長岡市医師会たより No.503 2022.2
表紙 「阿賀野川と又六山」 丸岡稔(丸岡医院)
「小西徹先生を偲んで」 影山隆司(長岡療育園)
「開業のご挨拶」 橋本 薫(はしもと眼科クリニック)
「蛍の瓦版〜その69」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
「悠遊健康村病院 透析室と地域連携」 立川 浩(悠遊健康村病院)
「誠心会吉田病院外科の近況」 小林康雄(吉田病院)
「巻末エッセイ〜八十路(上)」 星 榮一
「阿賀野川と又六山」 丸岡 稔(丸岡医院)
平成12年より長岡療育園園長として、長岡市を中心に重症心身障害児の医療だけでなく多方面で活躍していた小西徹先生が死去されました。昨年11月に体調不良を訴えてからの短い期間での出来事で、一緒に働いていた私たちも青天の霹靂でした。
自分と先生は富山医科薬科大学(現富山大学)時代から20年ほどの付き合いでした。学生時代に先生は既に助教授であり直接接することはほとんどありませんでしたが、助教授回診の恐々とした雰囲気は印象的でした。実際に小児科入局してからも、助教授回診での貧乏ゆすりには研修医のみならず医局員全員がピリッとする状態でした。ただ、一緒に働いていると厳しいだけではなく、質問があればいつでも煙のこもった助教授室ですぐに対応してくれ頼れる親分肌の先生でした。最初に先生に驚かされたのは、WEST 症候群に対してACTH治療していた際、先生が「明日から痙攣止まるな」と言われ、本当に翌日から痙攣が止まったことです。当時の自分からしたら、今風に言えば「神だ」、と思いました。そんな仕事の凄さもありながら、仕事以外の先生も凄く、かなりのヘビースモーカーであり、お酒も強く、歌も上手い、スポーツもスキーやテニスなど何でもできる人でした。大学の医局旅行で看護婦さんを捕まえてテニスを厳しく指導していた姿には笑えましたが。
研修医時代に自分自身それまで神経班を考えたことはなかったのですが、ある日先生に「おまえの性格は、神経に向いているから神経班来ないか」と言われたのが、今長岡で働いているきっかけだった気がします。自分が神経班に入った直後に先生は長岡療育園に赴任してしまったので、大学の神経班として直接指導を受けることはできなかったのですが、長岡赴任後に先生が大学の若い医師たちのバイト先として週一で療育園の当直を用意していただき、そのおかげで先生との縁が続きました。自分もその頃から療育園に通わせていただき、夕方に着くと毎回園長室に顔をだし、先生と談笑するようになり大学にいた頃より接する機会が増えました。
長岡に来てからの先生は大学にいたころと違い、連泊の当直や病棟の対応など現場の仕事もして、今までのように各学会の理事もしてなど、大変忙しそうにしていましたが、その頃はとても楽しそうに生き生きとしており、大学時代より充実してやる気が溢れているように見えていました。それから数年して自分も長岡で仕事しようと思い、ある日突然先生に電話をして療育園に就職したいことを伝えると、快く受けていただきその後の医局との話し合いでも先生の助言があり円満に療育園で働けるようになりました。療育園に来てからは、今まで以上に小西先生の存在を意識するようになり、自分の外来中も「小西先生ならどうするか」、「これしたら先生に怒られるかな」と考えるようになり、診察中に今まで以上に神経を使うようになり、毎日が刺激を受けながら仕事が楽しくできました。
自分にとって小西徹先生は、厳しく優しい師匠であり、恩人であり、目標となる人でした。今後先生が残してくれた教えに従い先生への恩返しができるように、日々精進していきたいと思います。
故 小西 徹先生 ご略歴
新潟大学医学部 昭和49年卒業
昭和49年 新潟大学医学部小児科学教室
昭和50年 富山赤十字病院小児科
昭和53年 富山医科薬科大学医学部小児科助手
昭和57年 町立三国病院小児科
昭和58年 富山医科薬科大学医学部小児科助手
昭和59年 町立三国病院小児科
昭和59年 富山医科薬科大学医学部小児科助手
昭和62年 富山医科薬科大学医学部小児科講師
平成 3年 富山医科薬科大学医学部小児科助教授
平成12年 長岡療育園園長
長岡療育園こども発達センターセンター長
