長岡市医師会たより No.497 2021.8


もくじ

 表紙絵 「高原の夏(山本山)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「サブスクリプションサービス」 三上 理(三上医院)
 「すてきな亡くなりかた」 佐藤直子(長岡赤十字病院)
 「月に1回の東京出張〜本社医療事故検討部会に出席して」 藤田俊夫(長岡赤十字病院)
 「深草の○○坊は死なれけり わが身ながらも哀れなりけり」 田ア義則
 「蛍の瓦版〜その65」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜長岡の幻の宇宙テーマパーク計画」 星 榮一



「高原の夏(山本山)」 丸岡 稔(丸岡医院)


サブスクリプションサービス  三上 理(三上医院)

 みなさま、サブスクリプションサービスはご存じでしょうか?一定の金額を支払って、その間は取り放題、見放題、飲み放題、食べ放題……のサービスです。
 2021年春、コロナ禍で、在宅時間が長くなり、その時間をどのように過ごされていますでしょうか。
 現在サブスクリプションサービスは多岐にわたります。往年の名作映画やあの頃のドラマ、野球やサッカー、バスケットボールにモータースポーツ、格闘技などスポーツに、音楽、小説から雑誌、コミックなど、好きな時間に好きなだけ。あるいは途中で仕事が入っても、空いた時間に続きから見ることができます。忙しい毎日だからこそ、このサービスを上手に使いたいものです。
 ところで日本でサブスクリプションサービスを初めて開始したのは何でしょうか?
 調べてみると、鉄道の定期券が、ある意味最初のようです。また、おなじみの牛乳の宅配、新聞宅配もサブスクリプションサービスの一種のようですが、これらは一定の商品しか配られませんね。そういう意味では私たちの生活の中では特殊なサービスではなさそうです。
 私が現在のサブスクリプションサービスを初めて使用したのは一体何だったか、ちょっと記憶をたどってみます。たぶん携帯電話のアプリ取り放題が初めてだったでしょうか。その頃の携帯の契約は縛りが多く、知らないところで契約させられていたかもしれません。その当時は東京で生活していましたから、いわゆるナビソフトはお世話になった記憶があります。
 その次は映画、ドラマのサービスでしょうか。たまたまNHK-BSでやっていたER(たしか1stシーズン)の連続放送ではまってアメリカのドラマを観るようになり、どうしても観たい物はDVDを買って観ていました。そこにサブスクリプションサービスが開始され、面白そうなドラマを漁っていました。英語が堪能ではないのですが、なんとなくわかるようになったり、あるいはお昼の時間にちょうどいい子守歌になったり。いまでもERを最初から観なおしたりしています。日本で映画、ドラマのサブスクリプションサービスが始まったのが2007年だそうですが、私は2011年からかもしれません。
 その次はKindleでしょうか?高校生の頃から乱読で、北杜夫、遠藤周作、阿川弘之に始まり、レイモンド・チャンドラー、ディック・フランシス、パーネル・ホールなどなど。いくら文庫本とはいえ、やはり置いておくには場所も取ります。そこで電子書籍に飛びつきました。日本版Kindleの前にソニーが電子書籍配信サービスをサブスクリプションサービスではありませんが開始しており、それが最初だったように思います。電子書籍について英文は読みません!ただ、映像と同様、作品も限られておりました。今調べてみるとソニーの電書リーダーは2010年開始のようです。ちなみに日本版Kindleは2012年開始です。サブスクリプションサービスとしては、読み放題のKindle Unlimitedが現在有名で、雑誌、コミックを含めて利用できます。ソニーは現在撤退しており、もちろん、その他にも雑誌やマンガなどはいくつかのサービスがありますが、ほぼKindle一択ですね。出張時に何冊も単行本や雑誌を抱えていくのは大変です。KindleならiPad miniより小さな端末にたくさん入ります。サービスとしてKindleはその他のスマートフォンでも読むことができ、どの端末で読んでもネットに繋がっていれば続きから読むことができます。
 そして音楽ですが、いわゆる着うたの頃から配信が始まっています。現在の定額配信サービスほど一般的ではありませんが2006年頃から定額制が始まっています。日本でサブスクリプションサービスが一般的になったのは Spotify や Apple Musicが開始されてからだと思います。音質を求める方にとっては物足りなさを感じるかもしれませんが、私はランニング中や入浴中に聞いていますので音質はほどほどでかまいません。いずれもダウンロードでき、ダウンロードしてしまえば通信料がかかりません。このサービスによりCDの売り上げが激減していますが、本当にお気に入りの楽曲はCDも同時に購入します(いわゆる押しです!)。
 このようにここ数年でメディアのサブスクリプションサービスが一般的になり、自宅内だけで無く、外出先でストリーミング再生を楽しむことができますが、今後5Gが広がるとますます便利になってきそうです。残念ながら今は外出もままならない時期ですが、長岡に5G網が広がる頃には自由に外出し、遠出もできるようになっていてほしいものです。
 メディアのサブスクリプションサービスの面白いところは、リアルタイムで見逃し、聞き逃した物をいつでも探し出せたり、あるいはふとしたところで出会ったり、全く予想だにしなかったものに巡り会えたりすることでしょう。そんな偶然を楽しみに今日もサービスを利用しています。
 “ぼん・じゅ〜る”にこのような題材の雑文を寄稿して良いか悩みましたが、現在のコロナ禍での生活に映像、文章、音楽などで少しでも癒やされる時間が持てますよう、綴ってみました。
 あ、サブスクリプションサービスで忘れていた物がありました!
 それは自宅で呑める生ビールの樽の配送や自動販売機でのコーラの定額サービスなんてサービスも出ています!
 いずれも飲み過ぎ注意かもしれません!(笑)

