長岡市医師会たより No.500 2021.11


もくじ

 表紙絵 「外灘の夜景(上海)」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「Bonjour」 澁谷裕之(エールホームクリニック)
 「クルージングの旅」 石川紀一郎(美園内科クリニック)
 「富山の魅力」 桜沢 有(長岡中央綜合病院)
 「追想(U)」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「蛍の瓦版〜その67」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜父と祖父と ついでに私」 江部佑輔(江部医院)



「外灘の夜景(上海)」 木村清治(いまい皮膚科医院)


Bonjour  澁谷裕之(エールホームクリニック)

 いつも、ありがとうございます。エールホームクリニックがなんとか1周年を迎え、毎月、愛読している“ぼん・じゅ〜る”から原稿依頼が来ましたことを大変光栄に思います。“なんとか1周年”と書きましたが、素直な気持ちです。どんな状況でも、飄々とものごとを進めることにはそこそこ自信はありましたが、やはり時代が時代で、今もですが、1日1日を乗り越えることに全力な毎日です。幸せなことに、昔から人にだけは恵まれていて、有能なスタッフがどんどん集まり、またたくさんの方々からご支援をいただくことで、もがきながらですが前進することが出来ています。今回は、ゼロから、まさに理念しかないエールに人生をかけて飛び込んでくれた5人の先生方を紹介させてください。みんなで医師会旅行に参加できる平和な日を夢みて、頑張って行きたいと思います。今後とも、よろしくお願いいたします。
 
 内科の伊藤朋之です。長岡市に住んで16年目です。そのうち約14年間は長岡赤十字病院に勤務していました。長年の病院勤務にピリオドを打ち、2020年の開院からエールホームクリニックで働いています。当クリニックでは、スタッフ同士が互いに信頼ある仲間であり、共に新しいことにチャレンジし続けています。毎日がワクワクの連続です。
 おかげさまでクリニックは今年の10月で1周年を迎えることができました。地域の皆さまにとって心の拠り所になるような医療を提供できるよう、ひきつづき力を尽くしていきたいと思います。
 
 皮膚科の苅谷直之です。2021年4月よりエールホームクリニックに勤務しています。2017年から4年間は実家である横浜市の皮膚科医院で仕事をしていました。そんなおり、渋谷先生から当クリニックへのお誘いをいただきました。「前例なきをやる」「みんなでワクワク」のコンセプトにイチコロとなり、あっさり参加を決めました。昨年10月の開院から参加したかったのですが、実家の都合もあり今年になりました。
 いざ参加してみると、毎日がジェットコースターのようで刺激的です。今後もコースターに乗り続けたいと思っています。
 
 小児科の鈴木竜太郎です。茨城県立こども病院で勤めた後に筑波大学や国立成育医療研究センターで勉強させていただき、半年前に初めて長岡に来ました。私自身はまだ長岡花火を見たことがありませんが、「いつか皆で花火をあげられたらいいね。」そんな明るい冗談を言いあえる、気さくな仲間と仕事をしています。
 内科、皮膚科、小児科の複数科で協力して市民の皆さまのニーズに応えるように努力していきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
 
 内科の田村真麻です。光栄にも、5年前に医師会に所属した際の初投稿から、2回目の自己紹介です。長岡赤十字病院で培った経験を元に、リウマチ膠原病・一般内科の診療を行いつつ、当クリニックでは異業種の方と接する機会も多く、新しい経験をしています。市内・県内の様々な企業に職域接種で訪れましたが、安田の企業さまに伺ったことを機に、後日、家族で安田に再訪問しました。ただ、訪れた日が2回目の職域接種翌日で、多くのスタッフが副反応でダウンしたため、ヤスダヨーグルトが臨時休業しているというオチ付きでした。地域医療に少しでも貢献できるよう努めてまいりますので、今後も変わらぬご指導・ご鞭撻をよろしくお願いいたします。
 
