長岡市医師会たより No.496 2021.7


もくじ

 表紙絵 「惑星浄化」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「正常性バイアスとコロナ禍」 田中 篤(長岡赤十字病院)
 「父と向き合う」 星野 智(生協かんだ診療所)
 「八丈情島異聞(その2)」 福本一朗(長岡保養園)
 「コロナ禍の今」 花城 恒(栃尾郷クリニック)
 「巻末エッセイ〜虹の橋、渡れ!」 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)



「惑星浄化」  福居憲和(福居皮膚科医院)

この新型コロナのパンデミックな世界を、菩薩界ではどうみているのだろうか?


正常性バイアスとコロナ禍 田中 篤(長岡赤十字病院)

 正常性バイアスとは
 次のどちらが正しいか。
 @地震や火事に巻き込まれると、多くの人びとはパニックになる。
 A地震や火事に巻き込まれても、多くの人びとはパニックにならない。
 答えはAだそうで、災害心理の専門家の間では、災害や事故で人がパニックになるのはまれだ、というのが「常識」になっている(広瀬弘忠著「人はなぜ逃げおくれるのか」)。現代人の心は、予期せぬ異常や危険に対して、ある程度、鈍感にできているらしい。日常生活の中で、外界の些細な変化にいちいち反応してしまっていたら、神経が疲れ果ててしまうので、心は「遊び」をもつことで、心的なエネルギーのロスと過度の緊張におちいる危険を防いでいると考えられている。ある範囲までの異常は、異常だと感じずに、正常範囲内のものとして処理しようとして、危険を過小評価し、危機回避のための行動を取らないといった心のメカニズムを、正常性バイアスといい、このメカニズムが働いて、実際に身に迫る危険を適切に回避できずに犠牲を拡大してしまうことがある。2001年9月11日アメリカで起きた同時多発テロの時に飛行機が世界貿易センタービルに激突してから崩壊するまでの状況や、2003年2月18日韓国の大邱市で起こった地下鉄火災などの非常時の状況において、ただちに避難行動を取れば助かったであろう人が大勢いることが分かっている。

 私の災害体験から
 2004年10月23日の中越地震を経験してから、子どものこころのケア活動に従事するようになり、日本小児心身医学会の災害対策委員を引き受けたりして、災害に対しての人間の反応などについて、それなりに勉強したり関心を持ってきた。中越地震の時は、新潟大学病院に勤務していて新潟市に住んでいた。新潟市は大きな揺れを経験したが、実質的な被害はほとんどなかった。翌日、中学生の息子を連れて自分の車で長岡の実家に向かったものの、限られた情報では新幹線は止まっていて、国道や高速道路も通行止めになっているらしかったので、長岡に果たして行きつけるのか分からなかった。国道116号線で巻、吉田、分水を通って大河津分水に出て、信濃川沿いに長岡に向うと、拍子抜けするほどにあっさり長岡市内に入れた。市内も、信号が点いていないくらいで、大きな被害はないように見えたが、実家に着いて家の中に入ったら、足の踏み場がないほどに本や壁に掛けてあった額など家財が床に散乱してガラスが割れていたり、一晩一睡もできずに緊迫した表情の母から、余震が続くため家の中で過ごすことができず、駐車場に近所の人たちとテントを張って一晩過ごしたという話を聞いて、ようやく被害を実感することができた。数日してから、当時所属していた日本小児精神医学研究会の仲間から、次々に被害の状況を心配するメールや災害対応のマニュアルなどの情報が送られてきて、その後、私なりに災害後の子どものこころのケア活動に取り組んでいくことになった。このような活動を通して、さらにはその後に経験した東日本大震災や福島原発事故などの際に感じてきたことがある。それは、目の前で起きている災害は大した被害ではないのではないかと、絶えず被害を過小評価しようとする自分がいたことである。

