長岡市医師会たより No.490 2021.1


もくじ

 表紙絵 「待春粟ヶ岳」 丸岡稔(丸岡医院)
 「「新年を迎えて」会長 草間昭夫(草間医院) 
 「「新春を詠む」 
 「「自己紹介」 須庸兵(須メンタルクリニック)
 「発病と閉院してからの生活(その2)」 阿部良興(元あべ内科クリニック)
 「「巻末エッセイ〜橋龍と桜田門と立ちションと」磯部賢諭



「待春粟ヶ岳」  丸岡 稔(丸岡医院)


新年を迎えて  会長 草間昭夫(草間医院)

 明けましておめでとうございます。皆様には穏やかに新春を迎えられた事をお喜び申し上げます。会長を拝命いたしまして6カ月が経過しましたが、なれない中で会員の皆様の協力を得て、微力ながら執務させていただいております。
 さて、中国武漢で確認された新型コロナウイルスは、首都圏では多数の感染者が明らかとなり、高齢者には高い死亡率を示しました。新潟県でも令和2年2月29日初の感染者が報告されその数は増加しました。緊急事態宣言に伴い患者数が激減したものの、現在では第3の感染の波が押し寄せ介護施設でのクラスターが報告され、感染対策の困難さが浮き彫りにされました。長岡市医師会では県、長岡市、そして会員の先生方のご協力で、第2波に備えて令和2年5月18日からPCRセンターを運用することができました。感染症指定病院である長岡赤十字病院のみならず、長岡中央綜合病院、立川綜合病院の協力体制のもと中越医療圏に及ぶ広い範囲で発熱外来、入院対応がなされています。大きなクラスターが出なかったのは病院、介護施設、医療、介護に携わる方たちの並々ならぬ尽力があったためと感謝申し上げる次第です。COVID-19の波はまだ続きます。ワクチンの接種、感染者入院病棟の確保、軽傷者宿泊施設の運営、発熱外来の運営、と会員の先生方には昨年にもましてご協力いただくことになると思います。本来の診療科業務もある中宜しくお願い申し上げます。COVID-19は病気そのもののリスクと、感染予防のための自粛が経済を圧迫することが問題とされています。孤独と経済の損失に対して「心のケア」が必要になります。失職や休職、倒産による経済的困窮、医療職などの職種においては過労、外出自粛に伴うフラストレーションならびに社会的孤立が大きな問題になると思われます。マタニティブルー、家庭内DV、子供の虐待、自殺など行政と共に注意しなくてはなりません。
 また、一昨年まで続けておりました、医療、看護、介護、そして行政との顔の見える会、講演会は軒並み中止となり、Webを介しての機会が多くなりました。関係性が希薄にならないように、学習の機会が減らないように対策を進めて参ります。
 日本医師会では中川新会長となりましたが、COVID-19の対応でてんてこ舞いで医療機関の減収、確保病床の逼迫、医療介護職員の疲弊をアピールする事で手一杯と思います。
 国が、「2025年・2040年問題」に向け病床、病院の再編に力を注ぐ中で、県は県央の病院統合、県央基幹病院建設を決めました。すでに建設は始まったものの、経営母体はまだ決まらず、診療科の人員確保、看護職員の確保もままなりません。県央圏域内の公立病院の再編さえ決められていません。中越地域の医療人員の減少が危惧されるだけでなく、長岡の全国に誇る救急体制の維持に不安を残すこととなりかねません。県の財政への不安もある中でも、しっかり意見していきたいと思います。
 ICTを用い在宅患者の情報を共有するフェニックスネットは在宅医療を担う者には不可欠のツールになりましたが、救急隊の利用は市民カルテとしての様相を呈し患者搬送時間の短縮など数字に表れる効果もありました。長岡赤十字病院、長岡中央綜合病院との連携を加えてデータの共有も始めておりますが高額なシステム保守料が問題となっており、簡易、安価なシステムへの変更が求められます。地方の独自システムには費用の面で問題があり、国、日本医師会が汎用システムの構築をすべきと思います。国はデジタル庁を創設しマイナンバーカードと保険証、運転免許証との紐付けを皮切りに、処方、検診データの参照ができるようにしたいとの発表がありました。PHR(Personal Health Record)を全国民に作成し参照するシステムを作成するのであれば、個々のベンダーによらず共通のものを提供していただきたいと考えます。
 胃癌リスク検診については40歳から5歳刻みの対象者が一巡し、未受診者への勧奨と20歳以上での個別受診が可能となりました。中学生のリスク検診も長岡市外に通う子弟や附属中学にも検診の範囲が及ぶようにしました。漏れのない検診を行い胃癌で亡くなる市民を減らしていきたいと思います。
 長岡市医師会は昨年100周年を迎えました。予定した記念式典も中止といたしましたが、記念誌の発行とCOVID-19の収束を見極め式典を開催したいと考えております。
 最後に伝統ある長岡市医師会をこれまで以上に発展させ社会によりいっそう貢献する医師会として行く所存です。会員の皆様のご支援、ご協力を宜しくお願い申し上げます。皆様にとりまして、健康で創造的な1年になりますことを祈念し、新年の挨拶とさせていただきます。

