長岡市医師会たより No.491 2021.2


もくじ

 表紙 「待春駒ケ岳」 丸岡稔(丸岡医院)
 「新年ボウリング大会第1位の感想〜田村クリニック新天地移転記念投稿」 田村隆美(田村クリニック)
 「自己紹介とおすすめパン屋」 小川尚子(長岡健康管理センター)
 「田上町のちょっといいところ」 番場悠太(長岡中央綜合病院)
 「巻末エッセイ〜七〇年大阪万博と「よど号」事件」 星 榮一



「待春駒ケ岳」  丸岡 稔(丸岡医院)


新年ボウリング大会第1位の感想〜田村クリニック新天地移転記念投稿 田村隆美(田村クリニック)

 令和3年1月18日「新年ボウリング大会」がポップボウル長岡で行われました(参加者は私の他、茨木、福本、山井、内藤、高野、木、窪田、三上、市川、廣田の計11名です。敬称略)。コロナ禍ゆえ、「新年囲碁大会」、「将棋大会」、「麻雀大会」は中止となりましたが、ディスタンスを取りながらも「ボウリング大会」を開催できたのも、世話人市川健太郎先生方のご苦労のおかげと感謝しております。
 令和3年1月18日「新年ボウリング大会」がポップボウル長岡で行われました(参加者は私の他、茨木、福本、山井、内藤、高野、木、窪田、三上、市川、廣田の計11名です。敬称略)。コロナ禍ゆえ、「新年囲碁大会」、「将棋大会」、「麻雀大会」は中止となりましたが、ディスタンスを取りながらも「ボウリング大会」を開催できたのも、世話人市川健太郎先生方のご苦労のおかげと感謝しております。
 一昨年の話になりますが、令和元年の例会において、自分でも驚くスコアを出したこともありました(このゲームのスタンディングポジションがいつも頭から離れない事が今の悩みの種です。詳細は後述記述)。カーブボールに変え、親指の抜けを良くし、中指の引っかかりを意識し、手の力を抜いて遠心力を利用して投球すると、ボールには面白いほど回転がかかります。レーンコンディションによっては、右端からポケットを狙うと左ガーターになることもありました。
 昨年の令和2年は、「さて、今年は練習してもう少し上手くなるぞー」と心に決めましたが、コロナの影響で3月から6月まで休会が続き、また個人的には、クリニックを隣接地に移転するという大プロジェクトを令和2年1月より開始した為、ボウリングに対するモチベーションは極端に低下しアベは163と低迷しました。
 ここで少し、クリニック移転の話をさせて頂きます。平成7年に新規開業した田村クリニックも25年が経過し、建物の古さ、トイレ・待合室の狭さ、駐車場の不便さを感じるようになりました。また、超高齢多死社会の中、患者さんの年齢も高齢化し、「残された医師人生を違った環境の中で診療し、泌尿器科に特化した医療を患者さんに伝えたい」との考えから隣接地への移転を決意しました。
 隣接地(約270坪)には、旧三菱自動車展示場・修理場の建物(約86坪)が付随しており、天井も高く、広いガラス張りの空間があります。これを上手に利用できたらいいな、との想いで令和2年10月1日の新クリニック移転開院に向けプロジェクトを開始しました。
 ただ、移転準備中の令和2年3月からは志村けんさんが亡くなり、緊急事態宣言が発令されるなどコロナ禍の真っ只中で、中国からトイレのパーツの入荷が予測出来ない等、移転に気を奪われ気持ち的にはボウリングから遠ざかっていました。10月1日の移転開院後やっと気持ちも高まり11月の例会から再出発した次第です。
 新クリニックでは、床暖付きの広いガラス張りの待合室、泌尿器科らしくゆったり検査のできるトイレ3部屋、車いすが楽々入る診察室2部屋、広い廊下の提供をコンセプトに、高齢者にも安心して来院できる空間をご用意できたと自負しております。
 さて、新年の例会に話は戻りますが、メンバー抽選の結果、三上先生、内藤先生との3人によるアメリカン方式(2つのレーンを交互に投げる)でゲームを開始しました。試合前三上先生に「ボールがあまりに曲がり、いつも厚く入るのでポケットを狙うにはどうしたら良いですか?」と相談したところ、「オイルに応じたカーブボールの調節は難しいので、外側から狙わないで、立つ位置を中央に変えて、スプリット覚悟で真ん中に寄せればー」とのワンポイントレッスンを受け、いつもとは違ったスタンディングポジションで投球を開始しました。すると、今まで頭から離れなかった投球位置(前述)を簡単に変える事が出来、結果はノーヘッド2回のみで、私にとっては満足のいく成績でした。
 今回の大会では、1位が決して一番上手ではないことを再度記載しておきます。1位の賞品、ワインはとっても美味しかったので、来期からは上手くなって「実力1位で優勝をしたい」と思っています。  最後に、私も昨年の12月で65歳の前期高齢者になりました。新天地移転は、金銭的にも体力的にも無謀と思われる年齢です。ただ、長男が他県で泌尿器科の勤務医をしているので、密かに後継者になってもらうことを期待している次第です。広島県呉市で20歳まで生活していた瀬戸内生まれですが、25年前の開業を含めて思いつきで行動して何とかなる人生を送ってきました。この要領を生かして、もう少し長岡で頑張りたいと思っています。長岡市医師会、各病院の勤務医の先生方今後ともよろしくお願い申し上げます。