 コロナ禍における我が国の対応
 さて、昨年来の新型コロナウイルス感染に対する日本政府の対応においても、時にその決定の背後に正常性バイアスが働いているのではないかと感じてきた。日本人には、この正常性バイアスと後述する同調性バイアスが働きやすい特徴があるのではないかと指摘する人がいる。同調性バイアスとは、まわりの人々に強く影響される傾向のことで、集団志向の強い日本人には特にこの傾向が強いとされている。福島原発においても、東日本大震災の前に津波対策の不備を指摘されていたが、不都合な情報に対して真摯に向き合うことなく対応を怠って甚大な被害を招いてしまった。太平洋戦争の時の日本の軍部には色々な問題が指摘されているが、今考えれば驚くほどに、自分たちに有利な情報のみによって作戦を立てて悲惨な結果を重ねてしまった。こういった軍部の思考過程の背後に、この正常性バイアスと同調性バイアスが働いていたのではないか。日本人は危機になればなるほど、こういった傾向が強く働き、危機管理がうまくできなくなるのではないだろうか。東大安田講堂事件やよど号ハイジャック、あさま山荘事件など多くの公安事件を指揮して、危機管理のプロと言われた佐々淳行氏は、日本の国家危機管理体制には、現実直視の勇気にも欠け、現状分析や情勢判断に希望的観測を混ぜてしまう悪癖があることを指摘している(佐々淳行著「危機の政治学」)。まるで、今の新型コロナウイルス感染対策に対する日本政府の問題点を指摘しているような文言であるが、この文章が書かれたのは1992年のことである。どうも、日本人の特性として、リーダーが現場に出向いて生の現実をしっかりと実感しようとせずに、机上だけで自分にとって耳障りな情報はカットして好都合の情報のみを集めて、良いシナリオだけから計画を立ててしまう傾向があるように思えてならない。

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父と向き合う 星野 智(生協かんだ診療所)