現在に至る
平成16年〜平成22年 長岡市医師会理事
いつも大変お世話になっております。令和2年4月にたけだ眼科医院を継承し1年半が過ぎました。医師会から開業の挨拶をとのご依頼でしたので、自己紹介を兼ねてご挨拶をさせていただきます。
私は新潟市出身で新潟高校を卒業後、福井医科大学(現福井大学医学部)に進学し、平成7年に新潟に戻りました。祖父や伯父、父と兄も皮膚科医ですが、なぜか性に合わず眼科に入りました。眼科入局後は県内の関連病院を回り、その後大学院に進み、卒業後は2年間Washington University(St. Louis, MO)に留学をしました。留学中は緑内障の基礎研究に取り組みましたが、むしろそれ以外の海外生活を満喫していた事の方が記憶に残っています。
帰国後は大学を経て長岡赤十字病院に勤務し、平成21年から10年間は眼科部長を務めました。長岡での勤務医生活は計16年になりました。その間、医師会の多くの先生方には科の枠を超えて大変お世話になりました。改めて御礼申し上げます。
日赤勤務時代は、モザンビーク共和国(アフリカ)へ医療支援(白内障手術)で出かけたことがありました。英語すらほとんど通じない国で、通訳を介しながら朝から晩まで手術をする緊張感と高揚感は、決して忘れられない経験でした。また、県内初の外国人医師として中国から眼科医の受け入れを担当するなど、やりたかったことを全てやり切ったと思っています。医師不足の特集で、衛星放送のWBSという番組にも出演させていただいたこともあります。忙しかったですがとても充実した勤務医生活でした。
長岡との縁は、皮膚科医である父が日赤で1年間ほど勤務した時に一緒に付いて来たのが最初のようです。しかしまだ2、3歳頃でしたので全く記憶がありません。2度目は入局2年目の長期出張先が移転直前の日赤でした(平成9年)。新病院への引っ越しはとても楽しかったです。その後、大学院や留学を経て決まった勤務先はまたもや日赤で、着任は中越地震の約3週間前でした。地震により部屋が大破して住むことができず、1週間ほど医局で寝泊まりをしていました。洗濯は医局の洗面台で、風呂は手術室のシャワーで済ませました。2年後に医局の都合で佐渡に転勤しましたが、その次はまたもや日赤勤務でした。医局長から転勤先を聞いた時は、もはやこれまでと思いました。結局は日赤に就職となり、以来長岡市にずっと住んでいます。長岡とは不思議な繋がりがあるように思います。
開業の経緯ですが、たけだ眼科医院の武田さち江先生から継承のお話を頂いた時は既に50歳を超えており、その瞬間まで開業することなど全く考えていませんでしたので、まさに青天の霹靂でした。しかし、勤務医として中越医療圏の防波堤となることと同様に、町の開業医として地域医療へ貢献することも重要であり、飛び込むチャンスは今しかないと思い受けることにしました。新しくやりたいことを見つけたわけですね。
決心してからの準備期間はとても短かったです。退職してから開院までは1カ月しかありませんでした。建物のリフォームをしましたが、コロナ禍で全国的に人材・資材不足の状態が続いており、患者様用のトイレが手に入らないなど、予想もしていなかった問題が次々と起こりました。本当に予定通り開院できるのか、とても不安でした。役所への申請書類も想像以上に複雑怪奇で、何をどう書いたら良いのかさっぱり分からず、医師会の事務局に駆け込んで教えていただいたほどです。何とかここまで来られたのは、武田先生をはじめ周囲の皆様の全面的なご支援があったからこそと思っています。
先の見えないコロナ禍の真っただ中で開業したため、不安の中でのスタートとなりました。感染対策は試行錯誤の連続でした。しかしそのお陰で医療の原点を再確認することができたと思っています。患者様の声を真摯に聞き、疾患と治療については納得していただけるまで説明する……。勤務医の時は仕事量が多すぎて端折っていたことを、今は思う存分やることができます。患者さんの診療に関して、今でも多くの先生方には大変お世話になっております。今後ともご指導、ご鞭撻を宜しくお願い致します。
入院待機ステーション
