長岡市医師会たより No.498 2021.9


もくじ

 表紙絵 「珠江の日没」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「長距離車通勤について」 森田 修(長岡赤十字病院)
 「旅は道連れ」 小林由夏(長岡中央綜合病院)
 「予想外の一日」 佐藤真央(長岡中央綜合病院)
 「巻末エッセイ〜散る紅葉〜良寛辞世の夢」 福本一朗(長岡保養園)



「珠江の日没」 木村清治(いまい皮膚科医院)


長距離車通勤について  森田 修(長岡赤十字病院)

 私は9年前に長岡赤十字病院に赴任いたしました。今回寄稿を勧められ、初めて寄稿させていただくことにしました。知らない方も多いかと思いますので、自己紹介も兼ねて書かせていただきます。
 栃木県出身の45歳、1994年に新潟大学に入学し2000年に整形外科入局、新潟での生活は27年になりました。早くに所帯を持ったため2003年からは新潟市に拠点を置き、医師にありがちな転勤に合わせた引っ越しはせず、ひたすら長距離通勤を続けています。最初の4年は新潟市での勤務でしたが、その後新発田病院5年、長岡日赤9年を合わせると長距離通勤歴14年となります。
 新潟から新発田・長岡はそれぞれ片道30・60q、新発田は主に新新バイパス、長岡日赤は高速道路になりますが、最近長岡北ICができたため日赤へのアクセスが良くなり、通勤時間はそれほど変わりません。私自身運転はそれほど苦にしませんが、走行距離はあっという間に増えていきます。新発田の時は毎年2万q、長岡は3万q程度になります。ちなみに旧車は7年で23万q走行、現車は2年経ち既に7万qです(Fig.1)。私はずぼらな性格で整備などはしないため、いつ壊れても良いように現車は自宅の目の前にあるディーラーから購入しました。何かあれば直ぐ持っていきます。車を置いて歩いて家に帰ることができるのは快適です。ディーラーは突然やってくるので良い迷惑でしょう。
 長距離通勤は距離だけでなく乗っている時間も増えます。1日あたり2時間程度ですので、1週間平日通勤で10時間です。ですからこの時間を有効に使えないか考えたりします。昔はテレビの音声やCDを流す程度したが、最近はやはりスマホが活躍してくれます。スマホをBluetoothでつなげばYouTubeなどで音楽だけではなく様々な音源を何時でも聞くことができます。例えばスポーツ中継や落語、著名人の講演などです。時間があるときに聞きたいものをリストアップして、お気に入りにしておきます。CDでは音楽一択でしたが、今では選択肢が増え楽しみの一つになっています。一時期ドイツ人が外来に通院していた時は、英語が苦手な私は英会話レッスンを流したりもしました。ただ、聞き取れなくて分からなくなると眠くなるのであまりお勧めはできません。
 一方、問題点もあります。一つは疲れた時の眠気、もう一つは雪です。私は基本的にはどれだけ疲れていても病院を離れられそうな時は長岡には留まらず新潟の自宅に帰ります。そのほうがonとoffの切り替えができるからですが帰りの眠気は要注意、そんな時の睡魔を撃退する方法をいろいろ考えました。どの種類の眠気用ガムが最も有効かを試したりもしましたが、結局どれも大差はありません。ガムを噛んでもダメなときはダメで、結論は噛むよりも大きな体の動きを加える、それは声を出すことです。自ら声を出し続けるとさすがに大丈夫。運転に差し支えなく声を出すにはやはり歌唱が一番、所謂一人カラオケです。私自身歌は不得意ですが車内で聞いている人はいませんし、高速道路で外に漏れることもありませんので音痴でも平気です。テンポが速く間奏が短めな曲がお勧めです。このような曲をYouTubeに集めておくと眠くなった時重宝します。
 もう一つの冬の積雪ですが、積雪時の運転そのものより、事故による渋滞や通行止めのほうがやっかいです。一度高速に乗ってしまうと後戻りできません。巻き込まれると2時間以上かかることもありました。以前より積雪は少なくなりましたが、出勤や帰宅前に情報を得ていないと大変です。昔は天気予報や交通道路情報しか参考にならず、リアルタイムに渋滞や通行止めを把握することが難しかったですが、ここでもやはりスマホが活躍します。iHighway(https://ihighway.jp/pcsite/)というNEXCOグループが運営しているサイトに自分の通勤ルートとメールアドレスを登録しておくと、その区間で起こった最新の交通情報(渋滞・通行止め・速度規制など)をリアルタイムにメールで知らせてくれます(Fig.2)。運転前にスマホにメールが届いていれば、事前に察知し帰らずに留まったり、新幹線に切り替えたりできます。今年もこれで何回か難を避けることができました。
 これから自動運転技術などさらに進化すると、ますます快適になるのではと期待しているところです。新潟から長岡に通っている先生方も意外と多く、お互いに便利な情報を共有できると良いなと思います。皆様安全で快適なカーライフを。