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すてきな亡くなりかた  佐藤直子(長岡赤十字病院)

 2020年4月、長岡赤十字病院に緩和ケア病棟が開設し、1年間で279名が入院した。亡くなられた方は205名、在宅療養へ移行された方は54名であった。在宅看取りとなった方は10名おられ、約1カ月間ご自宅で過ごすことができた。
 この1年間で、多くの「出会い」と「さよなら」があった。最期まで自分の状況が受け止められず、否認や怒りを抱えたまま亡くなられた方もいた。静かに死を受け入れ、今ある時間を豊かに過ごすことに目を向けられた方もいた。今回はその後者の方々についてお話ししたいと思う。(名前はすべて仮名であり、疾患や時期なども一部修正を加えています。)
 
 アキコさん(70代、女性、婦人科がん)。体の不調を感じながらも、お寺の嫁として忙しくしていたアキコさん。診断がついたときには、治療もできないほど病気が進行、体力も低下しており、緩和ケア病棟に入院した。「わたし、亡くなるのは仕方ないと思っています。でも最期まで凛としていたいのです。」アキコさんの目指す姿だった。アキコさんはご主人のことを「お父様」と呼び、とても慕っていた。緩和ケア病棟でお父様のこと、お孫さんのこと、色々なことを上品で丁寧な口調でお話ししてくださった。症状が安定したため、一旦在宅療養に移行する方針となったが、物静かなアキコさんが唯一してほしくなかったこと……それは「自分の排泄物の世話をお父様だけにはしてほしくない」ということであった。最後まで凛としていたいアキコさんのたった一つの願い。排泄物は訪問看護やヘルパーにお願いすることにした。しかし自宅に帰る2日前に容態が悪化、在宅療養は断念することになった。住職であるご主人が夜は付き添い、昼間は仕事へ行くという日々が何日か続いた。アキコさんの状態は緩やかに低下し、いよいよとなったその日、ご主人はどうしても外せない法要があり、来院できなかった。アキコさんは穏やかな呼吸を続けていたが、やがて呼吸を休むようになり、そのまま旅立たれた。「お父様。わたし、お父様のお経を聴きながら、先に逝かせていただきますね。」とおっしゃっているような、まっすぐに上を向き、どこか微笑んでいるようなお顔であった。まさに住職の妻として、お父様の一番大切な人として、「凛として」旅立たれたアキコさん。素敵な最期だった。
 
