長岡市医師会たより No.513 2022.12


もくじ

 表紙 「稻架木雪景」 丸岡稔(丸岡医院)
 「田中政春先生を偲んで」 森田昌宏(三島病院)
 「コロナ禍での楽しみ」 橋本 薫(はしもと眼科クリニック)
 「クリニック新規開業」 小柳貴人(おやなぎアレルギークリニック)
 「法隆寺の景教〜隠された十字架」 福本一朗(長岡保養園)
 「蛍の瓦版〜その75」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜ボニンアイランズ」 富樫賢一



「稻架木雪景」  丸岡 稔(丸岡医院)


田中政春先生を偲んで 森田昌宏(三島病院)

 田中政春先生は令和4年12月2日、享年86歳のご生涯を閉じられました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。認知症診療のわが国における黎明期から現在に至る発展史の中で先生の果たされたご貢献はあまりに大きく、長くお側に置いていただいたとはいえ非才の私にはそのご業績の全貌をうかがい知ることは困難です。しかしここに先生を偲びつつご足跡を辿ってみたいと思います。
 先生は昭和12年、北海道常呂郡訓子府町(くんねっぷちょう)の農家の次男として出生されました。北見高校まで片道歩いて1時間、汽車で1時間かけて通学されたと回想されていましたが、「内地」の大学に進みたいという願望から新潟大学を選ばれたそうです。昭和37年新潟大学医学部をご卒業になり、当時のインターン制度のもと東京近郊の精神病院でアルバイトをされていた時に、入院している精神障害者、とりわけ痴呆患者の悲惨な状況を目の当たりにされてこの人たちを救わなければならないと心に誓われたと後に語っておられます(以下、認知症と改称される前の時期の記述にはあえて「痴呆」を用います)。先生は大学院進学にあたり精神医学を専攻されましたが、新潟大学脳研究所神経病理学教室に出向されて痴呆症の原因究明に向けて研鑽を積まれました。先生は死体解剖資格も取得され、後に三島病院を開設されたときには院内に専用の解剖室を設置し、痴呆疾患の剖検症例を通じて脳研神経病理学教室の先生方とともにその後も長く研究を続けてこられました。
 先生は昭和42年に大学院をご卒業になり博士号を取得されるとすぐに、当時結核医療から精神医療へと大きな転換を迎えていた国立犀潟療養所(現国立病院機構犀潟医療センター)に赴任されました。先生はまさに新しい精神医療を切り開くパイオニアとして活躍されたのですが、なかでも先生は痴呆症の患者さんには痴呆症の特性に合わせた専用の病棟が必要であるという確信を持たれ、国に繰り返し働きかけて日本で初めての痴呆専用病棟を昭和46年に開設されました。適した環境下で治療すれば痴呆症の患者さんの問題行動や身体合併症のリスクが軽減させることができるという手応えを確信されたそうです。しかしやがて国立療養所の枠内での実践に限界を感じられて理想の実現のために自ら病院を開設する決心をされ、奥様のご実家のある当地を選ばれ昭和54年に三島病院開設に至りました。当時、痴呆の患者さんを精神科病棟で専門的に診療していくという病院は他にはありませんでした。開設当初は2病棟110床でしたが増築を重ねて昭和63年には6病棟となり、平成8年には老健楽山苑を併設、平成17年には特定医療法人に改組と現在の体制に至っております。
 開院の翌年にはX線CT装置を、平成元年にはMRI装置をいち早く導入し、画像を活用した認知症の診断に積極的に取り組んでこられました。MRI診断システムの立ち上げ時期にご協力いただいた神経放射線科の関耕治先生には、後に先生がセキMRI診断ネットを設立された後も当院の診断精度向上にご尽力いただいております。
 問題行動等が収まって病状は安定したものの在宅に戻ることが難しい高齢の患者さんを最後まで介護していく場として福祉施設への受け入れが必要となります。当時の特養には痴呆症の人を入所させるという発想が欠けており、ここでもまた先生は県や市町村に繰り返し働きかけてそのための施設を自ら開設されることになりました。昭和55年長岡三古老人福祉会設立、昭和56年特養みしま園開設となりましたが、箱だけ作ってもそれだけでは介護の充実には結びつかず、介護を担う人材の育成こそが重要です。昭和59年みしま園は県から痴呆性老人処遇技術研修事業を受託し、以後県内の多くの介護スタッフの育成に貢献していきました。昭和62年にはみしま園に県内初の痴呆性老人専用棟を開設し、多くの痴呆症の人を受け入れることができるようになりました。平成元年には老健グリーンヒル与板開設、以後長岡三古老人福祉会の施設は順次整備が進み、令和4年現在17施設にのぼっています。このように痴呆症の人の福祉の充実に先鞭をつけられたことも先生の大きなご業績です。
 先生は痴呆症の予防という視点を早くから持っておられました。精神科病院協会の欧州視察旅行でフランスのある施設をご覧になり、ジム・セルヴォー(「脳の体操」、今でいう脳トレの一種)を日本に導入できないかとお考えになりました。誰かこの仕事を手伝う者はいないかという呼びかけに応え当時新潟大学精神医学教室に在籍していた私が平成元年から2年間にわたりパリ近郊のビセートル病院内にあった国立脳老化予防研究所(INRPVC)で共同事業に従事しました。申し訳ないことに私の能力不足のため事業実現には至らず、紹介本を一冊出しただけでお茶を濁し、その後今に至るまで先生のご指導の下で認知症診療に従事してきました。平成7年三島病院が県から老人性痴呆疾患センター(現認知症疾患医療センター)の指定を受けると、私は専任の医師として地域連携の推進に当たりたいと希望し以後微力を尽くして参りました。先生の認知症予防へのもう一つの視点として、竹内孝仁先生(現日本自立支援・パワーリハビリ学会会長)の提唱されたパワーリハビリに早くから着目されこれを積極的に取り入れて、今では長岡三古老人福祉会傘下の7施設にパワーリハビリステーションが開設され、フレイル予防、認知症予防に成果を挙げています。
 このように認知症の予防活動から始まって早期診断・早期治療、適切な医療・介護によるBPSD予防、身体合併症対応から最後の看取りに至るまで、一貫して患者さん本人と介護されるご家族とをしっかりと守っていくというシステムの理念をいち早くお示しになり、多くの人材を育ててそれを実践された先生のご業績はまさに偉業と呼ぶに相応しいと思います。私の視野の狭さから認知症に関する事績しかここに語ることが適いませんでしたが、それ以外にも先生の社会へのご貢献は数えきれず、新潟県精神科病院協会会長(平成6年〜平成12年)、三島郡医師会会長(平成12年〜平成18年)、新潟県介護老人保健施設協会会長(平成12年〜平成23年)などを歴任され、厚生労働大臣表彰をはじめいくつもの表彰を受けておられます。先生のお人柄として懐の深さ、優しさを物語るエピソードには事欠かないと思いますが、医師会の先生方からも田中先生にまつわる思い出話などがございましたら是非とも私どもにお教えいただけますようお願い申し上げます。
 晩年の先生は事業の継承に向けて準備を進めてこられました。先生は臨床心理士であった幸子夫人との間に長男の田中弘(こう)先生、次男の田中晋(しん)先生、長女の安子さん、三男の田中賢(けん)先生と4人の子供さんに恵まれましたが、残念なことに幸子夫人は平成12年にご逝去されています。田中弘先生は特定医療法人楽山会の理事長を、田中晋先生は長岡三古老人福祉会の理事長を引き継がれています。そして田中賢先生は歯科医師として三島病院内の認知症患者さんの治療にとどまらず地域に出て口腔フレイル対策を通じて認知症予防を目指して活躍しておられます。3人の息子さんたちとともに、先生からご薫陶をいただいた私どもが先生のご遺志を受け継いで、いちばん弱い立場にある認知症の方々を守るために日々努めていかなければならないと考えています。田中政春先生に繰り返し感謝の言葉を捧げたいと思います。

