長岡市医師会たより No.506 2022.5


もくじ

 表紙絵 「蘇州の運河」 木村清治
 「長岡から胃がんを無くす」 富所 隆(長岡中央綜合病院)
 「選択」 苅部哲也(長岡中央綜合病院)
 「蛍の瓦版〜その70」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜鋸山」 江部佑輔(江部医院)



「蘇州の運河」 木村清治


長岡から胃がんを無くす 富所 隆(長岡中央綜合病院)

 3月末をもって長岡中央綜合病院の病院長を退任いたしました。長岡市医師会に入会して42年間、公私にわたり先生方には大変お世話になりました。この場を借りて厚くお礼申し上げます。
 小生が長岡に来たのは昭和55年4月で、県立がんセンターで2年間のスーパーローテート方式の初期研修を終えた後でした。大学病院で研究生活を送れるほどの才能も無いと承知していましたので、1日も早く臨床医として働きたいと希望し、がんセンターで消化器内科のトップであった故小越和榮先生に紹介して頂いたのが長岡中央綜合病院でした。当時、当院の消化器内科には高橋剛一先生、杉山一教先生、織田克彦先生、戸枝一明先生がおられ、内視鏡検査のイロハから指導を受けました。毎日が本当に楽しくて、県との約束の3年間があっと言う間に過ぎてしまったのですが、あまり悩むことも無く、奨学金を全額返済し、長岡に留まることになりました。
 消化器内科医ですから、がんの患者さんは当然のごとく沢山おられましたが、赴任当時、18才と23才の女性の胃がん患者さんを看取ることになってしまいました。診断が早くになされれば助かる命を、みすみす失うことに理不尽さを強く感じたことを覚えています。そんなこともあって、長岡市民から胃がんで亡くなる人を無くしたいという思いを強く抱くようになりました。消化器内科の先生方と相談して始めたのが、山古志村での内視鏡検診でした。山古志診療所の佐藤良司先生にも協力をお願いし、昭和59年から村での出張内視鏡検診を始めることになり、この検診は平成16年に中越地震が起きるまで続けることが出来ました。
 長岡から胃がんを無くすという夢に別の形で今一歩踏み出すきっかけを作ってくれたのが、現在のABC胃がんリスク検診でした。事の初めは平成21年に長岡市医師会が、がん検診受診促進企業連携事業の委託を受けたことからでした。当時の医師会長は大貫敬三先生で、その指揮の下、住民への啓発活動、更に翌年には内視鏡検診なども企画し、行政との打ち合わせも幾度か開催されました。しかし、新しい事業に補助を出す予算は全くありませんとの非情な宣告を受け、断念せざるを得ませんでした。諦めかけていた頃、ピロリ菌感染が胃の発がんに大きな役割を有していることの証明がなされ、更に、その感染診断が胃がんのハイリスク群を抽出することへの有用性が示されました。それを用いたリスク検診を行う全国の行政からの報告も現れて来ました。そんな時、実にタイミング良く市会議員の永井亮一さんが当院に入院されました。小生は入院するに至った疾病はお構いなしに、日夜、胃がんとピロリ菌とリスク検診についてお話しさせて頂き、理解を仰ぎ、ついに退院後の議会における一般質問でリスク検診について取り上げて頂ける事になりました。その後、医師会と行政の話し合いはとんとん拍子に進み、平成26年に、県内初の市民への胃がんリスク検診がスタートするに至りました。
 この時一番有り難かったのが、長岡市医師会の会員の皆さんのご協力でした。幾度にもわたる説明会や講習会に出席して頂き、一次検診はほぼすべての医療機関から、二次検診は内視鏡検査を行っているすべての医療機関から快く参加して頂く事が出来たことでした。地域住民の健康な生活を守るために、すべての医師が協力して物事に対処する行動力にはいつも驚かされます。今回のコロナ禍においても全く同様でした。医師会を中心とし、行政と足並みを揃えて何処よりも先んじて対処することが出来ました。
 長岡市医師会が地域の人達に最も胸を張れる業績は現在の救急医療体制と思っています。その始まりは昭和43年に日赤・中央・立川・神谷の4病院での休日輪番体制だったとされています(長岡市医師会百年記念誌より)。その後昭和49年に休日診療所(内科・小児科)を開設、更に昭和59年には平日夜間の救急診療体制を、平成18年には中越子ども急患センター、平成20年には長岡市休日・夜間急患診療所が開設され、365日安心して1次救急から3次救急まで市民に資することができる救急体制が築かれました。平成27年には在宅療養を支えるために、フェニックスネットワーク事業が始められ、医療と介護の連携が図られるようになって来ました。
 全国では、このコロナ禍において、一般救急の搬送に支障を来していることがメディアに取りざたされています。こんな中ですが、長岡市消防からの報告では令和3年の救急搬送件数は9252件で、そのうち92・4%が1回の問い合わせで搬送先が決まり、3回の問い合わせで99・3%に搬送先が決まっています。これは、全国的に見ても極めて優れた体制がとれていることの証明です。
 今、国は社会保障費の削減のため、地域医療の再編を進めています。そして未だ医師の不足や偏在が是正されていない中で医師の働き方改革を強行しようとしています。効率化という錦の御旗のもと、長岡市の救急医療体制の見直しまで求めてきています。コロナ禍の収束も見通せない中、地域の医療を守るために、長岡市医師会が中心となって今後も一層の活躍をしていかれることを祈念して、今までお世話になったお礼とさせて頂きます。
 本当にありがとうございました。

