長岡市医師会たより No.493 2021.4


もくじ

 表紙絵 「ダム湖の春(内の倉)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「哲学との出会い」 園田裕久(長岡保健所)
 「留学生雑考」 福本一朗(長岡保養園)
 「太陽が恋しい」 湯野川淑子(田宮病院)
 「蛍の瓦版〜その62」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜川鱒は子供の頃のご馳走だった」 江部達夫(江部医院)



「ダム湖の春(内の倉)」 丸岡 稔(丸岡医院)


哲学との出会い  園田裕久(長岡保健所)

 長岡市医師会の皆様、新型コロナウイルス感染症対策の現場で携わっておられる医療、福祉関係の皆様には、地域の保健、医療、福祉にいつもご尽力を賜りまして本当にありがとうございます。心から感謝いたします。
 
 喫茶スナックでバイトしていたおりお店の事情で調理師免許を取った。元々釣りが好きだったので、魚のさばき方を勉強しようと刺身包丁と出刃包丁、砥石を買った。週末は30分くらいで港の市場に行けて、魚を箱買いで仕入れた。安い。まず好きなイカから始めて、次にイワシを手開きで。いよいよ3枚おろしに挑戦。獲物はアジ。本を見ながらゆっくり慎重に。まるでアナトミー。箱買いだから大漁である。いつしか処理仲間が集まる。食べに来てはカツオがいい、タイもいいと、リクエストが多くなりこれも練習と挑戦していたが、カニが食べたいと言ったときは、包丁に関係無い、と言って無視した。商売繁盛のおかげで、まな板が小さすぎるくらいの大きなヒラメも5枚にさばけるようになった。
 そんな仲間のひとりに哲学科を卒業した人がいた。哲学科、密かに尊敬していた。
 ある日、私がスパゲティでも作ろうと言うと、作れないヨ、とあっさり言う。バイトでよく作った、には、お店だからだヨ、と言う。今ひとつ意味がわからなかったがもう作るしかない。一緒に麺を買いに行った。しかし事件はそこで起こった。彼はラーメンひと袋とスパゲティひと袋を同じ一人前だと思っていたのだ。そんなに必要ないと言っても聞かない。家に着いた。キッチンで鍋に湯を沸かし、もう一人いたのでちょっとトイレに行って戻ったら、カラになった袋が2つ。私、えー!絶句。何人分になるのだろうか。彼らは立って見ている。やがて鍋があふれた。今だ!すぐにザル2つ分の半生麺をかきだした。そして時間どおりにみごとにゆであがった麺にストックしてあったミートソースルーを盛り、キャベツの千切りとトマトとキュウリを付け合わせて大盛り3皿の完成となった。ちょっとした喫茶店風料理に2人とも喜んでいる。
 食事後、家でもできるんだねえ。それにしてもスパゲティの麺はこんなに膨れるのか、と彼が。きっと彼の家ではスパゲティが食卓に上らなかったのだろう。
 これを機に我が家の居酒屋に喫茶店風メニューが加わった。フルーツとアイスクリームとヨーグルトなどでミニ喫茶店風にデザートなども提供しながら、これならできるでしょう、と親切にもレシピを教えるようになった。
 しかしこれには裏があった。私はときおり「哲学」について彼にさりげなく聞いていたのだ。BUT、所詮は素人。どうも質問が、あるいは頭がトンチンカンなのか、しっくりした解答に出会わない。そんなある日、彼が、哲学と哲学科の違いって知っている、と聞いてきた。
 私、オレに聞くの。彼は笑いながら、なるほど、と言った。まるで合点がいったように。「哲学科は数学科、経済科なんかと同じで細分化された学問の1つなので、大学ではさらに細分化された一部を講義するところだよ。そう思わない、そうだったでしょ。
 たとえばニーチェ論しか講義しない哲学科があっても全然おかしくない。」私、なるほど。
 それでは、彼にとって哲学ってなに。「すべての学問は哲学することから始まったんだよ。つまり、考えることを続けてそれぞれの分野に分かれて細分化してきたのが今の学問だよ。「考える人」は哲学しているんだよ。」
 私が子どもの時、母がなぞなぞを言った。「使えば使うほどよくなるもの、なーんだ。」当然わからない。「それは、あたまだよ。だからよく使うんだよ。」なるほど、母は哲学していたのだ。
 「掃除とか料理は大嫌い。だってきれいにしても作っても次から次から。きりが無い。」と、母の本音。これは哲学ではなく現実なのだ。なるほど。母に矛盾はなかった。母は事実を解き明かしていたのだ。
 その後、ほどなくして彼の人から、「スパゲッティを作ったよ。出来たんだよ。おいしかった。」彼は実証してうれしそうだった。
 そして私もうれしかった。子どもの頃にもっと母の料理を褒めてあげれば良かった、おいしいね、って。絶対、哲学した結果は違っていた。
 “哲学を 続ける力は おいしいね”

