵管拡張と肝動脈?の拡張所見があり、こんなに大きい腫瘍があるのに自覚症状が軽いのに驚き、医者でさえこの体たらくなのだから一般の人が気づかないのも無理はないと思いました。私の症状は、倦怠感のほか、腹這いで読書しようとすると背部痛があった事、遺伝的に決まっている耳垢の性状が乾燥型から粘稠型に変化したこと位で、食欲低下も無ければ、体重減少も全くありませんでした。血液検査ではALP 386(115−359)、アミラーゼ221(33−120)、CA19-9:76.7(<37)だけ異常でCEA1.1(<5.0)でした。私の経験では、数名の膵臓がんの患者さんを病院に紹介させて頂きましたが、ほぼ全員10sの体重減少があり半年以内に亡くなっています。説明を受けながら、半年後には確実に死ぬなと思い、勤務医時代に診たことのある40代50代で亡くなられた肺がん患者さん達の事を思い出し、「いよいよ自分の番が来たんだ、少し早い気もするが63歳まで生きられたのだから上等さ」とも思いました。日経メディカルの医師へのアンケートで、なりたくない病気ランキングでも膵臓がんが第1位です。また、2歳年下の又従兄弟も医師でしたが、膵臓がんになり55歳位で亡くなっています。私と違ってさわやかな男で、優秀で惜しい人間でしたが、膵臓がんには勝てなかったようです。私は、医者も悪性リンパ腫、スキルス胃がん、膵臓がんには勝てないなと常日頃から思っており、健康に悪いと思われるものは控えていたつもりでした。女性の膵臓がんの方は飲酒歴のない方ばかりでしたが、やはり飲酒は悪いだろうと考えて60歳前に断酒していました。他にリスクと考えられる糖尿病・肥満・慢性膵炎・喫煙などはありません。強いて言えば、この又従兄弟のほかに従姉妹が膵臓がんで亡くなっているとの事なので遺伝性が在るかも知れません。私の治療の話に戻りますが、B先生の意見では、すぐ手術するのは難しいから化学療法してから手術しましょうとの事でした。後で調べてみると当時の診断基準でStageWA、ボーダーライン膵がんと呼ばれるものではなかったかと思います。ボーダーラインとは手術できるかどうかの境界という意味です。また、別の外科医の本では30o以上の膵がんは手術しても再発するので無駄とも書いてありました。「患者さんのための膵がん診療ガイドラインの解説」というインターネットで無料でダウンロードできる解説書の転移の項でも「通常、医師が診断できる程度に進行した膵がんでは、分子生物学的に調べると膵がん類似の遺伝子異常のある細胞が肝臓に認められます。このことから、切除できる膵がんでもすでに肝臓への目に見えないマイクロ転移があり、そのため膵がんは全身病であるとの考えが主流です。」と書いてあり、StageTでも安心できないようです。(つづく)
旅行をきっかけに今日まで私に馴染み深くなった国、台湾について書こうと思います。
台湾は、沖縄の先にある芋型の孤島です。片道3時間です。
大学5年生の忙しい冬休みの丁度クリスマスの時期に、韓国か台湾旅行を計画していました。どちらも当時は査証を取らなければ入国できず、滞在可能期間が韓国が3日間、台湾が2週間でしたので、万が一飛行機が飛ばない等の不測の事態も考え長く滞在できる台湾にしました。ガイドブックで綿密に調べ臨みました。
台湾国際空港から台北までバスで行き、翌日台湾第二の商業都市高雄に行きました。当時のバスは車内に降りる場所の掲示がなくバスから見える景色を頼りに始終不安だったことを思い出します。
台北は都会で、初めて訪れたことと、私が田舎育ちだったからかも知れませんが、夜のネオンの多さに驚かされました。現地では車よりバイクが多くバイクの2、3人乗りも多く見かけました。
代表的な観光名所を幾つか書きます。
@中正記念堂は、初代総統の蒋介石を追悼するために建てられ、記念堂に続く階段の数は蒋介石の亡くなった年齢にちなんで89段あります。
奥に大きな蒋介石の像があり両脇に銃を持った衛兵が直立した状態で微動だにしません。
衛兵の緊張した顔が印象に残っています。(写真@)
1時間おきに交代する衛兵交代式は見どころの一つでお薦めです。
翌日高雄に出向きました。海が近いため近くの海岸を歩きました。
当時は、中国と緊迫関係のさなかでした。軍にまつわるものを撮ることは禁止されていました。昼食をとるのに初めての場所で困っていると近くの大学の学生食堂を利用しても良いと言われ、学食を食べたことが懐かしく思い出されます。
台湾の食べどころは、A夜市(イエスゥ)です。どこの場所に行っても夜の市場はあり人で賑わっていて普通に歩けないほどです。
少し紹介します。ジーパイ(鳥のから揚げの大きいサイズ)日本円で200円程度、オワゼンは牡蠣が入ったオムレツです。日本円120円程度。一人用の火鍋で豚の血を、もち米で固めたものは美味しいです。日本円750円程度。
