長岡市医師会たより No.509 2022.8


もくじ

 表紙 「渋海川(岩田辺り)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「新型コロナ感染と地域医療構想」 会長 草間昭夫(草間医院)
 「父を悼んで」 荒井義彦(荒井医院)
 「老化・惚け」 荒井榮二(荒井医院)
 「鉄道開業150周年、上越新幹線開業40周年」 加藤 熙(悠遊健康村病院)
 「医院の移転」 齋藤 修(耳鼻咽喉科 斎藤医院)
 「引越しのこと」 中山裟枝子(立川綜合病院)
 「蛍の瓦版〜その73」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜気が付けば八十路(中)」 星 榮一



「渋海川(岩田辺り)」  丸岡 稔(丸岡医院)


新型コロナ感染と地域医療構想 会長 草間昭夫(草間医院)

 医師会長を拝命し2年が過ぎました。新型コロナの対応に追われる日々でしたが、まだ続く感染の波の中でもがくことになろうとは思ってもみませんでした。
 COVID-19感染症第7波のさなか、長岡祭りが決行されました。医療の逼迫を避けつつ経済活動を維持するというのは、どちらの立場でも思ったようには行きません。今回はほぼ人流をさまたげることなく、感染力が強くなったウイルスに立ち向かったわけです。医療者側への負担はそのままでした。毎週200%に増加する感染者のなかには、病院職員、職員の家族も含み、感染者の濃厚接触者も少なくありません。当院の職員も3人の感染者がでました。感染は防ぎようもないことですが日々の業務も続けなければなりません。小生宅では8人で暮らしていますが、誰かが感染すれば一家全滅です。実は孫の手足口病に感染し、かなりつらい思いをいたしました。コロナと当初区別がつかないので毎日抗原検査してからの診療は綱渡り状態でありました。会員の先生方には日々の診療、ワクチン接種、コロナ感染者の自宅療養担当に加え、休日診療所、平日夜間、子ども急患においてもご協力を頂き感謝いたします。7月25日からは入院待期ステーションの運用が再開いたしました。執務していただいた先生、看護師さんには当直業務を担っていただき感謝しています。すでに11人(8月16日現在)の利用者が医療の傘の下から外れることなく1夜を過ごされました。なんとか力を合わせて、中越、県央、いや新潟県の第7波を乗り切りたいと思っています、今後ともご協力をお願い申し上げます。
 ワクチン接種の遅れもありますが11歳以下の子供の罹患が医療を圧迫しています。
 感染者が多くなったことで、スムーズに進んでいた県の医療調整本部を中心とした在宅療養グループの対応に遅れが出て、患者が病院を直接受診することが増えました。子どもの熱性けいれん、吐き下しからの脱水は専門医の診察、補液が必要なことも多く、小児の入院環境が必要になっています。妊婦と授乳婦の感染はハイリスクとの情報から全身状態良好でも救急を受診する例が増えています。幸い長岡の救急を担う3病院は小児、妊婦のコロナ感染にも対応して頂き、改めて長岡地域の救急体制の充実を実感いたしました。
 さて、COVID-19感染禍と平衡してもう一つの大きな問題が進行しています。地域医療構想です。国は地域ごとにベッド数を再編し救急から慢性期医療まで効率のよい運用と、医師の適正配置を求めています。元々は医師数が多く、ベッド数が多く、医療費の高額地域の改善と、救急、地域包括医療が全地域に適切に網羅されることで、医療費の増加を抑制することが目的だと思います。しかし医師の偏在と働き方改革で、医師、看護師の数の少ない当地では現状のサービスが継続できない危機に直面していると言わざるをえません。なんとか新たな地域医療構想の中でも現状が維持出来るように努力を続けたいと思っています。同時に現状を理解いただき、現状を維持できるだけの人の配置を県、大学にお願いしています。