目次に戻る


自己紹介とおすすめパン屋 小川尚子(長岡健康管理センター)

 投稿のお声掛けを頂きましたが、産業医研修会以外の医師会行事等に参加していない為、まずは自己紹介をさせていただきます。
 私は2004年東海大学を卒業し、卒後臨床研修の1期生として新潟大学で2年間研修した後、第一外科に入局いたしました。母校は神奈川県平塚市の湘南キャンパスを拠点としており、湘南鎌倉の響きに憧れて入学しましたが、医学部は山と果樹園と牛舎の豊富な伊勢原市にあり、海とあまり縁のない6年間であったことが心残りです。入局後は乳腺内分泌代謝栄養班に所属し、県内関連病院で勤務させて頂きましたが、2016年3月で退局し、2017年5月より長岡健康管理センターに勤務しています。家族は、出張ばかりでライフワークの卓球もままならない会社勤めの夫と、車・虫・恐竜・パズル・鬼ごっこと保育園が大好きな4歳男児がいます。仕事終わりの全力鬼ごっこに体力を奪われ、残業もないのに毎日手抜きの家事でのりきっており、息子が我が家を巣立った後、実家にいた頃の食卓に何を思い出すのか非常に不安です。生協か原信のお惣菜でない事を祈るばかりです(非常にお世話になっていますが)。外科医から健診医となり、見える景色は変わりましたが、これからは、“自分は大丈夫だ、健康だ”と信じている人たちの当たり前の平穏な毎日がずっと続いていくよう、生活習慣病や癌などの早期発見のきっかけになれるよう努めていきたいと思っております。
 さて、転職して大きく変わった事は、夜間休日が自由である事です。そんな中、最近は休日においしいパン屋さんに行っています。元来私は、パンより米、麺でしたが、友人が遊びに来た際に差し入れしてくれたパンが非常に美味で、開拓していくようになりました。今回はおすすめのパン屋を4軒紹介させて頂こうと思います。
 @CoCo & LoLo(上除)
 私がパンにはまるきっかけになったお店です。上除の結婚式場シエルベルトの隣にあり、イケメンのパン職人とかわいらしい珈琲コーディネーターさんがご夫婦で経営しています。おいしいチーズや季節の果物を使ったデニッシュやバゲットを主体とし、定番商品から新作まで、いつ行っても迷ってしまいます。イートインスペースもありますよ。
 ATakana Bakery(大島本町)
 店舗は住宅街の真ん中にあり、駐車場も狭いので運転が下手な私にはハードルが高いのですが、毎日沢山のパンを焼きあげています。パンごとに焼き上がりの時間がほぼ決まっていて、その時間を狙っていくと、出来立てが買えます。ミルククリームとグリーンカレーパンがおすすめです。
 Bパンといす(柏崎・番神)
 角煮バーガーやフルーツミックスなどがおすすめです。いつも30種類くらいのパンがあって迷うのですが、サイズが小さいため、色々試せるのが嬉しいです。また、日本海を見渡せる高台にあり、晴れた日には空と海と白い建物のコントラストがきれいです。いわゆる、“映え”を狙えそうな場所で、スマホ片手に撮影する男女がいつも楽しそうです。
 CLe Lapin(弥彦村)
 弥彦神社の大鳥居のそばにあるパン屋で、名前の由来は弥彦ウサギ伝説にちなんでウサギらしいです。おすすめのバゲットはもちもちで、そのままでも、ガーリックトーストにしてもおいしいのですが、人気過ぎてほとんど手に入りません……。
 日々お忙しい先生方を前に、非常にのんきな記事でしたが、どのお店も、パンが苦手な人(私)を虜にしたくらいに素敵なお店ばかりですので、近くにお立ち寄りの際はぜひいかがですか?
 最後になりますが、当センター受診のお客様の採血後のしびれ症状等で、整形外科の先生方には迅速にご対応頂いており、深く感謝申し上げます。また、医師会の先生方には当センターからの2次検診等でこれからもお世話になることが多々あると思います。御多忙中恐縮ですが、これからも何卒よろしくお願い申し上げます。

