長岡市医師会たより No.508 2022.7


もくじ

 表紙絵 「縄文の心」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「長岡市医師会理事に選ばれて」 永井恒雄(長岡西病院)
 「理事就任のご挨拶」 三上 理(三上医院)
 「理事就任のご挨拶」 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)
 「生々流転」 齋藤義之(立川綜合病院)
 「草取りは頭脳戦である」 渡部和成(田宮病院)
 「待てない外科医」 河内保之(長岡中央綜合病院)
 「蛍の瓦版〜その72」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜黄金と十字架異聞」 福本一朗(長岡保養園)



「縄文の心」  福居憲和(福居皮フ科医院)

太陽の熱と光は、どんなものにも一切差別なく、与え尽くし、与え続けるのですが、この太陽の慈悲と愛の心こそ縄文の心と思っています。


長岡市医師会理事に選ばれて 永井恒雄(長岡西病院)

 このたび、令和4年度の長岡市医師会理事に御推挙頂いた長岡西病院院長の永井と申します。西病院に就職してから本年1月で9年を経過し、5月で院長を拝命してから4年目に入りました。4月に当院の岡村副院長から次の医師会の理事に立候補してくれませんかとの依頼があり、立場上、理事にならして頂いた方が、当院のためにも良かろうかと考え、自分の浅学非才を顧みず就任させて頂きました。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
 はじめに、この紙面をお借りして高度急性期病院、診療所、療養施設の先生方には常日ごろ、患者さんの診療をお願いしたり、また当院に患者さんをご紹介頂いたりしてお世話になっています。たいへん有難く、感謝申し上げます。
 さて私の自己紹介です。若い先生方はもちろん、医師会所属の多くの先生方も私をご存知ないと思われ、この機会に自己紹介させて頂きます。
 昭和26年に柏崎市で生まれました。齢すでに70歳になりました。柏崎市で生まれたのは、当時、父親が呼吸器内科の医者で勤務先の昔の国立療養所に勤めていたためです。病院の官舎で3人兄弟の末っ子として生まれました。その後、父親の転勤に伴い会津若松市に移り、さらに父が祖父の診療所を継承する形で新潟に戻り、旧中蒲原郡亀田町(現在の新潟市江南区)に転居し高校卒業までそこで過ごしました。大学は順天堂大学に進み、医学部卒業と同時に新潟に戻り、新潟大学附属病院などでの2年間の内科研修後、大学第一内科(故)柴田?昭先生の教室に入局させて頂き、循環器内科学の研修を開始しました。
 大学に約7年間在籍の後、柴田先生の御指示のもと長岡赤十字病院に赴任させて頂き、約25年間、勤務しました。赴任当初は、現在、関原南町でご開業の脇屋義彦先生にご指導いただき、忙しい中でも楽しく仕事をさせて頂きました。ただ、現在の日赤病院循環器内科の先生方程、当時はまだ忙しくなかったとは思いますが、それでも定年真近になっても、夜の11時過ぎにやっと病院から自宅へ帰宅する様な日々が続いたりした時などに「このまま循環器専門医として救急外来や入院患者を担当すると俺、もうつぶれてしまうな」という思いが強くなり60歳の定年を前に退職させて頂きました。退職後の勤務先をどうするか思案した結果、すでに西病院に勤めておられた内科の宮村祥二先生に口をきいて頂き、現在の西病院に再就職させて頂いた次第です。
 西病院に再就職してからは、それまでの日赤病院と違い想像以上に高齢患者さんが多く、入院後、病状がなかなか良くならず不幸な転帰をたどることが度々で、かなりのカルチャーショックを受けました。赴任当初、なんかぼーっとしてしまう日が続きました。日赤病院で働いていた頃の患者さんの回復は自分の腕が良かったわけでなく、患者さん自身に回復力があったのだと恥ずかしながら初めて気付かされたわけです。
 さて、今後、医師会の役員になって、どんなお仕事をさせて頂ければよいのかまだ分かりませんが、周りの理事の先生方や、医師会の職員の皆さんのお話を伺い、医師会活動の支障にならないようにして微力ながらも頑張りたいと存じます。
 昨年から、私は介護審査会に参加していますが、主治医意見書に先生方が記載された病名や病状以上に、現場ではまず世話をする人が十分にいないという社会的問題が前提にあり、日常生活上の様々な障害は単に病気だけでは無いんだという事に気付かされます。改めて、このような患者さんのケアは社会全体で取り組まなければならない課題になるわけで、その中で我々にできるのはリハビリ治療を少しでも頑張って行い、患者さんになんとか社会復帰をして頂くことなのかなと思います。
 当院では、高度急性期病院と診療所や療養施設の間の中間的病院として、地域住民の方の健康管理や、慢性疾患の患者さんの治療を行っています。医師会という組織の中で、私共の様な中間的な病院を皆様がどう見ておられるのか、あるいはどう期待されているかという点をぜひ聞かせて頂き、当院の診療体制で改善すべきところを見出していきたいと思います。
 長岡市医師会員の皆さま、今後とも、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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理事就任のご挨拶 三上 理(三上医院)