 

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新春を詠む

四方拝死語となりたり神の国  荒井紫江(奥弘)

コロナ禍を引きずりて行く去年今年  江部達夫

半熟の卵のごとく冬籠  石川 忍

床の間の蜜柑飾れば明るみて  郡司哲己

 

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自己紹介  須庸兵(須メンタルクリニック)

 初めて寄稿させて頂きます。大手通り沿いのドルミー駅前ビル内にある須メンタルクリニックの須庸平と申します。2018年10月に父の達郎が体調を崩しまして、同時期より私が診療に当たらせてもらっておりました。既に多くの先生方や関係者の皆様にはお世話になっており、この場を借りて御礼申し上げます。
 この度は機会を頂きましたので、自己紹介をさせて頂こうと思います。父が蔵王橋東詰めにあります新潟県立精神医療センター(旧悠久荘)に長年勤務していて、男4兄弟の3番目として1980(昭和55)年に生まれました。その頃は悠久荘のすぐ近くにある社宅で暮らしていました。当時は悠久荘で入院されていた方や通院患者さんなどを近所でよく見かけ、「おー先生の所の庸平かー」などと話しかけられることが度々ありました。相手をしてもらい楽しかった記憶もありますし、からかわれてむきになり口喧嘩をしたこともあったと思います。当時の悠久荘にはグラウンドもあって、兄たちが野球をやるためによく出向いては、私もついて行って遊んでいました。いつものようにグラウンドで遊んでいると子犬が捨てられていて、我が家で飼うこととなり、悠久荘の敷地や信濃川土手沿いがいつもの散歩コースとなりました。
 ある日、当直中であった父に届け物をしたことがありました。夜の病院に入るのは初めてで、いつもと違う暗い静かな悠久荘がとても怖く感じ、父に会えた時の達成感、安堵感は幼い自分には大きな体験でした。それと同時に「お父さんの仕事は大変だな」と感じたように記憶しています。このように少し特殊な環境で過ごし、小さな頃から既に精神科というものが身近な存在であったように思います。
 小学校一年の終わりに市内で引っ越してからは平凡な生活でしたが、徐々にサッカーに熱中していきました。小学校時代は学校のサッカー部とスポーツ少年団を掛け持ちし、サッカー雑誌を愛読。サッカー選手のポスターを部屋中に貼っていました。中学1年の1993年にはJリーグが発足し、中学・高校ともサッカー中心の生活でした。サッカーへの情熱は強かったのですが、実力の方は程々で、いつの頃からか自然と精神科医になる道を考えていました。勉強の実力も程々でしたので現役では受からず、一年浪人させてもらい何とか新潟大学医学部に合格しました。大学入学後もサッカー部に入ったのですが、怠惰な浪人生活によって体力も情熱も尽きており、数カ月で辞めてしまいました。その後はバイトやバイク、アルコールに精を出す生活でしたが、何とか留年はせずに6年間で卒業できました。
 卒後は長岡中央綜合病院で臨床研修させて頂きました。実践的な手技の指導も積極的にしていただき、同期や先輩と日々習得した技術を競っていました。1年目の後半で少し自信がついた時だったと思います。同期の前で得意気に鎖骨下静脈の穿刺をして気胸を作ってしまいました。患者さんへの申し訳なさや、格好の悪さなどで酷く焦り、動揺しましたが、指導医の先生が素早くフォローして下さりました。腹部エコーを担当させてもらった時には、手洗いや感染防御が不十分であったのか、流行っていたノロウイルスに感染してしまいした。透明な水様便と激しい腹痛が続きトイレから離れられず、胃腸炎の苦しさとはこれ程かと学びました。日々の業務以外でも、わがままを聞いてくださって、研修医旅行なるものも行かせていただきました。思い出すことはまだまだたくさんありますが、多くの先生にお世話になり、本当にありがたい青春の2年間でした。
 研修医2年目に結婚し、研修終了後は新潟大学の精神科に入局いたしました。大学病院勤務の後は、県立新発田病院、県立小出病院、魚沼基幹病院と綜合病院精神科で仕事させて頂き、2016年4月から故郷の県立精神医療センターで働かせていただいていました。2018年4月から並行して須メンタルクリニックに手伝いに来るようにしたところ、同年10月に父が倒れてしまい、急遽引き継ぐこととなりました。経験・実力不足の中での突然の交代で、しばらくは新患を断らせていただいていました。現在は新患も受け入れられるようになりましたが、まだまだ外来で四苦八苦しております。今後はもっと地域の皆様のお役に立てるように成長して行ければと考えていますので、よろしくお願い致します。