Fig. 1 現車の走行距離。給油なしで1000q走ります。

Fig. 2 NEXCOで登録しているルート

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旅は道連れ  小林由夏(長岡中央綜合病院)

 初めて海外に行ったのは大学卒業旅行のエジプト・ギリシャです。プランを見比べて、8日間のツアーに決定。機内食に興奮し、パルテノン神殿も、スフィンクス、ピラミッドももちろんすごかったですが、朝3時のモーニングコール(エジプト観光の朝は早い)や、早朝にホテルの庭に鳴り響くコーラン、激甘のケーキ、もちろん激しいdiarrhea(一日観光キャンセルして寝ている。)など、なにもかもがカルチャーショックでした。そのときの友人と、その後も年に一回くらいの旅行を続けています。
 「類は友を呼ぶ」の喩え通り二人の好みと行動パターンは似ています。
 たとえば、大分に行くとなれば、人気の別府や湯布院には目もくれず、国東半島の寺巡りです。見たいものはすべて見るべし!の合言葉で、富貴寺の国宝阿弥陀堂(国内に三カ所しかない阿弥陀堂!)、両子寺(仁王の山門必見!)、熊野磨崖仏(崖に刻まれた不動明王)などの見どころはもちろんのこと、途中にある真木王堂もすかさず立ち寄る。いやーここの仏像すばらしい、と感激することしきりです。京都の寺巡りでは一日17カ所回ったこともありました。
 朝は「お早いお発ちですね」と言われながら8時前にはホテルを出発し、昼は基本的にコンビニのおにぎりをお寺の庭や公園で食べます。ホテルにチェックイン時間が遅れることを電話でお詫びしながら、日が暮れて周りが暗くなるまでひたすら動き回る、まるで修行のような旅です。
 二人の旅行は大体9月、計画をたてるのは3月〜4月です。私が言い出して彼女の希望を聞き、ルートを検討して宿や飛行機の手配をします。とある年にはこんなやりとりで決定しました。
 「今回どうする?佐賀とかどう?」「え、佐賀ってなにがあるの?」
 「唐津城とか、呼子のイカとか……。」「うーん……。」
 「吉野ヶ里遺跡もあるよ。」「え!吉野ヶ里遺跡!?私、吉野ヶ里行きたかったんだよねー。佐賀にしよう!」
 後で話したら、そのことを彼女はまったく覚えていませんでした。
 現地では朝から回りたいので、だいたい羽田空港のホテルで前泊します。このときは6時50分発の北九州空港行の便で飛ぶ予定で、第2ターミナルチェックインカウンターに着いたのが6時25分でした。いつものようにタッチアンドゴーのQRコードで入ろうとしたら、普通は緑になるはずのランプが真っ赤に点灯します。
 私たちのもとに係員がやってきました。
 「お客様、もう入れません。」「そんなこと言わないで入れてくださいよ。」「お客様の飛行機は、もう出ています。」
 私たちは2人とも6時20分出発の便を6時50分と思い込んでいたのです。そりゃ、入れないわ。
 なんてことだ!「次の便の空席はありますが……、10時40分ですね。」
 「冗談じゃない、こんなところに4時間もいられないよ!」と彼女は手に持ったiPadで検索を開始します。
 「もう一つの航空会社に6時55分の佐賀空港行がある!」
 それからの私たちは素早かった。
 荷物を抱えて第1ターミナルに猛ダッシュ。ちなみに二人ともコロコロ(キャリーケース)嫌い派なので、担いだ荷物の重いこと、重いこと。やっとたどり着いた第1ターミナルには、何ということでしょう、問い合わせ窓口に長蛇の列が。
 「すみません!」私は近くを通った、係の人をとっさに呼び止めました。
 「佐賀行きに乗りたいんです。」「あと20分で出る便ですか?」
 緊迫した空気がみなぎります。
 「空いていますが、間に合うかどうか……。」「走ります!」
 「現金しかお受付できませんが……。」「ここにあります!」
 二人ともキャッシュレスの波に乗り遅れること必至の現金至上主義で、お出かけ時には「二人の財布」としてある程度の現金を一つの財布に入れ、食事、交通、入場料などの必要経費はそこから出しています。昨晩、初日だからと多めに入れておいたのが大正解でした。
 セーフティーチェックを駆け抜けて、無事に搭乗できたときには、後悔と安堵といつかこれをネタにしてやる、という思いが込み上げてきたのは言うまでもありません。ここで使えてよかった。
 佐賀空港に着くと、予約してあった北九州空港のレンタカー会社に電話し、キャンセルすることを説明、代わりに佐賀空港のレンタカー窓口でかけあいましたが、「空港のレンタカーは事前予約した分しか準備していない」という説明でした。困って次に駅前店に電話すると、なんとか無事一台借りられる、と。そんな交渉をする私を横に、相棒は「はあー、かわいい空港やねえ。」と折り紙でできた傘の飾りを楽しんでいたりします。
 とりあえずバスに乗って佐賀駅に、そしてレンタカーで旅の最大の目的、吉野ヶ里遺跡に。これがまた、9月と言うのに30度を超える猛暑日でした。吉野ヶ里に行った方ならおわかりかもしれませんが、まあ、日影がない。照り返し強烈。広い!暑い!しかし、歴史好きの二人は一生懸命見ました。物見やぐらも主祭殿も甕棺墓列も。とにかく見たいものはすべて見る!午前中でへとへと。
 午後からは唐津城へ。上まで登ると唐津市内が一望できます。
 「あそこが、これから行く虹の松原だよ。」「わー、きれい、素敵だねえ。」
 実際に行ってみると、クロマツの林の中の一本道をただただ走る、のみ。海は見えず。松原って、上から見ていた方が楽しいものなんですね。
 こんな珍道中もコロナ禍で昨年、今年とお休みの予定です。早く前のように出かけたい、次は軍艦島かな、米沢もいいね、壺畑見てみたい、と夢を語る二人でした。やはり、旅は道連れ世は情け、です。