 このたび長岡市医師会の理事に任命されました三上医院 三上 理(みかみ おさむ)です。
 この「ぼん・じゅ〜る」には何度か投稿しておりますが、この機会に改めて三上医院継承までの道のりとともに、理事就任のご挨拶をさせて頂きます。父が長岡赤十字病院に在籍中であった新潟地震の年、そして日本で最初の東京オリンピックの年に生まれました。昭和57年に長岡高校を卒業し東京で1年間の浪人生活を経て順天堂大学に入学しました。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、医学部と体育学部の2学部からなり、1年次は千葉県習志野で全員寮生活でした。そのころの箱根駅伝は第1期黄金時代でしたが、私の周囲には駅伝部はいませんでした。2年次の冬からはお茶の水での生活でした。卒業試験も終わりあとは国家試験という年始に昭和天皇が崩御され、卒業は平成元年でした。
 卒業後はそのまま大学の内科で研修を開始し、ローテーションの最初が呼吸器内科でした。当時の呼吸器内科教授 吉良枝郎先生のご指導が強く印象に残り、内科2年の研修後、選択科、関連病院での1年間の研修を経て、呼吸器内科に入局しました。その後大学院に進み、肺循環におけるアンギオテンシンU受容体の研究で学位を頂きましたが、基礎より臨床が向いていると改めて実感しました。また、院生の時に地下鉄サリン事件があり、当院にも受傷者が搬送され、救急外来に手伝いに行ったところ目がチカチカしたことを今でも鮮明に覚えています。現場にサリンであることが伝わったのはその日の午後になってからだったと記憶しています。大学院卒業が吉良教授の退任と同時で、その後福地義之助先生が就任されました。呼吸器の先生方はご存じだと思いますが、COPDのオピニオンリーダーで、COPDの最先端に触れられたことは今でも幸運に思います。関連病院、そして防衛医大に出張ののち、ちょうど子供たちの入学、入園のタイミングで大学を辞め、平成11年7月に長岡に戻り長岡赤十字病院に入職させて頂きました。
 長岡赤十字病院ではすぐに有珠山噴火の災害派遣に、そして救命救急センター立ち上げで副センター長に任命され、水害、中越地震、中越沖地震と立て続けに災害を経験しました。そのころからBLS、ACLSへも参加し、長岡赤十字病院でも救急のお手伝いをしてきました。平成19年末、長岡赤十字病院を退職し、昭和41年12月に父が現在の三上医院の場所で開業し42年目の、平成20年より三上医院で仕事を開始しました。
 今思い返してもあちこちで災害医療を経験し、また呼吸器内科医として、感染症、終末期医療など、手探りの中でできうる医療をしてきたと思いますが、現在の医療はいつでも、だれとでも同じベクトルを向いて医療を提供することが可能になってきました。その方向性を提示することが医師会の役割の一つではないかと考えます。知識も乏しく、微力ではありますが、わずかでも草間昭夫医師会長のお手伝いができるよう努めてまいります。どうぞ皆様、よろしくお願い申し上げます。