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選択 苅部哲也(長岡中央綜合病院)

 初めてだらけの一年間だった。一つ壁を乗り越えたと思うと、またすぐ次の壁が現れた。次から次へと壁が現れて、それらを乗り越えるのにただただ必死だった。自分なりにがむしゃらに頑張ったつもりだったが、今思えばもっとやれることがあったのではないかと反省することも多々ある。そんな長岡中央綜合病院での初期研修もいつの間にか一年間が過ぎ、あっという間に二年目に突入した。
 自分は今、「将来の診療科はどうしようか?」と絶賛悩み中である。まだいいか、と先送りにしてきたが、ついに選択を迫られる段階まで来てしまった。そんな切羽詰まってヒイヒイ言っている自分を横目に、研修医同期や大学の同級生が着々と進路を決めていて、焦りの気持ちが一層募る。どうしてそんなにすんなり決められるのか、迷いはないのか、と感心してしまうのが正直な気持ちだ。初期研修が始まる段階では、「手術ができる診療科」という漠然とした方向性だけでも決めていたつもりだった。
 しかし、いざ初期研修が始まると、それぞれの診療科の奥深さや魅力に惹かれてしまい、選択肢がどんどん増えていってしまった。結果、必修を一通り先に回る研修プログラムのおかげ(?)で、「内科系か、外科系か。」という最初の分岐点に戻ってきてしまった。まさに「振り出し」に戻ってしまったのだ。「いっそサイコロに診療科の名前を書いて決めてしまえたら楽なのに!」、なんて馬鹿なことを考えてしまう。どうしたものかと悩む中、ふと「自分はどうして医師になろうと思ったのか?」と昔のことを振り返った。
 自分は元々優柔不断な性格で、時間が許す限りじっくり選択肢を吟味してしまう。この一年間、「時間かけ過ぎ!」と何度指導医や看護師から指導されたことか。今回だけでなく、これまでの人生における様々な場面でも大いに悩んできた。「バスケ部にするか、サッカー部にするか。」、「生物を選ぶか、物理を選ぶか。」、「高速バスにするか、新幹線にするか。」、「ハンバーグにするか、エビフライにするか。」…etc.そんな自分だったが、たくさんあった選択の中で唯一迷わなかった選択があった。それは「医師になること」だった。
 中学二年生の時、父と一緒に富山大学附属病院を見学した。そこは祖父が二年間入院した場所だった。残念ながら、祖父は自分が生まれる前に亡くなってしまった。院内を歩きながら、父が当時お世話になった主治医や看護師の話をしてくれた。「本当に良くしてもらったんだよ。」そう話す父の横顔はとても満足気で、15年以上経っても感謝していることが伝わってきた。きっと祖父も同じ気持ちだっただろう。たとえ患者が亡くなってしまったとしても、その時に携わった医師や看護師の姿はその家族の心の中に一生残り続けることを実感した。元々人体に興味があった自分はこの時をきっかけに、患者の人生に大きく関わることができる、そして人の役に立てる医師になりたいと強く思うようになった。
 道理で診療科が絞れないわけだ、と一人で納得してしまった。なぜならば、この条件は全ての診療科で満たすことができるからだ。それぞれの医師が一人一人の患者さんのために尽力する姿を見て、心が揺れ動いていたのだ。
 学生の頃から、ご指導していただいた先生方に必ず聞くようにしていた質問がある。「どうして今の診療科を選んだのですか?」。すると、その選択に至るまでの様々なストーリーを聞くことができた。何となくの理由で決めた人がいれば、きっちりとした理由を持って決めた人がいる。医学部に入学した時から決めていた人がいれば、ギリギリまで悩み切った人がいる。お金を理由に決めた人がいれば、やりがいを理由に決めた人がいる。同じ医師なのに様々な生き方があることを知ることができた。
 ただ、どの先生においても共通していたことが一つあった。それは、「今の診療科を選択したことに後悔はない。」ということだ。もちろん、どの先生もたくさんの苦労や苦悩を経験しており、決して平坦な道が続いていたわけではないだろう。現代では想像もつかないような労働環境で働いていた先生もいた。それでも振り返ってみると、今の診療科にして良かったと話をしてくれた。先生方の自信と誇りに満ち溢れた姿を見るだけでその思いが強く伝わってきた。このことに気が付いてから、改めて医師になれたことに感謝するとともに、自分も同じような人生を歩みたいと思っていた。
 きっとどの道を選んだとしても、自分の意志に従う限り後悔はない。自分の選択を信じよう。そうすれば、今の自分をほほえましく思える時がきっと来るだろう。そもそも選択の自由があるということは幸せなことだ。この幸せを最後まで思う存分堪能したい。

