長岡市医師会たより No.495 2021.6


もくじ

 表紙絵 「虫取り撫子の川原(荒川)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「2021年5月の長岡」 宮島 衛(長岡赤十字病院)
 「私のゼンマイ採り」 高橋利明(吉田病院)
 「・むし・豸・虫・蟲……」 川嶋 薫(悠遊健康村病院)
 「八丈情島異聞(その1)」 福本一朗(長岡保養園)
 「蛍の瓦版〜その64」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜エーゲ海クルーズ」 富樫賢一



「虫取り撫子の川原(荒川)」 丸岡 稔(丸岡医院)


2021年5月の長岡  宮島 衛(長岡赤十字病院)

 執筆依頼をいただいた2021年5月中旬の某日、私は悪夢を見ているような不思議な感覚の中にいました。コロナ病棟と化した当院救急病棟にて、人工呼吸器を装着した重症コロナ患者を囲む8人の医師・看護師の後ろ姿を見ていました。コロナが大流行した欧米のニュースでよく見かけた「腹臥位管理」。とうとう長岡にも、当院にも、コロナの荒波が来たのだと。
 
 約1年前の2020年4月、県内のDMATコアメンバーが中心となり、県庁にコロナ患者受入調整センター(Patient Coordination Center:PCC)を立ち上げました。新規陽性者の入院・療養先を決定するため、複数の医療者が毎日PCCに出向いて県庁・保健所・受入病院・療養先の間の調整を行っています。患者増に伴ってPCCの調整業務は夜遅くまでかかることが増え、ときに夜間緊急の受入先調整依頼もあります。
 長岡赤十字病院救命救急センターは災害としてこのコロナ禍に向き合い、県内病院で最多の医療者をPCCに送って従事しています。PCCで入手できる情報を私は受入病院の担当窓口(多くが感染担当看護師)に提供するよう心掛け、情報交換してより良い方策を日々模索しています。2020年11月に起きた県内初の老健施設クラスターでは当院DMAT・救護班を施設に送り、高齢入所者を県内に分散させる医療調整を担当しました。
 
 2021年春まで、長岡市は他市町村や他県に比べて奇跡的にコロナ患者が少なく、非常に幸運が続きました。他市町村の先行した流行、冬の大雪・悪天候など、多くの要因がありますが、長岡人の真面目でまっすぐな性格からと私は解釈していました。「しょーしいことすんな(恥ずかしいことをしてはいけない)」と、私も子どものころから叩き込まれてきました。しかし、3〜4月の卒業・入学・就職・異動・転居、さらにGWで起こる人流は避けられないと推測していました。問題は「起こる波がどの程度か」。第3波までのように何とか乗り切れるのか、それとも……。
 私はGWにPCCを担当して、長岡市への第4波の襲来をはっきりと感じさせられました。同時多発でクラスターが発生して新規陽性者が急増し、さらに変異株が強く疑われる感染力でした。病院に戻った私は、院長・看護部長の了解を得て、当院の中核である救急病棟のコロナ病棟化を指示しました。半信半疑または呆然とした看護師たちを指揮し、それまで感染病棟に入院限定していたコロナ患者の重症者を救急病棟に移しました。「三次救急の受入を止める?」、「一般の重症者はどこに入院する?」、「人工呼吸器を担当する看護師が足りない」、問題が噴出して大混乱しましたが、災害医療のCSCATTT※で一気に災害体制に変えました。長岡に特別警報が発令されたのは、それから数日後。
 増えていくコロナ患者をなんとか受け入れた次の荒波は重症化でした。入院時検査が正常の新規陽性者がそれまで大半でしたが、入院時にすでに肺炎や血液検査異常が起きている患者が増えていました。自力で歩いて入院され、リスクが無いように見える患者が「(胸部X線で)肺が白い」、それも一人ではありませんでした。実際にコロナ患者を診療する立場でも、入院・療養先を調整するPCCの立場でも、私はたびたび寒気を感じました。私が自宅療養を薦めた患者もきっと自宅で肺炎が起きているのだと、手遅れになりはしないかと。しかし、中越地区の入院病床は第4波で急速に逼迫し、患者全員が入院できるわけではありません。重症化が予測される患者を優先して入院調整していましたが、大きなリスクが無くても、自覚症状が無くても肺炎が起きている……。長岡市内の病院だけでは収容できず、市外の病院に入院を依頼した患者も複数いました。
 
