長岡市医師会たより No.507 2022.6


もくじ

 表紙 「雨上る(最上川)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「院長就任のご挨拶 よろしくお願いいたします」 矢尻洋一(長岡中央綜合病院)
 「開業のご挨拶」 田村 立(長岡こころの発達クリニック)
 「祇園祭とダビデの星」 福本一朗(長岡保養園)
 「道草の楽しみ(春)」 漆山 勝
 「趣味のお話」 沖田直大(立川綜合病院)
 「蛍の瓦版〜その71」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜ドゥブロヴニク 最後の寄港地」 富樫賢一



「雨上る(最上川)」  丸岡 稔(丸岡医院)


院長就任のご挨拶 よろしくお願いいたします 矢尻洋一(長岡中央綜合病院)

 4月から富所名誉院長の後を引き継ぎ長岡中央綜合病院院長となりました矢尻洋一です。
 よろしくお願いいたします。
 医師会員の皆様におかれましては、一体何者かと思われる方も多いのではないでしょか??この機会をおかりして自己紹介をさせていただきます。
 私の生まれは旧三島郡寺泊町です。県立巻高等学校を卒業し、新潟大学に進学しました。大学では柔道部に所属していました。勉強は試験に落ちない程度に、それなりに、そして夜は、みながわ、亀萬、成駒、わかさ家などで運動部の仲間とよく酒を飲み交わしておりました。現医師会長の草間先生には、当時大変お世話になりました。卒業後は新潟大学整形外科教室に入局しました。当時田島達也教授、高橋栄明助教授の時代でした。入局後1年間の大学研修の後、会津中央総合病院の麻酔科で6か月間研修をしました。同院は当時から救命救急センターがあり、日本医科大学の救命救急科が担当していましたので、6か月間の麻酔科研修のほかHCUの当直を1週間に2回ほどしていました。この頃の会津はまだ土曜日は1日働くのが普通でした。ちなみに時間外勤務、超勤をつけた記憶がありません。今では考えられないことです。その後秋田赤十字病院、鶴岡市立荘内病院で研修、そして一人医長として両津市民病院、新発田市の北越病院に勤務し、県立吉田病院に移動し、整形外科大学院に入学しました。当時教授であられた高橋栄明先生は、研究はいわゆる基礎の教室で2年間はしっかり勉強するとの方針をお持ちでした。そして漠然と痛み=A神経≠ノついて勉強したいと思っていた私は、周囲の皆さんのおかげで脊髄における痛みの研究≠する目的で久留米大学医学部生理学教室に2年間国内留学することができました。週1回の開業医でのアルバイト以外は、ラットの脊髄後角神経細胞から数ミクロンのガラス電極を用いて伝導電位、電流を測定する毎日でした。実験が終わると屋台で反省会をするという、今から考えると自由な時間を過ごさせていだだきました。新潟大学に帰学後、米国、テキサス大学ガルベストン校の研究室にポスドクとして留学する機会に恵まれました。当時、長男が生後4か月でしたが、家族でアメリカに行くことにしました。アメリカでは日本での研究を継続し、この間に次男を授かり、2年半後に帰国しました。帰国にあたり高橋教授から、このまま研究者として生きるか、臨床に戻るかとの手紙をいただき、研究者としての限界は充分自覚していたので、整形外科教室に戻ることにしました。大学院に入学後、ほぼ5年間臨床から離れ、手術もしていない状態でしたので、全く使いものにならない整形外科医でした。