 現状について長岡の医療機関、行政、医療職と意見をまとめて県に対して提出いたしました。いろんな方々とこの危機感を話し合う中で私なりの考えを以下にお示しいたします。
 長岡市では昭和43年から輪番体制による救急医療体制を行ってきました。当初は外科系の救急で始まった制度は、その後昭和49年に休日診療所(内科・小児科)を開設、更に昭和59年には平日夜間の救急診療体制を、平成18年には中越子ども急患センター、平成20年には長岡市休日・夜間急患診療所が開設され、現在では365日安心して1次救急から3次救急まで市民に資することができる救急体制が築かれました。さらに、平成27年には在宅療養を支えるために、フェニックスネットワーク事業が始められ、医療と介護の連携が図られるようになって来ました。
 全国では、このコロナ禍において、一般救急の搬送に支障を来していることがメディアに取りざたされています。そんな中ですが、長岡市の直近のデータでは令和3年の救急搬送件数は9252件で、そのうち92・4%が1回の問い合わせで搬送先が決まり、3回の問い合わせで99・3%に搬送先が決まっています。これは、全国的に見ても極めて優れた救急体制が整えられていることの証です。
 現在、長岡赤十字病院、長岡中央綜合病院、立川綜合病院の三病院が当番制での二次輪番救急体制を担当し、長岡市消防本部と一体となり、他地域にみられない遅滞のない病院ヘの救急患者の搬送・治療が行われてきております。特に、外傷や小児患者の受入れについては、かかりつけ医療機関にかかわらず、その日の二次救急当番病院へ収容されます。当番病院の収容能力を超えるような場合は、各診療科で連絡しあいながら他の二病院が救急患者の受入れ補助に動きます。
 医療従事者においては、気持ちの持ちようですが、『毎日24時間365日、完璧な治療を行いながらミスを起こさず頑張らなければならない』というプレッシャーではなく、「3日間に一度頑張れば良い」という、少しゆったりと構えることが可能となります。このことにより、より安全で高水準の医療を継続的に提供でき、医師だけでなくすべての医療従事者の働き方改革にも資することができ、負担の少ない素晴らしいシステムが構築されていると考えています。このことは、新潟県地域医療構想資料にも、『中越構想区域の医療体制は成熟し、連携体制が整っていることから、この体制を今後も維持すること、より強化することが重要です。』と評価されているところです。
 さらに、この充実したより良い救急医療体制を維持していることにより、中越医療圏全体からはもとより県央地域からも救急患者が多数搬送されてきております。中越医療圏での地域医療構想調整会議では、この二次救急輪番体制の維持を構想の第一項目に掲げており、救急救命センターを有し、三次救急を担う長岡赤十字病院を軸に三つの病院で輪番体制をとっていくことが重要と考えています。
 ところが、新潟県及び国は、地域の現状を理解しながらも、一律に中核病院を一つに定め、その基幹病院を中心として医師の集約化、研修機関の集中化を促しています。中越地域においても同様の意向を示し、現在の3病院の輪番制を排し、メガホスピタルに多くの診療機能・医育機能を集中して持たせようとしているように考えられます。『医師の働き方改革』に名を借りた、一石二鳥を狙った効率化の押し付けとしか考えられません。
 そもそも日本の医療は、民間を主体に発展してきた歴史があります。行政からのいろいろな圧力に耐えながら、時代の波と地域住民のニーズに合わせてその都度最善の医療を提供し経営を成り立たせてきました。それぞれの特徴を考えながら、切磋琢磨してきて、前述の救急体制を作り上げてきました。長岡赤十字病院は最大751床から661床に、長岡中央綜合病院は531床から500床へと疾病構造の変化に合わせ、自ら一般病床の削減を行ってきました。そこに行政からの助言や指導はなかったように思います。もちろん公立ではありませんから、経営に資する援助を頂けるわけでもありませんが。