 新潟県は全国で最もICU病床数が少ない県であり、県内に集中治療医は数えるほどしかいません。そのため県内の救急医は救急外来だけでなくICUでの集中治療も主業務とし、臓器別でない全身管理を担当してきました。しかし新潟県は救急医も非常に少ない県で、長岡市内では当院救急科がドクターヘリ・三次救急・集中治療を主に担っています。重症コロナ患者の治療は、抗ウイルス薬・ステロイドなどの内科治療、人工呼吸器・ECMO管理などの集中治療、多臓器不全と闘う全身管理が必要で、当院では呼吸器内科医と救急医が分担して治療しています。当院だけでなく長岡市内にて、呼吸器内科医を中心にして救急医が支える重症コロナ患者の診療連携体制が構築されていくことを望みます。そして、私たちはそんな毎日でも楽しく前を向いて進んでいける仲間を募集中です。実は多くの患者が腹臥位管理で劇的に改善するので、私たち救急医は常に前向きに取り組んでいます。
 
 冒頭の日、「今日より悪い日が来ないといいな」と同僚と話しました。しかしその翌日は、別のコロナ患者が高度房室ブロックを起こして緊急気管挿管し、後日その病室にて江部センター長が一時ペーシングを行いました。2021年5月の当院救命救急センターは毎日が災害です。いつか穏やかな気持ちで懐かしく読み返す日が戻ることを夢見て、本稿を閉じます。

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私のゼンマイ採り  高橋利明(吉田病院)

 毎年、桜の蕾が膨らむころになると、「あっ、またゼンマイ採りの時期だなぁ」と心の中でつぶやいています。例年4月中旬からGWは私にとっては「ゼンマイ採り」のシーズンです。
 私がゼンマイ採りに行く山は栖吉の山や南蛮山、鋸山です。ゼンマイは子供のころから採りに行っており、どんなところに出てどんなふうに採るかは頭に刷り込まれているようで子供時代の記憶ってすごいと自分ながら感じています。
 服装は軽装でリュックサックと前掛け、手術用の再生手袋、軍手、長靴、帽子を持って車で出発。車で登れるところ(雪で行けなくなる)まで行ったら車を止めて山に入ります。登山道ではないので道もなく案内板もありません。山の斜面を注意深く下ります。最初は雑木もありますが山の斜面を下るほど雑木もなく掴まるところが限定されてきます。樹木の新芽がやっと芽を吹くかの時期で雑草もまだ小さく見通しもよいです。
 以前は山の中でゼンマイ採りの人に会うことも珍しくなく人の姿を見ると、その人とは別の方に行くという暗黙の了解がありました。しかし、今はゼンマイを採る人自体が減っており人に会うことはほとんどありません。若い人はゼンマイに興味もないでしょうから、これも高齢化の表れかなと思っています。
 ゼンマイはシダ類ですので湿り気があり他の雑草が生えにくい痩せた地に生えています。そして山の斜面が急で沢になっているところや、下が川になっているところに多く出ます。そこは当然掴まるものがないような場所ですが、そこに太くてよいゼンマイが出ています。
 両足で踏ん張って片手は細い木の枝や草のかぶつ(株)に掴まって、もう片方の手でゼンマイを採り前掛けに入れる作業の繰り返しです。ゼンマイには男ゼンマイ(胞子葉)と女ゼンマイ(栄養葉)があり男は残して女ゼンマイを採ります。緊張感を持って行わないと、滑ったり木の枝が折れたりしたら場所によっては数十mは間違いなく転落。運が良くて骨折、運が悪ければ命も危ない気持ちでやっております。
 前掛けで6つくらい採取したらリュックがいっぱい、重量は13〜14sにもなります。今度はそれを担いで道なき道を一歩一歩「ハァハァ」言いながら登ります。やっと車までたどり着いたら一呼吸おいて、時間と気持ちに余裕があれば木の芽やコシアブラ、ワラビ、コゴメなど採って帰ります。
 ゼンマイは採って終わりではなく帰ってからがまたひと仕事です。皆さんも聞いたことがある「ゼンマイの綿取り」です。家内にも手伝ってもらいますが、それでも2時間近くかかります。それから茹でてゴザを敷いたベランダに広げ乾燥(写真1)日光の強さに応じて数時間毎に「ゼンマイ揉み」です。雨の日は部屋干しになりますので窓を少し開けながら扇風機を回して乾燥です。天気にもよりますが5〜6日間で、こげ茶色の乾燥ゼンマイの出来上がりです(写真2)13sのゼンマイが乾燥すると、なんと「900g」
 今年は7回山に入りましたが、よく人に言われます「なんでそんなに苦労の多いゼンマイ採りにこだわるのか?」と。自分でもよくわかりませんが、ひとつは「自分にとっては全身を使った運動の一つである」また「春の山野草とくに珍しい貴重な野草に出会えること」と答えています。
 最近は熊が頻繁に出現していますが、あまり怖いと思ったことはありません。会えたらいいなぁくらいに考えています。
 それにしても、いつまでゼンマイ採りに行けるのか気になる歳になりました。

