長岡市医師会たより No.511 2022.10


もくじ

 表紙 「妙高爽秋」 丸岡稔(丸岡医院)
 「これからの小児科医の未来と社会的役割」 奥川敬祥(おくがわ小児クリニック)
 「トトロはこう「読め」!〜2007年から2021年までの北陸学園の精神保健の講義より」 田崎紳一(長岡保養園)
 「医師会ゴルフ?初優勝」 田中 弘(三島病院)
 「成人難聴者における補聴器購入費用助成制度について」 加納昭彦(加納耳鼻咽喉科医院)
 「蛍の瓦版〜その74」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜今は無きフォンテンブローの思い出」 八百枝 潔(やおえだ眼科)



「妙高爽秋」  丸岡 稔(丸岡医院)


これからの小児科医の未来と社会的役割 奥川敬祥(おくがわ小児クリニック)

 今年6月に任期6年で長岡市医師会理事の職を退任いたしました。在任中は長尾前会長、草間会長をはじめ理事・会員の先生方・事務局の方々・関係各位のみなさま方には大変お世話になりました。理事として勤めたこの6年間は人生の中でも大変充実した日々でした。もちろんこれも様々な方との出会い、ご縁に支えられてのことです。みなさまには責務・責任の果たし方を背中で教えていただきました。長岡市医師会は自ら「行動する医師会」と公言しておりますが、その行動力と決断力は紛れもなく本物でした。今回「ぼん・じゅ〜る」会報編集委員会より寄稿の依頼をいただきましたので、この場をお借りしてみなさまからの在任中のご厚意に対しこころより御礼を申し上げます。
 私事ですが、本年4月より新潟県小児科医会会長に就任いたしました。当会は昭和59年に発足し、現在は日本小児科医会の新潟県支部として、県内を中心に小児科医200名ほどが参加しています。今、わが国は未曾有の人口減少時代に突入しました。世界的に少子化が加速している今、私たち小児科医自身の未来についてもまた見つめ直す必要に迫られています。小児科医会会長としてみなさまと小児科医の未来について考えてみたいと思います。
 私は平成元年に大学を卒業し小児科医になりましたが、この30年余りの間に小児科医療を取り巻く環境は大きく変遷しました。喘息や感染症で入院する子どもは減少する一方、最近は思春期の子どもたちのこころのケアや地域の小児保健、学校保健への参画、当会の永遠のテーマでもあります子育て支援への積極的関与、そして子どもたちの声を社会に届ける役割などが求められております。小児科医の役割、そして地域社会から小児科医に対して求められているもの「小児科医の社会的役割」が大きく変化していることは、小児科医全員が実感していることです。小児科医は医療だけをしていればよいという時代ではないようです。