オミクロン株感染者の急激な増加に伴い、新潟県からの要請を受け2月1日から入院待機ステーションが稼働を開始しています。前回の瓦版でもご紹介しましたように、入院待機ステーションの設置主体は新潟県ですが、運営は長岡市医師会が行なっています。入院待機ステーションは既存の医療資源を活用しないことを前提としており、旧長岡市内の休眠施設を一部改装し活用しています。また第二種感染症指定医療機関である長岡赤十字病院には、感染症対策に限らず準備の段階から全面的なご支援を頂いております。
入院待機ステーションは入院病床が逼迫した際に、入院待機者に対し入院先が決まるまでの間に酸素投与等の生命維持に必要な処置を実施する一時的な施設です。そのため病室には簡易ベッドの他には、毎分5Lまでの酸素投与が可能な酸素濃縮器と簡単なモニターが設置されており、必要に応じて点滴や備え付けの薬品投与を行います。トイレはそれぞれの部屋に備え付けられており、食事は栄養補助食品とイオン飲料水の用意だけで、当初は5床で開始し20床まで増床可能です。ステーションの実施体制は、医師1名・看護師2〜3名・事務等1名の二交代制で、利用者がいない状態でも最低限看護師2名が常駐する予定です。
ステーションの運営は長岡市医師会ですが、新潟県医療調整本部(PCC)が県下全域を対象に入所の適応を決定します。基本的には救急車によってステーションまで搬送され、担当医師の対面診察を受けたのち、酸素投与や経過観察を受けながら、退所までの時間を過ごして頂きます。退所に関しては緊急退所・上り(のぼり)退所・下り(くだり)退所の3通りの状況が想定されており、いずれも新潟県医療調整本部(PCC)と連絡を取りながら決定して行きます。緊急退所は急激な病状悪化のため生命危機が生じた状態に対し、PCCが緊急に入院調整を行い受け入れ病院へ搬送されます。上り退所は、ステーション本来の設置目的の通りで、病院の空きベッドが発生すると順次転院していただきます。下り退所は、利用者の病状が好転し、自宅や療養ホテルにおける療養となった場合で、退所後はそれぞれの自宅やホテル療養担当医へ引き継ぎます。
2月の初旬に既に利用がありましたが、心配された事務手続きを含め無事に対処することができました。先月号でもご紹介しておりますように、設置決定までには紆余曲折がありましたが、その後は準備段階からオール長岡のご協力をいただき何とか運営しております。ご尽力をいただきました関係各位には心より御礼を申し上げます。
悠遊健康村病院 透析室と地域連携 立川 浩(悠遊健康村病院)
悠遊健康村病院は、2017年に院内のカルテ保管室を改装して、通院困難な透析患者の受け入れを目的とした透析室を開設しています。系列である立川綜合病院腎センターが主体となり、人数を制限した形で透析ベッド3台から運用を開始しました。当初より在宅管理が困難となった透析患者の看取りを想定していましたが、在宅困難な理由も様々であり、長期入院となる患者も増え、2018年には5台に増やしました。今後も需要増加が見込まれることから、透析室を新しくして、より多くの患者受け入れを行うこととなりました。新しい透析室は2020年に基本設計が始まり、2021年1月に着工、2021年11月30日に完成しました。感染症用個室を含めて、透析ベッドを15台に増やし、体制を整え2022年1月12日より本格的に稼働を開始しています。当面は主に中越地域の施設から紹介患者を受け入れる予定であり、将来的には最大31台まで透析ベッドを増やせる構造になっています。
中越地域の透析施設は限られており、入院に特化した施設はありません。現在透析患者の高齢化が進み、外来透析だけで対応することが難しいケースも多いと聞いています。限られた資源を有効に使うために、今までとは異なる患者層の受け入れも検討しています。具体的には、身体機能が低下した方に対する短期集中リハビリテーションを目的とした入院や介護負担軽減を見込んだ短期レスパイト入院の患者を増やしていくことです。目的に合わせた短期入院を繰り返すことで、病院としては患者の状態把握ができ、家族や患者自身も環境に徐々に慣れていくことができるのではないかと考えています。当院にはリハビリテーションセンターがあり、入院生活の中でも機能維持を図る体制ができています。すでに腹膜透析に関しては、リハビリテーションを目的とした短期入院の実績があり、その効果を実感しています。可能な限り在宅での生活が続けられるような対応もしたいと考えています。当院が、通院困難となった透析患者の看取りを含めた対応に加えて短期リハビリテーションやレスパイト入院を担い、外来主体の透析施設と連携することで、透析における地域包括ケアシステムが整うと考えています。透析患者は特に骨折や褥瘡などが起こりやすく、カテーテルやシャントトラブルへの対応も必要です。入院依頼をされた腎臓内科医との連携が必要な場面は多々あります。今後透析患者のネットワークを構築していくことで、安心安全に最期まで住み慣れた地域で暮らすことが可能になると考えています。
