長岡市医師会たより No.499 2021.10


もくじ

 表紙絵 「山本山から」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「追想(T)」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「魅惑のラプサンスーチョン…と 燻製のはなし」 吉田耕太郎(長岡中央綜合病院)
 「医師会ゴルフ」 荒井義彦(荒井医院)
 「蛍の瓦版〜その66」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「長岡ブルーライトアップ 活動を再開します」 八幡和明(長岡中央綜合病院)
 「巻末エッセイ〜桜鱒と山女」 江部達夫



「山本山から」 丸岡 稔(丸岡医院)


追想(T)  木村清治(いまい皮膚科医院)

 長岡市医師会事務局の方々には日頃色々とお世話になっており、厚く御礼申し上げます。
 この度の寄稿を機に私が長岡の地を踏むまでの前半生を思いつくままに振り返ってみました。
 私は昭和14(1939)年、東京の生まれですので、第二次世界大戦の東京大空襲を経験しました。当時は新宿に住んでいましたので、おぼろげながら、空襲の時の様子が記憶に残っています。自宅の庭に防空壕が掘られていて、防空頭巾を被って壕の中に家族全員入りました。住宅の電灯は全て消して、米軍機に見つからないようにし、声を潜めて数時間暗い壕の中で過ごしました。幼心にも怖かったです。我が家には幸い焼夷弾は落ちませんでしたが、周辺では爆弾が落ちてピカピカと光っているのが判りました。この空襲で死者だけでも10万人を越えたといわれています。我が家族はこの空襲から逃れるため、両親の故郷である兵庫県の豊岡へ疎開しました。当時、私は6才でした。いわゆる疎開列車は超満員で座席には座れたものの身動きできず、しかも長時間だったので、窓から小用を足しました。
 疎開先の豊岡市は兵庫県の北部で日本海に比較的近くて、人口は4万人台、周囲を山に囲まれた盆地にあり、冬期は新潟ほどではありませんが、雪が降り積もります。自宅の屋根の雪下ろしをしたこともあります。夏は蒸し暑く、今のようにエアコンはなく、あっても扇風機の時代で、毎年食欲低下で夏痩せしていました。豊岡は戦前は柳行李が特産品でしたが、戦後は「鞄の町」といわれるほど、鞄の製造が盛んでした。近くに城崎温泉があり、その中間にコウノトリの生息地があります。
 戦後の生活、特に食生活は粗末なものでした。例えば「いなご」の炒ったものや「さつまいも」の蔓なども食べました。学校給食は脱脂粉乳とコッペパン。衣服、下駄、傘、時計などは修理して長持ちさせていました。食生活に関して付け加えれば、昭和30年頃になると、カレーライスに入っている程度の肉が食べられるようになりました。ただ、豊岡は日本海に比較的近かったので、海産物には恵まれていたと思います。行商人のおばさんが「松葉ガニ」を背負って売り歩いていました。1杯100円程度だったと思います。これがおやつになっていたこともあります。市内の移動手段は徒歩か自転車が主で、自家用車は皆無でした。医師はスクーターで往診することが多かったようです。戦後の混乱期のため、私は幼稚園には行きませんでした。小学校までは徒歩で約30分、中学校は約15分、高校は自宅の隣でした。私の卒業した豊岡高校は長岡高校よりやや歴史が浅いですが、創立100周年は超えており、山陰地方では伝統校です。卒業生には私より1学年下に冒険家の故植村直己がいました。面識はありませんが。中学や高校の頃は隣の高校の卓球台を借りて近所の仲間と卓球をしたり、部活の柔道の練習を見物したりしていました。高校の裏手には神武山(昔の城跡)という小高い山があり、そのスロープを利用して冬はスキーを楽しんだりしました。又、高校時代、昼休みには自宅に帰って食事しました(閉まっている門扉を乗り越えて……)。それから、小・中学校の頃、忘れられない思い出があります。一時期だけでしたが、「くろやき」を紙に包む作業を手伝ったことがあります。通称「くろやき」とは棕櫚(しゅろ)の毛、茄子(なす)の蔕木(へた)、木香(もっこう)の根などを焼いて粉状にしたものを焼酎などで溶かして服むものですが、実際に服んでみて、決して服みやすいものではありませんでした。祖父はこれを「家傅血の道薬」と称して種々の病の患者さんに投薬していました。いわゆる漢方薬で、大正末期から昭和初期にかけて使われていたようです。
 当時まだ西洋薬が現在のように普及していなかったためです。因みに私の手元には「本草綱目」(世界記憶遺産)が保存されています。祖父はこれで少し漢方を勉強したのではないでしょうか。祖父はこの「くろやき」で家計を支えていました。患者さんの中には故池田勇人首相もいました。天疱瘡だったらしく、この「くろやき」を服んで症状が快方に向かったといって、広島の実家から酒が送られてきたという話を聞きました。その祖父は私が中学1年の時、88才で亡くなりました。当時としては長寿だったと思います。
 父は祖父の勧めで医師になったとのことです。
 父が医師だったので、私の兄妹4人のうち1人ぐらい医者になってもいいかなと漠然と感じていたので、医学部を志し、1浪後、鳥取大学医学部へ入学しました。(つづく)