 帰国後6か月間の大学病院勤務後、直江津の新潟労災病院に脊椎外科専門の責任者として赴任しました。赴任当時は腰椎椎間板ヘルニア手術に2時間以上かかる状態でしたが、自分なりにできる範囲で臨床に取り組み、現在に至っております。
 3年間の勤務後、2001年に当時副院長であった安川敬一郎先生の御高配で長岡中央綜合病院に勤務することができました。私の赴任後、安川先生が六日町に開業され、その後一人で脊椎疾患の診療を行っていましたが、2007年に高橋一雄先生が赴任され、二人体制となりました。話は前後しますが、2004年の中越地震発生時は土曜日で当院は救急当番病院で、私はちょうど外科系の当番で日直を終わり、引き継ぎをしていました。地震発生時、病院には私を含め4名の医師がおりました。救急車で搬送された下肢開放骨折の手術を戸内先生と余震が続く中で行い、そのあと救急外来で患者さんに対応しました。今でもしっかり覚えております。
 2017年に富所先生が病院長に就任する際に副院長となり、病診連携室室長、地域連携支援部長として、医師会にも顔を出すようになりました。そしてこの度、院長という重責を引き受けました。以上が私の自己紹介です。
 そして最も重要な今後の長岡中央綜合病院についてです。
 まず、「すべての職員が仕事に誇りと、そしてやりがいを感じられるような職場を作る」
 当院で働く1000人以上の職員が誇りを持てる、やりがいを感じられる職場、環境を整えられるように、2024年に向けた医師の働き方改革も含め、これを進めます。
 そして「皆様に信頼され選ばれる病院になる」
 皆様とは患者さんはもちろんですが、地域の医療機関の先生、そして医療職員すべての方です。その皆様に選ばれる病院を目指します。
 地域医療の中核として開業医、診療所との地域連携を深め、高度医療を提供するべく2021年4月に地域医療支援病院の認定を受け、2022年4月にDPC特定機能病院群を維持更新しました。今後も患者さんの紹介、逆紹介を基本とし、病診・病病連携をすすめます。
 長岡地域では長岡赤十字病院、立川綜合病院との3病院輪番制の下、一般の救急搬送の患者さんはもちろん、コロナ感染の患者さんも救急外来受診、緊急入院が困難となることはありませんでした。長岡の3病院の輪番体制は全国に誇れる救急体制です。
 コロナ感染症後を見据え、地域医療構想、働き方改革、医療従事者不足など課題が山積で、厳しい医療情勢です。このような状況ですが、当院の理念である「すべての人に良質で心温まる医療を提供する」ために先頭に立って努力してまいります。医師会の皆さまには、今後とも御指導、御支援のほどよろしくお願い申し上げます。