 膚科の藤本篤です。4月の皮膚科開設以来、医師会の先生方には多くの患者さまをご紹介いただいております。本当にありがとうございます。内科、小児科の受診にあわせて気軽に家族で皮膚科を受診される方も多く、働く世代の方、学生さんなど幅広い世代の患者さまが来院されております。私自身も日々やりがいを感じながら働いております。医師会の一員として患者さまに寄り添った皮膚科医療を提供できるよう精進してまいりたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

澁谷裕之

藤本 篤  苅谷直之  田村真麻  鈴木竜太郎  澁谷裕之  伊藤朋之

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クルージングの旅  石川紀一郎(美園内科クリニック)

 平成の終わり2019年4月29日から令和の始め5月6日までの8日間の、クルージングの話です。
 新聞の広告欄を見て思い立ち、参加を申し込みました。小生と妻、超高齢者2人のみの参加と言う事で、健康状態などを細かく尋ねられましたがなんとか合格したようです。
 コースは、東京、大井埠頭を出港。寄港地は行きに鹿児島と台湾の基隆。帰りは東京へ直行というものです。船名はコスタベネチア号、135,500t乗客数5,560人。イタリア船籍の大きな船で、船長もイタリア人のようでした。
 この船の就航年は2019年3月と就航間もない新しい船で、中国からの乗客を東京で下船させるのに手間取り、我々の乗船手続きは予定時刻を1〜2時間遅れて始まりました。
 その結果、長時間屋外の広場で待たされる事になり、何千人かの人で広場は溢れ、乗船するのは中々大変でした。
 出航後は、落ち着く間もなく避難訓練が行われました。所定の場所に収納してある救命胴衣を身につけ、定められた場所に集合するというもので、所持しているIDカード(部屋のキー、クレジットカードも兼ねている)で出欠をチェックするなど、なかなか厳しいものでした。
 夕食を終えて部屋に落ち着いた頃にはすっかり暗くなっていましたが、船室のバルコニーから眺める東京の夜景と黒い海面に流れる白い航跡のコントラストは素晴らしく、しばしの感傷に浸りました。
 翌日は丸一日海の上でしたが、広い甲板でうたた寝と読書で過ごしていました。
 勿論、船内には盛りだくさんの設備が用意されていました。レストラン、バー、ラウンジなどが20店位、その他催し物をするシアター、カジノ、運動をするジム、サウナ、スパ、プール、キッズクラブ、ジョッギングコース、等々数え切れないほど有りました。子供連れのご家族などは、大いに楽しんでおられたようです。
 3日目、令和元年5月1日午前8時、最初の寄港地、鹿児島港に入りました。
 鹿児島は前にも来たことが有るので、オプショナルツアーは利用せず、個別行動としました。タクシーで小高い城山公園辺りまで登り、風呂にでも入ろうかと思っていたのですが、時間的にその余裕はなく雨にけぶる桜島と鹿児島湾を眺めたのみで、後は観光客用の〈まち巡りバス〉で市内を回り、最後にラーメンを食べて終わりとしました。
 残りの日々は、ほぼ船内で過ごしたわけですが、最初の内は船内あちこち何が有るかと眺めてて廻っていました。
 カジノにはルーレット、スロットマシン、各種ゲーム機、若い女性が胴元のポーカーなど色々ありました。何かやってみようかと、何回か足を運びましたが、結局眺めているだけの、情けない結果となりました。ここで遊ぶには米ドルの現金が必要との事でした。
 シアターにも何度か足を運び、色々な催し物を見たのですが、何を見たのかは殆ど思い出せません。コントとか、奇術とか手品だったのでしょうか。
 朝夕の食事は、それぞれ定められた食堂に用意されていましたが、ここが旅行者同士の交流の場になっていたようです。他の食事は適当に食べ歩く、飲み歩くと言うスタイルでした。
 基隆での上陸は、少し疲れが出ていた為取りやめました。埠頭に並んで止まっている10台以上のバスが出ていくのを見送った後、すっかり静かになった船内で、のんびり1日を過ごしました。
 以上色々書きましたが、振り返ってみますと、食事でその辺を出回っている以外は、殆ど広い甲板で一人のんびりとうたた寝するか、船室のバルコニーから海を眺めている事が多かったようです。それに飽きれば、賑やかな船内に出かけて行って若い人達が楽しんでいるのを眺めていましたが、結構楽しいものです。エネルギーを頂きました。
 8日間の船旅を終えて、宿にたどり着いた時にホッとしたのを覚えています。
 半年チョット後にコロナによるダイアモンドプリンセス号の事件が報道された時は、他人事とは思えない気持ちになりました。「運が良かったんだ」と神様に感謝しております。でも「世の中が落ち着いたら、また行ってみようか」などとチラッと考えたりもしています。