故田中政春先生

三島病院内 解剖室

病院俯瞰図

病院正面

現在、四代目のMRI装置が稼働中

特養みしま園

田中三兄弟 左から田中晋先生、田中弘先生、田中賢先生

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コロナ禍での楽しみ 橋本 薫(はしもと眼科クリニック)

 医師会会員の皆様、ご無沙汰しております。はしもと眼科クリニックの橋本です。この度医師会より会報執筆のご依頼がありましたので、些末ではありますがコロナ禍で変遷する私の趣味について紹介をさせて頂きます。

 コロナ禍前(開業前):

 いわゆる感染の恐怖や3密回避の問題がなかった頃は、ダイビング、登山、スキーやそのついでの旅行が楽しみでした。夏の間は、週末は佐渡、夏季休暇には石垣島でダイビングを楽しんでいました。佐渡は1泊2日のツアーでしたので、有名な観光スポットに行くことはできませんでしたが、荒々しい日本海の魚たちを眺めて楽しんでいました。夜は旅館の食事の他、時には近くのお寿司屋さんで美味しい料理を堪能しました。石垣島は風景だけでなく海の中も絶景です。マンタで有名な川平湾沖のスポットは必ず潜っていました。カラフルな魚や美しいサンゴ礁を見て潜るのは、心が洗われます。島は意外と広く、レンタカーで海を眺めながらドライブするのが現実逃避にぴったりな至福の時間でした。夜は馴染みの飲食店で沖縄料理と泡盛を堪能しました。
 春や秋は登山です。妙高山は良い鍛錬の場でした。時には立山で縦走を楽しんでいました。友人とテントの中で酒を飲みながら過ごすひと時は至福の時間です。たまに豪雨に見舞われ、テントの浸水でずぶ濡れとなり震えて朝を迎えることもありました。それでも今となっては良い思い出です。ただし翌週の診療は全身の筋肉痛との戦いでした。
 冬はスキーでした。若者のようにスノーボードなどできませんから、もっぱらカービングスキーでリフトの1日券をしっかりと使い切ります。上越方面のスキーエリアでは、ネットでゲリラチケットなる安価なセット券を頑張って入手し、泊りがけで滑っていました。もちろん行く先々でグルメや温泉を満喫しました。現在、肝心のスキー板と靴はどこに収納したのか行方不明です。

 コロナ禍〜現在:

 これまでの楽しみはほぼできなくなりました。感染の恐怖や運動不足からくる怪我への恐れからです。自主練をするほど勤勉ではありませんから体力は落ちるばかりで、今冬に予定されている健診が恐ろしくてなりません。とはいえ週末は必ず来ますし、たまには連休というご褒美があります。そんな時は昔やっていた趣味を復活させて楽しんでいます。今は釣りと天体観測です。
 父が大の釣り好きだったこともあり、小学生の頃から釣りは週末の楽しみでした。実家の裏の寄居浜や日和山付近から小針浜までが守備範囲でした。今でいう五目釣りでしたので、様々な仕掛けを用意して朝から夕方まで、時には船釣りや夜釣りにも連れて行って貰いました。今は、人が密集する突堤での釣りは避け、砂浜からの投げ釣りをメインにしています。初夏からはキス釣りのシーズンです。夜明け前に24時間営業の釣具屋で餌のジャリメを購入し、勇んで海に向かいます。テトラポットが開いている砂浜に陣取り、2時間くらいは頑張ります。調子が良ければ15匹前後の釣果があります。もちろんその日の夕食はキスのフライです。土曜の夜は天気予報と風や波の確認をしつつ、仕掛けを準備するのが楽しくて仕方ありません。それにしても最近の釣り用品は良くできていますね。釣った魚を掴むフィッシュグリップなる道具には感動しました。
 天体観測は高校生の頃からの趣味でした。1986年に地球に最接近したハレー彗星をお年玉で買った10pの反射望遠鏡で観測し、心が打ち震えたことをよく覚えています。大人になった今でもその望遠鏡は現役ですが、昨年ネットで25pの反射望遠鏡を購入しました。見た目はまるで大砲のような新しい相棒は、本当によく見えます。土星の環や木星の小さな衛星もはっきり分かります。アンドロメダ星雲やオリオン座のM42も、モノクロではあるものの想像以上に楽しめます。早朝の釣りとは全く相性が悪いのですが、晴れた夜は星空を見上げています。先日は電視観望(望遠鏡に接続したCCDにて映像をPCに映し出します)用の小型望遠鏡も追加で買いました。これから空気が澄んでくる秋〜冬がとても楽しみです。