旅の一コマ(著者と相棒、足立美術館にて)

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予想外の一日  佐藤真央(長岡中央綜合病院)

 はじめまして。長岡中央綜合病院研修医の佐藤真央と申します。研修医としての生活もあっという間に1年が過ぎ2年目に突入し、現在は進路を決めきれずに悩む日々を過ごしています。研修医になってからはコロナの影響が大きく、これといったイベントもなく過ごしてきたので原稿依頼を頂いたものの何を書いたらよいか……と考えていましたが、先日研修中に滅多にない経験をしたので、その日の出来事について書くことにします。
 2021年某月某日、この日私は研修の一環として長岡消防署で1日救急車同乗実習に参加していた。救急要請で出動し病院へ傷病者を搬送した帰り道の救急車内に、ある連絡が入った。「山菜採りをしていた方が気分不良で動けなくなっている。」そのまま現場へ向かうことになった。到着すると救助隊や指揮隊の車も来ていて、隊員は15名程度集まっていた。この時点で、それまでに経験した出動とは明らかに異なる雰囲気を感じた。傷病者の姿は見えず、四輪駆動の車で斜面を上り始めたが、車はすぐに止まってしまい、車から降りて坂道を上った。その日は新潟にしては珍しいほどの晴天で、普段運動不足の私にとっては、上下長袖の防護服、長靴、ヘルメット、N95マスクを身につけての登山は、まるで部活動のトレーニングを思い出させるような道のりで、時々マスクをずらしながら息を切らして歩いた。山の中に入っていく小道を進み、途中からは道もなくなり、ちくちくと刺さってくる草木をかきわけて急斜面を登ったり、沢を渡ったりしての捜索となった。私は、父の実家が佐渡ということもあり、幼少期から山や沢を上ったり下ったり道なき道を探検した(させられた)経験のおかげか、何とかついていくことができた。
 どうやってここまで来たのだろう、と私からすると感嘆してしまうほどの山の中で傷病者を発見した。それまでに聞いていた情報から熱中症かなと予想していた私の考えは外れ、バイタル測定・モニターを確認すると急性心筋梗塞の所見を認めた。ルートを確保したところで県警ヘリが上空に到着し、ものすごい風と音で隣にいる人と話をするのがやっとという状況で、「ヘリに同乗してください。」と伝えられ、安全帯ベルトのようなもの、ゴーグル等を装着した。持ち運べる医療資源は限られており、AEDを先に運んで頂き、静注用のアドレナリンを数本握ってポケットにしまった。ヘリは少し離れた位置の上空でホバリングして待機しており、その真下の位置まで誘導され、金具を装着した。「ここ(金具部分)をつかむと危ないのでここ(ベルト部分)をつかんで。」「一人で上がってもらいます。」と言われた数秒後には私はお腹から吊り上げられ、体が地面に水平になって宙を上っていた。指示通りベルトを握りしめていたが、眼前に広がる木の枝がどんどん拡大してきたため、無理やり手で払いのけた。ヘリの大きな音で何も聞こえず訳が分からなかったが、足をあげてなんとかヘリの中に乗り込んだ。その後、患者が介助されながら吊り上げられてきて、病院近くのヘリポートへ向かい出発した。救急隊員はヘリに同乗せず、急変した場合は自分で対応しなくては、と数日前にスタッフとして参加したばかりのICLS※を何度も頭の中に思い浮かべつつ意識、バイタルの確認を続けた。幸い急変は無くヘリポートに到着し、救急隊の方に会えて少しほっとしたのを覚えている。その後は救急車で当番病院に搬送し、救急外来にバトンタッチして消防署に戻った。このことは消防署内でも珍しい出来事だったらしく、いろいろな方から「署内でもヘリに乗った人はほとんどいないよ。」などと声をかけて頂いた。その時の状況がiPhoneの高画質な映像で記録されており、見せて頂いた。晴天と青々とした山の緑の中、体が水平に近い状態で吊り上げられていく私は非常に不格好で、木の枝と戦う姿も映っていた。一方、県警ヘリの隊員の方は患者を支えながら体を起こして吊り上げられており、テレビで見たことあるような救出の映像であった。何はともあれ、思いがけず非常に貴重な経験をさせて頂いた。今回の経験から、病院の外でも多くの方が患者を救うために尽力していることを学び、研修医であっても急変時に対応する力は必要だと強く実感し、これからの研修生活に対し身が引き締まる思いとなった。
 まだまだ未熟な私ですが、これからもどうぞ宜しくお願い致します。
 ※救急医学会主催の医療従事者のための蘇生トレーニングコース