 新型コロナウイルス・パンデミックの影響が続く中、全世界的に少子化が加速しました。小児科外来の患者数が減少し、一時期、医療経済的にも小児科医療に大きな影響が及びました。地方では地域病院での小児科病床の集約や削減が現実のものとなっております。また令和6年4月に迫った医師の働き方改革の問題があります。医師の時間外労働削減のために、小児科医が足りず、新潟県下各地域での病院小児科の集約を進める必要に迫られております。少子化なのに何故か小児科医が不足するという一見矛盾した問題です。これは私たち小児科医がこれまで働きすぎていたことを意味しているようにも思います。
 もちろん小児科にも明るい材料もございます。みなさまのご尽力のおかげで今年は多くの新規小児科入局の先生方をお迎えできました。また平成31年には小児科医念願の成育基本法も成立し、妊娠・授乳期から成人期までの切れ目ない支援策が成立し、私たち小児科医療の後ろ盾にもなってくれます。これを受け来年4月にこども家庭庁が発足します。「常にこどもの最善の利益を第一に考え、こどもに関する取組・政策を我が国社会の真ん中に据えて、こどもの視点で、こどもを取り巻くあらゆる環境を視野に入れ、こどもの権利を保障し、こどもを誰一人取り残さず、健やかな成長を社会全体で後押しする」今後これがわが国のこども政策の基本方針となります。?小児科医も含め私たちすべてが意識を新たにする必要があると思います。こども家庭庁創設により、OECD35か国の中では下から7番目に低いという日本の子育て支援事業費の増額を強く期待したいところです。子育て支援策はわが国の将来への投資であり、その増額は世界各国で出生率の増加につながることが報告されています。ポストコロナ社会にいち早く移行し、子育て支援策を拡充した諸外国では出生率が増加に転じ始めています。今後わが国でもコロナ後へ向けた社会的出口戦略の実践が加速されていくことになるでしょう。
 県小児科医会には「子どものため、子どもたちの未来のため、そして未来の子どもたちのため」この「3つの子どもの今と未来」という理念がございます。これは当会設立当初に第2代会長が提唱したものです。私たちの小児科医会は30年以上前の設立当初からすでにこのような志を自然と抱いていたのだと思いますし、小児科医自身が日常の子どもたちの診療を通して、そのような志を抱くように運命づけられた存在なのであろうと思います。今、小児科医は子どもたちの意見のアドボケーター(代弁者)であることを地域社会から求められる時代になりました。これからの小児科医の未来は私たち自身の「社会的役割」の実践により社会の信頼を得られるかどうかにかかっています。
 コロナ第7波もようやく収束に向かい始めました。県小児科医会はコロナ小児自宅療養患者のリモート診療に全面的に協力しているほか、オール新潟県小児科医で結束してコロナに立ち向かっています。今回のコロナ禍で会長として小児科医の結束力の強さをあらためて実感しましたし、小児科医の団結力に対し多方面から驚嘆とお褒めの言葉をいただきました。
 研修医の先生方で今後の進路についてお悩みの先生は、ぜひ身近にいる小児科医にも相談してみてください。きっと小児科の魅力について熱く語ってくれるでしょう。
 県小児科医会ではみなさまとより良い世界を築いていけるように願っております。ぜひいろいろなご意見をいただければと思っております。