私自身が透析患者と向き合ったのは、当院に透析室ができてからの短い期間です。その経験から、入院という形で託されているのは、透析によって延伸できた人生を、本人も含めて周囲と共に考えて、いかにその人らしく最期まで過ごしていけるかを実現する支援をしていくことだと考えています。今後地域の需要も、一人ひとりの患者の希望も叶えられるよう施設運営に努める所存です。皆様のご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
透析室外観
透析室内部
平素より長岡市医師会の先生方、事務局の方々には大変お世話になりありがとうございます。
当院の全般的な内容は長岡市医師会創立100周年記念誌に吉田院長が紹介しておりますので、ご参考頂ければと思います。
当院外科は平成21年までは、前橋の笹口政利先生が月、火、木、金曜日を、東京の岡本欣也先生が水曜日を(長距離通勤ですが)担当しておりましたが、平成21年以降常勤として私が加わらせて頂き、この二人の先生の下で働くという形の2人体制で行っておりました。
この状態が10年以上変わりなく続いていたのですが、令和3年7月より村上博史先生が木曜日(午後のみですが)勤務されることになりました。そのため現在は、月、火曜日が笹口先生、水曜日が岡本先生、木曜日(午後)を村上先生に担当してもらいながら私が常勤で働かせてもらっています。
村上博史先生は東京在住で、やはり新幹線での長距離通勤です。昭和60年に新潟大学外科入局後新潟県内の多数の病院に勤務された後、平成7年より関東の病院に移動。定年まで勤められた後、馴染みのある新潟県で臨時の勤務先を探した中で、長岡健康管理センター健康医学予防協会の求人に対し、毎週木曜日の午前に上部消化管内視鏡検診業務をされることになりました。その後、同じ木曜日の空いた午後は当院にも来て頂けることになったという経緯です。以前、長岡赤十字病院と立川綜合病院にも勤務経験がありますので、ご存じの医師会の先生方もおられるかもしれません。東京の先生ですが以上の経緯から新潟のことに詳しく私自身知らなかったことも多く、新潟県の外科の歴史的経緯なども含め教えてもらっている次第です。当院ホームページの変更が直ぐにできないため、ここでお知らせさせて頂きました。木曜日については午後も新患も受け付けておりますので宜しくお願い申し上げます。
当院外科は新潟大学外科のローテーションから外れている関係で定期的に医師が代わる訳ではありません。私が就職した平成21年以降入職者がいなかったものの、今回久しぶりに村上先生という新しい先生をお迎えできました。実は来年度からは、新規でさらに別に当科就職希望の先生がおられます。その際にはまた何らかの形で皆様にご紹介させて頂くかもしれません。
不思議なことにこの1年足らずで当科ではこのような大きな変化がありました。私の後に当科に来る医師はもういないだろうと思いながら、これまでは教わるだけのある意味では変化のない楽な生活に安住していた自分がいたような気もします。それではいけないという戒めのようにも感じられ、これまで2人の先生に教えてもらったことをやはり次に伝えていく義務があるのだろうと思っています。
当院に勤めながらいつも思うことがあります。日々肛門疾患の患者さんが来て下さるのですがこれはどうみても肛門科の看板を掲げているからだけではありません。先代の吉田鐵郎先生の功績はもちろんではあるのですが、何といっても長岡の各先生方がこちらに紹介して下さるからに他なりません。現在当科では諸事情で全身麻酔ができないこともあり、(鼠径ヘルニア以外)一般的な外科手術は行っておりません。もし肛門疾患の患者さんに来てもらえなくなれば忽ち仕事を失うことになります。先生方には感謝しかありません。