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留学生雑考  福本一朗(長岡保養園)

 新型コロナによるロックダウンでは、都市間とともに国境も閉鎖され、多くの外国人が帰国を妨げられました。特に日本国内で働けない外国人留学生は、経済的にも滞在許可期間延長問題でも苦境にあえいでいるため、一般市民から食料を無料配給していただくなど、有形無形の支援の手が差し伸べられているのは有難いことです。
 独立行政法人日本学生支援機構の外国人留学生在籍状況調査によりますと、2019年5月1日現在の外国人留学生は312,214人であり、中国が第1位で124,436人、次いでベトナム73,389人、ネパール26,308人でした。なお中国は米国への留学生も多く、2019年度は学部生148,880人、大学院生133,396人で10年連続トップでした(Fig. 1)。その結果中国は世界の知識と技術を吸収して急激に科学技術先進国となり、この3年間の科学論文数では中国が305,900本となって、それまで常に1位だった米国の281,400本を抜きはじめて世界一となりました(文部科学省科学技術指標2020)。なお3位はドイツで67,000本、日本は4位で64,800本でした。ちなみに中国は1998年には17,000本で9位であったので、20年間で18倍になったことになります。
 国費留学生が大部分の彼らは、日本の優れた科学技術を学び持ち帰って母国の発展に貢献するともに、留学先国のシンパとなって両国の懸け橋となることが期待されています。そのため日本政府は外国人研究職国費留学生に月額14万円(日本人学生の給付型奨学金は2万〜4万円!)を与えて、総額では年間180億円以上の国税を支出しています。特に中国人留学生には優秀な人が多く、筆者が奉職していた長岡技科大研究室にも、来日半年で日本語を完璧にマスターし、大学院を首席で卒業して工学博士を取得した後、医療機器の認可を行う独立行政法人医薬品医療機器総合機構PMDAの幹部となって、日本に帰化までされた中国女医の郭怡(かくい)さんがおられました。なお夫の李(り)さんも日本語に堪能で長岡技科大大学院修了後、今は日本の大手漢方薬品会社クラシエの中国工場長をされています(Fig. 2)。
 しかし全ての国費留学生が日本のサポーターとなってくれるわけではなく、一部の韓国やベトナム留学生には却って反日的感情を持って帰国される人も多いと聞きますが、それは大変残念なことです。国費で来日される留学生に日本を好きになっていただけるためには、日本国民と政府が真剣に留学生の側に立って考えねばならないことが多いと感じています。筆者はスウェーデン王国に9年間留学し、当地の医学部を学費無料で卒業させていただいたおかげで、すっかり北欧シンパになって戻ってきました。最初はポスドクで客員研究員として渡瑞したのですが、折角外国留学するのですから現地の言葉を学びたいと希望すると、早速「スウェーデン語を話せない留学生のコースSVISS」に入学を許されて、午前は語学生、午後はチャルマース工科大学研究員として1年を過ごしました。この語学コースのほとんどの学生は移民・難民の若者達で、開講日からスウェーデン語だけを使って授業され、毎月の試験を3回連続で不合格になると国外追放という厳しい勉強を経て言葉をマスターした時には大学入学資格が与えられるというものでした(Fig. 3)。
 もちろん授業料は無料で、アルバイトも自由、職のない人には生活費まで支給されました。言葉を学ぶことは、その国の地理・歴史・文化を知り、これから住む国の人々の考え方や風俗習慣を理解し、職業に就いて家庭を持ち社会に溶け込むための最も重要な基礎だと、スウェーデン人達は考えます。そのため大学の教科書も英語のものなどは例外的で、授業の全てはスウェーデン語だけで行われていました。筆者はその考えに共鳴したため、帰国後大学に奉職した時に「留学生には日本語をマスターして頂き、授業は日本人学生とともに日本語で受けていただかねば、日本で学ぶ意味はない!」と主張しましたが、「英語は国際語であり、投稿論文や学会発表も全て英語だ!教官や学生はなんのために中学高校6年間も英語を勉強したのか!」という大勢の意見の前には蟷螂の斧でした。私にはその国の言語に全く触れることなしに、その国を理解し、心からの友人となることは至難の技のように思えます。折角東洋の片端にある日本で生活するのですから、短期間留学ならたとえ片言でも日本語を操り、長期留学なら就職可能なレベルの言語能力を身につけることは、優秀な留学生達には決して困難ではないと、24年間の大学教官生活で実感させられました。幸い日本語を身につけた彼等のほとんどは、帰国後に熱烈な日本シンパとなってくれています。