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開業のご挨拶 田村 立(長岡こころの発達クリニック)

 長岡市医師会の先生方には日頃より大変お世話になっております。2021年5月旭岡におきまして「長岡こころの発達クリニック」を開院させて頂きました田村 立(たむら りゅう)と申します。開業して一年目の寄稿の依頼を頂きましたので自己紹介も含めてご挨拶させて頂きます。
 私は群馬県桐生市の生まれで、群馬県立太田高等学校の出身です。趣味は2017年から減量及び健康目的のために始めた筋力トレーニングやランニングなどのワークアウトで、趣味が高じて自宅に本格的なジムを作ってしまいました。2018年には初フルマラソンに挑戦し、なんとか完走できました。またサッカーチーム・アルビレックス新潟の20年来のサポーターで6年前からは微力ながらバナースポンサーとしても応援させてもらっています。
 2002年に新潟大学医学部を卒業し、同学部精神医学教室に入局後、新潟大学医歯学総合病院精神科、新潟県立精神医療センターに勤務した後、2006年に愛知県立あいち小児保健医療総合センター心療科にてレジデントとして従事し、発達障害全般の治療及び被虐待児への医療的対応や地域や多職種での包括的ケアの重要性を学びました。その後2009年から2014年にかけて、新潟県立精神医療センター児童精神科の病棟長として不登校や引きこもり、児童思春期の精神疾患への入院治療に従事しました。2014年からは新潟県内初の発達障害専門クリニックである「新潟こころの発達クリニック」にてオープニングから7年間勤務し、当分野の需要の多さや必要性を強く実感しました。その診療のなかで新潟市のクリニックに県内の様々な地域から患者様が来院され、上越や中越地区、中には県外から長時間かけて来院されるケースも少なくなく、需要の高さがある一方で、専門性の高い当分野の医療的供給がまだまだ足りていない現実を目の当たりにしました。今まで計6年間長岡市で勤務し、平和や復興の象徴である長岡花火や教育・子育てに対する米百俵の精神の根付く土地であるとともに、河井継之助や山本五十六など人を惹きつける魅力のある先人達の出身地である長岡にとても魅力を感じ、長岡の土地で働きたいという気持ちがあり、縁とタイミングがあって、開業させていただきました。
 開業地は旭岡の立川綜合病院の並びにあり、つい先日長岡東西道路が全開通し、長岡東バイパスに結節したことでフェニックス大橋を渡って長岡ICや川西方面からの往来もしやすくなりました。現在も新しい住宅や商業施設、医療福祉施設が次々と建ち始めており、賑わいを見せています。
 クリニックの人員は看護師1名、精神保健福祉士1名、心理士3名、医療事務3名の計8名体制で診療を行っております。駐車場入口には長岡花火をイメージした存在感のある鮮やかな案内看板が立っています。玄関からクリニック内に入ると真正面に山下清作の「長岡花火」(レトグリフ)が出迎えてくれます。院内は天井を高く開放感を持たせ、優しく落ち着きのある木目調を基調としています。診察室、処置室、相談室、心理検査室2室の他にキッズルームを準備しました。2021年5月の開業から2022年3月までの患者様の来院状況ですが、新患数は905名、年齢帯では18歳未満が約8割を占めていました。また地域別では54%が長岡市、長岡市以外の中越地区21%、県央地区13%、魚沼地区9%、上越地区2%、新潟市・県外1%からの来院となっていました。診断(重複診断含む)では自閉スペクトラム症55%、注意欠陥多動症54%と約半数が発達障害について相談で、次いで不安症28%、気分症18%となっていました。最近では再来患者数が増える一方で、一日に診察できる新患数を減らさざるを得ず、新規予約が現在3ヶ月程度の待機となっており、やはりこちらでも需要の高さを実感し、身の引き締まる思いを感じています。
 8年ぶりの長岡での冬を迎えましたが、2022年1月までの積雪が少なく、今シーズンはこんなものかと油断していたところに2月の数日のうちにあっという間に1mを超える積雪を目の当たりにして、冬の長岡を久しぶりに肌で感じました。幸いクリニックの融雪装置も順調にフル稼働し、大きなトラブルなく冬を越すことができました。その後、すぐに春がやってきて短い期間ではありましたが久々に福島江の桜風景を堪能でき、現在は新緑に包まれる長岡を日々味わいながら通勤しています。今年は長岡花火も開催予定とのことで、無事に長岡の夏の空に花火が上がることを願いながら1日1日、今一瞬と一期一会を大切に診療に当たっています。
 新潟県のへそ≠ナある中越地区に発達障害専門クリニックを開院することで当分野の新潟県地域全体のニーズに応えられるよう全力で頑張りたいと思いますので、先生方におかれましても、なお一層のご指導ご鞭撻を賜れましたら幸いです。

クリニック内観・外観

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祇園祭とダビデの星 福本一朗(長岡保養園)