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トトロはこう「読め」!〜2007年から2021年までの北陸学園の精神保健の講義より 田崎紳一(長岡保養園)

 【§1.はじめに】

 私はピアジェの知能の発達段階の理屈を北陸学園の生徒さん達に理解してもらうにあたって「となりのトトロ」のシーンを幾つか観てもらった上でそれについて解説するということを15年くらいやって来ました。この回の講義だけは毎年生徒さん達にすごく好評でした。
 そこで今回「ぼん・じゅ〜る」の原稿依頼を承けて、例年していたこの講義の内容を誌上で再現してみてはどうかと思い立ち書いてみることにしました。

 【§2.映画のあらすじ】

 草壁一家(東大?考古学教室に籍を置く父と小学校5年の長女のさつきとこの5月に4歳になる次女めい、母は肺結核で埼玉県所沢市の七国山病院に療養中)は昭和34年春に所沢の松郷に引っ越してきた。
 @学校が「田植え休み」の時に草壁一家は自転車で(前のかごにはめいが乗り、荷台にはさつきが乗りペダルを漕ぐのは父)母の療養先に面会に行く。父は子ども達が母と会っている間主治医と面接をし次の週の週末に二泊三日の外泊をして徐々に退院に向けてゆこうということになった。
 A隣の家の「おばあちゃん」がさつきとめいの世話をしてくれていた。この日、さつきとめい姉妹は「おばあちゃん」の畑で遊んでいた。「おばあちゃんのとうもろこしを食べればおかあちゃんの病気なんかすぐなおっちゃうわ」と「おばあちゃん」が言った言葉を承けて畑で収穫したとうもろこしをめいちゃんは大事そうに見つめていたら「おばあちゃん」の孫の「寛太」が留守になっていた草壁家に届いた電報を代わりに受け取りそれを同級生のさつきに届けに来た。
 B電報は七国山病院からで「すぐに病院に連絡をしてほしい」という内容だった。どうしてよいかわからないで困惑したさつきは「おばあちゃん」に相談し「おばあちゃん」は寛太に「寛太、本家までさつきちゃんを連れて行け。さつきちゃんはそこからお父さんのいる大学まで電話させてもらえ。めいちゃんはここに残れ」と指示命令するが、走り出した寛太とさつきちゃんをめいも走って追いかけるが二人を見失って迷子になってあちこちを走り回る。
 C寛太の本家についた後でさつきちゃんは父に電話をかけさせてもらう。父は七国山病院に電話をかけて主治医と話をする。主治医によると「患者が風邪をひいてしまって少し体調を崩したので今回の外泊は延期する」という内容であった。父は寛太の本家に折り返し電話をかけて、そこで待っていたさつきにその旨を告げる。
 Dがっかりしたさつきは寛太とともに自宅への帰り道についていた。その時に道に迷ってウロウロしていためいと奇跡的に合流した。めいの姿を見つけたさつきはめいと以下のような会話をする。
  さ:おかあさん帰って来れなくなっちゃった
  め:いやだっ
  さ:がまんしてよぉっ
  め:いやぁぁだぁっっ
  さ:おかあさんが死んじゃってもいいの!
  め:いやぁぁだぁっっ
  さ:めいの馬鹿!もう知らない。[と、駆け出して行ってしまう]
  め:あぁーーっん……おねえちゃんのばかぁあ。あぁーーっん……
 寛太は泣きじゃくるめいを連れて途方に暮れながら優しく付き添う。
 E家に帰ってきて、さつきは「おばあちゃん」と過ごし、めいは一人遊びをしてそのままお昼寝をしていた。「おばあちゃん」はお米を研ぎながら心配しなくともよいと告げるが、さつきちゃんは、「この間もそうだった。風邪みたいなものだからって言ってそのままおかあさんは入院になったんだ。お母さんがこのまま死んだらどうしよう」と言って大泣きしてしまう。その様子を遠くから見ていためいは決心したような顔つきでとうもろこしを抱えて走り出す。
 F夕方が迫り、「おばあちゃん」はめいちゃんを探すが見つけられないためにさつきにめいちゃんの居場所について尋ねる。さつきは、めいと大ゲンカしたばかりでめいがどこに居るのかが分からないと「おばあちゃん」に言うがその瞬間に「もしかするとめいは七国山病院に一人で行ったのではないか」と「おばあちゃん」に告げる。これから日が暮れるという時間帯に「大人の足でも半日はかかる」という距離の七国山病院に4歳になったばかりの女の子が向かったのかもしれないということを知った「おばあちゃん」は寛太に村中の人間を集めて捜索隊を組むように指示する。