どれもとても安く食では困らなそうです。ホテルで食べると高いので夜市が断然お薦めです。
台北のB野柳(イエリョウ)の海岸の砂浜に岩が風化により、クレオパトラの横顔にそっくりな外観をみせる岩もスポットの一つです。近年は、クレオパトラの首が細くなり最後に首が落ちる心配もあり?是非行ってみる事をお薦めします。(写真A)
C九?(ジョフン)は、台湾北部にあります。
「千と千尋の神隠し」の舞台になった茶屋があり、日本人の観光客が多く訪れ有名になった所です。日本で観光している感じに思える程日本人ばかりでした。(写真B)
山の上に作られた建物が数多く並び夜景も絶景です。
台湾は、50年日本に統治されていましたが、対日感情が良く皆親切でストレスを感じずに旅行を楽しめるので是非お薦めしたいです。
今後行く機会あれば参考にしていただければ嬉しく思います。
「写真@」
「写真A」
「写真B」
こんにちは。
長岡中央綜合病院研修医2年目の神田睦生と申します。簡単にですが自己紹介をさせて頂きます。出身は新潟市で、家は新潟大学医歯学総合病院の近くでした。
医師である父の勤務先だった事もあり、小さい頃から通学中に見える病院に漠然とですが憧れやかっこよさを抱いておりました。中学までは割と勉強をし、新潟高校に入るまでは良かったのですが、入学後遅れてきた反抗期と燃え尽き症候群で成績が学年ワースト2位になってしまいました。
父が医師であったため、なんとなく勉強してきたのですが、明確な将来の夢やなりたい職業がなかったのです。
しかし数ある職業の中で、医師はとてもやりがいのある職業であり、また医学部に漠然と憧れがあったので、浪人して医学部に挑戦する事としました。ただ一度勉強する習慣、意欲がなくなると元に戻る事はなかなか難しく、医学部に合格するまで三浪もしてしまいました。親には内緒にしていますが、二浪まではほとんど勉強しないで、ほぼニートのような生活をしていました。結局憧れであった新潟大学ではなく東京医科大学に進学する事となりますが、大学ではなんとか留年する事なく、無事6年で卒業する事ができました。
初期研修では地元新潟に戻る事を考え、消化器外科医である父の助言もあり、外科系志望に人気の長岡中央綜合病院を研修先として選択しました。こうして初期研修が始まったのですが、新宿の私立医大のアメフト部に所属していた僕はいつの間にか世間、新潟の常識、感覚から大きくずれていたのです。
僕が悪いのですが、研修医の同期となかなか馴染む事ができず、大学からの彼女にも振られ、最初の頃は、とても辛い日々でした。
正直新潟に帰って来た事を少しばかり後悔した時もありました。また学生気分から抜け出す事がなかなかできず、最初のローテが外科だったのですが、あらゆる面で今までと大きなギャップを感じました。新潟に来て暗い話が続きますが、良い面もありました。同期にも馴染めず、友達も恋人もいない僕は寂しさや虚しさを埋めるために、いつの間にか休みの日や空いた時間に勉強する習慣が付いたのです。学生時代までは、勉強はさせられるものだったのですが、自分からするものとなり、少しずつですが医学や勉強の楽しさ、奥深さが理解できるようになりました。これに早めに気づいていれば三浪しなかっただろうなと常々思います。今では勉強量だけなら、同期で一番している自信があります。また勉強しているうちに内科の方が性に合うと考えるようになりました。学生時代にはまさか自分が内科志望になるとは思ってもいなかったです。長岡中央綜合病院の研修生活自体は、親切な先生方が多く、比較的自由で伸び伸びとした雰囲気で過ごさせていただき、とても充実した研修生活を送っております。新潟での初期研修を通して、当然の事ですが考え方や価値観が大きく変わりました。もし新潟に来なければ、勉強する習慣もあまり付かなかったと思いますし、内科志望になる事もなかったと思います。こう考えると人生って本当に不思議だなと感じます。また親不幸者の僕ですが働き始めて、親の気持ちも少しはわかるようになりました。大学時代と比べると質素な生活を心掛け、給料の半分以上を親に返しています。散々金を使わさせたので、これからも返済していくつもりです。また新宿に住んでいたので、長岡の良さも一際感じます。やはり自然が豊かで、朗らかな人が多いのは、ありきたりですが率直に感じます。生活する面でのストレスも断然少ないと思います。大学時代よりも身体的、精神的に健康になった実感があります。
そんな僕ですが、後期研修は母校の腎臓内科に入局する予定です。しかし将来なんらかの形で地元である新潟、医師として育ててくれた長岡に恩返し、貢献したいと考えております。
その際はどうぞ宜しくお願いします。
新型コロナウイルス感染症により、色々と大変な時期ですが、残り少ない研修医生活、長岡の医療に微力ながら貢献したいと考えております。