 日本三代祭の一つ祇園祭は平安時代の疫病を鎮めるため「祇園社(=八坂神社)」に66本の鉾を祀って祈願したことに始まります。400年以上前から伝わる祇園祭山車の「函谷鉾(Fig. 1)」が旧約聖書創世記の場面を、また「鯉山」山鉾の見送りにはダビデ王が描かれていることをご存知でしょうか? これを見て日本の神道とユダヤ教の宗教儀式の類似性に初めて気付き、「日本古代史の縮図1878」を著して「日猷同祖論」を最初に唱えたのは明治期に来日したスコットランド人宣教師マクラウド(Nicholas McLeod fl 1868−1889)でした(Fig. 2)。2700年前にアッシリアによって追放されたイスラエルの失われた10支族がシルクロードを通って古代日本に移民してきたというロマン溢れる歴史仮説は、以後内外の20名を超える研究者の心を捉え、中でも民俗学者の柳田國男・折口信雄・南方熊楠、クリスチャンの内村鑑三、文士の海音寺潮五郎・松本清張なども隠れた同調者であったと言われています。
 中でもノンフィクション作家の司馬遼太郎は「兜率天の巡礼」の中で、中央アジアにあった弓月国のユダヤ人の一族が秦・新羅から瀬戸内海を渡航して赤穂に定住し、そこに「いすらい(=イスラエル)井戸」を掘り、ダビデ神社(=大辟神社)を残したとし、やがて大和の太秦に移住して秦氏となって朝廷に重用され、その子孫秦河勝(Fig. 3)は政策官僚・宗教指導者・養蚕事業者・治水土木技師・採鉱冶金技術者・運輸交通大臣・大倉大臣・薬剤師として聖徳太子の政治を補佐したと考えています。
 ユダヤ教のラビ、マーヴィン・トケイヤー氏(Marvin Tokayer, 1936年−)が指摘する様にユダヤ人の風俗習慣・言語・宗教性・民族意識などが日本と酷似している点が多いことに驚かされます。ユダヤ教で世界の中心を示す三柱鳥居(Fig. 4)、神輿と契約の箱(聖櫃)、世界で日本とユダヤだけにある三種の神器、聖所・至聖所・手水舎を備えた赤い神殿構造、式年遷宮と移動幕屋、偶像のない神殿、正月と過越の祭り、伊勢神宮参道の六芒星とダビデの星の類似(Fig. 5)、ユダヤ人言語学者アイデルバーグによるスメラミコト≠ヘヘブライ語でサマリアの大王≠意味するなど3000語に及ぶ類似単語の発見、八咫鏡裏面にヘブライ語で「我は有りて有るものなり」と書かれていたこと、天皇家とユダ族の獅子紋章の類似、土地分配方法や奴隷の子供の所属規定などについて大化改新詔と旧約聖書の類似、そして極め付けはユダヤ人埴輪≠フ発見でした(Fig. 6)。さらに戦後1952年にGHQ総司令部勤務ラビの?M.J.Rosen?が、秦氏が播州赤穂から大和に移住する際の経由地とした淡路島で古墳時代の構築物を発掘した際に、ガル・コディツシュ(聖なる石山/波)≠ニ読めるヘブライ文字が刻まれた女陰石とダビデの星を陰刻した指輪を発見しました(Fig. 7〜9)。素人目に見てもそれら全てが偶然の一致とはとても思えません。
 小生は9年間の北欧スウェーデン留学中に、多くのユダヤ人の先生や友人達の知己を得ましたが、彼らが日本人と共通した独自の感性や考え方を持っていることに驚きました。それは離散の民=diaspora≠フユダヤ人が、地球の反対側にある古代日本に来たことがあるとすると初めて納得のいくことです。ただ歴史的にはあり得ることでも、千年の昔の一般民衆の事跡を文献的に証明することは不可能に近いでしょう。もしかして日本人の西方への回帰願望と西洋人の東洋への憧憬は、古代の民族記憶に基づいているのではないでしょうか。時と場所を超えて人類の夢と英知は同じと思わずにはいられません。天に栄光、地には平和を!