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富山の魅力  桜沢 有(長岡中央綜合病院)

 私は、加茂市出身でお隣の富山大学を卒業しました。受験時に初めて富山を訪れた際は、新潟よりも田舎だなーというのが率直な感想でした。驚いたのが、富山駅の改札で駅員さんが切符を切っていたことでした。当初はそのような様子でしたが、富山に住み1年が経つ頃には新幹線が走り、私が富山を離れる頃には駅前が見違えるほど綺麗になりました。今もなお進化している富山の魅力を紹介したいと思います。
 富山は海・山が近いのが魅力の1つです。海は車で20分、山は車で30分の距離にあります。新潟市もアクセスが良いとは思いますが、富山市に勝るところは無いと考えます。夏は海辺での花火や海水浴、冬はウィンタースポーツが非常にしやすい環境でした。
 観光スポットとして有名なのが環水公園です。正式名称を富岩運河環水公園と言って、河川と交通した運河が流れています。『世界一綺麗なスタバ』があることで有名です。定番のデートスポットであるため高確率で知り合いに遭遇します。スタバに隣接し運河に沿って桜が咲いています。対岸から望むスタバは、春は満開の桜、冬は白銀の景色が広がり、映えること間違いなしです。
 立山連峰の存在を忘れてはなりません。晴れた日の立山は最高です。春〜秋にかけては、くっきりと映えた立山連峰が富山市内から眺望できます。夕焼けを浴びる立山の稜線は絵に描いたような美しさです。冬は麓の室堂で見られる雪山の壁、通称“雪の大谷”が圧巻です。例年、観光バスの2倍くらいの高さに相当します。
 さらに立山連峰はその雄大な姿を県民に見せてくれているだけでなく、災害から県民を守ってくれているとも囁かれています。毎年、台風の時期になると、北陸地方で富山県だけ唯一警報が発令されないなんてことがしばしばあります。地震も同様で、富山県は最も地震が少ない都道府県と言われています。地震が周辺で起こったとしても、隣県に比べて震度が低くなる傾向にあるようです。これは、立山の直下にあるマグマ溜まりの影響と考えられていますが、はっきりとは解明されていません。まさに立山様様なのです。
 ホタルイカも有名です。3月〜5月は身投げの時期で、海岸にホタルイカが大量発生します。毎年、旬の時期になると、ガチ勢のおじさま方が海辺を徘徊します。多い時は数百匹獲れることもあります。そしてホタルイカの身投げはカメラで撮影すると青白く光り幻想的な風景が現れます。それ目当てに県外から訪れる方もいるそうです。
 また、私が個人的に感じた富山の魅力は、生活圏がコンパクトにまとまっていることです。先に述べた、海と山が近いということにも重なりますが、面積が小さいこともあり、富山市で全てが完結するような印象があります。実際に、近年『歩いて暮らせるコンパクトなまちづくり』をスローガンにコンパクトシティ戦略を計画しているようです。富山ライトレール(いわゆる路面電車です)がリニューアル整備され、富山駅を貫くように南北開通されました。沿線を活性化させることによって、住み良いまちづくりが今も進んでいます。
 富山のグルメといえば、氷見の海鮮丼を始めとした海鮮系が有名ですが、私が富山でおすすめする食事処は『糸庄』というもつ煮込みうどん屋です。ミシュラン2021北陸版に掲載され、休日は行列を作ることも少なくありません。冬に食べるもつ煮込みうどんは格別です。特にスノボ帰りに食べるもつ煮込みうどんは疲れた身体を癒してくれます。
 以上のように富山には素晴らしい魅力が詰まっています。このコロナ禍の現状では、しばらくは他県への移動ができないとは思いますが、治まった暁には、ぜひ富山の魅力に触れてみてはいかがでしょうか?