 そもそも日本は建国当初から渡来人と留学生の多大な貢献で成り立ってきました。古代でも607年に聖徳太子の命で第一回遣隋使となった小野妹子・高向玄理・南淵請安・僧旻が仏教・易学・政治制度をもたらし、中大兄皇子の大化の改新に貢献したとされています。
 遣唐使としては、法相宗の開祖で武道の達人にして土木建築技術を伝えた河内国出身の僧道昭(629〜700)、儒教道教など唐の文化を伝えた文人山上憶良(660〜733)、第9次遣唐使として19歳で渡海し科挙に合格して玄宗皇帝の高官となり長安で骨を埋めた阿倍仲麻呂(698〜770・Fig.4)、儒教・天文学・兵法・音楽を伝えて聖武天皇に寵愛された吉備真備(693〜775)、一切経5000巻を光明皇后に提出し聖武天皇の母(宮子)の病気平癒に成功した僧正玄ム(?〜746)、比叡山を開いた天台宗開祖最澄(767〜822)、密教を伝え高野山金剛峰寺を開いた空海(774〜835)、臨済禅と喫茶を伝えた栄西(1141〜1215)、曹洞宗を伝えた道元(1200〜1253)など、命をかけて渡海して異国の地で勉学に励んだ俊才達のおかげで今日の日本文化の基礎ができたと感謝しなければなりません。帰国後彼らの受けた待遇が意外なほど貧しいケースが多かったことを考えると、最初の留学生達を外国に行かせた原動力は立身出世欲というよりは、知識欲・使命感と異国への純粋な憧れであったと思われます。
 残念なことに鎖国時代には留学生は皆無でしたが、幕末文明開化で和魂洋才を唱え、高い給与のお雇い外国人から国産の学者に替えるため明治政府が始めた国費留学生制度は、太平洋戦争のため2年間の中断を除いて65年間に延べ3,209名にも達しました。中でも優れた外国文化を紹介した福沢諭吉(1835〜1901)は自由平等・実学を説き、オランダに留学してドイツ語教師となった西周(1829〜1897)、フランス語の中江兆民(1847〜1901)、法学の津田真道(1829〜1903)、医学の森鴎外(1862〜1922)、長与専斎(1838〜1902)、高峰譲吉(1854〜1922)、北里柴三郎(1852〜1931)、志賀清(1870〜1957)、山際勝三郎(1863〜1930)、そして我が国のノーベル賞山脈に繋がる物理学の長岡半太郎(1855〜1950)、仁科芳雄(1890〜1951)、本田光太郎(1870〜1954)、湯川秀樹(1907〜1981)、朝永振一郎(1906〜1979)など現在の科学技術立国日本を作り上げることができたのは洋行帰りの学者達でした。彼ら近代の留学生達は帰国後、指導的地位についた人が多く、まさに「末は博士か大臣か」と立身出世が動機となっていたと考えられます。ただ中には遣唐使と同じように、純粋な知識欲と使命感に燃え、私費留学生として異国の地で苦学し、客死までされた俊秀も多いと聞きます。女子教育の津田梅子(1854〜1929)、同志社英学校を設立したクリスチャン新島襄(1843〜1890)、武士道を世界に紹介し国際連盟事務次長となった新渡戸稲造(1862〜1933)、大英博物館で研究した万能の天才南方熊楠(1867〜1941)、“武士の娘”を英語で世界に紹介した杉本鉞子(1873〜1950)、フランスで画家としてレジオン・ドヌール賞を受賞した藤田嗣治(1886〜1968)、戦後の外交官白洲次郎(1902〜1985)など外国で学んだからこそ、世界に通用する広い視野を持ちながらも、祖国の文化と思想を身に付けた世界人として活躍された偉人達ばかりです。人類の文化は人の交流により維持されてきました。コロナのため激減している留学を一日も早く復旧し、向学心に富む若者達が国境を越えて自由に学べる社会を取り戻すことが急務と思われます。
 母国を離れて言葉の障壁に挑みながら心身を酷使する留学は平常時でも大変な苦労を伴います。まして今は新型コロナのため一時帰国もままならず、経済的、精神的に苦境に陥っている学生も多いと聞きます(Fig.5)。自分の国で学ぶ外人学生のために、あなたがたを『日本の家庭が全力で支援しますので、どうか海外の日本人学生も助けてやってください』と、善意のネットワークを構築すべき時ではないかと思います。一期一会、情けは人のためならず、打倒“○○ファースト”、コロナで人のつながりが危機に晒されているこの時期こそ、人類が知恵と慈悲を出し合って地球規模の友愛を築けるチャンスなのではないでしょうか?