 父は明らかに施設では浮いていた。
 元気な認知症となってしまった父。昨年春、南魚沼に2人で暮らしていた母が家を追い出されたと連絡をよこし、事の重大さを認識した。夜中に怒る、手を出すなど半年ほど前から急に悪化したという。警察沙汰になり地元の精神科病棟に入れたが家に帰せと母への電話がひっきりなし。鎮静剤を追加され1カ月で自宅へ戻るも入院が相当嫌だったらしく母に当たることさらに悪化。このままでは目が離せず、長岡に連れてきて職場の隣接施設に入所させることにしたのだ。その日の朝、実家で久しぶりに両親と食卓を囲んだが複雑な思いだった。そうするからには父の面倒を一手に担わなければと決意はしたが、ただでさえコロナ禍の暗いトンネルのなか着地点が見えない先を考えると心が折れそうだった。
 たいした趣味もなく農作業や家周りの力仕事をやっていた父。たまたま異常な寡雪シーズンで除雪もなく力をもてあます日々も悪かった。施設では85歳は若い筆頭だ。筋肉の付き方や立ち振る舞いなど、父は他の入居者には溶け込まない。こんなにも長生きするようになったのかこの国は、とつくづく感じた。狭い施設には自室のほかに居場所はあまりなく知人もいない。家に戻せと繰り返し訴えてくる。「検査をするから今夜はここで泊まってくれ」と説得したが、そんなウソでいつまでおいていられるのか不安しかなかった。
 朝6時に父を連れ出し散歩することにした。疲れさせて落ち着かせるためと、いずれ家に戻った時同じ生活ができるようにとの思いで。近くにある金峯神社へ行ってみる。胸の内とは裏腹に初夏の境内は実に清々しかった。手水を使った後、参拝する。完全なる無神論者の私だが祈る。そうか、こんなときに人は神にすがるのか。隣で父も手を合わせているが、いったい何を思うのか。その後信濃川の土手に上がりゆっくり歩く。あれは八方台などと教えてやるが、故郷の田圃からパノラマのように広がる金城山や巻機山とは違い何の思い入れもないようで、ふんとも言わず眺めている。それでも父は汽車で長岡の工業高校に通っていたのだった。当時の話や長岡に関連することを聞き出す。父自身のことを尋ねてみるのは初めてだ。
 私は実家を顧みることがなさすぎた。早く家を出て経済的に迷惑をかけたくないという思いが強かった。しかし結果的には親を放っておいてやりたいようにやらせてもらっただけだった。どれだけ苦労をかけたことか。もっと早くに気付いていたなら、いや親の反対する医学部など行かず家で米を作っていたら。平穏だった生活が崩壊したのは長男である自分のせい、親にかけさせた苦労の分だけ今度は返さなくてはならないのかと懊悩した。
 1時間ほどの散歩は休日以外続けた。しかし一向に父は落ち着かず帰宅願望も強まり、いらつきからスタッフへの暴行の兆しもみられてきた。鎮静剤を増量する。当然足取りが悪くなる。梅雨と暑さでそろそろ外出は大変かと感じてきたころ、消灯後離設したとの連絡がきた。真っ暗な街を探し回るが見つからない。やがて警察から連絡あり、金峯神社の前で座り込んでいたところを巡回で発見したという。最近の散歩コースはそこだけにしていたのだった。迎えに行くと転んだらしく顔や腕に擦過傷があった。そこまでして帰りたい父の思いを母に伝えたが、やはり一緒に暮らすことはできないときっぱり言われた。あんな悲壮な気持ちでの朝食が家族最後の思い出になるのかと哀しくて諦めきれるものではなかったが諦めることにした。  かなり鎮静剤を使っていたので時間がたてば身体に蓄積され、動作は緩慢になり臥床時間が増える。そうなると誤嚥性肺炎は必発である。案の定、残暑が続くある日痰がからみ発熱した。鎮静剤を減らし食形態は変え抗生剤を投与しクリアした。しかしその後も薬疹や浮腫、歯周病に涙嚢炎など次々変調がくる。なるほど寝たきりになると違うものだと再認識した。秋が深まり父はまた歩けるようになったが、どういうわけか易怒性や帰宅要求がさっぱりなくなった。相次ぐ不調でエネルギーが枯渇したか親密に世話するスタッフに愛着を感じてきたのか、寒がりだから外出が嫌になったのか、すっかり入居者らしく食卓に座って何もしない。毎週会いに行くとそのたび久しぶり見たような顔する。気がかりは面会に来られない次男のことだけのようで繰り返し聞いてくる。悟りの境地にあるならいいが本心はわからない。ただこんな状況でなかったら父の主治医になり週に何度も直接話をすることにはならなかっただろう。「前から望んでいたとおりになってるんじゃないかね」と母は言う。貴重な時間なのかもしれない。去り際「身体に気をつけろ無理するな」私の背中に父はそう言う。わかってる、まだまだやらなきゃいかんからねと心の中でつぶやいて施設をあとにする。

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八丈情島異聞(その2) 福本一朗(長岡保養園)