Fig. 1 祇園祭の函谷鉾

Fig. 2 Nicholas McLeod fl

Fig. 3 秦河勝

Fig. 4 木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居

Fig. 5 六芒星(=ダビデの星)

Fig. 6 柴山埴輪とユダヤ帽

Fig. 7 淡路島のヘブライ(?)遺跡

Fig. 8 ヘブライ文字の女陰石

Fig. 9 ダビデの星指輪

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道草の楽しみ(春) 漆山 勝

 小学生のころ通学路は舗装されてなく、学校帰りに路面を見ながら歩くとキラキラ光る金属を含む小石や細かな水晶を含むきれいな小石がまれにあり、拾って家に持ち帰ったりしていました。道路がほぼ舗装された昨今では小石を拾う楽しみは無いですが、道端の雑草の観察が面白く飽きません。
 長かった冬が終わり、雪が解け、道端に草花が咲きだすと早速散歩に出ます。
 【フキノトウ、ウド、ユキノシタ】
 早春には、2坪ほどの庭でフキノトウやウドの新芽、ユキノシタの葉が収穫できます。
 妻がおいしく調理してくれます。フキ味噌やてんぷらでいただき、春を感じます。
 【タラの芽、ワラビ】
 家の周りを散策すると道端のタラの芽やワラビが目に留まり、これも一食分少しだけ採取します。妻がおいしく調理してくれ、食卓にあがります。
 【カタクリの花】
 越後丘陵公園の大群落は見事ですが、ゴルフ場にもカタクリの花の群生が見られます。フェアウエイではなく山近くにボールが行くことが多いのでゴルフ場でも山野草を良く見ています。
 【セリバオウレン】
 近所の雑木林の中で珍しい形の実をつけた雑草を見たときは不思議な感じがしました。細長い袋状のものが矢車のように輪状に着いた実で、まるで宇宙船の船体に付いたアンテナのように感じました。名前がわからず、家に帰って家庭版の雑草図鑑を見ても載っていませんでした。どうしたものかと思っていましたが、今は便利になりスマホで写真を撮ると、それが何か教えてくれます。セリバオウレンという草でした。花後の実のみ見て花は見ていませんがネット上では可憐な花の写真が見られました。
 【タニウツギ、ガクウラジロヨウラク】
 家のすぐそばの雑木の斜面ではピンク色のタニウツギがたくさん豪華に咲きます。そこから近いところ、少し大きめな広葉樹の下に隠れるように、ドウダンツツジの花に似た紫色の花をたくさんつけている小さな木がありました。これもスマホで写真を撮り何の花か調べました。ウラジロヨウラクの仲間で、日本海側に見られるものはガク片が顕著にみられるため、ガクウラジロヨウラクと名付けられていることを知りました。
 【トキワイカリソウ】
 イカリソウの花は独特の形をしていて好きな花の一つです。県東部の山のほうで少し見かけたりして喜んでいましたが、今春何気なく県中部の里山に散歩に行った時、田んぼのわきの雑木林傾斜地に10m四方ほどの広さにわたりイカリソウの大群落があって、たまげるほど感動しました。
 【枯れた杉の葉、落ちている小枝】
 電気代もガス代もコッソリ、ドドンと値上がりしています。5月の連休に次男が帰省した折、持続可能な生活を目指すことができるだろうかと思い、家の周りの道端に落ちている枯れた杉葉や小枝を集めてバーベキューを試みました。御迷惑をおかけしないよう、ご近所がお留守で洗濯物が外に干されていないのを確認して、30年前からの焚火台ではじめました。バーベキューは10年ぶりです。杉の葉や小枝の火付きはよかったものの熱量が足りず、それだけでは料理できませんでした。結局10年前に購入してあった炭も使い、バーベキューしました。薪も買えば相当高いと聞いていますので、落ち葉や小枝で焚火してもあまり節約にはならないようです。
 このように、散歩し、見て楽しみ、採取して食べて楽しんで過ごしております。これから季節が進みますと、また新しい出会いがありそうで楽しみです。
 仕事で医師会の先生方には紹介状で患者さんをお頼みしております。いつも快く診察していただいており、ありがとうございます。この場にて感謝申し上げます。今後とも宜しくお願いいたします。

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趣味のお話 沖田直大(立川綜合病院)