Fig. 1 米国への中国人留学生数推移

Fig. 2 亀戸の億ションにて  郭怡さん(左端)、李さん(真中)

Fig.3 SVISSのクラスメート達  (左:亡命ハンガリー人アンドレア一家  右端:オランダ私費留学生エレン)

Fig. 4 玄宗皇帝に仕えた遣唐使 阿倍仲麻呂

Fig. 5 ハンデを抱えて頑張っている留学生達

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太陽が恋しい  湯野川淑子(田宮病院)

 私は香川県に生まれ、高校まで親元で過ごし、徳島県での大学生活の後、名古屋市立大学で4年間研修し、S59年縁あって長岡の田宮病院に就職し、現在に至っています。雪国に転居する際に、雪や寒さの覚悟はしていたものの、一番辛かったのは、秋空が無いことでした。それまでは、澄み切った青空の秋が一番好きな季節でしたが、最初の年、10月中ずっと雨が続き、止んでも暗い曇天で驚きました。毎晩夢の中では名古屋で働いていて、朝起きるとため息の日々で、身体や心までカビが生えそうでした。時々東京の友人宅に出かけ、日向ぼっこをして慰めていました。その年の冬は豪雪(積雪累計983センチ積雪日数105日)で、スパイクタイヤにチェーンを巻いても、雪の塊から脱出できない時もあり、道路の消雪パイプも今ほど普及しておらず、通勤にエネルギーを殆ど使い果たす日々でした。どうやって、この土地で生活していけるのかと暗澹とした気持ちになりました。
 最初は10年したら、香川に帰る予定でしたが、H2年に長男が誕生し、子育てを通して、地元の友人も増え、JOY会参加で、女医さん達の仲間も出来て、長岡に根を下ろす決意をし、自分の中にある太陽への思いと冬の辛さを乗り越えるために、自分なりに工夫をすることにしました。
 工夫1 太陽の動きを知る
 以前から続けていた10年日記に日の出と日没の時刻を毎日記録することにしました。そうすると、12月9日頃(日没16時24分)から日没時劾が遅くなり始めることが分かりました。つまり雪が本格的に降る冬の始まりに、日が延び始め、春の予感を感じられるようになるのです。
 その反面、7月7日頃(日没19時10分)から日没時刻は早くなり始め、夏の始まりに冬の到来を感じてしまい、太陽の動きの季節の先取りにマイナス面もあります。
 工夫2 言葉に救われる
 「光の春」
 この言葉は、天気予報士の倉嶋厚さんが、ロシアの長い厳しい冬が終わりに近づき、日が長く空が明るくなる2月を「ベスナー・スベータ」と呼んでいたのを「光の春」と訳して、日本に紹介しました。寒さ厳しくホワイトアウトで通勤に泣かされる2月に、光の春はやってくるのです。
 「春隣」はるどなり
 冬の季語であるこの言葉も好きな言葉で、人は辛い冬を乗り越えるために、言葉で自分を鼓舞してきたのかもしれません。
 雪の冬は苦手ですが、たまの晴れ間に見られる雪景色の美しさは、最高です。白色の一面の雪野原の向こうに雪山が見え、心癒やされ、与板橋から見える雪の日の信濃川の景色も山水画のようで、雪に耐える人々へのご褒美の様に思えます。
 四国や名古屋に住んでいた頃には、当たり前と思っていた晴天が、当地の秋冬には貴重であり、たまに太陽が見えると、思わず手を合わせてしまいます。そして、四季を肌身をもって感じられる当地が、私の終生の地となりました。
 今は2月の始めです。『春よ、来い。早く来い。』と口ずさみながら、雪と曇天につきあって行きます。もう少ししたら、光輝く春が来るのですから。