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魅惑のラプサンスーチョン…と 燻製のはなし  吉田耕太郎(長岡中央綜合病院)

 内容はなんでもいいとのことで、同期は飼い犬のことなどを書いていたと聞き、私も休日にやっていることについて書きたいと思います。
 最近燻製を始めました。ツイッターで自家製スモークサーモンを作っている動画を見て自分も作ってみたくなり、早速アマゾン川から3000円くらいの燻製機を購入。ホームセンターで燻製用の松やら桜やらのチップを購入しゴールデンウィークはビール片手に孤独な燻製グルメをしておりました。
 まずは何を燻製するか。サーモンは勿論やるとして、スマホで調べると煮卵、チーズ、サラダチキンが定番とあります。煮卵は味玉の方が旨いらしい。味玉を作るのは面倒くさいのでスーパーで出来合いのものを購入。刺身のサーモンと6Pチーズも購入。いぶりがっこは以前東北フェアで買ったとき美味しかった記憶がありたくあんも購入。あとは適当にタン塩などを買った気がします。
 人気のない所で燻製開始。完全に不審者ですね。自撮り画像を同期に送ったら「放火現場っぽい」などと無慈悲な返事が。燻製チップはブロックタイプのものが簡単でおすすめです。着火は当初携帯バーナーでやろうとしましたが上手く着火できず。火がついても煙共々すぐ消えてしまう。これはいけない。辺縁だけでなく面に着火する必要があり、ガスコンロで一気に着火すると上手くいきました。おすすめです。
 購入した燻製機は2段の網があって金属製の囲いがついている簡易なもの。2段の網に購入した食材を適当に並べてあとは燻製するだけ。しかし定期的に見ていないと煙が消えていることがあり、その都度再着火を必要とするため、その点は面倒くさいかもしれません。ビールなど片手にボケっと煙の番をする休日。幸せとはこういうものなのかもしれない。
 出来上がりは見た目はともかく(サーモン以外全部茶色い)味はそれなりに満足のいくものでした。しかしいぶりがっこ愛好家の某オーベンの先生曰く、いぶりがっこの製造過程はかなり手がこんでおり、私の作ったものはナンチャッテいぶりがっこらしい。調べると4日程度は燻製が必要とのこと。さすがに次の長期休暇すべてをつぎ込んでいぶりがっこ作成に費やすのはちょっと……。先生曰くマシュマロを燻製するのも美味しいらしい。次はマシュマロを試そうと思います。
 燻製の話が終わってしまいました。まだ900字。では、ラプサンスーチョンの話です。
 ラプサンスーチョン(正山小種)とは松の煙でいぶした中国福建省に伝わる紅茶の一種のことで、好きな人は好きな、クセになる独特な風味が特徴です。コアなファンが一定数いて、私もその一人。大学時代から勉強のお供にこうした怪しい外国の茶を飲むのが趣味で、その辺の輸入食品店に赴いてはよくわからない外国語が書かれた茶葉を購入して飲んでおりました。ラプサンスーチョンの存在を知ったのは昨年、研修医1年目の夏でした。ツイッターで(またツイッターか)フォローしている紅茶好きの漫画家が絶賛しているのを目撃し、これは絶対飲まなければと休日に近所の輸入食品店に赴きました。1軒目、2軒目、3軒目……どこにも売っていない!。仕方なくネット通販で購入、勝手に実家を巻き込んで試飲会としました。
 淹れてみると……これは凄い香りだ!紛れもない正露丸の香りだ!こいつは凄まじいハズレ茶葉を購入してしまったか……。失望と家族のブーイングを背にとりあえず飲んでみると、これが意外とおいしい!香りに慣れると何杯でもいける!むしろこの香りがクセにさえなる!。親父を除いて実家では大ウケ。やはり人は選ぶらしいがハマる人はとことんハマるようで、以来実家で時々飲まれるようになりました。
 ラプサンスーチョンの発祥について調べたところ諸説あるようですが、17世紀、清の時代、イギリスに輸出する紅茶製造の効率化を目的として、茶葉乾燥のために松を燃やしたところ偶然できたもののようです。松のチップは今丁度あるにはあるけれど……こちらもいぶりがっこと同様で製造が非常に面倒くさい。自家製ラプサンはさすがに難しそうです。
 いかがでしょうか、ラプサンスーチョン。正露丸風味なんでしょと飲まず嫌いせずに一度お試しあれ。意外と慣れればハマること請け合いです。
 “ぼん・じゅ〜る”の原稿、こんな感じで大丈夫でしょうか……。楽しんで読んでいただけましたら幸いです。