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理事就任のご挨拶 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)

 このたび、長岡市医師会理事を務めさせていただくことになりました。キャッツこどもクリニックの磯部賢諭(いそべまさつぐ)と申します。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 歴史ある長岡市医師会においては、小児科医としては太田裕元会長、大塚武司元副会長がおられます。そして、前任の奥川敬祥先生がおられます。かの前任の先生方に比べ、自分は学識、見識ともに見劣りしますがご容赦ねがいます。趣味でトライアスロンをしていますので体力だけはあると思います。
 また、これまで、日々の忙しさにかまけて、自分のことしか考えておらず、地域医療の要である医師会活動についてはほぼ傍観者でありました。お許しください。
 つまり、医師会活動と称して「ビールパーティー」や「新年会」にしか参加したことはありませんでした。おきらくごくらく、な立場でした。お許しください。
 しかし一転、理事の立場になりました。ですので、お引き受けしたからには精一杯務めさせていただきたいと思います。
 理事としての担当は、救急医療(中越こども急患センターなど)、学校保健、地域医療(感染症対策など)、地域保健(予防接種、健診、健康教育、母子保健)、社会保険指導立ち合いなど。
 また、対外委員としては感染症危機管理体制、新潟JMAT、新潟県学校保健会長岡支部、予防衛生専門委員会、児童生徒結核対策委員会などを担当することになりました。
 そのように早速たくさんの仕事をいただきました。力量不足で不安でしかありませんが、ご指導いただきながら、精一杯務めることを誓います。
 さて、恒例ですので、この紙面をお借りして自己紹介させていただきます。
 私は長岡市のお隣の見附市に生まれ、長岡高校、聖マリアンナ医科大学を経て、新潟大学小児科学教室に入局しました。高校時代はバドミントン部でした。大学時代は空手部でした。つまり、熱しやすく冷めやすいタイプです。ですが、途中でやめることはせず、おのおの卒業の最後まで部活動は行いました。
 新潟県内の小児科関連病院では、佐渡総合病院や上越総合病院、三条総合病院、県立中央病院、長岡中央綜合病院、長岡赤十字病院等を勤務してまいりました。
 一人小児科医長の経験もありますし、海外医療ボランティアや船医の経験もあります。やはり、熱しやすく冷めやすいのかも知れません。
 しかし、長岡は自分にとって青山だと思っております。地に足をつけ、長岡の子ども達、いえ、子ども達だけでなく、長岡に住む人々にとってよりよい医療が提供できるよう、そして、医師として長岡の医療発展に少しでも貢献できるよう力を振り絞る覚悟でございます。
 「長岡に生まれてよかった」、とか、「長岡は住みやすくてとてもいい」とか言われたいものです。一人の医師の力としては微々たるものですが、長岡市医師会は力のある医師会だと信じております。
 これから医師会の先生方からいろいろ教えていただき、指導を仰ぎながら、地域のために全力をつくしたいとおもいます。草間会長はじめ先生方からいただいた仕事を丁寧に慎重になお一層身を引き締めて頑張りたいと思います。ですので、どうかどうかご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

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生々流転 齋藤義之(立川綜合病院)