 ヨシロウさん(50代、男性、消化器がん)。1月に診断されたときは既にステージWで、化学療法が1回行われたが、疼痛が増悪。体力低下も著明であったため、積極的治療は終了する方針となり、雪の舞う2月の寒い日に、緩和ケア病棟へ転棟された。急な経過の中で翻弄されながらも、転棟初日、「ここに来られてよかったです。安心しました。」とおっしゃっていた。数日後の回診の際、「もう治らないのはわかっています。先生、私にはあと、どれくらいの時間が残されていますか?」と、ヨシロウさんからの質問。そのまなざしは真剣で真っ直ぐだった。きちんと答えなくてはと感じ、しばしの沈黙の後、「桜を観られる頃まで、穏やかに過ごせるといいなと思っています。」とお伝えした。「あと少しなのですね……。あぁ……。」と顔をくしゃくしゃにしながら涙ぐまれたヨシロウさん。しかしその後すぐに「わかりました、教えてくれてどうもありがとうございます。残された時間を毎日楽しく精一杯生きようと思います。」とお話してくださった。ヨシロウさんには20歳代の娘さんがおられ、ちょうど3月生まれでもあり、病棟で娘さんのお誕生日会をすることになった。「娘の花嫁姿はみられないだろうから、せめて手紙を書きました。」と目に涙を浮かべながら教えてくれた。奥様とは面会の度に、雪囲いの仕方、娘さんのこと、仕事のことなどお話しされていた。ヨシロウさんはその後、痛みも和らぎ、ご自宅でご家族と一緒に療養する時間をつくることもできた。しかし程なくして、桜の花びらと一緒に旅立っていかれた。自分に残された時間を知ることで、娘さんや奥様に伝えたいことをきちんと伝えてから逝かれたヨシロウさん。素敵な人生のまとめ方であった。
 
 ケイスケさん(60代、男性、泌尿器がん)。緩和ケア外来に紹介になった時から人懐っこい方であった。「先生、俺ね、もう治らないって聞いたから、色々好きなことしようと思ってさ。地元に仲間がいっぱいいるからさ、楽しんで過ごすよ。」笑顔でお話してくれた。痛みがあり緩和ケア病棟に入院することもあったが、痛みが緩和されるとすぐに、ご自宅へ戻られた。長岡市から車で1時間半ほど離れた地元には、ケイスケさんが趣味にされていたスキーや登山の仲間がたくさんいた。「この前ね、うちの庭でみんなと一緒にバーベキューしたんだよ。いい肉をもりもり食べて元気がでた!」仲間との楽しそうな写真を見せてくれた。15人ほどが映っているその写真のなかで、一番キラキラした笑顔をしていたのが、ケイスケさんだった。わたしは当院の緩和ケア病棟を自慢に思っているが、やはりご自宅には叶わないと、在宅療養の大切さを改めて感じた瞬間だった。「登山の写真をまとめているんだ。この山はこうだった、ああだったって、写真の横に書いてさ。それを近所のみんなに配っているんだよ。」と、『ケイスケ登山秘話』を読ませてくれたこともあった。「でもさ、こんなにしていてもいつかは死ぬんだから、死ぬときは先生のところの緩和ケア病棟で頼むわ。」とも言っておられた。ある日、予定していた緩和ケア外来にケイスケさんは来なかった。ケイスケさんの友人でもある在宅医の先生からお電話があり、ケイスケさんが亡くなったと伝えられた。「その日の夕方まで元気で過ごされていました。訪問診療したときはいつもと変わらず笑顔で、お寿司を召し上がっており「先生もどうだい?」とお寿司を勧めてくれたりしました。その夜に状態が変化し、そのままお看取りとなりました。医師として友人として、すごくいい最期だったと思います。私もケイスケさんのような亡くなり方をしたいと思いましたよ。」そう、在宅医の先生が教えてくれた。住み慣れたご自宅で家族や友人と楽しく過ごしながらの旅立ちであった。人生最後の看取りも医師である友人がしてくれた。これ以上の幸せな最期はみつからないような気がする。素敵な人生の最終章であった。
 
 わたしの尊敬する島倉千代子がいっていた。人生いろいろ。男もいろいろ。女だって色々。多くの人の死に伴走しながら思うこと。それは「生きてきたように、亡くなっていく」ということだ。その人の亡くなり方で、これまでどんなふうに生きてきたのか、その人の生き様を感じる。生き方もいろいろであり、亡くなり方もまた色々なのである。
 いろいろ咲き乱れながら人生を謳歌し、最期は素敵な幕を引きたいものだ。