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医師会ゴルフ  荒井義彦(荒井医院)

 去る令和3年9月19日、台風一過の快晴の中コンペが開催されました。昨年は新型コロナウィルスの流行のため、残念ながら中止の判断をせざるを得ませんでしたが、各位から開催要望が寄せられたことと、アウトドアスポーツのため、感染機会は希との判断で2年ぶりの開催にこぎ着けました。会場は例年通り長岡カントリー東西コースを使用し当初5組の予定でしたが、結局3組12名の参加で行われました。競技方法はハンディ戦でなく例年通り12/18ペリア方式で行われ、順位は別表のとおりでした。今年は別会場での表彰式は行わず、競技終了後カントリーの食堂の一角で賞品授与式を行い解散となりました。以上が幹事報告です。後半は優勝記になります。
 最初に、現時点のコンデションですが、なかなか波に乗れないシーズンを過ごしております。コロナ禍で何かと集中できないこともありますが、自分の体調の方も万全でなく、今年は耳鼻科、整形外科と立て続けに受診し現在も歯科治療中です。特に整形外科疾患は、全身の発熱を伴わないのに、偽痛風発作の診断で、私の診療所にも高齢者で熱を出し、原因が偽痛風発作だったことは時折経験していただけに、まさか自分が罹患するとは二重にショックでした。この場をかり主治医の各先生に御礼申し上げます。
 当日は晴れ、暑くも寒くもない絶好のゴルフ日和でした。「大叩きしたら恥ずかしいなあ」との思いがありましたが、気分を高めるため、ピンク系のウエアーを着て出かけました。スタートは3組目で同伴者はゴルフのこころの師である(勝手に想っております)T先生、一見強面で怖そうですが実は心優しいK先生、もくもくとプレーに専念する体育会系のT先生と同組でした。このちょうどよい緊張感が心地よかったのと、カントリーで公式戦が行われていたため、ピンの位置が難しく、グリーンも速く同伴の皆さんもパットに苦労していたため自分だけ落ち込むこともなく、いつもは出てくる8ちゃん(8打)、9ちゃん(9打)は、今回は出てこないで、強運に恵まれ優勝につながりました。前々から、一回だけは歴史ある優勝カップに名を刻み込むことができたらと常々思っていただけに、大変名誉な事と喜んでおります。
 このコロナ禍でゴルフができることはストレス解消上何事にも換えられません。今後も身体の許す限り精進し続けたいです。私のように上手くもないのに時に優勝できるのがゴルフの醍醐味です。今年は松山選手のマスターズ制覇、稻見萌寧選手のオリンピック銀メダル獲得の快挙もあり国内から若手ゴルファーがどんどん育ってきており、ゴルフブーム真っただ中ですが、当医師会では残念なことに若手や女性医師の参加が殆どありません。この拙文を見てゴルフをやりたい先生がおられましたらご一報ください、一緒にやりましょう。なんせ仕事ではOBは叩けませんが、ゴルフ場では2打罰で済みます。最後にセッテングをしていただいた医師会事務局の皆さんに感謝申し上げます。
 ●長岡市医師会会員ゴルフ大会
 令和3年9月19日(日)
 長岡カントリー倶楽部
 優 勝:荒 井 義 彦
 準優勝:大 塚 武 司
 3 位:田 島 健 三
 4 位:吉 田 正 弘
 5 位:山 井 健 介
 6 位:田 辺 一 彦
 7 位:田 中   弘
 8 位:川 嶋 禎 之
 9 位:河 路 洋 一
 10 位:西 村 紀 夫
 11 位:野々村 直 文
 12 位:田 中 政 春