スタバと桜

雪の大谷(公式サイトより)

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追想(U)  木村清治(いまい皮膚科医院)

 私が6年間を過ごした鳥取大学医学部は昭和20年創立の米子医専、米子医大が前身の新制大学で、教養課程は鳥取市に、専門過程は米子市にありました。教養課程の建物は昔の鳥取連隊の兵舎が使われていました。教養科目の中ではドイツ語が新鮮味があって、インパクトが強かったです。鳥取での2年間で特に記憶に残っているのは種々のアルバイトをやったことです。例えば、ゴルフのキャディー、砂丘のコースが多く、ゴルフバックをかついで砂丘を歩き回ったのを想い出します。まだ若かったのです。デパートの臨時店員、同級生の仲間といっしょでしたが、客はほとんど来ませんでした。それから国勢調査の調査員など。こうしたアルバイトは当時珍しくなく、必ずしも生活苦のためではなく、時間のゆとりがあったのと、若さ故の好奇心のためだったと思います。同期生は60名でうち女性は2名のみでした。医師の子弟は約1/4、3/4は医師とは関係のない家庭の出身者でした。米子での専門課程で最も印象に残っているのは解剖学の実習でした。ホルマリン付けの屍体が放つ異臭が鼻粘膜を刺激し、涙が出そうでした。専門課程で1年も経たない頃、同級生の一人が急死したのはショックでした。剖検の結果、寄生虫が膵管に迷入して膵管を閉塞し、膵臓壊死を起こしたとのことでした。
 大学時代は毎年1カ月以上の夏休みがあり、私なりに有効活用しました。最初の2年間は鳥取で豊岡に近かったせいもあり、夏休みはほとんど実家に帰っていましたが、その間に持病の副鼻腔炎の手術を受けました(豊岡の病院で)。現在の内視鏡手術と異なり、患者にはかなりの負担でした。又、米子の頃は友人と3人で中国、四国地方(秋吉台、秋芳洞、厳島神社(宮島)、琴平、栗林公園、後楽園など)を旅行しました。国立公園の大山(だいせん)(1729m)にも登りました。又、米子の自動車学校に通って運転免許もとりました。更に夏休みとは関係ありませんが、米子の町から車で20分足らずの所に皆生温泉(米子の奥座敷)がありましたが、そこへは数え切れないほど行きました。というのはそこの旅館の子息の家庭教師をしていたことがあるからです。大学卒業後は都会に出て勉強し、働きたいという願望があり、卒後のインターンは東大分院で行いました。当時(昭和40年)はインターン制廃止のための闘争の一環として国立病院立て籠りをやっていて、その2年後にはインターン制度はなくなりました。東大分院には全国から医学部卒業生が50人近く集まっていました。
 1年間のインターン生活を終えた後、国家試験を受け、医師免許を取得しました。その時内科か皮膚科か迷いましたが、後者の方が面白そうだったので皮膚科を専攻することに決め、東大の皮膚科教室に入局しました(昭和41年5月)。東大では無給でしたが、週2回都内の病院や会社の医務室などにパートで勤務し、夜は友人の紹介で救急病院の当直をやりました。又、入局後1年も経たないうちに、1年間、関東中央病院へ長期出張して臨床の勉強をしました。この頃はボーリングのブームで、診療が終わってから、よく近くのボーリング場へ同じ皮膚科の先生たちと足を運んだものでした。東大皮膚科の同期の入局者は5名でしたが、うち2名は1年も経たないうちに他科へ転向し、他の2名も漸次退局して、結局私のみが残って、7年後学位を取得して、昭和48年秋、埼玉医大講師となって教室を去りました。私の博士論文のテーマが皮膚の悪性腫瘍だった関係で東大に在籍当時腫瘍グループに属しており、そのチーフだった先生が埼玉医大の教授となって出ていかれたため、私も誘われたのです。埼玉医大は新設医大のため、スタッフが不足気味で、皮膚科の常勤スタッフは当時教授を含めて7名でした(うち2名は新潟大学出身)。教授が皮膚腫瘍を専門にしていたため、入院患者の7〜8割は手術患者でした。ここで上手く臨床写真を撮ることと、手術を手際良くやることを習得しました。この埼玉医大には4年間勤務していましたが、その間私にとって大きな出来事があり、第2の人生が始まったのです。