写真1

写真2

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・むし・豸・虫・蟲……」  川嶋 薫(悠遊健康村病院)

 ○「せんせ〜い、廊下の窓ガラスに変なむしがついています。見て下さい。」
 医局の秘書さんが、手招きする方に行ってみると、窓ガラスには黒いコウガイビルがお腹をこちらに向けて這っていた。医局にいたムカデを私が処分した際に、虫なら私に任せてといった数日後のことであった。検索サイトでは、コウガイビルはプラナリアの仲間と説明しているものも有る。
 プラナリアといえば、入院中の患者さんの枕元に手書きのプラナリアの絵があり、私が「切っても切ってもプラナリアですね。」と反応したところ、「先生には、解ってもらえますか。麻痺した手がこんな風に再生してくれたらいいなと思って学生さんに話したんですが、通じなくって、」と。
 さて、我家では居ながらにして自然観察ができる。一応町場育ちの私としては、初めて遭遇する生き物だらけである。
 ○ある年の晩秋、庭の芹に黒と緑の段だら縞のキアゲハの終齢虫を見つけた。その数日後、ほぼ同じ大きさで段だら縞の緑の部分が青紫に置き換わっている個体を見つけた。小学館の図鑑NEO「いもむしとけむし」で探してみたが、幼齢虫は黒色でも黒い終齢虫に関する記載はなく、新種発見かと色めきだった。結局、Google検索を行ったところ、「原色幼虫図鑑U」や「原色日本蝶類生体図鑑T」に低温時の終齢幼虫は黒帯が広くなる事があると記されたコメントを発見した。新種発見ということではなかった。
 ○これまで遭遇した一番の珍虫は、お尻に毛の生えたバッタのような虫(上)。スケバハゴロモである。不完全変態して成虫(下)になる。カメムシ目ヨコバイ亜目の昆虫で、蛾ではない。
 ○この原稿依頼のあった5月半ば、ハルゼミの鳴き声が賑やかになってきていた。日没間際、近くの松林にハルゼミの抜け殻探しに出かけた。あちこちの幹に数個ずつ抜け殻がついていた。脱皮し始めているもの、これから木の上に這い上がろうとしているものもいた。1匹持ち帰って羽化まで観察した。ぼんじゅーるbR16に廣田先生が寄稿された写真の如くのイナバウアーを家族で鑑賞した。
 ○虫ではないが、粘菌の変態を観察できたときは、主人も感動していた。発見したときは淡いクリーム色でネバネバしたニューラルネットワーク状の物が地面に張り付いていた。翌早朝には、赤紫色でなめこのようにツルッとしたカオナシ(ジブリ)のような形のものが複数のクラスターを形成していた。地面の他、付近の吉祥草の葉や茎にも付着していた。その後の観察では、一部がどろりと溶けていたり、櫛状の縦縞が現れていた。正午近くには、やや色が淡くなり、縦縞が椎茸の傘の裏のヒダを連想させる質感の小さなブラシ状に変化していた。更に2日後、はたきのようにふわふわ重力方向に垂れていた。南方熊楠もこのような変化を楽しんでいたのだろう。
 ○日本語の「むし」とは?
  金文(表題象形文字)、甲骨文()に存在する虫という字は蛇の象形である。これはマムシとされている。
  諸橋轍次著大漢和辭典には、虫?キ@まむし 蟲?チュウ@むしとある。
  ムシの語源は?
  「湿熱ノ気「蒸シ」テ生ズ」
  「ム」ツア「シ」(六脚)
  インドヨーロッパ語mus蝿
  アイヌ語musu蝿mosomoso蛆
  シュメール語
  クメール語mus蚊
  ヘブライ語RMS動く物這う物
  (国語語源辞典 山中襄太著より)
 なお、RMSの読み方をネット検索したところ、入り込んだサイトで、「このページは危険です。前のページに戻ってください。」とメッセージが出た。その後、電話の着信履歴に覚えのない番号があり検索したところ、漢字とアラビア語のような文字の並ぶサイトが候補に現れた。国語語源辞典の著者は序論で、日本語の語源研究は「暗黒世界」と記している。私自身闇の世界に引き込まれそうなので、もう追求するのはこの辺までにしておこう。