 自分は釣りが好きだ。
 勉強の気分転換にと去年の春から始めた趣味なのだが見事にはまってしまった。天気さえ良ければ荷物をカバンに詰め、竿を肩にかけ片道20分程度の道を自転車で駆け抜けていた。
 フィールドは海。夜明け前〜早朝、もしくは夕暮れ〜日没の時間帯を狙って出発する。これは餌を求めて魚の活性が上がるため、釣れやすいといわれる時間帯である。自転車に乗って風を受けながら行き先を決める。場所の候補はいくつかあるが、どこに行くかはその日の風向き次第。横風や向かい風が強いと釣りにならないため極力避けられそうな場所を選ぶ。近くに着いたら自転車を邪魔にならない場所に停め、少し歩く。すると海が見えてくる。しかし現地に着くまで波の高さや風の強さ、潮流など、日によって違うためその日の状況は実際に行ってみないとわからない。期待通りに穏やかなときもあれば、特に風が強いわけでもないのに波が高く荒れていることもある。今日はどうだろうか。釣りになるコンディションだろうか。何が釣れるだろうか。奇麗な海の景色を横目にワクワクしながら釣り場に向かう。釣り人でにぎわっていたり逆に全然いなかったり、これも日によって違う。空いている場所を見つけ荷物を降ろしたらようやく準備開始。カバンからリール(釣り糸を巻く道具)を取り出し、釣り竿につけて糸を通す。そして糸にルアー(小魚を模した疑似餌)やワーム(虫を模した柔らかい素材の疑似餌)を結んで完成。2,3時間程度釣りを楽しんだら片付けをして帰宅する。
 何かが釣れればおいしくいただく。釣れたての新鮮な魚を料理して食べることも釣りの楽しみのひとつだ。釣れた魚は帰宅後すぐに下処理(内臓を取る)を済まし冷蔵庫へ。小さい魚はこれで終了。ルアー釣りでは30p超えの中型の魚が釣れることがあり、下処理、うろこ引きをしたあとに3枚おろしにする必要があるのだが、そこで出刃包丁の出番である。ある日40p弱のサゴシ(サワラの30〜40pのときの呼び名)が釣れ、持っていた普通の包丁では非常に捌きにくかった(当時不慣れだったのもあるが、全然刃が通らなかった)ことがあり、砥石と合わせて買ってみたのだがとても切れ味がいい。刃を当て、軽く包丁を引くだけでスパッと身が切れるためとても気に入っている。野菜を切る程度の用途で使う包丁ではないため出番が少ないが、大きめの魚が釣れた時に使う特別な包丁として使う時を楽しみにしているのだ。こうして捌き終わった魚は塩焼きやフライ、天ぷら、干物など好きな料理にする。釣りたての魚はとにかくおいしい。特にアジは大好物で秋によく狙って釣っていた。15〜20p程度のサイズなら開いてアジフライに、それ以下のサイズならネギ、味噌、醤油、しょうがなどと一緒になめろうにしていた。運よく25p以上のアジが釣れたことがあったが、これにはとても驚かされた。下処理だけして、フライパンに油を敷き塩を適量振って簡単に塩焼きにするだけ。それ以外の味付けは不要。身からあふれるほど見事に脂がのったアジで、米と大根おろしが非常によく進んだ。これはスーパーなどで買う魚では絶対に味わえないと思う。ああ、書いていてまた食べたくなってきた。今年の秋までには車を買って釣りに行けるようにしなければ……。
 釣りにはまっていくにつれ持っている釣り具が増えてきた。リールだけでも現在8つある。釣りをしない人からすると、どうして?全部一緒でしょ?と思うかもしれない。理由は簡単である。全部用途が違うのだ。釣り具のうちリールに絞って話をしても、リールの大きさ、糸巻き量、巻く糸の太さなどを、やりたい釣りによって変える必要がある。例えば軽いルアーを使う場合のリールは、細めの糸に中くらいの番手(リールの大きさ)でよいが、重めのルアーを使う場合パワーが必要のため、ある程度太い糸と大きめの番手を選ぶ必要がある。アジングと呼ばれるアジ釣りに特化したものでは、さらに細い糸に軽量の小型リールが必要となる。自分のやりたい釣りはいくつかあり、それに合う用途のリールを用意してしまった。最近はそのリールを分解し、ベアリング交換といったカスタムや、グリス・オイルメンテナンスをし、巻き感を自分好みに弄るようになった。いつか実戦投入することが最近の楽しみだ。釣りを始めてまだ1年程度しか経っていないが、さらに経験を積み、自分にとっての釣りの楽しみをさらに広げていきたいと思う。