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蛍の瓦版〜その67   理事 児玉伸子(こしじ医院)

救急2題

1.フェニックスネットと救急隊

 前回の瓦版でもご紹介しましたが、長岡版ICT(Information and Communication Technology)であるフェニックスネットの特徴の一つは救急隊による活用です。
 平成28年11月の利用開始から令和2年12月末までに、全部で168件の使用実績があり、効果のあった事案は107件(64%)でした。内容は病歴検索76件、状況検索15件、緊急連絡先15件、処方薬検索3件(重複あり)と多岐に亘っていました。
 救急現場ではご本人や周囲から十分な情報が得られないケースがありますが、僅かな情報でも診療の手助けとなりえます。この様なフェニックスネットの活用の為にも、会員の皆様には一例でも多くの登録をお願いします。

2.精神科救急医療

 皆様がご存知の通り長岡市における通常の救急医療は、3つの基幹病院の輪番制によって支えられています。しかし精神疾患の急激な発症や精神症状の悪化等に因って、緊急な医療を必要とする方々を対象とした精神科の救急は、その特異性から通常の救急とは別の体制となっています。平成9年には精神科救急を対象とした“新潟県・新潟市精神科救急対策事業実施要綱”が定められ、改定を重ねています。
 要綱では新潟県を地域ごとに5つのブロックに分け、更に大きく南北の2圏域とし、それぞれ基幹的な役割を果たす病院(精神科救急基幹病院)を定めています(表)。また休日夜間の救急指定病院や、職員や空床等の確保に関する当番体制の基準だけではなく、かかりつけ病院による救急当番病院への後方支援も定めています。
 精神科救急医療では、年間を通じて午後5時以降翌朝9時までを夜間と定め、南北それぞれ一つの病院が担当されます。休日(土曜日・日曜日・祝日・年末年始)の昼間の対応は、5ブロック内でのそれぞれの当番病院です。長岡市が含まれる県央ブロックにおいて精神科救急医療を担当されているのは、精神科救急基幹病院である県立精神医療センターの他に田宮病院・三島病院・大島病院の計4病院です。魚沼ブロックは魚沼基幹病院と五日町病院の2院で頑張られ、上越ブロックは6病院で構成されています。
 県央ブロックを含む南圏域の夜間救急は、平日の月火曜日は田宮病院と木金曜日は精神医療センターが専ら担当され、水曜日と休祝日の夜間はその他の病院の輪番制です。休日昼間は、日曜日は専ら県立精神医療センターで土曜日は他の3病院の輪番制、祝日は4病院で対処されています。いずれも皆様の大変な御苦労の上に成り立っていると存じます。

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巻末エッセイ〜父と祖父と ついでに私 江部佑輔(江部医院)

