長岡市医師会たより No.502 2022.1


もくじ

 表紙絵 「塩殿にて」 丸岡稔(丸岡医院)
 「新年を迎えて」会長 草間昭夫(草間医院) 
 「新春を詠む」 
 「茶の湯へのお誘い」 太田 裕(太田こどもとアレルギークリニック)
 「息子と私」 丸山麻知子(長岡中央綜合病院)
 「巻末エッセイ〜ネコの輸血と救命救急センター」磯部賢諭



「塩殿にて」  丸岡 稔(丸岡医院)


新年を迎えて  会長 草間昭夫(草間医院)

 明けましておめでとうございます。皆様には穏やかに新春を迎えられた事をお喜び申し上げます。昨年も新型コロナウイルスに翻弄された1年でしたが、会員の皆様のご協力でワクチン接種、PCRセンターの運営、在宅療養患者に対するリモート診療等、無事に継続することができましたこと御礼申し上げます。昨年末からは COVID-19 感染中等症以上の患者に対する入院待期ステーションの運用を全県下で唯一の施設として運営して参ります。ご協力を引き続きお願い申し上げます。
 昨年は在宅療養者が増加したGW開けから、長岡市医師会として、新潟市以外の療養者のリモート診療に従事いたしました。お盆の後には在宅療養者は400人を超え、急変時の処方や病院への搬送依頼などを行いました。長岡市医師会員が一丸となって県全体のコロナ対応に従事したこととして特筆すべき事と思っております。また救急を担う3病院がコロナ患者を全県から引き受けたことも合わせ、県民に対する貢献は計り知れません。
 ワクチン接種につきましては磯田長岡市長に、ワクチン接種を全集中で行いたい旨を申し上げ、ワクチン接種事業室を設置していただき今日に至りますが、ワクチンが潤沢に供給されていれば、長岡祭りも開催できていたかもしれません。引き続き今年も3回目のワクチン接種、小児のワクチン接種に対応していきたいと思います。
 昨年来、地域医療構想、医師の働き方改革、医師の偏在問題について対策をまとめて行くことが急務であり、大きな課題でありました。僻地診療対策、地域包括医療のさらなる充実が必要で、2024年には待ったなしで診療科の集約が求められます。県央地区が県央基幹病院を中心とした集約化を目指し、上越地域、佐渡地域が重点支援地域として国に病院再編を申請しました。人ごとではなく、自分たちの意見を真剣に交え新しい長岡を構築していく時期になって来ていると考えます。
 本年の研修医のマッチングは長岡の3病院でフルマッチングが達成されました。新潟県全体では128人の研修医が新潟の病院を選んでくれました。研修の場として長岡が選ばれ続けることは医師不足解決の一つのキーポイントととらえています。行政とも協力して環境を整えていきたいと考えています。
 衆議院選挙が行われました。5区からは米山前県知事と泉田議員が当選されました。新潟県からは7人の自民党議員が当選いたしましたが、安定した無駄遣いのない国政の運営をお願いしたいと思います。
 長岡市医師会は一昨年に創立100周年をむかえましたが、記念式典は延期を余儀なくされました。10月29日にはWEB参加も含めたくさんの会員の先生方にご参加いただき、来賓の長岡市長を始め堂前県医師会長、松本県福祉保健部長にも感謝申し上げます。併せて100周年記念誌を発行できましたこと会員の皆様に感謝いたします。ご講演をいただいた蒲原先生には長岡の医史にも踏み込んでいただき大変興味深い内容で感服いたしました。改めて感謝申し上げます。
 フェニックスネットは在宅医療になくてはならないものとなってきました。コロナ渦でリモート診療が浸透していくなかでDoctortoPatient withNurseのツールとして発展していくものと思います。一方このシステム維持には定期的に高額な費用がかかり、受益者としての負担が始まります。病院との連携には介護医療確保基金などの補助を期待しているところです。一方国の主導でマイナンバーカードが顔認証により保険証情報と連動するようになりました。個人の検診データやPHR(個人健康情報管理)が紐付けされることになると思われます。
 胃癌リスク検診も順調に進んでおり、臨床の場でも胃癌症例、胃癌による死亡例が減少しているように感じます。中学生のピロリ検診も最初の子供たちが20歳になりますので成人の検診者数は減少いたします。検診漏れの方と、陽性未受診者を拾い上げて参ります。
 最後に長岡市医師会は今年102周年を迎えます。伝統ある本会をより一層社会に貢献させていく所存です。会員の皆様のご支援ご協力をお願い申し上げます。皆様にとりまして飛躍の寅年になりますよう祈念して新年の挨拶とさせていただきます。