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蛍の瓦版〜その71 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 二次性骨折予防継続管理料「3」℃Z定の手引き

 1.初めに
 ボン・ジュールの5月号でもご紹介しましたように、令和4年度の診療報酬改定において、大腿骨近位部骨折の患者さんを対象とした二次性骨折予防継続管理料「1」「2」「3」が新設されました。「1」は手術を行う病院が手術療法とともに骨粗鬆症治療を開始して算定します。「2」はリハビリテーションを行う病院が並行して骨粗鬆症の治療も継続し算定できます。「3」は診療所が、病院から紹介された術後患者に対し骨粗鬆症の薬剤治療を継続することで、月に1回500点が1年間の期間限定で算定可能となります。算定には以下の要件を満たす必要がありますが、通常の内科系の診療所でも難しいものではありません。ぜひこの手引きを参照され、新設の管理料を算定して頂きたいと存じます。

 2.厚生局への届け出
 算定には前もって厚生局への届け出が必要です。施設基準届出用紙に記入し厚生局に届け出してください。記載内容の注意点は以下のとおりです。
 ・医師や看護師は専任なので、診療担当の常勤者の名前を記載してください。
 ・常勤の薬剤師が自院にいない場合は、地域の保険医療機関(連携する薬局等)の薬剤師さんにお願いできます。
 ・1年に1回院内での研修会の開催が必要となります。自前で開催することも可能ですが、骨粗鬆症サポーター研修会等もウエブでの開催が予定されており、それらの資料を活用し伝達講習することもできます。

 3.治療上の注意事項
 継続管理料「3」の算定要件には、継続管理料「1」の既算定がありますが、長岡地域で手術を行っている三つの基幹病院は、ほぼ全ての骨折患者さんに二次性骨折予防継続管理料「1」を算定されています。そのため骨折患者さんは退院時には骨粗鬆症の治療(基本的にはビスフォス製剤と活性型ビタミンD3製剤)が既に開始されています。患者さんの状態を確認し、副作用無く継続可能であれば、内科疾患と並行して骨粗鬆症の薬剤もそのまま継続してください。ビスフォス製剤では服用方法に注意が必要で、わりと消化器系の副作用もありますが、発売から10年以上が経過しており効果安全性共に認められています。しかし腎機能が低下した方(eGFR30?以下は禁忌)や、口腔内の状態の悪い方では注意が必要です。
 内科疾患と同様に年に2−3回の血液検査を実施してください。特に血中のカルシウムとリンの値及びカルシウム値の補正のためのアルブミン値や腎機能は必須です。明らかな異常値があれば、薬剤を変更するか病院の専門医へご紹介下さい。
 骨粗鬆症治療のガイドラインでは治療の評価として、採血による骨形成・吸収のマーカーの測定や通常のレントゲン撮影による脊椎の圧迫骨折等のチェック、また骨塩の測定が推奨されています。いずれでも利便性の高い方法で良いかと存じますが、ご不明な点は整形外科の専門医等へご相談下さい。

 4.長岡市の現状
 昨年度1年間に長岡赤十字病院と中央綜合病院および立川綜合病院の三病院で、合計600余例の大腿骨近位部骨折の患者さんが治療され、そのうち約半数の300余例が自宅へ退院されています。大腿骨近位部骨折の患者さんは歩行能力が低下することもあって通院が困難な方が多く、大半がかかりつけ医である内科系の診療所でフォローされています。骨粗鬆症の治療に不慣れな方でも、継続処方であれば始め易いと存じます。中越地区は県内でも大腿骨近位部骨折を受傷する方が多く現在も増加している一方、骨粗鬆症の治療を受けている人の割合が低い地方です。是非一人でも多くの方に骨粗鬆症に関心を持って頂きたいと存じます。