 4月1日付けで立川綜合病院に着任し、「緩和治療内科」という何だかよく分からない標榜名の診療科を開設させていただきました齋藤と申します。
 【自己紹介】出生地:新潟市。千葉県市川市、宮城県仙台市、東京都板橋区、と転々とした後、小学校入学時に新潟市に戻る。「人の生き死に」に関わる仕事をしたいと思い医師になり、「がん」と向き合うために必要な知識・技術を多く身につけたいと考え手術ができる外科医となる。1992年、新潟大学卒業(同年5月、医籍登録)。同期:Mr.Children(1992年5月10日、メジャーデビュー)。これまでの勤務先:県内地域;全4地方(上越/中越/下越/佐渡)・全7医療圏(上越/魚沼/中越/県央/下越/新潟/佐渡)、県外地域;秋田県秋田市/千葉県旭市、環境;都市部/都市部近郊/農村部/離島、経営母体など;大学/独立行政法人/済生会/日赤(長岡赤十字病院)/厚生連/県/労災、機能;特定機能病院/地域基幹病院/救命救急センター/がん診療連携拠点病院/がん専門病院。
 【診療科の紹介など】現在の専門領域:緩和医療。公文書では「緩和ケア」と表記される分野。病気の種類や時期に関わらず患者さんが抱える様々なつらさを軽くすることで生活の質(QOL)の維持向上を図るものだが、医療者も含め「緩和ケア=最期」と連想される方はまだ多い。これまでの経験から、誤解を解く時間がもったいないと感じていたので(その分、必要な対応を開始するのが遅くなる)、当院での活動に使用する名称は「緩和ケア科」「緩和ケアチーム」ではなく「緩和治療内科」「サポーティブケアチーム」とさせていただくこととした。筆者が以前抱いていた「緩和ケア」のイメージ:「高度で複雑な治療を行う能力(続ける根性)がない者が、ドロップアウトして(楽をしようとして)、文句の言えない亡くなる直前の患者さんに根拠のないことをやっている怪しい世界」。筆者の現時点での個人的見解:「患者さん・ご家族・医療者のQOL向上につながるものは全て緩和ケア」。長岡市医師会のみなさまをはじめ医療に携わる全ての方々が既に実践されている緩和ケアの質を高めるお手伝いができれば、と考えている。お手伝いの先にある筆者の夢:「緩和ケア」という言葉がなくなり、「昔は緩和ケアを専門にやる医者とかいたんだ〜」と未来の子供たちに笑われること。
 【着任に至る経緯など】「患者さんのために」と日々もがき続ける中、高度で複雑な治療を行う(続ける)ために必要な倫理的観点と科学的妥当性において適切と思われる知識・技術のかなり多くの部分が緩和ケア領域に存在することを知り、「ケア」という言葉が「医療」から遠いイメージを多くの人に抱かせているのではないかと思う。緩和ケアの知識・技術の適切な使用で、「患者さんのつらさ」が軽くなるだけでなく、患者さんのつらい様子を見ているのがつらかった「ご家族のつらさ」が軽くなる上に、患者さん・ご家族のつらい様子を見ているのがつらかった「医療者のつらさ」さえも軽くなることに気づく。「病気の種類や時期、治すことができるかどうか」に関係なく、緩和ケアの知識・技術が多いほど「患者さん・ご家族・医療者のつらさ」を軽くできる、ということを実感し、緩和ケアの普及に貢献したいと思うようになる。多くの方々のご支援・ご協力のもと、「県主催の(県予算を使用した)緩和ケア研修会開催」「県立がんセンター新潟病院での緩和ケア科開設」などに携わる。数年後、活動の場を県外に移したが(国保旭中央病院:病床数989床〈緩和ケア病棟20床を含む〉、所属研修医60名以上、初代院長の故諸橋芳夫先生は長岡市のご出身 ※赴任前、情報収集の際に検索エンジンで表示された『ぼん・じゅ〜る 239』が諸橋先生のお人柄などを知る上で大変参考になった)、家庭の事情で新潟県に戻ることとなり、ご縁があって立川綜合病院に着任。平成4年卒の筆者が医師になって30年目の令和4年に新たな活動を開始した訳だが、卒後1年目の新潟大学医学部附属病院(現新潟大学医歯学総合病院)での研修医時代にはオーベンとして、長岡赤十字病院(建て替え前)での出張医時代には同病院スタッフとして、熱くご指導くださった草間昭夫先生が現在の長岡市医師会会長であるという巡り合わせに人生の不思議さを感じている。
 みなさま、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

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草取りは頭脳戦である 渡部和成(田宮病院)