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月に1回の東京出張〜本社医療事故検討部会に出席して  藤田俊夫(長岡赤十字病院)

 十数年前までは、医療安全は私にとっては全く縁のないものでした。しかし、自院の医療安全の委員となり、2009年から2010年にかけて本社の医療安全管理者養成研修を受講し、2011年2月からは本社の医療安全管理者養成の集合研修のタスクフォースとして働くようになり、知らず知らずのうちに医療安全に深く関わるようになりました。1年に2回定期的に本社での集合研修で働くようになった関係もあり、2016年11月から、毎月第1木曜日に本社である医療事故検討部会に出席するようになりました。
 全国92の日赤病院から毎月20例前後(多い時は30例ほど)の医療事故の事例が本社に報告され、その事例を検討する会議が医療事故検討部会です。毎月第1木曜日に本社701会議室で3〜4時間かけてそれぞれの事例を検討しますが、その会議に毎月出席するために、月に1回定期的に東京へ出張するわけです。毎回長岡11時43分発の新幹線で東京へ向かい、13時28分に東京駅到着、13時35分の京浜東北線の快速で浜松町駅で下車、徒歩で本社まで行き、本社の裏口から入り、701号室の席に13時50分に着席、14時からの会議となります。17時30分から18時まで会議で、帰りは東京駅18時52分の新幹線で長岡着が20時40分となります。これが定期的に毎月第1木曜日にやってくるわけです。
 この定期的に訪れる行き帰りの新幹線車中の3時間33分をどのように使うか?。実は最初からあまり迷うことはありませんでした。定期的にこれだけの時間を確保できることから、以前から読みたいと思っていた司馬遼太郎の長編小説を読むことにしました。まず読んだのが『坂の上の雲』です。テレビドラマでも放送された関係で、ぜひ小説でも読んでみたいと読み始めました。ドラマでは描かれなかった点も多くあり大変楽しめました。特に日露戦争の戦況などはよくここまで調べたものだと思いました。次はこれも以前から読みたいと思っていた『菜の花の沖』です。幕末のいち廻船商人であった高田屋嘉兵衛の物語ですが、北方開拓はもちろんのこと、ロシアに捕らわれの身となった後にその際の境遇を逆に利用しての幕府とロシアとの外交上での仕事まで成していく行動力には、わくわくさせられるものがありました。次は長岡人であればみんなが知っている『峠』を読みました。延期された映画の公開も近いですが、改めて河井継之助の人となりについて知ったような気がしました。また戊辰戦争前後の長岡の状況が手にとるようにわかったような気がします。次は『竜馬がゆく』を読みました。坂本竜馬については、他の読み物やドラマからも、これまでも多少は知識があったつもりでしたが、改めて坂本竜馬が人気がある理由がわかったような気がします。次は『胡蝶の夢』を読みました。幕末の西洋医学はこのようにして入ってきたのかと思いましたが、個人的には、佐渡出身の語学の天才島倉伊之助に興味を持ちました。当時の西洋医学を学ぶということは、基礎知識もない西洋医学をこれまたわからないオランダ語で講義されるわけですから理解できないのは当然ですが、よくしたもので、ここで語学の天才伊之助が活躍するわけです。私にとっては河井継之助についでの司馬文学における新潟県人でした。そして次は『翔ぶが如く』を読みました。西郷隆盛の話とばかり思っていましたが、実は明治初期の色々な人物が登場し、それぞれに詳しく記述されています。明治初期の日本の状況が改めてわかったよう気がしましたが、明治初期もまだまだ暗殺に明け暮れていたようです。これまで読んだ司馬遼太郎の長編小説について書いてみましたが、どれも大変興味深く読めるものばかりでした。このようにして定期的な東京への行き帰りを過ごしていましたが、昨年8月からは会議もリモート会議となり、東京への行き帰りも無くなった状態で非常に寂しい思いをしております。
 さて、我家では居ながらにして自然観察ができる。一応町場育ちの私としては、初めて遭遇する生き物だらけである。
 最後に少し医療事故検討部会のことにも触れたいと思います。会議に通うようになってつくづく思うことは、他の病院で起こった事故は自分の病院でも充分起こり得る事故だな、あるいは似たような事故が他の病院でも起こっているなということです。『他山の石』や『対岸の火事』ではないことを毎回痛感します。そのため、会議後は毎回自分の病院ではどのようなシステムでやっているか等チェックしたり、参考になるようなマニュアルはそのままコピーさせてもらったりしています。通常は、資料や診療録・看護記録・画像を確認して、担当事例の見解書の作成をしてと第4週の月曜日から会議までは忙しい毎日ですが、また東京へ通える日を心待ちにしている今日この頃です。