 コロナ禍での休日に何が楽しめるのか?私にはこれまでと同じように動く度胸はありませんが、それでも貴重な休みをできる限り有効に過ごしたいと思っています。

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クリニック新規開業 小柳貴人(おやなぎアレルギークリニック)

 ・ご挨拶

 おやなぎアレルギークリニック院長の小柳貴人と申します。令和4年4月に長岡市立劇場の近くにクリニックを開業させていただきました。せっかくですので開業の際のエピソードをお話ししたいと思います。

 ・ホームページ作成

 クリニックを開業する際、様々な準備が必要になります。場所・建物が決まったら、真っ先に必要なのが『ホームページ制作』。近年では「開業する3ケ月前までには準備すべき」とも言われています。
 ホームページ作成業者や広告代理店にお願いすると思いますが、料金を調べてみるとかなりの高額です。基本ページ制作に20〜50万円ほどかかり、さらに内容を更新するたびに数千円〜2万円程度かかるのが一般的です。
 初期費用はともかく、更新の度にかなりの料金が発生するのが納得できず、自作することを決意しました!
 実は過去に個人のページや大学の部活などのホームページを作成した経験があり、「どうにかなるだろう」と思って作り始めたのですが、考えが甘かったです。商用ページとなるとかなり細部まで作り込まなければならず、htmlやcssなどの専門知識が多少なりとも必要になります。この辺りの知識は全く無かったのですが、ホームページ作成専門書とにらめっこしながら1ケ月位かけてどうにか作り上げました。ホームページ、完全自作です。
 ホームページを立ち上げてから、ブログをほぼ毎日書いています。ホームページ内の文章変更も自力で可能です。しかも無料です。ホームページ制作はかなり骨を折りましたが、とても満足しています。

 ・ロゴ、マスコットキャラクター作成

 次に取り掛かったのが、『ロゴ・マスコットキャラクターの作成』です。こちらもホームページと同様、専門業者さんにお願いするのが通例ですが、ロゴの作成で6〜15万円、マスコットキャラクターの作成で3〜10万円ほどが相場だそうです。もっとも、最近ではSNSを介した個人依頼で1〜2万円程度で制作してもらう方法もあるようですが……
 開業費用を少しでも節約したかったので、こちらも調子に乗って自作しました。たまたま?iPad&Apple Pencil?を所有していたため、手書きイラストをもとに当クリニックのマスコットキャラクターが誕生しました。ホームページ制作と違い、専門知識はほとんど必要なかったため、敷居は低かったです。
 「アレルギーがあっても苦労しない=不苦労」が当クリニックのコンセプトであり、フクロウをマスコットキャラクターのモチーフにしました。

 ・クリニック建物もデザイン

 ホームページ、ロゴ、マスコットキャラクターなどをすべて自作したわけですが、クリニックの外装/内装もほぼ全て自分でデザインしました。
 「このような建物にしてほしい」と、外装/内装デザインをiPadで手書きして持ち込みました。今考えたら、建築事務所さんにも当然デザイナーさんがいるわけで、本当に失礼だったなと思うのですが、どうしても自分の理想の建物にしたかったので、かなりの無茶振りだったかなと思います。私は建築の知識なんて皆無なので、イラストを持ち込んでも構造的に無理な部分が生じると思うのですが、担当してくださった建築会社さんは快く応じてくださり、本当にイラスト通りの建物を造ってくださいました。本当に感謝しています。