 

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発病と閉院してからの生活(その2)  阿部良興(元あべ内科クリニック)

 4月28日超音波内視鏡検査で膵臓がんと確定。5月16日からFOLFI-RINOX療法2週間ごと4クール受けました。勤務医時代には肺がん患者さんに抗がん剤治療をしていましたので、副作用で苦しむ様子も沢山見ており、いつかは自分にも巡ってくるのではないかと思っていましたし、自分も経験してみたいとも思って受けました。インターネットや週刊誌などに「医師は抗がん剤治療を受けないとか薬剤師は薬を飲まない」とか書いてありますが、私としては最善と考えて患者さんに勧めてきた治療を、副作用が強くて結果が限定的だったとしても自分にはしないというのは矛盾しているし、そもそも薬に懐疑的な薬剤師など存在自体がおかしいと思います。抗がん剤の副作用は、良い制吐剤を併用して頂いたので消化器症状は殆どなく、最初だけ吃逆があったのと手足の知覚障害がしばらく続いたと記憶しています。脱毛も軽かったですね。化療後、腫瘍径26o、血管リンパ節神経浸潤不明瞭となり7月22日に開腹手術。StageV、血管リンパ節神経浸潤なし、十二指腸に浸潤ありでした。術後は腹腔神経を傷つけた為の下痢が持続。これはアヘンチンキしか効かないですね。8月下旬から翌1月迄TS1内服開始。5FUの改良型ですが、こちらはつわりのような吐き気・食欲不振・貧血・低タンパク血症などで大変でした。体重は63s→44sまで減少しました。現在は50s前後まで回復。その後は通院で経過観察中ですが、胆道感染による悪寒発熱や時々原因不明の腹痛発作があるものの再発もなく4年間経過しました。生存率の統計からすると奇跡に近いです。これもひとえにB先生のFOLFIRINOX治療のおかげだと感謝しています。2013年12月に保険収載されたようですが、もっと早く認可され又従兄弟にも使っていたらと思います。
 療養生活ですが、最初のころは、体力もなく、時間が出来たら読もうと買ってあった本を読みました。池波正太郎の「鬼平犯科帳」や「剣客商売」はほぼ全て読み、心がスッキリしました。池上彰さんの著書では世界の情勢や経済の仕組み、キリスト教とイスラム教の神は同一であり、預言者(神の言葉を託された者)が違うだけで別の宗教になった事を知りました。インターネットで膵臓がんの情報も集めました。「膵臓がんサバイバーをめざして」と言うホームページの推薦図書「がんに効く生活」を買って読みましたが、非常に参考になりました。抗がん剤治療が終了して体力が回復してくると開業医時代の電子カルテの壊れたディスプレイが4台あったので、インターネットで調べて破裂したコンデンサーを交換したところ面白いように3台は直りました。1台だけはコンデンサーの破裂もなく交換してみても直りませんでした。残念。次の趣味はコンピュータお宅気味なので、インターネットオークションで古いマザーボードとCPU・電源・メモリ・HDDなどを落札して、今まで使っていて古くなったコンピュータ筐体に詰め込み何とか動くようにするというものです。3台くらい実施。外見は同じなのに中身は新しく生まれ変わったようで嬉しくなります。新品の最速の機種を購入しても何故か楽しくないのです。直ぐ古くなりますしね。他にもいろいろすることがあって退屈はしていません。
 今考えると私は13年くらい同じことをしていると飽きるようで、発病する1・2年前から開業医という仕事が嫌になり、定年が無いので死ぬまでこんな事をしていなければならないのかと自問自答していました。職員や患者さんには迷惑をかけてしまいましたが、自分の人生としては、発病して医師を辞め、世の中の役には立てなくなりましたが、ストレスも無くなり、期せずして思い通りになったような気がしています。人生とは本当に不思議なものです。今後も何があるか判りませんが、生きているから苦しみも楽しさもあるし、いつかはお迎えも来るはずです。最後に拙い思い込みの多い文章を読んで頂きありがとうございました。