 毎年のことだが、春から夏にかけては雑草が生い茂りやすい。土があればどこでも雑草は生える。道端のアスファルトの間隙にも生える。もちろん、庭にも生える、色んな雑草が生える。庭の雑草とりわけ生け垣の下草の雑草は、衆人環視の中、住人の品位を反映している。そう思うから今の時期は草取りで忙しい。以前、こんなことがあった。園芸店でピンクの花がついた草花が売られており、「これは(購入しては)どうだろう」と奥さんに尋ねたところ、「それは道端に生えている雑草よ」と一蹴された。
 雑草とは何だろう。人が美しいと認める草は、価値のある観賞用草花となり、誰も見向きもせず生育を期待しなければ、価値のない雑草と分類される。薬の(期待される)効果と(期待されない)副作用のようなものか。副作用のように嫌われるが、雑草に罪はない。先程のように雑草が突然観賞用と変身することもある。
 空地や路肩では、清掃業者が電動式回転刃を使って、大きなうなり音を響かせ勢いよく雑草を刈っているのを見かける。しかし、1週間もすれば元のように雑草は生えきて何事もなかったようになる。このやり方は実にいい加減だと言える。
 我が家での草取りはどうであろうか。雨が降っていなければ、毎日のように草取りをする。庭、生け垣の下、家の前の道端。小さなうちに引き抜くようにしている。すると、そのうちに雑草はなくなるはずであるが、現実はそうはいかない。敵は少なくなるがなくなることはない。何故か。
 その理由は二つある。
 一つは、赤、白、黄、青など小さな可憐な花をつけるものがいることである。そのような雑草は、引き抜かれるのを免れる。そのわけは、我が家の奥さんが「可愛い花をつけているのは取らないでね」「ハーブだから取らないでね」と言ってくるからである。そんな奥さんからの言葉がなくても、可愛い花を目の前にすると除去しにくい。花が散るのを待って、あるいは生気を感じられなくなった後、「花が散ったから取ってもよいか」と奥さんに聞き、許可が出れば引き抜く。
 二つ目は、雑草は根ごと取り除かねば絶やすことはできない。根をしっかり張って、すっかり根を取り除けないものがいることである。そのような場合は根ごと枯らしてしまう薬液を使う必要がでてくるが、大事な草木がある場合、薬液は使えない。そうだとすると、生えては引き抜くという繰り返しとなり終わりはない。そのような難敵の代表がヤブガラシである。
 ヤブガラシは、雑草としては比較的大きな部類に入る五つの小葉からなる葉をつけ、成長する茎の先端には柔らかな若葉を集め筆の先のようになっている。成長は早い。放っておけば庭木を超えるほどの背丈にもなる。土から出たすぐのころの茎は太くてしっかりしている。しかし、つるで伸びていく。小さければ自立しているが、伸びればそうはいかず他の木に頼る。つるであちこちに巻き付くのである。寄り添った木の枝の2カ所で相次いでコイルのように4巻きずつ隙間なくきっちり整然と巻き付いているつるを見つけたことがある。取り外そうとしたところ、1巻きずつ解いていく必要があり厄介であった。つるを取り除いた後の枝を見ると、締め上げられていた跡は付いていなかったが、締め付けられていてさぞ苦しかっただろうと思い遣られた。
 ヤブガラシを引き抜くのは頭脳戦である。なぜ単純作業ではなく、そんな難しそうな表現になるのかと訝られることだろう。ヤブガラシは、庭石や大きな植木鉢の陰にいたり、壁の雨樋に沿って隠れるように伸びていたり、茂った葉で覆われた庭木の幹に寄り添っていたり、縁台の下の壁際の容易には外から見つけられないところにいたり、と発見されにくいところにいてうまく伸びていこうとしている。何としても見つけてやろうという姿勢がなければうまく見つけられない強者である。ヤブガラシの特徴を頭に置き、庭の物陰や庭木を見て違和感を持つことが頭脳戦の重要なポイントになる。視線を留めじっと見つめるとそこにいる。ヤブガラシはあまりに成長が早いため、自分の方が隠れている木(3メートルぐらいの高さまでに剪定されている)より背が高くなり頭を出してしまって見つかることがある。ヤブガラシの失策である。
 いつもヤブガラシを駆逐したつもりで草取りを終えるのだが、次の日はまた同じ頭脳戦を繰り返すことになる。今朝も一本見つけた。