 【§3.さて、ここからが講義です】

 皆さんにみてもらうのはここまでです。トトロとさつきの三回目の出会いも皆さんの大好きな猫バスも残念ながらここでは観てもらうわけにはいきません。
 さてここで皆さんに質問です。
 Q1)「大人の足でも半日はかかる」という遠い場所なのに何故めいちゃんは出かけようと思ったのでしょうか?
 Q2)Dのさつきちゃんとめいちゃんの会話の場面に注目して下さい。実は大ゲンカになってしまったのはお互いの誤解が原因であると私は思っています。さてその「誤解」とはどういうことでしょうか?
 Q3)3〜4歳児の知能、11歳の小学生の知能、大人の知能の特徴が出ている箇所はどこでしょうか?
 A1)一連の出来事を「始まりと終わりがある一連の筋が通ったおはなし」としてまとめることが出来るようになるは4歳くらいです。自分自身の心を過去の出来事へと確実に飛ばすことが出来る(これを「過去へのmental travelling」と呼びます)ようになるのが5歳くらいで、「未来へのmental travelling」が確実に出来るようになるのは定型発達で6歳だと言われています。この3つの能力を獲得して初めて自伝的記憶が成立すると言われています。ではこれをもとに考えてみますと、めいちゃんは@の場面で帰りの自転車で、
  め:ねぇ。お母さんはいつ帰るの?あした?
  さ:また、めいの「あした」がはじまった
  父:流石に「明日」は無理だなあ
 というやりとりがありました。めいちゃんにとっては、未来は全て明日だし、過去は全て昨日だったりするのでしょう。まだしっかりとした時間感覚が出来ていないのがめいちゃんなのであります。
 めいちゃんにとっては、この時の自転車旅行は実に楽しい出来事だったのだと思います。楽しくて楽しくてあっという間に終わったという感じだったのでしょう。だからめいちゃんにとっては七国山病院までの距離は「そんなに遠くない」という印象だったのだと思います。
 次にさつきちゃんがめいちゃんを捜し始めたFのシーンでのさつきちゃんの独り言に注目しましょう。さつきちゃんは言いました「めいのバカ。すぐ迷子になるくせに!」と、…。では何故迷子にならずに七国山病院に行けるという自信をめいちゃんは持てたのでしょうか。それを解く鍵はふたつあります。まず第一は、@のシーンでお母さんに久しぶりに会った時に最初にめいちゃんがお母さんに言った台詞です。
  め:お父さんったら、道間違えたんだよ
  父:ごめんごめん
  め:私は間違えなかったよ
  母:あらそう。めい偉いわねぇ
 と、いうことで、「お父さんは道を間違えるかもしれないけど私は大丈夫。お母さんにも褒められたし」という根拠のない自信を得たに違いないのです。
 第二に、めいちゃん自身は自分がすぐ道に迷う、とは思っていないのかもしれません。Dのシーンでめいちゃんは奇跡的にではありますが姉と寛太に合流することが出来ていたのですから。だから自分がすぐに道に迷うという自覚は全くなかった可能性が高いのです。だからAのシーンでも出てきたおばあちゃんから貰った「食べればすぐにお母さんが元気になる可能性の高いとうもろこし」を抱えて七国山病院に走ったのです。
 A2)さて、この問いに答えるために、Dのめいとさつきの会話を分析してみましょう。さつきにして見ればこういう言い分になるでしょう。
 めいは何てわがままなんだ。外泊がダメになったことを残念に思っているのは私だって同じだ。私だって嫌なのにおかあさんの病気が悪くなってしまったら困るから我慢しなくてはいけないと思って我慢しているのに駄々ばかりこねて私を困らせて。全く困ったものだ。
 これに対して、めいちゃんの言い分はこうです。
 私は「おかあさんが帰って来れなくなった」という事実に対して「そんなのは嫌だ」と言っただけだし「おかあさんが死んじゃってもいいのね」という姉に発言に対して「そんなのは嫌だ」と思っただけだから「嫌だ」と言っただけだ。おかあさんが来れないとか死んじゃうかもしれないなんて嫌なことを言うお姉ちゃんに対して「お姉ちゃんなんて大嫌い」と思って「おねえちゃんのばかぁあ」と言っただけなのに。
 では何故このような会話の行き違いが起こったのでしょうか?これは言語の発達の問題がわかれば解けることです。ヴィゴツキーの「思考と言語」に拠れば言語は、まずは外言(がいげん)として始まり続いて自己中心言語へと移行し最後に内言(ないげん)になります。これを模式図にすると次のシェマのようになります。
 (ヴィゴツキーの自己中心言語の考え方とRussell A. Barkleyの2006年版のADHDの教科書をもとにして私が勝手にまとめたものです。)