 

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新春を詠む

先っぽの丸まってゐる初暦  石川 忍

水没の島々  年玉に潮を干る珠賜はせよ  郡司哲己

 

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茶の湯へのお誘い  太田 裕(太田こどもとアレルギークリニック)

 先日医師会より趣味の随筆を書いてほしいとの依頼が突然ありました。私も年を重ね古希を迎えました。いろいろあった趣味?もだんだん減ってきて今ではゴルフ少々、囲碁、茶道だけになってきました。その中でこれからも続けられるであろうお茶の世界について触れてみたいと思います。お茶を始めて20年以上になりますが、まだ茶道の本質も分からずまた自分の立ち位置もはっきりしていません。お茶の世界は知れば知る程底が深く、また魑魅魍魎が住む世界でもあります。私がどのようにしてこの世界に堕ちてゆき、そして絡め取られ、楽しく遊んでいるかをまずお話し、最後に利休の世界に少しふれてみたいと思います。お付き合いください。
 私は元来体育会系で、頭で考えるよりもまず体を動かしてから事を始めるタイプでした。小さい頃より野球、テニス、卓球、鮎釣り、ゴルフと年齢と体力に合わせ運動を渡り歩いてきました。もちろんこの間、文化系の活動は皆無でした。こんな私がお茶の世界に足を踏み入れるまでにはそれなりの理由、きっかけがありました。20数年前小児科医会の仕事のため、体ではなく頭のほうは多忙で、またこの頃、持病の腰痛が再燃しゴルフがうまくプレーできず身体が空回りしている状態でした。ADHDなのかアスペルガーなのかわかりませんが、マグロのように止まることができず体を持て余していたようです。そのころ我が家では、女房殿が、子どもたちが巣立ったのを契機に茶道に復帰、稽古に力を入れ、いつもがやがや楽しそうにお稽古をしておりました。彼女は何を思ったのか、私を含めお茶の仲間の旦那衆と私の友人に、「半白のお祝い」だ「十六夜の茶会」だなどなどの理由で、お茶事に誘ってくれました。皆、お茶の世界は初めてで、まさかお茶事の席で、お酒は鱈腹、おいしい懐石も食べられ、4時間に渡って饗応を受けるとは思ってもいませんでした。このお茶事の波状攻撃を受け、私を含め5人の男衆が女房殿の弟子となり表千家に入門することになりました。入門後のお稽古でまず教わった事は、なんでも言われたらまず「はい」と答えなさいとのお言葉でした。皆それぞれ社会では一角の人で、意味もなく頭を下げたり、なんでも「はい」と鵜呑みにすることができない人たちで、この壁を超えるのにかなりの時間を要しました。お茶への姿勢、精神面などは個人個人により目指す処は様々と思いますが、稽古の基本は私の見るところ、その人の立ち居振る舞いに凝縮しております。半畳を三歩で歩くなどその姿を見ればどのくらい稽古を積んだ人かおおよそ見当がつくようです。お点前も非常に奥が深く、真、行、草に大きく分けられ(一般で言う松竹梅にあたります)、道具組み、季節でも異なり、さらに七事式など、ほぼ無限の組み合わせがあります。実際に自分でやってみますと、頭で考えたことを身体がその通りなかなかやってくれず、少しでも茶茶が入ると頭が真っ白になり体が止まってしまいます。当たり前のことですが稽古を重ねれば、物事に動じず、トラブルも何食わぬ顔でやり過ごせるようになるようです。