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深草の○○坊は死なれけり わが身ながらも哀れなりけり  田ア義則

 深い海の底に住む1匹の魚が、燦(きら)めく海面に憧れて浮上することはあるでしょうか。毎号“ぼん・じゅ〜る”紙上を流れて行く才能と元気に満ちた多彩な読み物を目にしますと、身の程を忘れて心が躍ります。
 昔、私は予備校に在籍した事があります。
 市ヶ谷左内坂の上にあるこの学校の、道を隔てた向かいには大日本帝國の昔も令和の今も、国家枢要の役所がある筈です。敗戦から十年を経た頃ですが未だ、踏ん反り返った赤鬼のような米軍将校を乗せたジープが、坂を駆け下がって行く光景を目にしたものです。
 国語の担当は浅尾芳之助と申される、好々爺然とした先生でしたが、ある時、「君達はそうやって騒いでいるが、私が今話していることを自分で調べようとしたら、3時間はかかるよ」とたしなめられたことがあります。
 講義の内容は国語の表現力に関することの様で、題材となったのが冒頭の短歌でした。昔、京都は深草の里に○○坊という、里人に慕われた偉いお坊様が住んでいました。年を経て愈々命の終わりを悟って詠んだ辞世の句です。先生のお話は、悲しんで貰おうと思っても、自分で自分を悲しいとか哀れだとか言って果たして人が悲しいと感じるだろうかということでした。
 唯それだけのことですが、どうして私がこの歌を覚えていたのか不思議です。とぼけた味わいが気に入ったのでしよう。
 その後私は幸せな医学生の生活を送りましたが、外科の道に入って深刻な悩みを生じることになりました。落ち込んだ時に何時も私を助けて呉れたのがこの歌でした。思い出すと心の中で大笑いせずには居られません。自分の辞世の句はこれで行こうと決めました。残念なことに、お坊様の名前をいつしか忘れて了いました。名前は無くても歌の趣に変わりは無いので、勝手な名前を付けて愉(たの)しんでいました。
 話は変わりますが、2004年10月の中越地震は驚天動地の出来事でした。地震は長岡市の東南に連なる低い山脈に沿って北に走り、14qほど離れた見附市の在にある私の古里を直撃したのです。
 後日後片付けに入った私は、未だ余震の続く土蔵の中でミイラになるところでした。屋敷の入口に止めてある車を見付けた親しい農家の主人が、寄って来て「オーイ大丈夫かあ」と叫ぶのに「大丈夫だあ」と返して、手も休めず古い本や我楽多の整理を続けました。1冊の文庫本を手に取って読み始めました。表題は「肚(はら)で行く」で、古今の偉人達の言行を各1頁(ページ)位で紹介したもので著者は山中峯太郎とあります。この人と「敵中横断三百里」という本の名は子供心に知っていました。貧しい時代の農村で、何処から耳にしたか分かりませんが、何か胸踊る感じがしたのを覚えています。著者略歴には、明治18年大阪生まれ。陸軍大学中退、孫文(そんぶん)の参謀長、袁世凱(えんせいがい)の急死で帰国、文筆活動に入る、などとあります。さてこの小冊子をパラパラと繰っている時ハッと何か感じて手が止まりました。有りました!あの歌です。記事は「深草の……と読んだ元政が」と書き出しています。人物略伝には、徳川末期の名僧、9才で出家、山城の国の深草に瑞光寺を開いた、とあります。
 あの少年の日から60年の歳月を経ての邂逅です。数年前から私は、生涯の苦悩から脱却しつつあります。元政の歌の真実を解るようになったのです。それは自我を放擲(ほうてき)した、禅の究極の境地を詠んだ歌であったのです。
 生涯を通して私を救って呉れたあの諧謔(かいぎゃく)は一体どうなるのでしょう。流石にその色は褪せましたが、この歌を手放すことは出来ません。今度は永く私の子守唄となるでしょう。
 少し深刻な話になりましたので、気分転換に川柳をご披露します。
 野口殿(宇宙飛行士) コロナを置いてどちらまで
 来る春は コロナ次第にうしの年
 ゴーツーは 俺のことかとコロナ行き
 地球を覆う大災厄を笑い物にとは何事かとお叱りを受けそうですが、早い頃に作ったものですからお許し下さい。コロナ禍が1日も早く、語り草の中に消え入ります様に念じつつ筆を措(お)きます。