 LevelT:外言とは明らかに異なる「自分自身に語りかけ問いかけながら発している音声言語」であり、いわゆる自己中心言語
 LevelU:ストレスがかからない状況でならば音声としては出ないが、夢中になったりしている場合に「ひとりごと」として発せられてしまう音声言語で、かなり活発な会話のような語り口調になる
 LevelV:夢中になったりしている場合でも大きな音声としては出ないが、明らかに唇や舌の動きと喉の動きが観察でき、「音声として発せられる寸前の状態」であるような場合や、かすかな音声としてブツブツと発せられてしまう場合。
 普段は大丈夫でもテストになると問題文をブツブツと少し声を出して読み上げなくてはならない、というようにして確認される
 LevelT⇒LevelU⇒LevelV⇒内言⇒衝動的な感情を自己制御可能になり思いつきで気まぐれな言動が減る
 ADHDでは内言がLevelVの段階に留まりなかなか完成してゆかない
 健常な子ども⇒7歳くらいでは既に自己中心言語はLevelVの段階に到達する
 LevelVの自己中心言語は10歳頃から少なくなってゆく
 ADHDの子ども⇒7歳くらいではまだ自己中心言語はLevelUの段階に留まり11歳くらいでようやくLevelVの段階に到達する
 つまり、めいちゃんが「いやだ」と叫んだのは単なる自己中心言語としての叫びだったのだと考えるべきなのではないでしょうか。つまり、転んで足を打った時に「痛い」と叫ぶ時のあの叫びの類いです。僕たちは別に誰かに自分の痛みをアピールしようと思って「痛い」と言ってしまうわけではないですよね。
 また、一人で車を運転していてウィンカーも点けずに自分の車線に突然入って来た車に対して「バカヤロー」と思わず叫んでしまうのも自己中心言語ですね。但しわざわざ窓を開けて相手に聞こえるように「このバカヤロー殺すぞ!」と叫んだとしたらそれはもう自己中心言語ではなくなってしまいますが。
 A3)ピアジェの言う知能の発達段階で考えると、表象的思考の段階(2〜6歳)というのは、分かりやすく言えば、「今現在、目の前で起きている事物が具体的に次にどういうふうな動きを見せるだろうか」ということを予測する知能です。だから今現在起こっていることを考えることしか出来ません。
 次の操作的思考の段階(7〜11歳)とは、「今現在目の前にあることではなくとも過去に自分が経験したことであれば、それはこの次にどう展開してゆくだろうということを過去の経験から類推して予測することが出来る能力」のことです。
 最後の形式的操作による思考の段階(12歳〜)とは今まで経験したことのないことであっても、「論理的に考えて、やるべき最善手としてはこれしかないだろう」と言う思考方法のことです。
 するとわかることは、めいちゃんは表象的思考の段階の子だということになります。それに対してさつきちゃんは、
 a)病院からの電報を受け取る、という人生初の出来事に接してどうしてよいかわからず混乱していました。
 b)Eのシーンで、「この間もそうだった。風邪みたいなものだからって言ってそのままおかあさんは入院になったんだ。お母さんがこのまま死んだらどうしよう」と言って泣くのがさつきちゃんなのでした。
 つまりa)b)より、さつきちゃんはしっかりもののように見えるけれども「自分自身の過去の経験からしか未来を類推することが出来ない」という知能の段階にまだ残存している普通の女の子なのだということになりますね。
 最後に「おばあちゃん」とお父さん。これは緊急事態に対して適切な行動をとることの出来る人物として描かれていて、これこそが大人の知能の見本なのです。
 最後に、知能についてを模式図的にまとめたものが以下になります。

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医師会ゴルフ?初優勝 田中 弘(三島病院)

 令和4年長岡市医師会会員ゴルフ大会が例年通り開催されました。世間は、イギリスのエリザベス女王が他界され、新型コロナウイルスの第7波が減少傾向をみせ、過去最大級クラスの台風14号が上陸し2日後には北陸から東北地方を縦断する時期でした。ゴルフ場のコンデションは上々で、準備して頂いた事務局の星さん、幹事の荒井先生に感謝申し上げます。
 優勝報告です。東1番パーで上がり上々のスタートでしたが、東3番パー4で9つも叩いて「これで優勝はない」と思っていました。ゴルフは何が起きるか分かりません。ダブルペリア方式のHDCPを19・2も頂き初優勝できました。キャディーさんの「お上手ですね。」の言葉に乗せられ、Y先生の男前のパットに魅了され、N先生のマイペースなスタイルにスイングが安定し、S先生の後半の追い上げに刺激されるうちにスコアが安定したことも良かったのだと思います。同伴の先生方にも感謝申し上げます。
 令和元年から沢山ラウンドするようになりましたが、90を切る良い時もあれば100以上打つ悪い時があることもゴルフの面白さなのかなと最近思っています。今の目標はコンスタントに90台で、欲張れば82以内で回りたいと思っています。
 これが「ぼん・じゅ〜る」初寄稿になりますが今後も宜しくお願い致します。