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八丈情島異聞(その1)  福本一朗(長岡保養園)

 1.“嫌がらせ弁当”とひょっこりひょうたん島
 八丈島に住み2人の娘を育てているシングルマザーが、反抗期で無視したり返事をしなかったりといった態度の次女への反撃目的で、“嫌がらせ目的のキャラ弁”を高校入学から卒業までの3年間毎日作り続け、ブログにアップした結果、月間約350万アクセスを記録し話題になり、「今日も嫌がらせ弁当」の本もベストセラーで売り切れ続出、さらには篠原涼子と芳根涼子主演で映画化されて大反響となりました(Fig. 1)。
 その映画の中の美しい八丈島の景色と、心豊かな島の人々の笑顔が印象的で一度は訪れてみたいと思っていましたところ、新型コロナ対策のGo To Travel キャンペーンで新潟空港発八丈島直行チャーター便ツアーを見つけ、ようやく念願が叶いました。ご存知のように八丈島は伊豆七島(伊豆大島・利島・新島・式根島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島)の最南端の島で、その形は1964〜1969にNHK総合テレビで放映された人形劇「ひょっこりひょうたん島」にそっくりで、原作者の井上ひさしがモデルにした島の一つと言われています(Fig. 2)。
 八丈島は東京都心から南方287qの海上にあって、行政区分は東京都八丈町で、自動車も品川ナンバーです。東山(三原山・標高701m)と西山(八丈富士・標高854m)のふたつの火山が接合した北西−南東14q、北東−南西7.5qのひょうたん型をした島で、面積は山手線の内側とほぼ同じです。羽田空港から飛行機片道55分で行けるはずですが、暖流である黒潮の影響を受けて年平均気温は17・8℃、高温多湿にして年間を通して風が強く、快晴の日は年間7日しかないほど雨が多いため、飛行機は3回に2回は着陸できず引き返さざるをえないといわれています。なお特産物には、くさや・明日葉・ハイビスカス・島焼酎(芋焼酎)、それに江戸時代から年貢の代わりに重用されてきた黄八丈などがあり、1964年には富士箱根伊豆国立公園に指定されています。
 一度も大陸と繋がったことがなく、黒潮に隔てられて、渡り鳥以外は移住することが困難な海洋島であった八丈島にはアカショウビンや蝶々魚などの固有種も多く、年平均気温が約18度の温暖な気候を活かして大正時代からハイビスカス・ストレチア・フリージアなどの亜熱帯性植物の栽培が行われています。特に一年中緑に映えるフェニックス・ロベレニーは国内市場占有率100%です(Fig. 3)。
 現在の八丈町は大賀郷(おおかごう)・三根(みつね)・樫立(かしたて)・中之郷(なかのごう)・末吉(すえよし)の五集落からなっています。これらの集落は1908年に八丈支庁が設置され、八丈島に町村制が施行された時は、それぞれが独立した自治体(村)でした。八丈富士と三原山の中間にある平野部に存在する大賀郷と三根をあわせて「坂下地区」、三原山周辺にある樫立・中之郷・末吉をあわせて「坂上地区」と称しますが、空港・2つの港・役所・警察署・病院・高校・発電所・食堂・ホテル・パン屋・土産物屋などはすべて徒歩で30分以内の坂下地区に集中しています。「今日も嫌がらせ弁当」の筆者の生活圏も坂下地区で、有名な“くさやパン”も売られています。また島の名産で摘んでも翌日には葉が出る”明日葉”の加工場も坂下地区にあります。この明日葉の主成分カルコンはポリフェノールの1種で、アンチエイジングやむくみ防止・動脈硬化・糖尿病・高血圧・癌といった成人病の予防や抗菌作用によるアレルギーの抑制などさまざまな効果が期待されています。その明日葉と新鮮な海藻・魚介類を毎日食べている八丈島の人々には、飢饉の時を除いて島民・流人ともに80〜90歳という長寿が多く、江戸時代流行した天然痘もほとんど発生しなかったため、島の守神である源為朝のお札を江戸の人々は争って購入したと言われています。
 