 3.八丈島に住んだ有名人たち
 紀元前3世紀の中国の仙術家、徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受けて3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産・五穀の種を持って東方に船出しましたが、三神山には到らず「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり秦には戻らなかったと伝承されています。不老不死薬を得られなかったため帰国できなかった徐福自身は紀州熊野で生涯を終えましたが、連れてきた童男五百人を青ヶ島に、童女五百人を八丈島に残し、年に一度の逢瀬を許したと言われています。また女児が生まれたら八丈島に、男子が生まれたら青ヶ島に連れて行く慣習があったそうです。そのため八丈島は女護島(にょごがしま)と呼ばれていました。
 源頼朝・義経兄弟の叔父にあたり鎮西八郎とも名乗っていた源為朝は、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、剛弓の使い手で剛勇無双と謳われていました。1156年の保元の乱で崇徳上皇方に参加しましたが、敗れたため伊豆大島へ流されました。さらに追手から逃れる為に、大島から三宅島そして八丈島へ渡り疱瘡の厄神や鬼を退治しました。伝承では為朝が八丈島に来た頃、島に住んでいたのは女性だけでしたので“女護ヶ島”と呼ばれていましたが、そこでは男女同棲は海神のたたりがあると信じられ、女だけは八丈島に住み、男は青ヶ島に住んでいました。それを不自然と思った為朝は自ら嫁をもらって八丈島で同棲し、祟りが無い事を証明したため、島民はその功を讚えて鎮西八郎の八郎を取って島の名前を八郎島(はっちょう島)と改めたのですが、この“八郎”が訛り訛って“はちじょう”になり、現在の島の名前になったとされています。その後為朝は八丈島の西約7.5qに位置し周囲わずか8.7qの美しい八丈小島に追い詰められて自刃したと伝えられています(Fig. 4)。
 そもそも八丈島の流人第一号は宇喜多秀家(1572〜1655)とされています。八郎と呼ばれていた秀家は豊臣秀吉に愛されて、元服した際「秀」の字を与えられて秀家と名乗り岡山57万4,000石の城主となりました。また秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫と結婚して正室としましたため、外様大名でありながら秀吉一門衆としての厚遇を受けていました。しかし関ヶ原の戦いで秀家は西軍の副大将となり、石田三成・大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発して西軍の主力となって戦いましたが、同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで敗北しました。ただ前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉されたあと、慶長11(1606)年4月公式史上初の流人として、二人の息子と家来とともに計13名で八丈島へ配流されました。八丈島では苗字を浮田、号を久福と改め、豪姫の実家である加賀前田氏・宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて(初期には豪姫の懇願で秘密裏に、晩年は公に隔年70俵の援助を得ることが幕府より許可)50年を過ごしましたが、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていました。元和2年(1616年)に秀家の刑が解かれ、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けましたが、秀家はこれを謝絶して八丈島で余生を送る人生を選択しました。キリシタンであった豪姫一人を愛した秀家は現地妻をおくこともなく、明暦元(1655)年11月20日享年84歳にてこの世を去りました。大名としての宇喜多家は滅亡しましたが、秀家と共に流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、後に分家(浮田家)が3家興りました。明治以後に宇喜多一族は赦免となり、元・加賀藩主前田氏の庇護の下で東京(本土)の前田家の土地に移住しましたが、そのうち何名かは数年後に八丈島に戻り、その子孫が現在も秀家の墓を守り続けています。なお西方の備前国を遥かに望む八丈島・大賀郷の南原海岸で秀家はよく釣りをしていたのですが、そこには1997年に秀家と豪姫の石像が建てられています(Fig. 5)。ただ備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領した大名であった秀家でしたが、八丈島では人々に尊敬され大事にされていたため、御赦免後も島を離れず84歳で大往生を遂げ、その子孫も島に住み続けた秀家は、本当に最愛の人豪姫もいない岡山に帰りたいと思っていたのでしょうか?なお岡山には越後出雲崎出身の良寛和尚(1785〜1831)が若い頃十数年修行した円通寺がありますが、良寛さんは秀家の生涯に共感したのか、200年後の漢詩に透徹した人生観を披瀝しておられます。「富貴吾事に非ず、神仙期す可からず、腹を満たせば志願足る、虚名用ひて何為るものぞ」。栄耀栄華は虚しいもので、人生で本当に大事なことは、質素でも親しい人々と交わり、心から充実した毎日を送ることだと悟り、秀家は満足して84歳の大往生を遂げたのだと信じます。
 ところで八丈島を有名にした最大の功労者は、なんと言っても千島や択捉島の探索をした近藤重蔵の息子として生まれた近藤富蔵でしょう。彼は幼少のころから素行が良くなかったのですが、それでも父親の遺恨をはらすために博徒あがりの町人塚原半之助とその妻や母親・子供計7名を殺傷した「鎗ヶ崎事件」を起こしました。そのため文政10(1827)年八丈島へ流されましたが、島では寺子屋で子供達に読み書きを教えて生活の助けとし、また宇喜多秀家の末裔である百姓宋右衛門長女イツと結婚して一男二女を儲けました。彼はその流人生活の間に、「八丈島の百科事典」と称賛される膨大な『八丈実記』72巻を著しました。明治元(1868)年、明治新政府は流刑などの追放刑の執行を停止しましたが、富蔵だけはその恩赦を受けることができず、明治11(1878)年に八丈島に赴任した東京府の役人が「八丈実記」の著作性の高さを認めたため、明治13(1880)年2月27日にようやく赦免を受け、53年間の流人生活を終えることができました。赦免後一旦は本土に戻りましたが、親戚への挨拶回り、近江国大溝藩内円光禅寺の塔頭瑞雪院にある亡父重蔵への墓参、西国巡礼を済ませて、2年後に再び八丈島に帰島し、1887年一観音堂の堂守として享年83歳で生涯を終えました。柳田國男は富蔵を「日本における民俗学者の草分け」と評しています(Fig. 6)。