 ●長岡市医師会会員ゴルフ大会

  令和4年9月18日?
  長岡カントリー倶楽部
 優勝:田中 弘
 準優勝:田島健三
 3位:田辺一彦
 4位:鈴木俊太郎
 5位:大塚武司
 6位:田村隆美
 7位:吉田正弘
 8位:柳 京三
 9位:太田 裕
 10位:河路洋一
 11位:川嶋禎之
 12位:江部佑輔
 13位:野々村直文
 14位:西村紀夫
 15位:荒井義彦

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成人難聴者における補聴器購入費用助成制度について 加納昭彦(加納耳鼻咽喉科医院)

 医師会員、医師会関係者の皆様、日頃から大変お世話になっております。寄稿依頼をいただき趣味のゴルフについて書こうかとも思いましたが、ちょうど長岡市で表題の制度化が進んでおり、概要を報告させていただきます。

・補聴器について

 まず補聴器自体、医師でも馴染みのない方が多いと思います。補聴器は購入すれば直ぐに使えるというものではなく、個々人の聴力像に合わせて調整が必要です。耳鼻科で耳内確認後聴力検査を行い補聴器の必要性が認められると、認定補聴器技能者の在籍する店舗を紹介します。認定補聴器技能者とは、補聴器を安全に効果的に使用することができるように知識及び技能を習得したスペシャリストです。いわゆる町のメガネ店での補聴器購入は、耳鼻咽喉科学会としても薦めていません。
 補聴器の価格ですが、福祉で助成を行う標準タイプで1台52,900円です。経年劣化が起こるため、5、6年で買い替えが必要となります。長岡市には1台につき半額程度の助成をお願いしているところです。

・活動のきっかけ

 2017年ランセット誌に、「認知症の35%が予防可能であること、認知症発症には9つの危険因子があり、最大の因子は中高年の難聴である」という内容の論文が報告されました。認知症発症予防の観点からなるべく早期に補聴器を装用してもらうよう、2019年日本耳鼻咽喉科学会新潟県地方部会は、新潟県と各市町村に補聴器購入費用の助成制度陳情を開始しました。元々高度難聴者に対しての助成制度は存在しますが、この制度は軽・中等度難聴者にも補聴器が届き易くなることを意図しています。

・現状

 2021年9月に堀井新潟大学耳鼻咽喉科教授、地方部会担当理事、開業医3名で長岡市に陳情に伺いました。2022年は直接市議会議員に制度化の働きかけを行い、9月の市議会でも議題に取り上げられました。現時点では県内30市町村中26市町村で制度化されていますが、長岡市は遅れています。

・最後に

 補聴器は難聴が高度に進行してしまわないうちに使用した方が、自分に合う補聴環境を獲得しやすく、結果認知症予防効果も高くなると思われます。
 補聴器の値段を聞いて購入を躊躇する方が多いため、助成制度があると補聴器使用を勧めやすくなり、制度化されることを期待しています。

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蛍の瓦版〜その74 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 1.はじめに

 令和元年12月に中国で肺炎患者の集団発生が報告されて以来、この新型コロナウイルス感染症によって私たちの日常生活も医療現場も随分と変化してきました。令和2年3月17日に厚労省から17頁の新型コロナウイルス感染症(COVID?19)診療の手引き¢1版に始まり、次々と改訂を重ねこの10月5日には76頁となった8?1版が上梓されました。この二年半の間にウイルス自体の変異による疾病の特性の変化や、ワクチン接種の進展があり、抗ウイルス薬や中和抗体薬が医療現場でも使用できるようになる等様々な変遷がありました。今回は新型コロナウイルス感染症に関する昨今の話題をいくつか紹介します。