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待てない外科医 河内保之(長岡中央綜合病院)

 コロナ禍になって久しい。学会や研究会、講演会などはオンラインになった。県外への移動は全くなくなった。新幹線にも乗らなくなった。
 5年前、東京で開催された研究会に参加した。懇親会があり宿泊し、翌朝東京駅に向かった。途中、妻からライン「新幹線止まっているよ」。東京駅に着くと確かにとき号は動いていない。変電所のトラブルらしい。スマホで調べても運転再開の目途は立っていない。ホテルでたっぷり朝食は食べたし、休憩所もいっぱいだ。時間をつぶすのが難しい、一人でどこか行く当てもない。1時間ほど待ったが、駅でのアナウンスもスマホでみるJRの運行状況も何の進展もなし。とりあえず混雑したホームに上がってみる。そうか、北陸新幹線は動いている。スマホで乗車案内を検索、上越妙高で特急しらゆき号に乗り換えれば、長岡まで1時間ほどだ。しかし、遠回りになる、それとも復旧を待つか。さあ、どうする。結局発車ベルに刺激され、北陸新幹線に飛び乗った。結構混んでいて、座れない。上越妙高での乗り換え時間は15分ほどある、余裕だろう。上越妙高駅に着いた。結構降りるなと思って改札に向かうと長蛇の列ができている。同じ考えの人が大勢いたらしい。みんな上越新幹線の切符を持っているから、自動改札機が開かない。駅員とのやり取りが遠くに見える。ぜんぜん進まない。しらゆき号の発車時刻はとっくに過ぎて、40分ほどかけてようやく新幹線の改札を出た。特急なんて1日に何本も走っていない。今日はもうない。えちごトキめき鉄道妙高はねうまラインで直江津に出て、信越本線で長岡に戻るしかない。新幹線の切符を精算しようと窓口に向かうとこちらも長蛇の列ができている。並んでいたら、はねうまラインの次発にも乗り遅れる。精算でのいくらかの返金はあきらめ、はねうまラインの切符を購入し、のどかな各駅停車に乗った。ローカル線の各駅は何年ぶりに乗っただろう。単線で走る電車の運転席の後ろを陣取って直江津までの電車旅を鉄道ファンになった気持ちで楽しんだ。直江津では45分ほどの乗り換え待ちを経て、信越本線のやはり各駅停車に乗り、1時間半かけてようやく長岡に着いた。すでに日は落ち、疲労困憊で帰宅した。上越新幹線は自分が上越妙高にいる頃に運転再開したらしい。東京駅で待っていれば3〜4時間早く着いたようだ。
 そういえば、前にも似たようなことがあった。私は食道癌の胸腔鏡手術というニッチな手術をしている。この手術をやる外科医は少ないためこれまでに県外を含めて10病院以上、100件以上の出張手術をしている。たまに違ったメンバーと手術をするのは楽しい。
 10年ほど前、荘内病院の同級生に食道の手術で呼んでもらった。前乗りして、食事をして旧交を温める予定となった。午前の外来を終えて、昼過ぎの新幹線で新潟に向かった。特急いなほ号に乗ったら、車窓から日本海を眺めながら缶ビールでもプシュッと開けて、プレメディケーションなんて思っていた。新潟駅に着くと、なんと天候不良のため特急いなほ号が止まっている。そうだ、羽越本線は風が吹くと止まるんだった。長岡はそんなに風なかったけど……。駅員に聞いたが、運転再開の目途は立っていない。さあ、どうする。食事会はあきらめ、明日の朝一番で出れば手術には間に合う。いや、せっかくお店も予約してくれただろうし、申し訳ない。そうだ、車で行こう。新幹線で長岡に戻って、自宅に置いた車に乗り換え、およそ200qの道のりを鶴岡市に向かった。確かに風はやや強いが、自動車の運転には支障はない。なんとか約束の時間に間に合うと思った。そう安心したあつみ温泉駅の手前で、国道と並走する羽越本線を走るいなほ号に抜かれた。いなほ号はあつみ温泉駅に停車、その間に抜き返してやったが、こっちが信号待ちをしている間にまた抜き返されて、あっという間に見えなくなってしまった。飲み会の席では、同級生が爆笑してくれたので、良しとした。翌日はおよそ6時間の手術を行い、3時間の帰りの運転は睡魔との闘いであった。
 外科医は待てない性格なのか?自分だけなのか?