 一方、医療連携についても長岡市では他の地域に比較してかなり進歩的な状況にあると考えています。医療と介護のみならず消防をも結んだフェニックスネットの活用。平成14年に開始された開放型病床の運用に始まる医療連携室の整備、医療機器の共同利用なども当たり前に行われています。
 また、このたびのコロナウイルス感染症の対応では、行政と医師会・看護協会・薬剤師会速やかな連携のもと県内で最初にPCRセンターを開設し、その後のワクチン接種に関しても、きわめて迅速に対応することができました。入院に関しても中越地域だけでなく、新潟・県央・魚沼地域から速やかに患者を受け入れることができたのは、3病院でほぼ同じ診療機能を有していたからに他なりません。第6波の時に三病院ともに病棟内で小規模クラスターが発生し、特定の診療科を休止せざるを得ない時がありましたが、残りの二病院ですべての救急対応を行うことができました。国もコロナ後の感染症対策の必要性を痛感しており、それには効率化だけを重視した集約一辺倒の地域医療構想の見直しの必要性を迫られているはずです。これからの危機管理を考えれば、この地域で一つの病院だけに救急を担わせることは将来に禍根を残すであろうと想像されます。
 『医師の働き方改革』を進めるにしても、現在の三病院による二次救急輪番体制の維持が理にかなっていると思われます。三病院のうちの一つでも体制から抜けてしまうと、A水準(時間外が年間960時間以内)を維持するのが困難となってしまいかねません。中越地域において一つの病院に救急患者を集中させ、365日の救急対応をすることになると、学会の試算では一つの診療科に8?9名の医師が必要とのこと。そうするには、現在3病院で働く医師の3分の2は一つの病院へ集約せねばなりません。医師が引き上げた残りの病院の経営はどうなるのでしょうか。見当もつきません。
 今回我々は、長岡市の医療の将来構想を真剣に議論すべく、「長岡地域の医療を守る協議会」を結成し、国や県の押し付けではない将来構想を考えていくことにいたしました。現在我々の目指すところは、新潟県地域医療構想資料に記された『これまでどおり長岡急性期三病院が救急医療体制や高度急性期医療を担い、その他の病院は長岡急性期三病院と互いに連携することにより、急・慢性期から回復期、そして在宅(施設を含む。)に至るまで切れ目なく診療可能な体制を構築することが必要と考えられる。』と考えております。
 国は2036年には全国で医師は充足するとしています。新潟県でもそれを目標に各種の試みがなされ、それなりの効果を認めています。ただ、医師充足率が最下位の新潟県で有無を言わさず『医師の働き方改革』を施行することの重大さを我々は危惧しています。長岡の二次救急輪番体制の維持・存続は、従来どおりの医師数の確保、大学からの医師の配置が前提条件にあります。そうでなければ、この救急体制はいずれ崩壊してしまいます。現状では50人以上の研修医が長岡にいます。病院の垣根を越えてオール長岡で研修医の育成に努めています。このことは研修の場としても魅力となってさらに研修医を集め将来の新潟の医療人の増加につながる物と思っています。
 中越医療圏は、これからも見附・小千谷を入れて30万人、周辺の二次医療圏、柏崎を含めて80万人をカバーする県の医療の核であり続けなくてはいけない立場にあると思われます。県央基幹病院ができても、すぐにはすべての救急患者を受け入れられる体制になることは難しいと思われ、しばらくは患者数も減らず、今の体制を維持することが、地域住民の命を守るために必要なことと考えています。
 少子化に併せ東京への一極集中は改善しそうになく、いずれはこの中越地域における医療ニーズも大きく変化してくるであろうことは十分に承知しています。その時にも対応できるように、この協議会のメンバーは協議しあい、その時代時代に合ったより良い方向性を見出し、長岡の医療体制を変化させ整えていく覚悟です。