 

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巻末エッセイ〜橋龍と桜田門と立ちションと 磯部賢諭

 30年も昔の話だからもう、時効でいいだろう。許してもらおうと思う。

 医学部の三年生頃だったと思う。

 バブルが弾ける寸前、先輩たちに連れられて毎日、六本木に飲みに行っていた。成績の良くはない、それでいて愛嬌のある先輩達がたくさんいて、その仲間に入れられていたのだ。日中の医学部の授業が終わり、自宅にいると先輩が「飲みに行くぞ。」と突如現れて、さらわれるように車に乗せられる。先輩方の高級外車は田舎者のボクにとってはすべてが輝かしいものだった。BMWやベンツ、アウディ、サーブ、ジャガー、ポルシェ、シトロエンなどなど、ほかにも大学の駐車場は高級外車展示場のようだった。(今では考えられない。バブルとはそういうものか。)

 「お前の親父は車、何に乗ってんの?」と聞かれ、「(三菱)ランサー」と小声で答えた。すると先輩方は大声で「こいつの親、ランチア乗ってるってさ。すげー」と大声で笑った。それ以来、うちはイタリア車LANCIAに乗っていることになってしまった。

 ルート246をかっ飛ばして、六本木の行きつけのバーにたむろする。

 当番の運転手先輩以外はへべれけになるくらい毎日飲んだくれていた。あるバーでの出来事だ。

 そのVIPルームには大物政治家が時折立ち寄るという噂で持ち切りだった。ある日「橋龍がいる!」と騒ぎになった。先輩方は度胸の据わった方が多く、芸能人とも簡単に仲良くなる不思議な能力をもった人が多かった。先輩の一人がどことなく話をつけてきて、なんと橋龍こと、橋本龍太郎さんと一緒に飲むことができた。今では、考えられない。

 ベトベトのポマードヘアとギラギラあぶらギッシュな顔、大物政治家のオーラ。男性ホルモンバリバリでアルドステロンは顔、体からあふれ出ていた。野心のあるアルドステロンは暗闇で光るのだなと思った。

 小柄な橋龍はチェリーをふかしながら終始ニコニコしていた。しかし、圧倒的存在感!目力!今なら、アツが違う!!!とでもいったらいいのか。「皆さんはいい医学生ですね。ぜひ、いいドクターになってください。」と小さな口で笑った。目は笑っていなかった。

 その夜はかなり酔っぱらってしまって、帰りの車内ではトイレに行きたくなり、運転の先輩に「どこでもいいから、止めてください!」と叫び、飛び降りて、道路わきで立ちションをした。

 排尿が始まり、ホッとしたのもつかの間、背後から警察官に、質問をうけた。「君、立ち小便はダメだよ。」「すみません。我慢できなくて。ちかくに公衆トイレがなかったもので。」と答えた。「酒を飲んでいるのか?よっぱらいか?」「いいえ。酒は飲んでますが、大丈夫です。」と答えた。「ここをどこだと思っているんだ」と警官は背後からすごんだ。「はあ、すみません。どこですか?」と見上げると、大きな建物。しかし、田舎者のボクには酔っぱらっているから想像もつかない。何か大きな会社かな、と思った。

 「知らないのか!見てわからないのか?ここは桜田門だ!警視庁の真ん前だよ。」と叱られた。運転手先輩はお酒を飲んでいなかったからお咎めなしだったが。

 それ以来、テレビドラマで桜田門の警視庁庁舎がうつるとほんとにはずかしい。桜田門にション便ひっかけた話でした。

 排尿が始まり、ホッとしたのもつかの間、背後から警察官に、質問をうけた。「君、立ち小便はダメだよ。」「すみません。我慢できなくて。ちかくに公衆トイレがなかったもので。」と答えた。「酒を飲んでいるのか?よっぱらいか?」「いいえ。酒は飲んでますが、大丈夫です。」と答えた。「ここをどこだと思っているんだ」と警官は背後からすごんだ。「はあ、すみません。どこですか?」と見上げると、大きな建物。しかし、田舎者のボクには酔っぱらっているから想像もつかない。何か大きな会社かな、と思った。

 嘘のようでほんとの話です。すみませんでした。

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