脳卒中・循環器病対策基本法
初めに
平成30年12月に“健康寿命の延伸等を図るための脳卒中、心臓病その他の循環器病に関する基本法(通称:脳卒中・循環器病対策基本法)”が成立しました。
昭和56年までは脳卒中が死亡原因の不動の第1位でしたが、現在はがん・心臓病・老衰についで第4位となり、心臓病と併せても23%とがん死の27%には及びません。しかし脳卒中と心臓病を併せると、寝たきり患者さん3割の原因疾患であり、費用面でも医療費全体の21%とがんの1.5倍を占め、介護費用では全体の3割近くに及びます。このように脳卒中・循環器病への対策は、健康寿命の延伸に直接繋がると考えられます。
法制化
平成9年には日本脳卒中協会が設立され、脳卒中の予防と本人家族の支援を目的に活動していましたが、一団体の活動では限られたものに留まっていました。特に社会全体への啓蒙活動や、介護や就業支援といった社会基盤の充実に関しては、医療を超えた活動が重要となり、その拠所としての法制化が必要となってきました。循環器病対策推進基本計画
先ず本法に基づいて組織された国の循環器病対策推進協議会によって、循環器病対策推進基本計画が策定されました。従来はバラバラに行われていた各種対策は、今後はこの基本計画に沿って施行されることとなります。各都道府県は実情に応じた推進計画を具体的に策定し、令和3年4月頃から実施してゆく予定です。次号ではこの基本計画について見てみたいと存じます。 初めての南半球はオーストラリア。シドニーでの国際心臓血管外科学会に参加した1987年。その時は夜空を見上げる余裕など全く無かった。
2度目の南半球は30年後の2016年。シドニー経由でエアーズロックに向かい、エアーズロックリゾート内ホテル(セイルズ・イン・ザ・デザート)にチェックイン。すぐにウルル・カタジュタ国立公園マウントオルガで“風の谷”ウォーキング(証明書付き)。エアーズロック西側に位置する奇岩群を歩き回り、絶景“風の谷”を撮影し下山。おっと女房の手からデジカメが滑り落ちた。打ち所悪く再起不能。
夕食はサウンドオブサイレンス星空ディナー。会場は砂漠の真ん中。まずはスパークリングワインを飲みながらのアボリジナルダンスショー。そしてサンセット観賞。おやもう真っ暗。足元がおぼつかない中ディナー会場へ。ディナーはビュッフェスタイル。食べ方の説明が始まっても、英語力不足の日本人は話を止めない。隣席の外人が振り向き口に指を当て「シー」。やり方は日本と同じ。話し止む。
食事の目玉はグルメバーベキュー。日本でもお馴染みのビーフ・ポーク・チキン・ラム。そして馴染みの無いパラマンディー(スズキの一種)・カンガルー・ワニ・ダチョウ。どれもたいして美味しくない。飲み放題の地ビールと地ワインの方はまずまず。
いよいよ星空観測。ここは砂漠の真ん中、周りに光るものは何も無い。あるのは満天の星空だけ。夜空を強力サーチライトで指し示しながらガイドの説明が始まった。天の川は誰にでもすぐ分る。その南極付近にある南十字星はというと?2つの1等星α星とβ星が並んだ右側にある暗黒星雲(コールサック)のすぐ右側?とはいっても4つの星のうち1つは他の3つほど明るくなく、眼を凝らしてもどこが十字なのかよく分らない。
翌日は待望のウルル(エアーズロック)登山。ん、気温が高すぎて登れない!ハエ除けの網を被りながら麓を歩き回る。あまり楽しくない。あれから5年後ウルル登山は全面禁止となった。
その後何度も南半球を旅したが南十字星には遭えなかった。そして昨年ニュージーランドへ。ニュージーランドには北島と南島がある。北島のオークランド到着後ワイトモ鍾乳洞に直行。そして真っ暗な中、急な階段を降り船着場へ。恐る恐るボートに乗り地底湖に漕ぎ出る。そして見上げれば満天の星空のような壁天井一面のツチボタル。ゆらゆらと神秘的な世界に漂う。
その日は温泉保養地ロトルア泊。翌日市内観光後トンガリロ国立公園へ。オープンしたばかりで添乗員も初めてという絶景ロープウエイに乗車。その山が翌日噴火したと聞いて驚く。
帰国前日は絶景の宝庫「世界遺産マウントクック」観光。ところが土砂降り。何処にも行けず何も見えない。食堂で1時間も並んで昼食を食べただけ。そしてマウントクックが一望できるデカポ湖へ。氷河の水が周辺の岩石を溶かしながら流れ込んで来て独特の淡青色に輝く?しかし、マウントクックもデカポ湖も雨でよく見えない。
雨の中ホテルに戻り部屋で休んでいると、なにやら外が騒々しい。何だろうと外に出てみると、雨は止んでいて見上げれば息を呑むような満天の星空。ツチボタルのように手が届きそうな天の川と南十字星。しばし見入る。もう結構と私は早々に退散しベッドへ。女房一晩中頑張って星空撮影。翌朝上手く撮れなかったと非難の眼差し。コロナの中再チャレンジを希望。