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巻末エッセイ〜〜散る紅葉〜良寛辞世の夢 福本一朗(長岡保養園)

 「散る桜 残る桜も 散る桜」は良寛辞世の句とされていて、太平洋戦争末期に尊い命を国に捧げ、“今日生き残っても明日は自分の番”として海に散った神風特攻隊の若者達の辞世でもありました。
 本来は“例え生き残ったところで、それもまた散りゆく命、生者必滅”と諭す禅語でしょうが、禅の高僧であられた良寛が読まれた最後の句にしてはあまりにも平凡すぎると常々疑問に思っていました。
 確かに良寛の最期を看取った人々は誰もこの句を記しておらず、伝承や良寛歌集にも見当たりません。そのため残された反古に書かれていた古句が良寛逸話に紛れ込んだのではないかという研究者もいます。
 これに対して死期の迫ってきた良寛が40歳年下の恋人貞心尼の手をとり「いついつと 待ちにし人は 来たりけり 今は会見て 何か思わん」と詠まれ、耳元で「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」とつぶやいてお亡くなりになったことは、貞心尼歌集「蓮の露」に書かれているので、確実な辞世の句とされています。
 ただこの句は谷木因という俳人の「裏散りつ 表を散りつ 紅葉かな」という句を踏まえて、臨終の良寛が詠まれたものを貞心尼が後に写したそうで、「この歌は良寛和尚ご自身の歌ではないが、師のお心にかなう尊いものだ」と、良寛と同じ74歳で成仏した貞心尼は述べています。
 新潟市古町考古堂の“良寛てまり庵”には良寛関連資料がよく整理保存されていますが、ある日貞心尼往来の中に「散る紅葉 残る紅葉も 散る紅葉」という句を見つけました。
 それは良寛の秋の命日墓参に、閻魔堂から信濃川を渡って和島村に向かう貞心尼が、中間点の与板町蔦都の遠藤七之助庄屋方の紅葉の下で茶を振る舞われた時に残されたものでした。
 “良寛様、貴方は私を置いて先に散って逝かれるのですね、私も遅かれ早かれあなたのところに参ります、その時にはまたお逢いしとうございます”との愛おしい思いに打たれて読まれたものと、長年の疑問が氷解したところで夢から覚めました。

貞心尼と良寛

五合庵の紅葉

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