 2.流人に優しい八丈島の人々
 歴史的に見ると八丈島は流人の島として有名です。実際、江戸幕府は八丈島を流刑地として1606年(慶長11年)〜1871年(明治4年)の間に1,800余名の流人を送り込みました。八丈島への流刑は初期には遠流(おんる)として、主に政治犯・思想犯が流されていて人数も少なく、比較的身分の高い者が多かったのですが、後には人数の増加とともに質も低下し賭博関係などの犯罪でも流されて来るようになり、食料が乏しく貧しいこの島にとっては大変な負担だったと思われます。ただ島役所から「渡世勝手次第」と言い渡された流人は、少しの束縛はあったものの懲役や賦役・納税義務もなく、島民の一人として生活を営むことができ、“八丈島は比較的暮らしよい島であった”という報告が「公栽秘録」正徳4年3月の条に記されています。武家や僧侶出身の流人はほとんど教育を受けたことのない島人に寺子屋の師匠をつとめたり、村人や子供達を集めて読み書き算盤や学問の手ほどきをしたり、最新のお江戸情報や農業や醸造業など進んだ知識技術を教えたりすることで生活していました。その結果、八丈島の制度・文化・産業等についても、優れた流人達から教えを受け、お互いの交流によって珍しい風俗・習慣・生活様式ができあがりました。各地方の流れを汲むと思われる民謡や盆踊りの多くも流人によって伝えられて多くの文物が、今日まで受け継がれています。例えば名産の焼酎“島酒”は1853年に流刑となった丹宗庄右衛門が鹿児島から製法を伝えましたし、飢饉から村人を救ったサツマイモも薩摩から伊豆諸島を経て伝わりました。
 島役所の取締りはすこぶる寛大で格別罪人扱いをするようなことは全くありませんでした。“沖で見たときゃ鬼島と見たが、来てみりゃ八丈は情島”と歌われているように、島民も流人に対して好意を寄せ、むしろ歓迎する態度を示したようです。流人が島に着くと抽選で村割りを決め、預かった5つの村々では、農家5人組で9尺2寸の小屋を作って住まわせ、一緒に働きさえすれば何とか生活ができるように面倒を見つつ、クンヌ(内地の人という意味)と呼んで国人・国奴という字をあて親しく交際もしました。ただ一旦、飢饉に見舞われた時には、田畑を持たぬ流人は手作りの品物を食料と交換してくれる人もなく、お金があっても買うことができず、山や野で野草を探すか、海辺で魚貝や海藻を採るしかなく、ついには毒草を食べて死んだり、浪にさらわれて溺死する者もありました。
 八丈島の女性達は新人好み{あらびとごのみ}とも言われ、渡海者に対して強い興味を示しました。この島は古来“女護ケ島”と呼ばれていたように女子の数が常に男子の数を上回っていましたから、おのずと女子が男子によせる好奇心も強く、好意の寄せ方も並々ならぬものがあったようです。島の女童{めならべ}の中には 流人の不遇な生活に同情を寄せ 朝夕の水汲みや食べ物の心配などもして、身の回りの世話をするうちに夫婦の縁を結び、流石に公儀からは流人に正式の妻帯こそ認めることはできませんでしたが“水汲み女”という内縁妻は黙認されていました。