 ・クリニック内にあふれるガジェット≠スち

 ホームページ、ロゴ、キャラクター、建物の準備が終わり、次は机やソファー、本棚、診察ベッドなどのインテリアです。
 こちらも業者さんからいろいろな提案を受けましたが、こだわりの強い私は家具の一つ一つをネット上で選定して取り揃えました。一括で業者さんにお願いしたほうが圧倒的に楽だったのですが、費用面を考えると同じ商品でもネット経由のほうが安いため、一つ一つポチりました。注文はパソコンのボタン一つでできるので、「すごい時代になったな〜」と感心していましたが、多くの業者に発注をかけたため、荷受けの時間調整がかなり大変でした。
 苦労して揃えたインテリアですが、その中でも異彩を放っているのが、「枯山水テーブル(SISYPHUS)」と「風景ディスプレイ(Atmoph Window2)」です。
 ネットで画像を検索していただければわかると思いますが、SISYPHUSは砂の上を鉄球が自動で動いて枯山水のような模様を描いていくテーブルです。テーブル裏から磁石で鉄球を動かす仕組みです。
 もう一つのAtomoph Window2は世界中の風景を映し出す液晶ディスプレイで、額縁のようなデザインになっています。クリニックの待合室の壁に絵画のように飾っています。

 クリニックを開業してわかったことは、何事にもお金がかかること。全てを業者さんに丸投げすると楽なのですが、かなりの費用負担です。私は多くの部分を自力で頑張りましたが、労力が半端ないです。もしこれから開業をお考えの先生がいらっしゃいましたら、一つだけアドバイス。『開業前準備期間(建物できてから開業まで)は1ケ月じゃ足りませんよ。』

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法隆寺の景教〜隠された十字架 福本一朗(長岡保養園)