 目次に戻る


田上町のちょっといいところ 番場悠太(長岡中央綜合病院)

 初めまして。長岡中央綜合病院研修医2年目の番場悠太と申します。
 くじ引きで原稿を書かせていただくことが決まり、何について書こうかと考えていましたが、いい案が思いつかず、ふと以前の記事を見ていたところ長中の研修医であった先輩が所縁の土地について紹介していたので、それに対抗(笑)して僕の出身地である田上町を紹介してみようと思います。文才がちっともなく駄文になってしまいますが、読んでいただけたら幸いです。
 まず初めに簡単な自己紹介をさせていただきます。前述の通り新潟県田上町の出身で、新潟大学を卒業しました。大学時代は追試の連続で何とか6年間で卒業できたような感じでした(苦笑)。部活は空手部に所属していました。6年生の時の長中での見学がとても印象的だったため、長中で研修をさせていただこうと決め、現在に至っております。
 本題の田上町について書かせていただこうと思います。田上町は三条市や加茂市などとともに県央地域に位置し、人口が1万人程度の自然に囲まれたとても住みやすい田舎町です。僕が田上町に関し特に紹介したいポイントとしては2つあります。
 @護摩堂山・あじさい園
 護摩堂山は田上町出身者であれば、一度とは言わず何回も登ったことがあるようなとても身近な山です。山頂へは1時間弱くらいで登ることができます。小学校や幼稚園の遠足での護摩堂山登山はド定番になっているほどです。山頂から見える景色は近くに高い建物がないおかげで蒲原平野の広大な田園風景を一望でき、開放感100%で絶景です。登山道も歩きやすく、新緑や紅葉と四季折々の風情があり、鳥や虫の鳴き声が響いています。山頂は城跡で、護摩堂石を切り出した「石切場」、天然記念物「つなぎがや」もあり見どころが多くあります。何回も登ったとしても飽きることはないと思います。そして山頂での景色とともに穏やかな風が吹く中での食べるおにぎりの味は格別です。また、梅雨の時期に約3万株の紫陽花が咲き誇るあじさい園が山頂にあり、こちらの景色も田園風景に劣らず絶景であると思います。今風に言い換えるとしたら“インスタ映え”スポット間違いなしです。このように護摩堂山・あじさい園は幅広い年代でそれぞれの楽しみ方ができる田上町のとてもおすすめな場所です。
 A湯田上温泉
 田上町には湯田上温泉というそれほど規模は大きくはないですが、温泉地があります。自然に囲まれた中で入る露天風呂はとても気持ちいいです。紅葉の季節には周りの風景も楽しみながら入浴でき、特におすすめです。田上町の特産品としては、米や筍、梅などが挙げられており、ぜひ宿泊の際は食べてみてください。
 他にも田上町には湯田上カントリークラブというゴルフ場があり、プレー後の宿泊はいかがでしょうか?きっと疲れもぶっ飛ぶはずです。
 他にも紹介できなかったおすすめスポットがあり、日々の疲れやストレスを癒しに自然あふれる田上町を訪れてみてください。
 長文にも関わらず、お付き合いしていただきありがとうございました。