 最近父の句集が上梓された。今週、長岡の書店での書籍売り上げで1位になっていると友人が今朝メールで知らせてくれた。父は多くの知人に句集を送ったので読まれた方も多いと思う。新潟県の自然の歳時記であり、越後の山、川など自然を愛し、医学者、いや自然科学者の視点と、天性の文人としての才覚で見つめてきた蓄積から生まれてきた俳句は、一句一句が人の心に響くのであろう。
 父は若いころからよく文章を書いていた。医学論文はもちろんであるが、以前長期に渡り、新潟大学第3解剖の元教授・藤田恒夫先生が出版していた「ミクロスコピア」にも「グルメ百話」を連載し続け、その前半の数十話をまとめた本も「大自然に遊ぶ」のタイトルで出版され、その時も長岡の書店売り上げで1位になったことがあった。
 「グルメ百話」の挿絵の多くは母方祖母の大橋栞の日本画が使われていたが、3話ほど私の絵も使われた。表紙の絵は祖父・江部恒夫の水彩画であった。母は祖母のデッサンに色塗りの手伝いをしていたし、妹の漫画も使われ、「グルメ百話」は家族の力が集結された作品でもあった。
 祖父・恒夫は絵画において多くの作品を残し、時々作品展を開くほど精力的で生涯絵を描き続けた。平成30年春には祖父の作品を愛する方々から尻を叩かれCoCoLo長岡で展覧会も開催した。その時の準備で祖父の絵を整理する必要があり、改めてというか正直初めて祖父の絵を見ることになった。無論、子供のころから家中に祖父の絵はあったのだが、絵を見る心構えで接したのは初めてであった。展示作品に関して父や母にも相談したが、会の開催を支援してくださった方より「こういう事は孫の仕事なんだ」と教えていただき、最終的にはすべて私が選んだ。祖父は多くの絵画を残したが、執筆活動をしていた印象はなかった。しかし、調べると意外なほどに文章もしたためていた。以前にも紹介した随筆「花に想う」は、庭に咲く草花を細かく観察し、自然科学者的な視点とともに、文学的エッセンスもある、どこか父と似ているところが感じられた。祖父はシェイクスピアにも造詣があり、平成元年から3年ほど本誌に「シェイクスピア抄」として投稿をつづけていたそうである。残念ながらまだ私はその文を目にしていないが、祖父は厳格であっただけでなく極めてユーモラスな面もあったので、おそらくは楽しい話であったと想像される。
 父は多くの執筆を行い、現在も精力的に書いているが、絵画というものはほぼないと思う。ただ、学生時代の組織学のスケッチを以前見たことがあるが、それはとてもマネできるものではなく、緻密で色彩的にもすばらしいものだったと記憶している。
 母も油絵を以前から嗜み、その才覚は祖父が認めていたものであったし、母方の祖母も先ほどお話しした通りで、父の作品で多くの挿絵を残している。
 さて、わたくしときたものには、どうしたことやら、どこでどう遺伝子変異をしたのかわからないが、文も絵画も然したる才能もなく、嫌いではないので俳句も詩も、このような随筆も書くことはあっても、なかなかどうにも満足したものにはならない。絵も嫌いではなく、山に登るたびに脳裏に焼き付いた景観を水彩やパステルで描いていたこともあるが、どうにもこちらも大成する気配はまったく見えてこない。元来飽き性で、手元には書きかけのエッセーや絵など多数ある。頓挫したままの症例報告や論文もいくつかあり、本人はいつか完成させるつもりではいるのだが、結局お蔵入りしそうである。祖父のように博学ではなく、父ほどに自然の造詣にも深くないが、好奇心だけは負けないつもりなので、少しでも祖父や父に近づければなと思っている。
 今日の全国の新型コロナ感染者数は79名であった。近い将来必ず平穏な日々が訪れることを信じて、アフターコロナにきっと新たな出会いや発見があることを楽しみにしている。
 のどやかな日々続けと潤す秋時雨

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