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父を悼んで 荒井義彦(荒井医院)

 父、荒井榮二は去る令和4年7月18日、満95歳の大往生をとげました。90歳前までは元気に仕事をこなしておりましたが、最近は身の回りの事にも不自由し、介護付き有料老人ホームで最後を迎えました。映画のワンシーンのように二人だけで飲んで語る機会を遂に持てませんでした。とても心残りです。昨年春先、転んで起き上がれず手助けに呼ばれたとき、嫁が着替えを病院に届けたとき、孫娘が施設で面会したとき等々、常にありがとうと言っておりました。亡くなる4日前、往診時も両手を胸の上に組み、満面の笑みでありがとうの仕草を返してくれました。最後は亡くなる2日前でした。面会に行ったおり、苦しい呼吸でしたがアーアーと微かに声を発しておりました。ありがとうと言いたかったんだと思います。その2日後の早朝に逝きました。遺品から、元気なときに書いた文章が見つかりました。この機会に人となりを忍んでいただければと考え掲載していただくことに致しました。生前の御厚情に御礼申し上げます。

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老化・惚け 荒井榮二(荒井医院)

 最近益々強くなった老化現象に、不安と困惑で一杯である。体力の低下と知力の減退・意欲の衰えは年々激しくなってくる。他人や患者には適当な運動を勧め、少なくとも一日一万歩の歩行を勧めるが、自分は朝起床時僅か五分位の体操で過ごしている。本を読むのも段々億劫になり少なくなった。読むよりは聞く方が楽なので、読書の減った分もっぱら講演会を聞きに行っている。惚けの予防には、見る、聞く、味わう、触れるなど五感を十二分に使い情報を取入れ、頭の中で考え整理し、さらにそれを他人に話し、文章に書くなど情報を取出すことも大事であると話をするが、自分では一向に実行しない。未だ現役で患者を診療しているのが、一番の惚けの進行防止になっているのだろうか。やる気だけあってもなかなか実行に至らない。部報の締切に追われ今ようやく駄文を書いた次第である。

 

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鉄道開業150周年、上越新幹線開業40周年 加藤 熙(悠遊健康村病院)

 私は物心がついた時から鉄道が大好きで、実家は東京ですが湯沢に別荘があり新潟県とは昔から繋がりが深く、新潟県の鉄道、特に上越新幹線に乗ることが多いです。今年は鉄道開業150周年で上越新幹線開業40周年という記念すべき年です。
 東京から新潟への移動に関して、上越国境を超えるルートである上越線は1931年に開業、それまでは群馬県・長野県県境の碓氷峠を超える高崎線・信越本線のルートか福島県の郡山を経由し新潟県に至る東北本線・磐越西線のルートでした。信越本線は碓氷峠が66・7パーミルという急勾配(1000m水平に進むと66・7m標高が変わるJR路線で日本一の勾配であった)であり、北陸新幹線が開業した1997年に群馬県の横川駅から長野県の軽井沢駅までが廃止されました。磐越西線に関しては今でも運行されており磐越西線で新潟に行ってみようと考えました。4月のとある日、今回は鉄道開業当初に蒸気機関車が用いられていたこともあり「SLばんえつ物語」に乗ることにしました。蒸気機関車はC57形180号機、通称「貴婦人」です(写真1)。1946年に製造され新潟機関区に配置、1969年に一度廃車となり旧新津市立新津第一小学校の校庭で保存され1999年に復元されました。鉄道マニアであれば誰でも知っている有名な蒸気機関車であり、鉄道マニア以外でも全国から沢山の方が乗りに来ます。今回そんな大変栄誉のある「SLばんえつ物語」に新津駅まで約3時間全区間乗車しC57形180号機の凄さに感激致しました。福島県や新潟県の山間の風景から阿賀野川まで様々な景色を楽しむことが出来、あっという間の乗車でした。
 上越新幹線は1982年に大宮〜新潟間が開業し1991年に東京駅まで全通、今年で開業40周年を迎えます。私事で恐縮ですが開業日が11月15日であり私の誕生日が11月19日と大変近く昔からご縁を感じております。上越国境の大清水トンネル建設中に火災が起き16名が亡くなったり、群馬県の中山トンネル建設中に異常出水事故が2回発生したりする等の難工事を極めました。現在は新幹線のファーストクラス「グランクラス」を備えたE7系(写真2)が主力として活躍、2015年の北陸新幹線金沢開業に合わせて運行開始し今では上越新幹線でも走っています。2019年の台風19号による千曲川決壊で長野の車両基地が浸水し一部の車両が被災しましたが、現在はこれを乗り越え活躍しており私が大好きな車両の一つです。初代200系新幹線に始まり、その後2階建て新幹線「Max」E1系・E4系の時代を経て現在はE7系と東北新幹線でも活躍しているE2系(写真3)が走っています。今年度末にE7系に統一され、最高速度は現行の240q/hから275q/hに引き上げ大宮〜新潟間で最大7分程度の時間短縮が見込まれています。
 この3月のダイヤ改正で今まで約45年間在来線を支えてきた115系(写真4)が引退しE129系(写真5)に統一、また1995年に登場し新潟都市圏の輸送を支えてきたE127系(写真6)も引退、そして6月5日には新潟駅が全面高架化されました。ところがそんな矢先に新潟県の鉄道を2つの大きな自然災害が襲いました。6月27日落雷によりE129系14両が被災、引退後長岡車両センターで休んでいて他路線へ活躍の場を移す準備中であったE127系をピンチヒッターとして6月29日から上越線で復帰させました。そして8月3日〜4日未明の豪雨で村上市の坂町駅ではE129系4両編成1本が水没しました。E127系は8月現在も上越線を走行していますが、写真はその上越線で乗りに行った時に長岡駅で撮影したものです。それから磐越西線では福島県喜多方市で橋梁が倒壊、復旧までには数か月程度かかるとのことで「SLばんえつ物語」は当面の間運休します。坂町駅と山形県の米沢駅とを結ぶ米坂線も山形県内で鉄橋が崩落した影響でこちらも坂町駅と山形県の今泉駅の間が当面の間運休します。先述の通り「SLばんえつ物語」には4月に、米坂線も7月に乗りに行ったばかりであったことから暫くの間運休との知らせには胸が痛みます。7月に米坂線に乗りに行った時のGV?E400系電気式気動車(写真7)の写真を掲載致します。
 改めまして、JR東日本新潟支社にはここまで運行して頂き心より感謝申し上げると共に、鉄道の復旧のために日々尽力されていることにも感謝致します。このような状況だからこそこれからも様々な新潟県の鉄道に乗って応援していきたいと思っています。新潟県の鉄道の一日も早い完全復活と益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。