施設基準届出用紙

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巻末エッセイ〜ドゥブロヴニク 最後の寄港地 富樫賢一

 昨日はエメラルドグリーンのエーゲ海からライトブルーのイオニア海まで終日航行。そしてダークブルーのアドリア海に戻って来た。今日は最後の寄港地ドゥブロヴニク。クロアチア最南端でアドリア海の入り口に位置している。

 全長1940mの塁壁で周囲を固めた旧市街。近づくと塁壁の向こうには密集して折り重なるレンガ色の屋根また屋根。「アドリア海の真珠」とも「スラブのアテネ」とも呼ばれ、街全体がユネスコ世界遺産。旧市街の後ろの斜面には階段状に連なるこれまたレンガ色の屋根また屋根。息をのむ美しさ。エーゲ海の島々とは質の違った美しさだ。「この世で天国を求めるものはドゥブロヴニクに行くがよい」とはバーナード・ショウ。

 さっそくテンダーボートで上陸。まずは塁壁一周へと向かう。が、どこから入るのかが分からない。二人でなんとなく他の人の後について歩いて行く。なんだか階段状になった所に長蛇の列。ここかな?としばらく並んでみた。列はゆっくり前に進んでいく。と、結構引き返してくる人も。なんだか不安に。

 やっとチケット売り場?が見えてきて一安心。とはいえ階段の途中、壁に窓があるだけ。と、順番が回ってきた。もちろんクロアチア語は話せない。指で二枚二枚と。それでOK。さて支払。クロアチアはギリシャと違ってユーロ圏ではない。下船後両替しておいたクーナ紙幣を出す。幾らだかわからないが、向こうが勝手に取ってお釣りをくれた。折角だからと買ったのは半周ではなく全周コースのチケット。

 さらに待ってやっと塁壁の上に出る。1時間近くも暗い所に並んでいたせいか紺碧の海が眩しい。そして海から吹き込む風の心地よさ。風の中を二人でゆっくりと歩きだす。上がったり下がったり、そして渋滞。人が大勢いるのは景色のいい所。写真撮影は順番待ち。ポーズを決めハイパチリ。その後もパチリパチリ。おやっ!もう出口。待ち時間は長かったが一周はあっという間。といって後戻りはできない。一方通行で出口が決まっている。また一周というわけにはいかない。

 市街地にはオノフリオ大噴水や市庁舎鐘楼など観光スポットが幾つかある。それらをガイド付きで回るオプションもあったが不参加。大体いつも何を言っているのかよく分からない。そこで勝手に歩き回ることに。これは得意とするところ。しかも旧市街は狭いので迷う心配もない。

 その日は日曜日。噴水の周りには出店が軒を連ねていた。地物の果物や野菜ばかりでなく手作りの品物も並んでいる。女房はクーナを余らせてもしょうがない?とせっせと小物を買いまくる。結局残ったのは1クーナ50リパだけ。

 と、繁華街から路地に迷い込む。そこには崩れかけた建物が。戦闘の爪痕だという。1991年ユーゴスラビアから独立したクロアチア。独立派クロアチア警察軍と反対派セルビア自治区軍との激戦の跡らしい。それから17年、2008年版クロアチア観光局のパンフレットにはこの世の天国ばかりが載っている。「地獄を見たいものは実際に来られよ」とは私。

 結構疲れて窓のない船室に戻る。さてさてクルーズも今夜限り。明日はベネチアからドバイへ。仕事のやり繰りがつかず、また母親が入院したりして一時はどうなることかと思ったが思い切って来て良かった。これで「あの時エーゲ海に絶対連れて行くと言った」という女房のつぶやきも聞かずに済む。

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