 名著『古寺巡礼(1919)』で大和の風景を「可憐な少女のような山水」と讃えた東京帝国大学文学部倫理学教室教授の和辻哲郎(1889−1960:Fig. 1)は、聖徳太子ゆかりの斑鳩の里を訪れた時の感激を「法隆寺(Fig. 2)の停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近づくにつれて、何となく胸の踊り出すような、刻々と幸福の高まっていくような、愉快な心持ちであった」と記している。確かに長い参道を進んで行くと、明治時代のフェノロサや岡倉天心と同じ様に、飛鳥時代にタイムスリップしていく気分になります。
 法隆寺は推古天皇15年(607)聖徳太子によって創建されました。聖徳太子(574−622:Fig. 3)は叔母の推古天皇の下、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣して隋や朝鮮半島から進んだ文化や制度をとりいれるとともに仏教を厚く信仰し、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図られました。『日本書紀』推古天皇元年四月条には厩戸にて出生したと記述があり、厩戸王と呼ばれました。また「母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説もあるため、日本書紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(ネストリウス派キリスト教:Fig. 4)の福音書が日本に伝わり、イエス・キリスト生誕逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用されたと考える人もおられます。それを最初に唱えたのは、バスク人の貴族出身の修道士であったフランシスコ・ザビエル(1506−1552:Fig. 5)でした。
 ザビエルは1549年8月から1551年11月まで2年3ヶ月日本に滞在しましたが、その間に鹿児島、山口、京都をめぐって布教活動して聖パウロを超える多くの人々をキリスト教信仰に導きました。キリスト教に触れたはずのない日本で、当初から暖かく迎えられながら素直に宣教に応じてくれた日本人について「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がない。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじる。大部分の人々は貧しいが、武士も、そういう人々も貧しいことを不名誉と思わない。」と、ローマ法王への報告書の中で日本人を絶賛しています。ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人から日本語を学び、仏教徒とも議論したザビエルは日本人の考え方や生活習慣に西洋人と通じ合うものを見出して、自分達の来日以前から日本にキリスト教が存在していたと確信するに至りました。
 例えば604年に制定された十七条の憲法は当時の人々に篤く信奉されていましたが、その基本理念には聖書と共通する点が多々あります。例えば「和を以て貴しとなす(第1条)」、「詔を承りては必ず謹め(第3条)」「人各任有り(第7条)」「忿を絶ち(第10条)」「夫れ事独り断むべからず(第17条)」などは、新約聖書の中でイエスが諭した教えと全く同じです。また「篤く三宝を敬え(第2条)」の三宝≠ニは一般に仏・法・僧≠ニされていますが、キリスト教の神と子と精霊≠フ三位一体に対応するものと考えました(Fig. 6)。
 改めて斑鳩の法隆寺を仔細に調べてみますと、各所に隠された十字架≠竭シの仏教寺院にはないが教会にはよく見られる不思議な道具が埋め込まれていることに驚かされます(Fig. 7)。その他、五重塔の基礎にあるはずの仏舎利がなく、代わりに当時珍しかった火葬された人骨が埋められていますし、金堂のタペストリーには西欧系の人物が描かれています(Fig. 8)
 この法隆寺の遺産以外にも、イエスと同じく生母が救世観音(=聖霊)によって身篭り馬小屋で生まれたとされる厩戸皇子(=聖徳太子)伝説や、漢字伝来以前からあった(伏見)稲荷のINARI≠ェ十字架に掲げられた表札のINRI=i=ナザレのイエス、ユダヤ人の王のラテン語)に類似している点、秦氏が603年に建立した木嶋坐天照御魂神社に景教の三位一体信仰を象徴する三柱鳥居(Fig. 9)があることなどから、ザビエルは、800年も前に異端とされ中国に伝道されたネストリウス派キリスト教(=景教)の影響があるのではないかと考えました。