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蛍の瓦版〜その72 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 1.コロナウイルス感染症関連

 新型コロナウイルス感染症発生届
 新型コロナウイルス感染症の感染者を診断した医師は、保健所長を経由して都道府県知事への全数届け出が義務付けられています。今までもHER?SYS(新型コロナウイルス感染者等情報把握管理システム)を通して届け出を行ってきました。しかし、今までの届け出は記載項目が多く入力に時間が掛かる等の問題があり、6月30日から簡素化された新しい様式となりました。
 従前の書式では、発熱や咳嗽等の症状や検査方法についても詳細に入力する必要があり、感染経路に関しても詳しい記載が求められていました。新様式ではこれらは全て不要となり、検体採取・診断・発症・死亡の年月日だけとなっています。ワクチン接種歴に関しても回数および直近の接種年月日と種類だけとなり、重症度分類には無症状の欄が追加されています。
 届け出用紙はインターネットから新型コロナウイルス感染症発生届≠ナ検索すると簡単にダウンロードできます。なお蛇足ですが患者情報の性別欄に、従来の男性女性に加えその他が追記されています。

 診療報酬
 新型コロナウイルス感染症に係る診療報酬上の臨時的な取り扱いについては、令和3年10月号の新潟県医師会報の黄色い社会保険部の頁に
 乳幼児感染予防策加算(50点)∞二類感染症患者入院診療加算(250点)∞救急医療管理加算1(950点)∞院内トリアージ実施料(300点)≠フ4項目がまとめられています。これらは特例的な評価として、期間を限定した診療報酬上の臨時的な取扱いとなっており、その後いくつかの変更があったので、簡単にご紹介します。
 乳幼児感染予防策加算≠ヘ、新型コロナウイルス感染症の有無に関わらず全ての小児の外来診療に係る加算でしたが、令和4年3月末に終了しています。
 二類感染症患者入院診療加算≠ヘ本来入院診療に係る加算として設定され、平成22年度の診療報酬改定で新型インフルエンザ感染症等の新興感染症患者が対象疾患として追加されました。新型コロナウイルス感染症に関しても初めは入院診療に限定して適応されていましたが、その後は算定の対象が拡大されてきました。令和3年8月からは自宅・宿泊療養中の患者を電話等で診療した場合にも算定可能となっており、この加算は現時点での終了予定はありません。この二類感染症患者入院診療加算≠ニ同様に自宅・宿泊療養中の患者を対象とした自宅・宿泊療養中の重症化リスクの高い者への電話等診療(147点)≠ヘ、9月30日までは併算定が可能となりました。さらに令和3年9月にはコロナウイルス感染症の疑い患者を外来診療した際にも二類感染症患者入院診療加算≠フ算定が認められるようになっていましたが、この算定対象の拡大も、初診に限り9月30日まで認められることとなりました。
 救急医療管理加算1≠焉A本来は生命に危険のあるような状態で救急搬送された入院患者を対象にした加算でしたが、新型コロナウイルス感染症患者の臨時的取扱いとしての点数(外来950点、往診2850点とそれに付随する小児加算200点、乳幼児加算400点)が外来患者でも認められています。令和4年の診療報酬改定で本家の救急医療管理加算1は1050点に増額されていますが、コロナ関連での増点はありません。
 現時点では救急医療管理加算1≠ニ院内トリアージ実施料≠ヘ、自宅・宿泊療養中の患者を電話等で診療した場合の二類感染症患者入院診療加算≠ニともに中止の予定はありません。
 新型コロナウイルス感染症に係る診療報酬に関しては、特例的な評価の上変更を繰り返し、非常に分かりにくくなっております。また入院診療への加算を外来患者へ適応拡大する等算定要項が変更されているものもあり、詳細は厚生局や厚労省のホームページをご確認ください。また保険医会の会員の方は是非保険医会にご確認ください。7月22日には、第7波到来を受けて突然取扱いの期限が変更されています。医師会や保険医会からの連絡にご注意ください。