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蛍の瓦版〜その62   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 久しぶりの瓦版です。コロナ禍でお伝えすべき事が山積みでしたが、状況の変化に充分対応出来ず長らくご無沙汰してしまいました。申し訳ございません。

 1.医科外来等感染症対策実施加算

 令和3年4月1日より、保険診療に於いて“医科外来等感染症対策実施加算(5点)”が新たに設けられ、今年の9月診療分までに限り算定が可能となりました。これは初・再診料や在宅患者訪問診療料および医学管理等に含まれる診療料等を広く対象とした加算で、コロナ禍での外来診療や在宅医療に対する評価です。
 厚労省の事務連絡では加算の算定要件として、後述の“新型コロナウイルス感染症(COVID-19)診療の手引き”等を参考に、飛沫予防策や接触予防策を適切に行い感染防止等に留意した対応を行うことされています。また感染予防策を職員へ周知することや、施設等の運用についても感染予防に資するよう検討を行うことが求められています。また加算算定に際して、感染防止に充分配慮して診療を行なっていることを患者家族等へ説明することとされています。加算への同意までは求められていませんが、その旨を院内へ掲示する等の対応を考慮されては如何でしょうか。
 なお小児外来診療等においては、乳幼児の特性を鑑みて、既に令和2年12月より“乳幼児感染予防策加算100点”が算定できることとなっており、こちらも9月診療分までに算定期間が延長されました。
 (新潟県医師会報3月号の黄色い“社会保険部の頁”に詳細な記載がありご参照ください。)

 2.新型コロナウイルス感染症(COVID-19)診療の手引き

 厚労省は令和2年3月に“新型コロナウイルス感染症(COVID-19)診療の手引き”の第1版を17頁で上梓しましたが、版を重ね今年2月発行の4.2版では56頁まで膨らんでいます。
 手引きの院内感染対策(45〜52頁)の項に感染防止策について詳しく記載されています。初期対応では全ての患者さんを対象に標準予防策として、マスクの着用や手指消毒及び環境清拭が求められています。また患者さんの体液や気道分泌物等に触れる場合は接触予防と飛沫予防として、個人防護具(ゴーグル又はフェイスシールドおよび手袋や帽子ガウン)の着用が推奨されています。
 手引きの21頁に示された疑い患者の要件の最後には、“医師が総合的に判断した結果疑うもの”とあります。日常の診療で少しでも新型コロナウイルス感染症を疑うケースに対しては、診断確定のためにPCR検査センター等を積極的に活用して頂くようお願いします。特に介護や保育、学校等集団感染の生じやすい現場では、診断の遅れは更なる感染拡大に繋がります。同じ21頁に濃厚接触者の定義も示されています。適切な感染防止策を行っていれば偶然に確定患者を診察した場合でも、濃厚接触者には該当せず、過剰な反応は不要です。会員の皆様の新型コロナウイルス感染症診療に対する更なるご協力をお願いいたします。