写真1 C57 180

写真2 E 7系

写真3 E 2系

写真4 115系

写真5 E129系

写真6 E127系

写真7 GV-E400系

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医院の移転 齋藤 修(耳鼻咽喉科 斎藤医院)

 この度医院を令和4年5月1日に坂之上町2丁目から山田3丁目に移転しました。令和4年4月29日に医院の内覧会を行わせていただき5月2日に開院しました。2か月経ちました。全く知らない場所での開院だったため不安はありました。
 前の医院は昭和60年に建てたものでしたが建物自体が老築化したため維持していくのが困難になったことが理由でした。平成18年に父から継承した建物でした。まとまった土地を1年半まえから探しはじめ今の土地を手に入れました。旅館であった場所でした。この旅館も3代に渡り受け継がれてきたことを知りました。この付近は遊郭が立ち並んでいて昔は随分賑わいをみせていた歴史ある通りだったことを知り勉強になりました。町内会の名前が文治町内会でなぜだろうと思ったら、昔の町の呼び名で町内の公民館にも残されていました。歴史を大切にしていると感じました。今は静かな住宅街になっています。今の場所は長生橋に近く長岡花火を見るのに便利になりましたが、交通規制区域になるため車両通行許可証が必要になる不便さもあります。1階が医院、2階が住宅の住宅兼診療所です。
 院内は段差を全て失くし完全バリヤフリーとし、掴まる手すりを多く設置しました。以前の医院はトイレが和式で座ると立てないので洋式にしてほしいと重ねて言われていましたがこれで解消出来き、ホッとしています。建物が新しくなったから受診患者さんが増える?の公式は成り立たないようで、診察時間中、患者さんが途切れることは度々です。
 前の医院は長岡駅から近かったのに今の場所は行きづらいと言う声も多く耳にしていました。わかりづらい場所のため看板や電柱で道案内できるように配慮しました。開院当初は以前から来ている患者さんに「先生、見違えるように綺麗になりましたね、明るい清潔感のある診察室ですね」と褒められて嬉しく、造って良かったと思える瞬間でした。あとどの位診療出来るのか?という思いはありましたが前に進んで良かったと思っています。家内、息子も自分たちで考えて作り上げたマイホームに満足してくれています。
 微力ながらも地域医療の力になれればと思っています。これからもご指導、ご鞭撻宜しくお願い致します。