特に身分の高い流人の内縁妻は“機織り女{はたおりめ}”とよばれて尊敬されており、島人も彼女たちを軽蔑したり差別したりすることはなく、それまでと同じように付き合い助けもしました。文政11年に37歳で流された寅次郎などは、20年目にして思いがけぬ御赦免となり、水汲み女のキナとの間に儲けた12歳になる男の子を連れて本土に帰ってきたものの、島が忘れられず、とうとう勘定奉行に願い出て再び親子共々八丈に舞い戻ったような例も多々ありました。(つづく)

Fig. 1 今日も嫌がらせ弁当

Fig. 2 八丈島(上三つ)とひょっこりひょうたん島(下)

Fig. 3 八丈島特産のくさや・明日葉・黄八丈織・ロベレニー

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蛍の瓦版〜その64   理事 児玉伸子(こしじ医院)

令和3年度定時総会

 令和3年度の長岡市医師会の定時総会は6月1日19時から医師会館で、多くの会員の方から委任状を頂戴し開催されました。一昨年までは、総会後には懇親会が開催され、功労会会員や健康慶祝会員のお祝い等が行われていましたが、今回もコロナ禍のなかで総会だけの会でした。

 令和2年度の医師会事業は前年度に比べると、経営面でいくつかの変化がありました。医師会の経営は会員の皆様の会費と医師会としての事業収入から成り立っています。
 今回のコロナ禍では、休日・夜間急患診療所では受診者数が大きく減少し、前年に比べ1/3程度となりました。中越こども急患センターも、成人同様に1/3程度の利用となっています。このような受診者の減少は事業の減収をもたらし、いずれの事業も令和2年度の収支は赤字決算となりました。中越こども急患センターは長岡市長が開設者であり、医師会は経営には直接関与していません。一方、休日・夜間急患診療所は医師会の開設であり、以前までのように収益があった場合は医師会の収入となっていましたが、昨年度は赤字分を長岡市に補填して頂いている状況です。
 なお小児外来診療等においては、乳幼児の特性を鑑みて、既に令和2年12月より“乳幼児感染予防策加算100点”が算定できることとなっており、こちらも9月診療分までに算定期間が延長されました。
 昨年度は長岡市医師会館の補修工事として、屋上の防水工事が行われました。今年度には空調設備の工事を予定しており、さらに照明機器の入れ替えも必要とされています。
 一方、会員親睦のためのビールパーティーや忘新年会また会員旅行等は全て中止となり、支出の減少した項目もありました。
 会員の皆様にはワクチン接種等でご苦労頂きありがとうございます。短期間で接種を行うためにいろいろご無理をお願いしておりますが、よろしくお願いいたします。