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蛍の瓦版〜その66   理事 児玉伸子(こしじ医院)

フェニックスネット

1.はじめに

 今回は、今年の4月には小千谷市魚沼市医師会の小千谷市地区が加わり、名称からも長岡を除き“フェニックスネット”として、運用範囲を拡大した長岡版ICT(Information and Communication Technology)の今までの軌跡をまとめてみました。
 9月現在の参加機関は259件あり、医科57・歯科10・訪問看護20・薬局46・介護関連126となり、長岡市は208件に対し小千谷市は51件です。登録者数は約2万5000人あり、そのうち個人情報に関する同意書まで提出された方は8600余人です。長岡市でもホームページや市報やポスター等にてご紹介いただき、個人での申請も1246例ありました。

2.始まり

 フェニックスネットの始まりは平成23年に、故小山剛さんらがこぶし園で介護職を対象として記録と情報共有を目的に開発し、試用を繰り返しながら改良を進めてきたソフト“TEAM”です。平成26年度からは、長岡市も加わり国の助成も得て、栃尾と越路小国両地区で在宅患者を対象に、医療と介護の情報共有のモデル事業を2年間行ってきました。同年には長岡市医師会でも在宅医療連携協議会を発足し、ICTを用いた情報共有や在宅医療連携に向けて検討を開始しています。

3.長岡在宅フェニックスネット

 先のモデル事業の経験と器材を基に、平成26年度に制定された“地域医療介護総合確保基金”を活用し、運用を開始されたのが、“長岡在宅フェニックスネット”です。平成27年度に市内12か所の訪問看護ステーションと診療所間の情報共有から試験運用を始め、参加機関と対象を増やしていきました。訪問看護ステーションでは日々の看護記録と報告書作成にTEAMを活用し、その情報を診療所側も共有するしくみで、相互の情報交換も可能です。
 多職種が参加することから、平成28年3月には、まず長岡市・長岡市医師会・長岡市訪問看護ステーション連絡会(後に協議会へ変更)の三者によって“長岡在宅フェニックスネット協議会”が発足しました。当時は2180名が登録され、登録医療機関は22件でした。同年5月には、長岡歯科医師会・長岡市薬剤師会・長岡地域介護支援専門員(ケアマネージャー)協議会の3団体が協議会に加わっています。さらに11月からは、救急隊員による活用が開始されていますが、これは全国的にも珍しく画期的な試みです。この時点で登録者数は5000人を超えています。
 協議会発足から1年経った平成28年3月には、リハビリテーションの職能団体である新潟県理学療法士会・新潟県作業療法士会・新潟県言語聴覚士会が加わり、登録者数も6600余となっています。登録機関は109あり、居宅介護42・医科35・歯科7・訪問看護15・薬局10でした。