年月が経ちますと稽古だけでなく、和服の着付けも自分ででき、人前でお点前をするようになります。皆さんお茶会デビューは嫌なのかなと思っておりましたら、然にあらずで、観られている緊張を楽しめる人がたくさんおります。いつもの事ですが、初釜だ、支部茶会だとどんな茶会でも終わったら、反省会と称し、がばっと飲んで騒ぐのがわが社中の慣例です。そんな訳で夫婦が同じ趣味を持ち、旦那もぬれ落ち葉とならず円満に過ごせる、こんな良い趣味はありません。
 お茶をやっていて良かったことは、先ほど述べた夫婦円満が第一ですが、何よりも異業種交流、様々な方とお付き合いができることではないかと思います。お茶会に呼ばれれば、新潟県はもちろん、東京、京都へも出かけますし、文化交流で世界各国へも足をのばします。私も縁あってこれまでトルコ、スペインを訪れ、スペインでは舞台で且坐(さざ)を行ってまいりました。
 明治維新後、文明開化と称し西洋文明を取り入れることに血眼となり、日本の伝統文化を軽視した時代がありました。この時期、茶道はもちろん日本の伝統文化、芸術、美術が存亡の危機に陥りました。しかし岡倉天心が「茶の本」を著し、日本文化の復権を唱えました。この考えに賛同した佐渡出身で三井物産を興した益田鈍翁、原三渓をはじめ多くの政財界の人が数寄者となり、お茶をはじめ日本文化の新しいパトロンとして登場しました。そして中越地域でもその当時、数寄者が集まり文化を支えました。柏崎に木村茶道美術館がありますが、木村氏もその一人でした。残念ながらほとんどの方が亡くなりこの会は途絶えています。10年ほど前、流派に囚われずお茶を楽しむ男の会を作ろうとの話になり、会の名称を「茶楽」としました。構成メンバーは、石州流野村派の家元、宗?流、表千家、裏千家、遠州流、陶芸家、菓子司、骨董商、切り絵作家、呉服屋などで、数寄者の道具立てを念頭に茶会を楽しんでいます。テレビでもたびたび男の会として取り上げられ、特集まで組まれました。異業種交流の頂点のような面白い会です。
 こんな風に私にとってお茶は本当に大切なものになっています。お茶は利休に始まり利休に終ると私には感じられます。今回利休について何か書こうと意気込んでいましたが、力量不足を実感し止めることにしました。最後に京都の家元を訪ねた時の事を、表千家支部会報に載せた文がありますのでご紹介して終わりとします。お付き合いありがとうございました。
 「利休を訪ねて
 緊張の中表門をくぐる。広い石畳の広間に、右に古風な侍待ち、左には三つの玄関を構えた母屋があり、その向こうには元伯宗旦の奥方が嫁入りに持参された銀杏の古木が見守る。しばらく色々なお話を伺い、露地草履に履き替え露地へ足を踏み入れる。まだ二時過ぎであったが薄暗い。飛び石を渡り祖堂へ向かう。躙口より中へ。奥の間に墨絵のようにぼんやりと利休居士像が鎮座する。静かに向かい合ううち、利休の思いが伝わってきた。先日の県立歴史博物館で催された「天地人」展。最後の「上杉瓢箪」のひとつ前に利休の遺偈が掛っていた。「人生七十……今此時天抛」祖堂を後に不審庵、残月亭、七畳敷、無一物を訪れ、茶室そして茶の心に触れる。最後に利休が佇んだ蹲踞に佇み、心を通わせる。本当に貴重な時間でした。」

 

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息子と私  丸山麻知子(長岡中央綜合病院)