 景教が古代日本に伝えられていたということが本当にあったのでしょうか? それはユダヤ人と日本との?がりに関連して、歴史学者の梅原猛や作家の松本清張・司馬遼太郎・陳舜水・海音寺潮五郎をはじめとして多くの人が同様の主張をされています。マリア信仰を否定したコンスタンチノープル大司教ネストリウスに説かれた一派は431年のエフェソス公会議で異端として排斥され、唐の太宗(在位626−649)の時代にペルシャ人司祭阿羅本によって中国に伝えられ、景教と呼ばれて多くの信者を得て大秦寺が建立されました(Fig. 10)。804年に遣唐使となって渡唐した空海はこの時に景教に接して医学や鉱山治水学を学び日本に伝えました。845年には武宗によって外来宗教が禁止され景教は衰微して行き、ネストリウス派信者達は国外に逃れました。847年に帰国した遣唐使僧の円仁は信者とともにキリスト教を持ち帰り、さらに鑑真和尚がもたらした医療技術も景教徒から得たものと言われています。
 しかし日猷(日本・ユダヤ)同祖論を唱えた司馬遼太郎は遣唐使以前の帰化人秦氏によって日本にキリスト教が伝えられたと考えておられます。日本書紀によると、BC.722?にアッシリアに滅ぼされたイスラエル王国の「失われた10氏族」の子孫で中央アジアに逃れたユダヤ系弓月国の民が、応神天皇14年に新羅の迫害を逃れて127県の民19万人を率いて渡来、秦の姓を賜わって同化し政治制度・養蚕・開拓・防疫・通商・物流・土木工事などに貢献したと伝えられています(Fig. 11)。
 ネストリウス派キリスト教徒でもあった秦氏は、大和に定住する以前瀬戸内海を経て赤穂に住み、そこに「いすらい(=イスラエル)井戸」とダビデ神社(=大闢神社)を残したと司馬遼太郎は結論づけています。やがてその一族は太秦に根拠地を定め、現地の女性と結婚して生まれた秦河勝(Fig. 12)は、広隆寺の創建や桂川の改修で名を挙げ、その際立った技術経営力、人材機動力、財力、国際的知識を駆使し、推古天皇の摂政を勤めた聖徳太子のブレーンとして大活躍しました。河勝の肖像画を見ると、鼻が高く色白で髪型も当時の日本人とはかけ離れています。そしてその高く三角状の鼻と、長く垂らしたもみ上げ(美豆良)は、まさに芝山遺跡などから発掘されたユダヤ帽を被った人物像そっくりに思えるのは筆者だけでしょうか(Fig. 13)。
 ユダヤ人と日本の関係については日本人研究者だけでなく、3000語に及ぶ日本語とヘブライ語単語の相似性を発見したユダヤ教のラビ、マーヴィン・トケイヤー氏(Marvin Tokayer, 1936年−)も以下の諸点を挙げて、日本人の先祖の一部はシルクロードを経て渡来したイスラエルの「失われた十支族」の末裔であり、秦氏は景教を伝えたそのユダヤ人であったと論じておられています。
 ・モリヤ山でのアブラハムによるイサク奉献に酷似した「御頭祭」が信州の諏訪大社に伝わっていること
 ・イスラエルの契約の箱と神輿の類似性
 ・イスラエルの祭司の服装と神社の神主の服装の類似性
 ・古代イスラエルの風習と神主のお祓いの仕草の類似性
 ・イスラエルの幕屋の構造と神社の構造の類似性
 筆者はヘブライ語を学ぶために在日イスラエル大使館に1年間通い、大使夫人からユダヤの宗教・慣習についてお話を伺ったことがありましたが、その時はむしろ日本のキリスト教とイスラエルのユダヤ教の違いに気付いただけで共通点はそれほど見出せませんでした。しかしその後、9年間の北欧スウェーデン留学中に、多くのユダヤ人の先生や友人達の知己を得て、彼らと親しく付き合っているうちに、日本人と共通した独自の感性や考え方を持っていることに驚かされました。それは離散の民diasporaのユダヤ人が地球の反対側にある古代日本にやって来たと考えると納得のいくことであり、また法隆寺で感じた不思議な異国感を説明してくれます。ザビエルが指摘した様に、歴史的にあり得ることでもそれを文献的に証明することは不可能に近いでしょうが、あるいは日本人の西方への回帰願望と西洋人の東洋への憧憬は、古代の民族記憶に基づいているかもしれません。時と場所を超えて人類の英知は一つと思われます。天に栄光、地には平和を!