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蛍の瓦版〜その70 理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.令和4年度診療報酬改定
初めに
 令和4年の診療報酬の改定では、新たに不妊治療が保険診療の対象となり、リフィル処方も始まりました。
 新型コロナウイルスの流行を踏まえて、感染症対策に係る評価として外来感染対策向上加算≠ェ新設されました。またオンライン診療の要件が緩和され、オンライン在宅診療に係る評価も新設されました。
病診連携
 今回の改定では、病診連携に係る評価として新設されたものや、算定要件に病診連携が求められるものがいくつかあります。
 新設の外来感染対策向上加算≠ヘ診療所を対象とし、初診料や再診料等の診療料が広く加算の対象となっています。この加算の算定要件として、新型コロナウイルスのようなパンデミックに備えた体制の整備とともに、基幹病院や地域医師会との連携が求められています。さらに診療所が定期的に基幹病院等へ感染症の発生状況等を報告すると連携強化加算≠フ算定も可能となります。連携要件の詳細については不明な点もありますが、長岡市医師会でも研修会の取りまとめを行なう等の関与を検討しております。
 病診連携に係る新設としてこころの連携指導料≠ェあり、精神科や心療内科を標榜する病院等とかかりつけ医との連携を評価したものです。この連携指導料は認知症専門診断管理料≠ノ似たものですが、こちらの診断管理料も算定要件の緩和があり、対象病院が拡大しています。
 大腿骨近位部骨折を対象とした二次性骨折予防継続管理料≠ェ新設されました。大腿骨近位部骨折を受傷した患者さんに対し、病院で手術とともに二次性骨折予防目的に骨粗鬆症の治療を開始すると管理料1です。その後のリハビリテーション目的の病院でも継続して骨粗鬆症の治療を行うと管理料2の対象です。退院し在宅に戻られた後はかかりつけ医が骨粗鬆症の治療を継続すると、予防継続管理料3の算定が可能となります。
 また幼児や学童のかかりつけ医から学校医への、小児慢性特定疾患やアレルギー等に関する情報提供も算定の対象となっています。在宅療養の患者さんを対象に診診連携を評価した外来在宅共同指導料≠熕V設されています。
 この他にもいくつもの改定がありますが、詳細は医師会や保険医会からの情報をご確認下さい。
追記(大腿骨近位部骨折)
 今回の改定では大腿骨近位部骨折の係る評価として前述した二次性骨折予防継続管理料≠ノ加え、75歳以上を対象に骨折後48時間以内の手術に対する加算も新設されました。
 大腿骨近位部骨折は骨折の中でも最悪の骨折で、手術療法が普及し可及的速やかに行われるようになってからも、受傷後1年の死亡率は10%を超え、歩行能力は確実に低下します。現在要介護や要支援の原因の4割が運動器疾患によるものですが、その割合は徐々に増加しています。高齢者の増加に伴って、大腿骨近位部骨折の受傷者数は今後10年で1、2倍以上に増えると推測されており、それらを見据えて診療報酬上の評価の新設であると推測します。
 新潟大学整形外科学教室では全県を対象に5年毎に大腿骨近位部骨折の疫学調査を行っています。令和2年度に長岡市・小千谷市・見附市では629例の骨折がありました。そのうち骨粗鬆症の治療を受けていた者の割合をみると、中越地区では13%に過ぎず他の地区と比べると低い数値です。
 勿論、高齢者の骨折の予防には、日常の運動や栄養も重要で、薬物療法が全てではありません。その上でかかりつけ医の方々には、高齢者の骨折予防にも目を向けて頂けないでしょうか。大腿骨近位部骨折は整形外科だけで対応できる問題ではなく、医療と介護の全分野の協力が必要です。
2.入院待機ステーション
 2月1日に開設しました入院待機ステーションは、県からの一時停止要請により3月27日を以て現在も一時停止中です。期間中には計5名の利用があり、退所先は自宅療養とホテル療養が各1名と、他の3名は病院へ搬送され入院となりました。ステーションの当初の設置目的である入院病床が逼迫した際に入院待機者に対し、入院先が決まるまでの間に酸素投与等の生命維持に必要な処置を実施する一時的な施設≠ニしての役割は、十分に果たしたものと思われます。
 執務に当たられた先生方や看護師さん事務職の皆様大変ご苦労さまでした。その他準備段階からご協力をいただきました赤十字病院のスタッフやオンコール当番に手上げいただいた全ての方々に御礼申し上げます。まだ一時停止中ですが、このまま医療状況が逼迫せず、再開することが無いことを祈っています。