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引越しのこと 中山裟枝子(立川綜合病院)

 新居への引越し、というのは、新生活の楽しみの中でも一位二位を争うものでしょう。
 楽しみというのは概して労力を要するものですが、引越しもその例には漏れません。引越しの準備はそれこそ、半年前から始まります。
 引越しの予定があるのですから、安易に物は増やせません。大好きな作家さんの新作が刊行されても、電子レンジが壊れても、「もうすぐ引っ越すしな……」と購買意欲にブレーキがかかります。今となっては、電子レンジは買ってもよかったなと思っていますが。電子レンジがないのってかなり困ります。食事を冷たいまま食べる羽目になりますし、パスタを茹でるのにわざわざお湯を沸かさないといけなかったりします。
 増やさないだけでなく、積極的に減らしていくことだって必要です。一目惚れして買ったけど全然着なかったワンピースだとか、読み返していない小説の山だとか、大学のバザーで千円だった炬燵だとか、愛着はあるけど別れた方がいいような奴らと、涙を呑んでお別れしないといけません。「しないといけない」は言い過ぎですが、ここで心を鬼にしないと、引越し料金が嵩むし新居がゴタゴタになりかねません。もし新居がゴタついたりなんてしてしまったら、引越しの楽しみは半減です。
 そうしてちまちまと時間をかけて準備を整え、ようやく引越し当日がやってきます。
 引越しの日って非日常もいいとこです。自分の部屋って日常そのものですから、その部屋が空っぽになって、厳選した家財道具が引越し屋さんのトラックに積み込まれると、なんだか紐を切られた風船みたいな気分になります。掃除してゴミを出してしまえば、家具が置いてあった名残すらも取り払われます。きれいになった部屋を見ながら、達成感と、寂しさと、なんだか妙な万能感を心の中でわちゃわちゃと騒ぐままにさせておきます。空っぽの部屋は清々しく、特に晴れた日だと、遮るもののない窓から明るい日差しが差し込んで、電気も点けていないのに眩しいくらい明るくなります。このまま駅から新幹線にでも飛び乗って遠くに行ってしまおうかなぁ、などと思いつつ、車に乗って引越し先に向かいます。
 高速道路を走った先には、もう引越し屋さんのトラックが到着しています。運び出される時と比べれば、運び込む時の感慨はさほどでもありません。精々まっさらの空っぽだった部屋が、段ボール箱で埋め尽くされたことに対するちょっとした申し訳なさと、荷解き面倒だなぁ……という気持ちくらいなものです。とはいえそこは新生活直前、やることは山のようにあるわけですから、さっさと荷解きに取り掛かります。
 荷解きをしていくと、引越し前に厳選したはずなのに、要らないものが燃えるゴミ袋大きいサイズに二つくらい出てきて驚きます。よくよく思い返してみれば、荷造りの中盤くらいから疲れてきて、割と適当にぽいぽい箱に詰めていた自分の姿が記憶にあります。「仕方ないなぁ」とため息をついては、処分済みの家電の説明書をゴミ袋に放り込みます。
 さて荷解きを終えて部屋を見渡しますと、呆れるほどに散らかっています。それも当然のことでしょう。なにしろ家具が無いのです。家具が無いということは収納場所もないわけです。食器やら本やらなにやらが、雑多に床に散らばっています。荷解きを終えて外は夕暮れ、一日分の体力も使い切っていますから、明日家具を買いに行くことを心に固く誓いながら、引越し当日は畳んだままの布団に倒れ込んで意識を失います。
 そしてお楽しみの家具・家電選びです。これが一連の引越しイベントの山場と言って過言ではないでしょう。どんな選択をするかによって、部屋の居心地も雰囲気もがらりと変わります。スタイリッシュな部屋? あたたかみがあって落ち着く部屋? はたまたガラリと印象を変えて、可愛らしい部屋にしてしまおうか。色々な妄想を広げながら、大手家具量販店と電気屋をハシゴします。リクライニング機能のあるソファやら、画素が見えないくらい映像がきれいなテレビやら、目移りしっぱなしです。一通り回り終えて、ふと通帳の残高を思い出し、とりあえず棚だけ買って帰ります。買えるのはいつになるのかなぁ、と思いながら。
 多分本当は引越し前に、各種家具を手配するべきなんでしょうが、私の今回の引越しはこんなふうに、行き当たりばったりです。行き当たりばったりすぎてまだ電子レンジもないですし、食卓を買ったのも五月の下旬です。まだまだ足りないものばかりの新居ですが、来月はなにを買おうか、悩むのもまた楽しいものです。
 というわけで、私の引越しはまだまだ終わりません。まだ買ってない大物家具は、ベッドと電子レンジとテレビとパソコン。さて、終わるのはいつになることやら。