4.長岡フェニックスネット

 “長岡在宅フェニックスネット”に加え、病院間で医療情報の共有も行うものが“長岡フェニックスネット”です。これは長岡市医師会が、平成29年度に総務省が募集した“クラウド型EHR(Electric Health Record個人健康記録)高度化補助事業”に応募し、採用されたもので、本医師会には平成30年4月に約6千4百万円の補助金が交付されました。クラウド型EHRシステムとは、個人の医療情報等を自動的にサーバーに集約・共有し、その情報を効率的に管理・活用するもので、災害時にも対応可能なものです。
 当初は長岡赤十字病院と長岡中央綜合病院とサーバーを結び、予め同意を得た方々の検査・処方情報を他の特定の端末からも利用可能とする計画でした。しかし、各機関から登録された個人の特定(いわゆる名寄せ)作業が想定以上に難航し、新たな費用負担を求められる等の問題を抱えています。

5.最後に

 高齢者が増加する2025年問題に備え、政府では限られた医療介護資源を効率よく管理・運用するための手段として、IT(Information Technology)の活用を目指しています。一般にITを活用することで情報の管理活用は容易となりますが、新規の導入には少なからぬコストと労力を必要とし、導入以降もシステムの維持にコストが掛かります。そのため厚労省では、診療報酬上の優遇点数を設け算定要項にIT化を加える等の施策で、医療介護現場におけるIT導入を促進してきました。しかし、今まで他の地域で用いられてきたICTは、大手ソフト会社の開発品が多く価格も高価で現場の実情に副わず、補助金の終了後も自主的に活用されているものはほとんどありません。
 一方、当医師会が長岡在宅フェニックスネット時代から育んできた現在の“フェニックスネット”は故小山剛さんが介護現場で育てた“TEAM”を土台としています。特に医療と介護の要となる訪問看護ステーションでは、本来の目的である記録と情報共有に広く活用され、登録者数を増やしています。また長岡市からも全面的な応援を受け、救急隊の参加は全国的にも珍しいことです。市民と会員の皆様のお役に立ち続けられるように、大切に育てて欲しいものです。

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長岡ブルーライトアップ 活動を再開します  八幡和明(長岡中央綜合病院)

 昨年からの新型コロナウイルス感染症(COVID-19)蔓延にともない多くの学会や勉強会が中止や延期されたり、Webを使ったオンライン開催に変更されたりしてきました。私たちにとっては、わざわざ学会場に出かけなくても参加できるので好評のようでした。しかし一般市民への啓発活動はオンラインでの指導は難しいため、多くの活動が中止されたままになっています。特に糖尿病は患者さん自身の食事や運動などの治療に対する取り組みが大切で、そのためにも療養生活指導が治療の重要な位置を占めるものです。私たちは今まで糖尿病患者さんのための「糖尿病を知るつどい」「アオーレで知ろーれ糖尿病」「糖尿病ウォークラリー」などを毎年開催してきましたが、昨年度すべて中止となり、今年も感染拡大が強まる中で開催が危ぶまれていました。そのこともあってか最近コロナのせいでどこにも出かけられず運動不足になった、家にいるのでつい間食してしまい体重が増え、驚くほど糖尿病の悪化を招いている人をよく見かけるようになりました。飲み会が減ったけど家飲みで余計酒量が増え肝障害や脂肪肝の悪化を招いている人もおられます。
 やはりこのまま手をこまねいているわけにはいかないと行動を起こすことにしました。啓発活動の手始めとして世界糖尿病デーに呼応してブルーライトアップを計画しています。糖尿病デーとはインスリンを発見したバンティング博士の誕生日である11月14日に合わせて世界中のモニュメントを青くするイベントです。エッフェル塔、ナイアガラの滝、万里の長城などが青くなります。日本では東京タワー、スカイツリー、鎌倉の大仏などで実施します。新潟県では万代橋、ネクスト21、佐渡汽船、そして長岡ではアオーレ長岡、長生橋、長岡中央綜合病院などでブルーライトアップを計画しています。特に今回から“偏見にNo!と銘打って糖尿病に対するいわれなき偏見と誤解をとくアドボカシー活動を展開していきます。11月は糖尿病の月です。長岡のブルーライトアップを多くの市民の皆さんに紹介して共に糖尿病と戦ってください。