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巻末エッセイ〜エーゲ海クルーズ 富樫賢一

 10年間1人でやってきた呼吸器外科、2008年になってやっと2人体制に。この機会に女房との約束を果たそうと意気込んだが、ちょうどいいツアーが見つからない。仕方なく2人で行く事にして旅行社に手配を頼んだ。
 7月19日(土)ANAで新潟空港から中部国際空港、そこでエミレーツ航空に乗り換えドバイ空港へ。ここで5時間待ち!最初は物珍しさに歩き回ったが、1時間もするとヘトヘト。椅子に腰掛けたい!しかし色の黒い人達が大勢椅子の前の床に寝そべっていて座れない。しかも広い空港中に寝そべっている。仕方なく歩き続け疲労困憊。その内尿意をもよおしトイレへ。ん、和式?トイレットペーパーは無く水の入ったバケツが置いてあるだけ。何となく気後れして出るものも出ず退散。
 7月20日(日)ベネチア着。何を言っているか分らないまま現地ガイドに連れて行かれたのは船着場。そこで水上タクシーに乗る。何かを寄こせと言っているようなのでバウチャー(支払済み証明書)を渡した。着いたのは運河沿いのプチホテル。黄色い外壁と赤い屋根の恐ろしく古い建物。エレベーターが無く、きしむ階段を2階までスーツケースをかかえて上がる。
 一息ついて夕食の買出しへ。さがし回ったあげくやっと小さな店を見つけて、ピザ、生ハム、ワインをゲット。8時とはいえ外はまだ明るい。大勢の人が運河沿いレストランで飲み食いしている。2人はというと何となくなじめず、ホテルの部屋でワインを飲みベッドへ直行。
 7月21日(月)早朝、運河にかかる橋を行き来しながらホテル付近を歩き回る。突然ローマ広場に出た。バスターミナルや駅があって、交通の要衝のようだ。ここを最後にホテルに戻る。すぐに昨日の女性が迎えに来た。荷物をかかえて水上タクシーに乗りこむ。船着場にはあっという間に着いた。
 コスタフォーチュナ号乗船手続きはガイドがやってくれた。言われた場所で椅子に腰掛け待っていると、何か変だ。係員に聞けば良さそうなものだがこんな時に限ってイタリア語が思いつかない。併記されている英語の表示を頼りに場所を移動。そしてなんとか無事乗船。
 船室は一番安い内向きの部屋。ツインでトイレ・シャワー付き。部屋に入ると荷物はまだ届いていない。右も左も分らないまま日本人向け乗船説明会に向かう。集まったのは5組だけ。その内3組は現地在留の日本人。日本から参加したのは我々と成田から来たというもう1組だけ。説明会の後クレジットカードを登録し、ワインとミネラルウオーターを6本ずつ注文。乗船中飲む分で、この方が安く付くそうだ。
 部屋に戻ると荷物が届いていた。女房が片付けをしている間少し横になる。ベッドはまあまあだ。すぐに夕食の時間に。今夜のドレスコードはカジュアル。とはいってもだらしない格好はダメ。無料で食べられるのは4箇所だけなので一番良さそうなレストランに行く。案内されたテーブルは入口近く。人の出入りが頻繁で落ち着かない。テーブルは乗船期間中同じだと聞いていたので、何とか違う席をと、女房が翌日日本人乗務員に談判。何処も空いていないが、相席で良ければとの返事。
 7月22日(火)最初の寄港地バーリ。南イタリアのアドリア海に面した港湾都市。デッキからみていると結構大勢乗船してくる。豪華クルーズ船とはいっても1週間間隔で定期航路を回っていて何処でも乗り降りできるとのこと。想像していたのとは違ってがっかり。
 イタリアはここまでで、明日からはいよいよギリシャ。(つづく)

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