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巻末エッセイ〜鋸山 江部佑輔(江部医院)

 鋸山、標高765mほどではあるが、長岡市民からは「のこぎりやま」とよばれ慕われてきた。栃尾との合併で標高1位の座は守門岳に奪われたが、長岡のシンボル的な存在であることにはかわりはない。そもそも長岡の旧市街地からは守門岳をみることができないのである。長高第2校歌にも「鋸山(のこぎりやま)はけざやかに 東の空に聳えずや」と謳われている。作詞をした堀口大學が鋸山に登ったことがあるのかどうかは定かでないが、長岡の思い出の一つとして心に刻まれていたのだと思う。
 私が初めてこの山に登ったのは中学3年の11月であった。友人数名と突然この山を目指すことになった。理由は覚えていないが、毎日この山を眺めているうちにそういう思いに至ったのであろう。長岡駅東口のバス停から栖吉に向かい、そこから栖吉川に沿って山へと向かった。登山靴は学校行事で火打山に登ったときに買った。登山靴をはくのはそれ以来であった。天気は秋晴れであった。山登り開始の時間としては少々遅かったかもしれない。はっきりとは覚えていないが、恐らく花立口から山に取りついた。運動部員で構成されたメンバーは、すぐに東山の稜線には辿りついた。陽は西にやや傾きかけてはいたが、まだ十分明るかった。我々はそこで昼食を取った。見晴らしはよかった。眼下には真っ白に輝く市立劇場、その先に汪洋と流れる信濃川が広がっていた。清々しい秋晴れの下、見下ろす景色の素晴らしさに我々は先を急ぐことをすっかり忘れて過ごした。その後は尾根伝いに山頂に向かった。ただ、そこで過ごした時間が長すぎたことは確かだった。気が付くとすでに陽は西南西の方向遠くに傾き、空は真っ赤に染まっていた。我々も漸く先を急ぐ気になった。下山はもと来た道を戻ったはずだった。花立峠から麓へと向かい下山を続けた。しかし、谷合に向かうにつれ陽光は一気に減衰し、視界は一気に闇の中で遮られる。この事態を想定してなかったので、誰一人懐中電灯を持っていなかった。とにかく先を急いで下山を続けた。晩秋の山は広葉樹の落葉が地面を覆いつくす。木々の合間が広くなり、そのため登山道がわかりにくくなる。気が付くと我々は道を見失っていた。それでもひたすら下山し続けた。途中藪漕ぎもした。自分たちが遭難仕掛けているなど考えもせず、がむしゃらに下へ下へと歩き続けた。空は既に星空に変わっていたが、我々の前には一向に道は現れなかった。気持ちは少々焦っていた。幸いその日は穏やかな天候で、山は静寂であった。途方に暮れかけた我々を救ってくれたのが、栖吉川のせせらぎであった。我々は音が聞こえる方向に向かい、ようやく登山道に戻ることができた。登山口から栖吉の集落までの道は月光に照らされ明るかった。バス停までたどりついた時には既に7時を過ぎていた。近くの公衆電話から家に連絡をした。小心者の自分は、先日もちょっとした校則違反で教務員室に呼び出されて部活の顧問であったW先生から?責を受けたばかりであったので、また問題を起こしてはなるまいという思いがあったが、幸い父は家におらず、母も特に心配している様子はなかった。友人たちの電話も無難であった。バス停前の自動販売機でコーヒーを買った。田舎の夜である。バスはすぐには来なかった。しばらく今日の山行を語り合った。もしかすると遭難していたかもしれないのに、我々は無邪気だった。コーヒーを飲み終わるころに漸く来たバスに乗り帰路へとついた。
 10年ほど前から山によく行くようになり、足慣らしに手頃な「のこぎりやま」にはよく登るようになった。今はしっかりした登山道を有志の方々が管理してくださっているため、快適かつ安全に登れる。でも、いつでも明るいうちに下山するようにしている。そして、どんな山でも計画的な登山と懐中電灯と雨具の携帯を忘るまじと肝に銘じている。

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