 2.新型コロナウイルス感染症発生届

 新型コロナウイルス感染症の累積陽性者数が全国で2千万人を超え、各地の保健所の負担が大きいことから患者さんの発生届がさらに簡略化されることとなりました。今まで新型コロナウイルス感染症は感染症予防法における指定感染症に係る2類感染症に準じる扱いで、全例保健所に報告することが医療機関には義務付けられていました。しかし、全国的に9月26日から感染症法に基づく医師の発生届の対象を以下の4類型の高リスク者の方に限ることとなりました。
  @65歳以上
  A入院を要する者
  B重症化リスクがありかつ新型コロナ治療薬や新たな酸素投与が必要な者
  C妊婦
 これらの方々に加え死亡された方は疑い例も含め、感染症法に基づいた発生届を?HER?SYS?へ入力するか、ファックスにて保健所に連絡する必要があります。この他の低リスク者についても、診断が付いた時点で、人数を?HER?SYSへの入力またはファックスにて保健所に連絡してください。
 新潟県では基本的には全数把握に努めており、高リスク者の方には新潟県独自のスタンバイパスポート≠ヨの入力をお願いし、従来通り陽性患者さんに対して保健所から直接連絡しフォローアップが行われます。一方低リスク者の方には陽性者登録・フォローアップセンター≠ノ登録して頂きます。保健所からの直接の連絡はありませんが、体調悪化時に自分でセンターに連絡することで、療養支援や医療の介入を受けることができます。

 3.入院待機ステーション

 先回の瓦版でもご紹介しましたように、長岡市医師会の運営する入院待機ステーションが7月25日から再開されていましたが、9月16日で再度休止となりました。今回は計15名の利用があり、8名は酸素投与や輸液療法にもかかわらず状態が改善しないため、翌朝には入院療養となりましたが、その他の7名の方は状態が落ち着き自宅療養継続のために帰宅されました。
 9月まで使用していた建物が10月からは使用できなくなるため、現在代替え施設を整備中ですが、新潟県では必要に応じて再開することを考慮しているそうです。担当の先生方や運営にご協力を頂いている全ての皆様にはまたご難儀をお願いすると存じますが、よろしくお願いいたします。

 4.ドライブスルーによるPCR検体採取

 長岡市医師会では、令和2年3月17日から新潟県との委託契約によるPCR検体採取を行ってきました。長岡休日・夜間急患診療所の近くに仮設の施設を設けドライブスルー方式によるもので、検体採取には会員の皆様にもご協力をいただいて参りました。現在はPCR検査も一般化したことから、9月30日を以て終了とし、10月以降は長岡休日・夜間急患診療所の検査機能(抗原検査)に変更し継続します。全期間のうち実施日は333日、実施件数858件うち陽性121件でした。

 5.ワクチン接種関連

 新潟県医師会では9月26日付で、5歳以上の小児に対し新型コロナウイルスのワクチン接種を推奨するリーフレットを作成しております。これは、新潟大学小児科学教室の監修によるもので、保護者へのQ&A方式の解説をされています。県や市の医師会のホームページ等をご参照下さい。
 新型コロナウイルスワクチンとインフルエンザワクチンは、この両者に限り同時接種が認められており、同日以外にも翌日翌々日でも接種可能です。ただしそれ以外の組み合わせは、新型コロナワクチンでは2週間や不活化ワクチンは1週間等それぞれ必要な期間を開ける必要があります。ご注意下さい。

 6.二次救急輪番体制

 令和2年12月に、新型コロナウイルス感染症疑いの発熱患者さんへの対応として当日の当番病院ではなく、翌日の当番病院へご紹介いただくようにしておりました。当時は診療所等では検査ができず、重症感のある発熱患者さんの対応に難渋することから、臨時の措置としてお願いしておりました。昨今では検査体制等が拡充し、インフルエンザの流行期を迎えることから、発熱患者を含め救急当番病院に全ての患者さんの受け入れをお願いすることとなりました。よろしくお願いいたします。