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巻末エッセイ〜川鱒は子供の頃のご馳走だった 江部達夫(江部医院)

 食通の多い医師会員の皆様、川鱒の美味しさを知っている方も多いと思います。川鱒は通称であり、正しくは桜鱒(サクラマス)、桜の頃に海から川に上って来る、身が桜色しているなどから付けられた名であると。
 私が子供の頃昭和二十年代までは、長岡市を流れる信濃川で、漁を生業としている川漁師がいた。板合わせの舟を漕ぎながら、刺し網や投網で漁をしていた。秋から冬、鮭が上って来る頃、今では三面川の伝統漁法とされてる居繰網漁(いぐりあみりょう)もやっていた。
 今はすっかり流れも変わってしまったが、長生橋からその上流五百米位が漁に適した流れであったのだろう、漁をしている光景がよく見られた。中学生の頃、どんな魚が獲れているのかが楽しみで、船着き場に見に行ったものだ。大きな鯉やフナ、ウグイ、オイカワ、ナマズなどが多く、季節により鱒や鮭が獲れていた。
 海からの鮮魚が少ない長岡、市内には川魚を専門に扱う魚屋もあった。この魚屋では冬は鴨が売られていた。
 昔の信濃川は清流で、三米の川底もきれいに見えたが、昭和三十年代に入る頃から、上流の山林の開発、田畑に使う農薬、家庭での中性洗剤などのため、川水の汚れも始まり、鱒や鮭の遡上も減って来た。そんな川から漁師の姿も消えて行った。
 さて川鱒のことであるが、私の脳には子供の頃に美味い魚であるとインプットされたようだ。
 五月二十七日は私の住む町のお祭り、この日の夕食は近所の魚屋からの仕出し料理が食卓を飾ることになっていた。小学一年生頃からの記憶であるが、川鱒の大きな切り身の焼き物が欠かせぬものであった。父の好物であり、私も旨いと思い、祭りの御馳走が楽しみであった。川漁師がいなくなった昭和三十年代に入る頃には、鱒の焼き物に代わり、海の魚の焼き物になった。
 私の脳から川鱒の旨さがアウトプットされそうになっていた頃の昭和三十九年四月、国家試験に合格し、内科の大学院生になった。生活費を稼ぐために、岩船郡関川村の国保病院の出張が当てられた。週二回の外来診療と土日の当直が時々あった。
 関川村の病院に行き始めて一か月、往診の依頼を受けた。当直に出かけた土曜日の午後で、患者さんは五十才の男性。喘息発作で、インターン時代に学んだ治療で直ぐに治まった。
 帰り際玄関わきの土間を見ると、二尺近い銀色の大きな魚がたらいの中に。私には幻の魚になろうとしていた川鱒だ。患家の前には大きな川が流れている。日本一の清流と言われたこともある荒川だ。春から夏にかけて桜鱒、秋から冬には鮭が上り、患者さんは農業の傍ら川漁師もしていると。たらいの鱒は今朝刺し網に掛かったものだと。
 帰院をのばし、居間の囲炉裏端に座り込み、たちまち魚談議に。鱒は荒川の支流に上り、秋に産卵するので、支流には山女が多く棲息していると。帰りには大きな鱒を米袋に入れてみやげに頂いた。病院に持ち帰った鱒、給食のおばさんが夕食に焼いてくれた。海から上って来たばかりの鱒、脂ものっていて大変旨かった。十年遡り、長岡でのお祭りの御馳走を思い出していた。残りは新潟まで持ち帰れるように、味噌漬けにしてくれた。この出来事がきっかけとなり、山や川が美しい関川村が好きになった。昭和四十六年四月、長岡に戻るまでの七年間、村人の診療に従事した。山や川を案内してくれる多くの友人もできた。五十年経った今でも関川村に通っており、私の第二の故郷になっている。
 川鱒に魅せられ故郷二つ持ち

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