 4.黒瀬川(黒潮)に守られた竜宮城
 これまで八丈島が流人の島と聞くと暗く悲惨な地獄のような島と思っていましたが、実際は大自然に囲まれる“日本のハワイ”と言われた常夏の楽園で、棕梠や椰子などの亜熱帯植物が茂り、カツオや飛魚などの豊富な海産物に恵まれた明るい海洋島でした。また人口は今でも8000人弱ですが、東京から290qしか離れていないのに激しい黒潮により本土から隔絶されていて、本土との交流も年2回の流人船しかなかったためか、中央政府からの締め付けもゆるく階級意識や身分差別も少ないうえ、最新の情報をもたらしてくれる流人に対しても感謝と同胞意識で温かく接してきました。特に島には数名の役人しかおらず、それも土着の知識人が任命されていて、武士に支配されていた江戸時代の日本では稀有な自治社会であったと言えるでしょう。また女にしかできない年貢の黄八丈を織ることのできる女性の地位は高く、近親婚を避けて新しいDNAを取り入れるためにも流人との事実婚が許されていた“女護島”でした。過去には厳しい自然災害による飢餓もありましたが、1727年にサツマイモ(カンモ)の定着に成功してからは、日本全国で100万人の餓死者を出した享保の大飢饉の時でさえ、八丈島では餓死者が一人もいなかったと言われています。
 八丈島は美しい南洋の花と作物に満ちた島でもあります(Fig. 7、Fig. 8)。人々の心も優しく、助け合いの精神と外来者に対する思いやりに溢れた“情島”なのです。それゆえ許された流人達も、あるいは島を出ることを拒み、また一度は帰国してもまた八丈島に戻ってきて長寿を全うしているのでしょう。270年1800名に及ぶ流刑地の歴史上でも、「島抜け」の試みは十数件しかなく、はっきりわかっている成功者は一件だけです。それは黒瀬川に阻まれた絶海の孤島であることだけでなく、封建社会の底辺で足掻いていた普通の庶民にとって八丈島が、却って一種の“自由な楽園の竜宮城・なさけ島”であったからではないでしょうか?

「Fig. 4 徐福(生没年不詳)」

「Fig. 4 源為朝(1139〜1170)」

「Fig. 4 八丈小島」

「Fig. 5 宇喜多秀家(1572〜1655)」

「Fig. 5 秀家と豪姫の像(八丈富士を望む南原千畳敷)」

「Fig. 6 近藤富蔵(1805−1887)」

「Fig. 6 八丈実記に描かれた流人船の絵(近藤富蔵画)」

「Fig. 7 八丈富士を取り巻くフリージア畑」

「Fig. 7 八丈島の作物」

「Fig. 8 Fig. 8 ストレリチア」

「Fig. 8 Fig. 8 ハイビスカス」

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コロナ禍の今 花城 恒(栃尾郷クリニック)

会員の皆様方にはいつもお世話になり、この場をお借りして御礼を申し上げます。
 さて、今年もまたStayHomeを強いられるとは、誰が予想したことでしょうか? しかも、昨年より悪くなっているなんて!!長岡市でも特別警報が発令され、益々色々な所で制限がかけられています。
 我が家には3世代4匹のトイプードルが元気に走り回っております。コロナ前は4匹を連れて温泉や観光地に行っていましたが、現在はどこにも行けず、犬たちもストレスが溜まっている感じがします。それでも、4匹と一緒に散歩し、一緒に寝ていますので疲れた時などは癒されます。
 日々の外来診療、訪問診療に加え、老健施設でのワクチン接種が始まっております。毎日毎日コロナ患者さんを診て、必死に頑張っておられる方々に感謝しつつ、今の僕にできる事は、できるだけ早く、多くの人にワクチン接種をすることを考え、頑張る日々です。最後に、コロナ禍に自立歩行にて外来通院してくれている患者さんに、次のことを話しています。
 認知症にならない人は、“きょういく”と“きょうよう”のある人ですよ、と。“きょういく”とは“教育”ではなく、“今日行く”所がある。“きょうよう”とは“教養”ではなく、“今日用事がある”。でした。