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蛍の瓦版〜その73 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 1.入院待機ステーションの再開
 第7波の感染拡大を受けて、新潟県医療調整本部より7月12日?付けの要請があり、長岡市医師会の運営する入院待機ステーションが7月25日?から再開されております。8月14日までに9例の利用があり、県外者2名の他は長岡市内1名と近隣の市町村在住の方でした。そのうち4名は酸素投与や輸液療法にもかかわらず状態が改善しないため、翌朝には入院療養となりましたが、その他の5名の方は状態が落ち着き自宅療養継続のために帰宅されています。
 担当の先生方には、夕方18時30分から翌朝8時までと朝8時から昼の11時までとそれぞれお二人で分担して執務して頂いております。14日までに延べ10名の方々に実際に出務して頂きましたが、ご協力を頂いている全ての皆様のお蔭で運営が可能となっております。また夕方に入所された方が、翌朝には自宅か入院療養となって退所されるという慌ただしい状況で、様々な状態の患者さんに適切に対処されている看護師さんや事務方のご尽力にも敬意を表し感謝申し上げます。

 2.高齢者施設等における往診担当医
 高齢者施設等における新型コロナウイルス感染症施設内療養患者に対する往診担当医についてご協力をお願いしましたところ、9医療機関よりお手挙げを頂きました。ありがとうございます。
 第7波の感染拡大に伴い、無症状や比較的軽症の方には、宿泊療養施設や自宅での療養および健康観察を行うこととなっております。高齢者施設等でも同様に、医療資源を統括している新潟県医療調整本部は出来るだけ施設内療養をお願いされています。
 医療現場では、入院治療が功を奏し病状が落ち着いた後も、隔離期間が経過しない等の理由で退院できないことも医療資源ひっ迫の要因となっています。そのため施設内療養患者に対する往診担当医を整備したいとのことでの協力依頼でした。

 3.二次性骨折予防継続管理料算定要件に係る研修会
 新潟市医師会骨粗鬆症連携委員会主催によるオンライン研修会が9月8日?19時から一時間の予定で開催されます。これは6月発行のぼん・じゅーる≠フ瓦版でもお知らせしましたように、令和4年度の診療報酬改定で二次性骨折予防継続管理料が新設されたことを受けての説明会です。
 骨折は整形外科以外の方には余り馴染みの無い疾患ですが、高齢者のQOLには大きく関わり要介護となる原因としても重要です。なかでも骨粗鬆症による大腿骨近位部骨折は高齢者にとって最悪の骨折で、生命と機能面のいずれの予後にも致命的なイベントとなり得ます。長岡市内の三つの基幹病院で昨年1年間に660余例の大腿骨近位部骨折が治療されていますが、最終的に自宅へ戻られた方は半数に過ぎません。
 今回の講演会は一時間とコンパクトにまとまっており、骨粗鬆症から骨折の二次予防や施設基準の届け出まで広く網羅されています。新潟市医師会のホームページからも簡単に申し込みができます。点数算定に興味のある方も無い方も是非ご視聴下さい。なお後日何らかの見逃し配信もある予定です。