 2.研修医奨励賞
 新潟県医師会では二年目の初期研修医を対象に、臨床研修を通して感じた新潟県の医療課題や医師会への提言を発表して頂く研修医奨励賞を設けています。令和元年に始まり3回目となる今回は9名の応募があり、最優秀賞1名優秀賞3名が選ばれました。中越地区からは、長岡赤十字の坂井貴一先生の新潟県の医師数増加と初期研修医の増加≠ィよび同赤十字病院の羽山響先生の今後の新潟の救急医療体制について≠ェ優秀賞に選ばれています。
 新潟県医師会のにいがた勤務医ニュース≠ノ4名の受賞作品が掲載されており、いずれも若い世代の力作です。是非ともご一読ください。

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巻末エッセイ〜黄金と十字架異聞 福本一朗(長岡保養園)

 1549年ザビエルによって伝えられたキリスト教が佐渡にも広まっていた事はあまり知られていません。1604年に京都・伏見から熱心な切支丹が佐渡に流されて以来、1619年外国人神父が二人来島したこともあり、佐渡金銀山(Fig. 1)で働いていた多くの鉱夫が受洗しました(イエズス会年報)。1637年の天草島原の乱の後、幕府は全国的に切支丹禁教の徹底と探索・詮議・処刑を実施しました。その天草からはハイヤー節が佐渡に伝えられて佐渡おけさになりましたが、多数の切支丹が金山労働者として流されていた佐渡でも、相川と真野の境界にある中山峠で250名を越す切支丹の処刑が行われました(佐渡風土記)。ただこれ以降、一揆などに結びつかない限り、自由な天領の金山で裕福であった佐渡の切支丹達は歴史の表舞台から姿を消して体制に溶け込み、その子孫達が広がって隠れ切支丹となり越後全域にマリア観音信仰を伝えて行ったものと思われます(Fig. 2)。ところで世阿弥が流された佐渡では各村に能楽堂があり、島民の多くが仕舞・謡を嗜んでいますが、それには能楽師出身であった大久保長安が初代佐渡代官として赴任したことが起因しています。長安は家康の金山奉行・勘定奉行等を勤めて直轄領150万石の支配を任されていましたが、金銀不正蓄財と伊達政宗に加担した幕府転覆の疑いをかけられて罷免され1613年4月駿府で死去しました(Fig. 3)。死後遺体は掘り起こされ、城下の安部河原で斬首晒首になり、息子7人と娘2人は死罪、下役30人も斬首されました。同年9月には伊達政宗による遣欧施設がスペイン・ローマに出向しています。ポルトガル人宣教師との交流、寄進した寺院配置が十字架の形でマリア観音の安置、経済犯としては厳しすぎる子孫断絶処断などを考え合わせると、長安一家が隠れキリシタンであったとの説もあります。

 佐渡には「山椒大夫」「夕鶴」、猫が可憐な乙女に変身した「おけさ伝説」、たらい舟で佐渡海峡を毎夜渡って逢引した「お弁伝説」など社会の底辺の女性達の悲哀を語る伝承が数多くありますが、それらは密かに聖母マリア信仰に通じるものと思えるのは筆者だけでしょうか?

Fig. 1 佐渡金山のシンボル道遊の割戸(どうゆうのわりと)

Fig. 2 マリア観音(小国)

Fig. 3 大久保長安(1545〜1613)

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