「長岡中央綜合病院中庭 ブルーライトアップ」

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巻末エッセイ〜桜鱒と山女 江部達夫

 前回(四月号)川鱒(桜鱒)の旨さが、関川村が私の第二の故郷となる切っ掛けになったお話をした。山や川の遊びが好きな者には、関川村は大変魅力のある地だ。村を流れる川には鱒と山女が棲み、今回はその関係についてお話しよう。
 関川村は岩船郡にあり、新潟県内では最も広い面積があるも、九割は森林で、日本の林業政策の変更により手入れもされず、放置されたままの杉林がたくさんある。それでもまだ日本古来の山の自然の姿であった?林があちこちに残っている。この?林が動物たちや人々に大自然の恵みを与えてくれている。
 日本は戦後の復興のため、成長の早い杉をたくさん植え付けようと、?林を伐採した。保水力のある?林に変わり、保水力のない杉林になったことから水害も起き易くなった。
 昭和四十二年八月、大雨で関川村は大水害に。私が通う病院も二メートルの浸水に。江戸時代から続く古い民家も流された。
 村を流れる荒川には大きな支流が二つある。大石川と女川である。この川の上流には?林が残っており、流れてくる水もきれいだ。川鱒を頂いた川漁師から聞いた鱒の上る川である。水源の?林は山菜の宝庫だ。
 村の病院に勤務してから一年経った春、病院での仕事にも慣れ、日曜日は朝の中に入院患者さんを見て回れば仕事はなかった。病院の一キロメートル上に大石川があり、流れにはどこにでも山女が潜んでいそうだった。
 山女や岩魚の餌釣りは高校生の頃からしていたので腕には自信があったが、雪解け水で冷たく、魚はさっぱり追って来なかった。もう止めようとしていたところ、投網を打ちながら川岸を上って来る中年の男がいた。腰に下げた魚籠(びく)を見ると、形の良い山女が二十匹はいた。
 夕食用に、売ってくれないかと尋ねると、売り物ではないと。食べたかったら今晩雲母本館に来ればよいと。病院から五分とかからない所にある温泉旅館だ。
 夕暮れになると山女が食べたくて早速出かけた。通されたところは広い台所の囲炉裏端、川で出合った男が炭火をおこし、串刺しの山女を焼く支度をしていた。この男、村上高校の教頭、国語の先生で、この旅館の婿さんであった。私が病院の医者であることは分かっていたのだと。
 焼き上がりの山女を肴にコップ酒、山菜料理も運ばれ、たちまちミニ宴会に。小学生の女の子がそばに座り、昨年は有り難うございましたと。足の怪我を治療してあげていた。
 この先生山女釣りも達人であると。雪解け水も減り、水温の上がり始める五月中頃から、山女の毛鉤釣りを始めると。流れの中でどこに山女が潜んでいるか手に取るように分かるという。一か月後大石川の釣りの案内をしてもらう約束が出来た。
 ところで渓流の女王とも呼ばれている山女、桜鱒の上る大石川には雌の山女はいないという。桜鱒は春から初夏にかけて海から川に登って来て、秋まで川で過ごし、鮭の産卵の少し前十月に産卵する。海で脂をたくさん蓄えてきた桜鱒、その脂で卵は成熟するのだ。桜鱒は雌が多く、雄は極めて少ない。産卵時に精子をかけるのは山女の仕事である。一匹の桜鱒の周りに二十匹は越す山女が群れている光景を目にした。
 無事に生まれた山女の子、一年半程川で過ごし、十二センチ位に成長すると銀色に光る銀毛と呼ばれる個体になるのがいる。銀毛は川を下り海に。二年後には大きな桜鱒となって川に戻って来る。銀毛になるのは雌の全てと雄の一部、鱒が上る川での山女は全て雄だ。山女は王様だ。秋にはおなかに精巣が二つある。

 群れなして鱒に群がる山女かな

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