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蛍の瓦版〜その65   理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.新型コロナウイルス感染症

(1)帰省者を対象とした無料抗原検査

 長岡市医師会では、8月11日(水)から15日(日)までの5日間に、アオーレ長岡の3階で、お盆の帰省者を主な対象に無料の抗原定性検査を主催しました。帰省前のPCR検査が陰性だった方や、症状のある方は対象外です。昨今の新型コロナウイルス新規感染者数の拡大状況やお盆における人の流れの増加を勘案し、感染者の早期発見や感染に対する市民の不安払拭を目的としました。
 マスコミや市のホームページでも周知を図り、JR長岡駅において呼び掛けやチラシ配布を行ったところ、初日の11日には134名が訪れました。12日13日は1日に200名近い方が抗原検査を受けられましたが、14・15日の土日になると希望者も減って100名程度となりました。期間中を通じて陽性判明者は2名あり、いずれも帰省客で基幹病院へ紹介しPCR検査を改めて受けて頂きました。
 医師会から医師・臨床検査技師・看護師が従事した他に市内の3つの基幹病院からも技師や看護師の応援をいただきました。また、長岡市からも全面的なご協力をいただき、駅からの案内や誘導および受付等に市の福祉保健部の方が連日12名従事されました。
 会員の皆様には事後報告となりましたが、医師会では状況に応じて適時対応してゆく所存です。よろしくお願いいたします。

(2)入院外療養とオンライン診療

 8月2日には都市部の病床利用の逼迫を受け、酸素の必要な中等症の患者も自宅療養で対応との菅首相の談話がありましたが、これには各所からの異論があり、一部訂正されています。
 新潟県でも感染者数の増加に伴い、今年の6月には新型コロナウイルス新規感染者の受け入れに関する方針が見直されています。三次救急医療を守り通常の医療を停滞させないために、無症状者や軽症者は入院外療養が基本とされました。成人では家族等からの隔離が困難であったり食事の用意に不安のある方は、県内4か所の宿泊施設療養となります。その他の成人や小児は自宅療養とし、全患者にパルスオキシメーターを貸与し、看護師による電話での聞き取りやアプリを利用した健康状態の観察を連日実施します。看護師からの報告を受け、それぞれのオンライン診療担当医が症状に応じて処方箋を出したり、新潟県患者受け入れ調整センター(PCC)へ連絡し、入院医療へ移行させたりします。
 宿泊施設療養者のオンライン診療は施設所在地の医師会(新潟市2か所・柏崎市・上越市)が担当されます。新潟市内の自宅療養者は新潟市医師会が担当し、その他の県内は長岡市等の他の郡市医師会が担当する予定です。このシステムの開始当初は担当医にかなりの負担があったようですが、現在では担当期間は月曜から月曜までの1週間限定で、マニュアル化する等負担軽減が図られています。
 8月11日時点の新潟県では人口1千人当たりの感染者数は2.1人と全国では5番目に少なく、病床利用率も40%を下回っています。それでも入院中の方は210名あり、宿泊施設の42名と自宅の421名がそれぞれ入院外療養中です。
 長岡市でも10名の会員に担当医として手を上げて頂いておりますが、まだまだ需要は続きそうです。少しでも興味のある方は是非医師会事務局までご連絡ください。なおオンライン診療を実施する為には厚労省のホームページ内のオンライン診療研修e-learningの受講が義務付けられています。2時間半程度のものです。