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巻末エッセイ〜虹の橋、渡れ! 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)

 私は慢性腰痛があるため、時々、お灸をすえます。先日、ふろ上がりにお尻丸出しにしてお灸をすえていました。右の臀部から、坐骨神経にそって腰、お尻、大腿、下腿外側にそって、お灸をすえていました。

 小さな赤いともしびがポツンポツンと暗闇の中に浮かぶ。そんな絵だったので、娘がびっくりしてしまいました。「クリスマスツリーだよ。」「クリスマスケーキだよ」とか言ってごまかしを兼ねて、笑わせたのですが、嫁がいうには「お釈迦様の涅槃の図みたい。」というのです。

 【涅槃で待つ】っていう怖いセリフを思い出してしまいました。【涅槃】って怖い言葉だと思いましたが、調べてみてびっくり、【涅槃】とは安らぎの境地のことだったのです。

 それはさておき、また残念な個人的なお知らせです。

 我が家の猫ちゃん(トンキニーズのみうちゃん)が亡くなってしまいました。かかりつけの動物病院さんの必死の治療の甲斐なく亡くなってしまいました。動物霊園さんで荼毘にふしていただいて、白いけむりとなって天に昇っていきました。その日は青い青い空でした。

 人間に愛された動物たちは天国に行く前に虹の橋のたもとで幸せに過ごしていると言います。毎日、おいしいものをたべて自由に遊んで日々幸せに暮らしているといいます。そのうち、飼い主が死んで虹の橋にやってくると、再び飼い主と動物たちは一緒の楽しい時間を過ごします。そして人間は動物たちと仲良く一緒に虹の橋を渡り、天国にいくというのです。【虹の橋の物語】

 うちの猫ちゃんは虹の橋で待っててくれるよね、と願いました。青空が目に染みるので、眼をつぶります。すると虹の橋の風景が目蓋の裏に浮かびます。

 記憶が一気に逆方向に加速します。

 小児科医をしているので、数少ないですが、虹の橋で待っているだろう子ども達が目に浮かびます。思い出して、眼がしらが熱くなって、じわ〜っと涙が出てきます。老化現象でしょうか?看取った子供たちは涅槃でまっていてくれるでしょうか。虹の橋で遊んでいるでしょうか。どちらにせよ、待っててね。遅かれ早かれ、そちらに行きます。

 お世話になった指導してくれた先輩方も待っていてくださいね。もう少しこちらで義務を果たしたら、そちらに行きます。また、たっぷりと叱ってくださいね。どうぞよろしくお願いいたします。

 なんだか、原稿が滲んできました。

 まだ、志半ばなのですが、涙腺がもろくなってしまいました。新型コロナウイルスのせいにしていいですか?昨今、新型コロナウイルスワクチンを一生懸命接種しようと心がけています。あくまで個人の意思によるものですが、医師としては、戦います。新型コロナウイルスを成敗するにはワクチンしかないからです。やっつけるぞ。病気になんか負けないぞと思います。地震や災害は避けられないけれど、病気は戦えます。戦争は避けられます。

 ともあれ、支離滅裂な文章ですが、だから、青い青い空をみるといろんなことを思い出してしまいます。

 先日、ツガイの燕さんが我が家に巣をつくり始めました。田んぼから小枝をひろい集め、唾液と泥で上手にこしらえています。お母さんとおぼしきお腹のおおきな燕さんが、住み着きました。夫がけなげに出入りしています。新しい家族が増えたようでとてもうれしいです。ずっと見続けています。みうちゃんの代わりに来てくれたんだと思います。ありがとうございます。

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