 私には、もうすぐ3歳になる息子がいます。
 ご飯を一緒に食べ、眠るまで一緒に過ごし、夜は一緒に寝ます。
 私は、眠る前にいくつかの薬を飲むのですが、ベッドで「お水足りないかも」と言っていると、「ボクの分も飲む?」と持ってきてくれる優しい息子です。
 私は、夜ベッドに向う時は、私の分と息子の分のお茶を2つ持って行きます。
 息子は、寝るまでに何度かお茶を飲んでいるようです。
 ベッドでゴロゴロしてから、下に敷いてある布団に行ってゴロゴロして、そして寝ます。
 朝はパンが好きなので、食パンの耳を切りジャムを塗ってあげます。その他に、バナナやリンゴなどの果物をつけることもありますが、今日は私が台所で食べようとしていたソフトクリームを目ざとく見つけ、「あー!あーんあーん」と言ってきました。「あーん」というのは「一口ちょうだい」の意味です。
 私は、息子の所にアイスとスプーンを持って行き、「ママと交互に半分こね」と言って、一匙一匙与えました。
 めったに食べられないアイスの美味しさに息子は、本当に嬉しそう。最後に残ったワッフルコーンもパリパリと食べて、満面な笑みです。
 「甘いもの食べたから、しっかり歯磨きね」といつもは嫌がりますが今朝は機嫌よくさせてくれました。とても良い朝でした。
 彼の笑顔を今後も大切に大切にしていきたいと思っています。

 

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巻末エッセイ〜ネコの輸血と救命救急センター 磯部賢諭

 先日、我が家の飼い猫の調子が悪かったので、近所の動物病院さんへ連れて行きました。

 なんだか、ヨタヨタして、ふらついています。すぐに倒れるようにしゃがみ込みます。歯茎の色をみると、いつもはピンク色のきれいな歯ですが、真っ白、蒼白です。眼球結膜も蒼白です。

 貧血なのかな、ともかく、視線が合わないので、おかしいと思いました。

 ふらつくので、小脳失調があるのかも、なんて思いで動物病院さんへ急ぎました。

 診断はヘモグロビン2.4g/dlの貧血、白血球も血小板も低く汎血球減少でした。敗血症・脱水もあり、腎機能低下でした。

 近所のノラと喧嘩し右腕にはキズがありました。そこからの感染症・敗血症なのでした。

 ウイルス検査もしていただき、猫白血病ウイルスが陽性でした。

 残念なことに予後は良くないと説明を受けました。

 リンパ腫が出来てたら、急変するし、3年後の生存率は80%程度だそうです。

 長岡のこの近所のノラネコ界隈では今、流行しているのだそうです。

 エリザベスカラーをしていただき、点滴をして、抗生物質を投与していただきました。

 3日間入院しました。

 「輸血しますか?」と獣医師先生がいうので、

 「動物の血液バンクってあるんですか?猫が献血するのですか?売血するのですか?どうやってどのように輸血するのですか?」と聞きました。

 彼は「ボクは輸血用に猫を飼っているので、その猫ちゃんに頑張ってもらって……。」とのことでした。

 「お願いします!」と30mlほど輸血をしていただきました。

 輸血を供給されるために飼われている無菌状態の猫ちゃんがいるのか、と感心しました。

 さて、昔話を思い出しました。また、昔話かよ、って思う方もいらっしゃると思いますが、事実ですのでお付き合いください。

 私は医科大学の学生寮に6年間住んでいました。

 (つまり、ずっと寮生でした。)

 救命救急センターの近くにその寮はありました。

 夜間に勉強したり、寝ていたりすると一斉館内放送が流れるのです。

 「O型の学生諸君は至急、救命救急センターに集合してください。血液が必要です」と。

 すると活きのいい学生たちが走って救命救急センターにいって血液を提供するのです。

 もちろん血液型が合わない学生はNG、酔っぱらっている学生もNG、薬を飲んだりしている学生もNGです。健康で活きのいい学生だけがOKです。大量に血を抜かれました。

 年に数回でしたが、不思議な光景でした。救命救急の先生は学生寮の学生には非常に優しかったと覚えています。

 学生寮にすむ学生は輸血用だったんだ、と知ったのは寮に入ってすぐでした。

 暗黙の了解ってあるんですね。30年前を思い出しました。

 さて、猫は輸血と抗生物質で元気になりました。輸血には幹細胞も含まれていたのでしょう。汎血球減少も治りました。予後は3年くらいと言われています。どうなることやら。

 1日でもいいので長生きしてほしいと心から思いました。

 輸血してくれた猫ちゃんのためにも、幸せになってほしいな。

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