2.エルデカルシトール等の供給不足

 皆様には既にご存知のように、エルデカルシトールとアルファカルシドールの供給が不足しております。対応策に関して“日本骨代謝学会”と“日本骨粗鬆症学会”から連名で提言が出されています。特にアルファカルシドールは副甲状腺機能低下症や腎不全に伴う続発性副甲状腺機能亢進症やくる病・骨軟化症患者において、極めて必要度の高い薬剤です。

・エルデカルシトールをアルファカルシドールに変更しない・新規処方は避ける・可能であれば短期間の休薬や他剤への変更を考慮する・天然型ビタミンD剤を活用する・長期処方は避ける、等です。

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巻末エッセイ〜長岡の幻の宇宙テーマパーク計画 星 榮一

 本誌二月号(第441号)に、大阪万博の米国とソ連の宇宙船見学のことを書いた。今回は長岡にあった宇宙テーマパーク「スペース・ネオトピア」計画について書いてみる。
 昭和五十年頃から、二十一世紀の理想都市としての「長岡ニュータウン」計画が進められた。当初の計画では、人口五万六千人、長岡駅からニュータウン中央地区へ、モノレールを建設して公共交通の便を図る計画であった。
 7月20日(日)ベネチア着。何を言っているか分らないまま現地ガイドに連れて行かれたのは船着場。そこで水上タクシーに乗る。何かを寄こせと言っているようなのでバウチャー(支払済み証明書)を渡した。着いたのは運河沿いのプチホテル。黄色い外壁と赤い屋根の恐ろしく古い建物。エレベーターが無く、きしむ階段を2階までスーツケースをかかえて上がる。
 その中で平成元年頃に準大手ゼネコン・佐藤工業株式会社(本社・富山市)によって、日本で最初の本格的な宇宙博物館(スペース・ネオトピア)の建設地として、長岡市西部丘陵地の約二百ヘクタール(ディズニーランド五個分)の広大な土地が有力な候補地として選ばれた。この構想は佐藤工業とNASA(アメリカ航空宇宙局)が協力して計画を進めるものであった。
 構想では青少年の教育体験を主体としたスペースエリアを中心に、ハイテクエリア、スポーツ施設、ホテル、娯楽施設などが計画された。手で触れることが出来るサターン5型ロケットや、宇宙空間を体験できる宇宙博物館、宇宙飛行士の模擬訓練が受けられるスペース・スクールなどが計画にふくまれていた。
 佐藤工業と長岡市、新潟県の三者による第三セクター・株式会社スペース・ネオトピアを設置して、総事業費一千億円で、平成三年頃から着工する計画であった。
 実際にアポロE−2カプセル、タイタンUエンジン、月面着陸船、アポロ宇宙服などの実物を収集し、現地(新陽2丁目)の倉庫に所狭しと収容し、市民にも公開していた。タイタン2型ロケットなどは道路わきの野外におかれ、車で通行の際にも見られた。
 しかし、平成八年十二月頃にバブル景気がはじけ、佐藤工業の業績が悪化し、スペース・ネオトピア事業の断念の申し出があり、この計画は断念白紙化せざるを得なくなった。
 第三セクター株式会社スペース・ネオトピアが収集したアーティファクツ(宇宙関連物品)の行方はどうしたのだろうか。一部は新潟市西蒲区の不動産会社が所有しているらしい。
 また、ディズニーランド5個分にも及ぶ土地は、現在は新潟県動物愛護センターやヨネックスの工場が建っているが、中越地震の後には震災廃棄物の集積地として利用され、廃棄物の分別に使用されていた。
 現在は西部丘陵東地区(産業ゾーン)として今後各種工場が建設されるのだろう。数年前までは山地であったが、大掛かりな造成工事を行い、いつでも利用できるように整地されている。
 このスペース・ネオトピア構想が実現されていれば、長岡市はどのように変わっていたのだろうかと思う。あの丘陵地だけではなく、長岡市全体が今より活気ある街になっていたであろうと考える。

〔市政だより 1989(平成元)年11月号:「スペース・ネオトピア」完成予想図〕

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