 目次に戻る


巻末エッセイ〜七〇年大阪万博と「よど号」事件 星 榮一

 これは僕が整形外科研修を受けていた頃の話である。昭和四十五年に、日本整形外科学会総会に初めて出席させてもらえることになった。徳島大学整形外科学教室が担当で、第四十三回日本整形外科学会総会が徳島文化センターで三月二十八、二十九、三十日と三日間行われた。日米安保自動延長を控え、学園紛争が盛んな頃で、総会の議事は悉く否決されたが、学術集会は平穏に進行された。

 三月三十日の夕方に、翌日大阪万博を見学するために予約しておいた、万博会場近くに急拵えされたホテルに宿を取った。翌三十一日は、朝早くホテルを出て、万博会場の中央入口に並んで、九時半の開場を待った。開場と同時に、直ぐ近くのアメリカ館に向かって走った。アメリカ館は十時の開館に待たずに入館できた。お目当てのアポロ十一号が持ち帰った、拳大の九百六十gの「月の石」を目の前で見ることが出来た。アポロ8号や宇宙服も見られた。

 次はアメリカ館とは一番離れているソビエット連邦館に急いだ。十一時頃だったと思うが、待つことなく入館できた。ここでは宇宙からもどった、いかにも手作りの「ソユーズ」と「ボストーク」の二つの宇宙船を見ることができた。

 今回の万博見学の目的は、この二館の見学が主で、正午頃に会場を後にした。実は、四月一日には病院で仕事があるために、三十一日夜までには新潟に戻らなければならなかった。したがって、万博の見学は三十一日の午前中だけで、アメリカ館とソ連館だけに的をしぼっていた。通常は、この二館は大人気で数時間並んで待たなければならない。岡本太郎の太陽の塔も、周りから眺めるだけであった。それでも目的の二館の見学ができたので満足であった。

 午後一時ころ、新大阪駅で東京行きの新幹線に乗り、車中で「よど号乗っ取りハイジャック事件」の発生を知った。わが国で発生した最初のハイジャック事件で、奇しくも万博見学日と同日に発生したので忘れられない。

 二〇二五年に再び大阪で万国博覧会が開催されるが、五十年前にアジア初のEXPO70日本万国博覧会が、「人類の進歩と調和」のテーマのもとで大阪府千里丘陵で開催された。三月十五日から九月十三日までの百八十三日間で、会期中の入場者は六千四百二十二万人、当初の目標人員の二倍以上を記録した。一九六四年に東京オリンピックが開催されて六年後で、日本中が大いに盛り上がっていた。

 さて、「よど号」事件であるが、九名の赤軍派メンバーによる乗っ取り事件である。羽田発福岡行きの日航機(乗員七名、乗客百三十一名)を午前七時三十一分、羽田を離陸して十分後にハイジャックし、北朝鮮の平壌行きを要求した。機長は「二時間分しか燃料がない。補給が必要」と犯人らを説得し、福岡空港に八時五十九分着陸した。犯人はここで、高齢者や子供二十三名を解放した後、残りの人質を乗せたまま午後一時五十九分離陸を強行した。一旦三十八度線を越え北朝鮮に入ったが、対空砲火を受け、反転し午後三時十九分ソウルの金浦空港に着陸した。ここで、犯人側との交渉で、山村新治郎運輸政務次官が人質の身代わりとしてよど号に乗り込み、人質全員が四月三日午後二時二十七分に解放された。午後六時四分金浦空港を離陸し、午後七時二十分平壌美林飛行場に着陸し、犯人グループは北朝鮮への亡命を果たした。

 目次に戻る