 7.おまけ(外来感染対策向上加算)

 11月8日?に令和4年度全体懇談会を予定しています。長岡休日・夜間急患診療事業等の報告や講演の他に、長岡赤十字病院のスタッフによる防護服の着脱演習を行ないます。これは診療報酬上の外来感染対策向上加算の施設基準に係る訓練に該当します。同様の内容の訓練を12月10日?にも予定しておりますが、この加算を算定されている医療機関はいずれかに是非ご出席ください。

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巻末エッセイ〜今は無きフォンテンブローの思い出 八百枝 潔(やおえだ眼科)

 長岡市医師会から連絡があり、年二回本会報に寄稿することを依頼され、美味しいものを食べること以外に特段趣味のない私なので、唐突ですが、過去から現在まで、印象に残った美味しいもののお話しを書き綴っていこうと思います。

 亡父は私よりずっとグルマンだったと言いますか、父の影響で私も美味しいものを食べることが好きになったと言って過言ではありません。ですので、私が10歳くらいの頃には、当時超が付くほどの名店に伺ったことが何度かあります。私の記憶の中で伺った経験があり、かつ現存しているのは京都瓢亭本店と赤坂の懐石辻留あたりでしょうか?

 表題のフォンテンブローとは、かつて帝国ホテルのメインダイニングとして、日本のフレンチ界に鎮座していた名店で、フレンチの巨匠、故村上信夫氏がシェフを務めていました。

 お店に伺う前に父からテーブルマナーについて、@テーブルに肘を着くな、Aフォークやナイフは外側から使う、B食事の途中ならナイフとフォークをハの字に皿の上に置く、Cフォークやナイフなどを下に落としても拾わない、等々覚えきれないほどの指導を沢山受けました。お店に着いてみると、格調が高すぎて緊張しまくりでした。なんとお客一人にギャルソンが一人着くので、気の休まることはありません。で、案の定フォークを一つ落として、バツが悪かったことしきりでした。

 メニューは読んでもさっぱり分かりません。でもそんな中で、自分が読めて食べられそうなものとして、2品選びました。「グリーンピースのポタージュスープ」と「チキンのクリーム煮」。ポタージュスープの方は、青臭くて正直コーンポタージュだと良かったのになあ・・・チキンの方は悪くはなかったけど、ハンバーグ食べたかったなあ、という子供らしい感想でした。

 と言うことで、初めてのグランメゾン体験、散々なお話しをしよう、という訳では実はなく、大事なことがいくつかあるのです。私が食べた40年以上前の料理を、今でも覚えているって凄いことと思いませんか?それはお料理が美味しい美味しくない以前に、皿数が少なく、一皿毎のインパクトが強かったからです。今どきのグランメゾンと呼ばれるお店、予約の取れないフレンチレストランの多くは多皿のコース一本なのです。それらのお店に伺って「美味しいなあ」と思うことは多々あっても、大抵は「何食べたんだっけ」となってしまいます。多皿のために一皿一皿の印象が薄くなってしまっているのでしょう。かつ、多皿のせいで、大して美味しくない一品が混ざっても、それすら印象に残りません。

 もう一つ、受け手側の問題もあります。一億総グルメ化な昨今、お店へのアクセスが容易になったせいか、ドレスコードも守れず、テーブルマナーも守れないくせに映える料理≠高く評価する人が多くなった気がします。

 アラカルトで少ないお皿で勝負し、メートルが料理を切り分けたり、クロッシュを使って料理をギリギリまで隠したり、わくわくするようなデザートワゴン、食後酒のワゴン、プチフールのワゴン、チーズのワゴンが出てくるようなクラシカルなグランメゾンって需要が無くなったせいか、ホントに少なくなりましたね。昔は新潟のホテルのレストランですら、ダックプレスという鴨の血を絞り出す器械があったものです。今はほとんど存在しない、そんなレストランが、実は一番好きなのです。

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