私が当科を紹介する時どうしても肛門を連呼してしまうのですが、それは別に間違ってはいないし、医師同士であれば確かに問題ありません。当院に来てしばらくした頃、近所の方に、「あなたはどちらにお勤めですか。」と聞かれたことがありました。「吉田病院です。」「お医者さんですか。」「はい。」「何科ですか。」「肛門科です。」「……」。この後で妻から酷く叱責されました。「あの奥さん、あんたの答えに何て答えていいのか分からず困ったって言ってたわよ。」と。「“外科”と言えばいいのに。“肛門科”なんてばかじゃないの。」
私は今まで“肛門科”という言葉は恥じるべきものではなく一般的になって欲しいと思っていましたが、その時翻って考えるとやはり一般の人にそのような言い方をするのは良くないと実感しました。それ以降は肛門科ではなく外科と言うよう肝に銘じています。
話が逸れてすみませんでした。改めて医師会の先生方にはこれからも何卒よろしくお願い申し上げます。
私は昭和十三年(戊寅)に生まれ、今年(壬寅)は年男です。昭和十二年に日中戦争が始まり、徐々に戦時色が強まり、昭和十六年には日米開戦を迎えました。幼児時代は母の実家の会津若松市で育ちました。
昭和二十年四月に、父の実家のある奥会津の田島町立田島国民学校田部分教場に入學しました。分教場は一年生から四年生まで四十名位で、一つの教室で一人の先生に教えられました。どんな授業だったかは記憶にありません。
一年生の八月十五日に終戦を迎え、父から「戦争は終わった」と聞きました。終戦後の教科書は、先輩から譲り受けた古いものは、あちこち墨で塗り潰し、海苔弁の様な教科書と、新聞紙の様な大きな紙に印刷されたものをもらい、自分で裁断して糸で綴って製本して使いました。三年生になり先生が二人になり、一・二年生と三・四年生の二クラスになりました。
五年生からは約五キロ離れた本校に通うことになり、本校は五年生だけで三クラスありました。
田島中学校は田島小学校の他に、永田小学校と長野小学校の生徒も一緒なのでさらに人数が増えました。二年生の時に、クラスから生徒会長選挙に担ぎ出されました。クラス全員がポスターや選挙演説に協力してくれ、生徒会長に選ばれてしまいました。人生には大きな選択を迫られることがあります。大変なことになったと思いましたが、何とか一年間頑張りました。
高校は雑誌「中学時代」に広告が出ていた千葉県習志野市にある東邦大学附属高校に推薦で入学しました。医学部志望の生徒が全国から集まっていました。創立三年目の学校で、このままでは東邦大学医学部に入學出来そうにもないと思い、一学期だけで地元の会津高校に転校しました。工業高校や商業高校の生徒は朝6時前に家を出て、夜8時過ぎに帰宅する片道2時間の汽車通学をしていましたが、僕は会津若松に下宿していました。どういう訳か、二年生の時に生徒会の役員にされました。その辺の事情は覚えていません。もともと勉強はガリ勉ではなく八十点主義で、それは今でも続いています。
父の意向でもあった「医者か弁護士に」に従い、医者を目指していました。
新卒時も二年目も、何故か私立有名校の医学部を受験していました。その間東京の予備校に通い、生涯で一番本気で勉強しました。今でもいい経験だったと思っています。浪人二年目はこれまでと違い、新潟大学医学部と福島県立医科大学を受験しました。幸い二校とも合格し、新大医学部に入学することにしました。これも大きな選択でした。
入学式までに暫く間があるので、その期間に自動車学校に行き、小型自動車運転免許を取得しました。
昭和三十四年四月に新潟大学医学部医学進学課程に入學しました。新潟大学が創立九年目の頃でした。
入学式は、今は無き旭町の旧師範学校の講堂で、全六学部合同で行われました。同級生は七十名、女子は三名。入学式の直後の四月十日が現上皇の当時皇太子の御成婚式で、TVでも煌びやかな馬車パレードが放映されたのが印象的でした。
二年間の一般教養課程は、旧制新潟高校時代の理学部や旧師範学校の教育学部の校舎での授業を受けました。三年目からは医学専門課程に上進するわけですが、ここで十名の中途入学があり、同級生は八十名となりました。