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巻末エッセイ〜気が付けば八十路(中) 星 榮一

 医学専門課程に上進したのは昭和三十六年四月で、新潟大学創立十一年目の頃でした。旭町の医学部キャンパスは大正三年の新潟医学専門学校時代に設置されたそのままで、赤門を入ると正面に医学部本館が聳え建っていた。キャンパスの中央にはキャンパス全体にエネルギーを供給している汽缶場の二本の高い煙突が目を引いた。

 キャンパス中央東西に道路があり、その北側に基礎医学の教室がそれぞれ個建であり、独自の階段教室を持っていた。中央道路南側は臨床医学教室の病室と研究室があり、附属病院と続いていた。

 汽缶場の隣には、東京駅に似た左右対称な手術場が独特の雰囲気を出していた。医学部本館から附属病院に向かう通路の両側には学生のロッカーがずらりと並んでいて、朝昼夕方はこの辺りは学生で大混雑していた。附属病院は昭和二十六年に漏電から外来棟が焼失し、鉄筋コンクリートの建物になっていた。

 専門課程の授業は、まったく選択の余地はなく全て必須で、三、四年生は基礎医学で、九時から夕方四時半まで午前中は講義、午後は実習でびっしり授業がありました。四年生の後半からは臨床医学の総論的な授業が始まった。

 五年生からは、九時から講義、十時半から各臨床科の外来で、外来患者さんについて指導を受けるポリクリ(Poliklinik)があり、午後は講義室で入院患者を供覧する臨床講義が二単位ありました。

 医学部六年生の六月に新潟国体があり、終わって一週間後の昭和三十九年六月十六日午後一時二分にM7・5、現在の震度では六強の新潟地震がありました。医学部キャンパスは殆んど被害はありませんでした。地震の翌日から学校は急遽夏休みに入り、私共学生は日赤や避難所になっている市内の学校を回り救護活動をしました。この年の十月十日からアジアで最初の東京オリンピックが開催されました。

 私共は翌年三月(昭和四十年)に卒業になりますが、その後一年間、級友の大部分が大学病院で臨床実習を行うインターン闘争を行い、国家試験を受験しました。

 その後の自分の専門科目の選択は、美空ひばりの塩酸事件や、広島の原爆乙女達のニューヨークでの治療などで、これからの時代は生死の問題以外に「QOLの増進」が大切だと考えた。昭和四十一年当時、日本で独立した形成外科は東京大学と慶応大学のみで、他に東京警察病院があった。田島達也助教授(整形外科)と荻野洋一助教授(耳鼻咽喉科)に相談して、取りあえず新潟大学で手の外科の研修をすることにした。

 再び医学部キャンパスに話をもどすと、建物は老巧化が進んでいるが、新潟大学が五十嵐地区に統合移転することになっており、医学部の整備にストップがかかっていた。しかし、昭和三十六年に東病棟が、昭和三十八年に西病棟が完成した。次いで医学部の基礎教室と臨床教室が同じ研究棟にあることが学問交流上好ましいということで、中央道路北側(旧病理、生理、生化学教室)の位置に基礎と臨床が一緒に入る研究棟が建設されることになり、まず昭和四十四年に西研究棟が、昭和四十九年に東研究棟、北研究棟が完成した。

 現在、赤門は残されているが、門の幅は広くなっている。赤門の脇の三角屋根の守衛所はなくなった。赤門の正面にあった医学部本館は惜しまれながら昭和五十年に解体された。

赤門と医学部本館

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