Fig. 1 和辻哲郎

Fig. 2 法隆寺

Fig. 3 聖徳太子

Fig. 4 ネストリウス派

Fig. 5 フランシスコ・ザビエル

Fig. 6 仏教の“三宝”とキリスト教の“三位一体”の相似

Fig. 7 法隆寺の十字架紋(左)と法輪の鎌(右)

Fig. 8 金堂タペストリーの西洋人像

Fig. 9 景教の三位一体説を現したと言われる木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居

Fig. 10 大秦景教流行中国碑

Fig. 11 イスラエルから弓月国を経て大和へ

Fig. 12 秦河勝

Fig. 13 人物埴輪とユダヤ人

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蛍の瓦版〜その75 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 新型コロナウイルス感染症

 入院待機ステーション

 9月16日に一旦休止となっていました入院待機ステーションが、12月19日?から再稼働することとなりました。今まで使用していた建物が使用できなくなったため、新たな施設を借り上げ設備も整え準備しておりました。現在流行中のオミクロン株は、それまでの変異株に比べ重症化率は低いものの、感染者数の増加に伴い病床利用率は上昇しております。執務をお願いしております先生方やスタッフの皆様には、またご足労をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

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巻末エッセイ〜ボニンアイランズ 富樫賢一

 二人とも古希を過ぎた。「今しかないでしょ」という女房の一声で決定。いざ小笠原へ。しかし船も宿もなかなか予約できない(コロナのため?)。そのうえ旅行会社からは登山歴をしつこく聞かれ、「ハートロック登山は無理でしょ」ということに。その代りはハイキング。実際はこれも結構きつかった。

 乗船するには前日のPCR検査が必須。そこで竹芝客船ターミナル近くのホテルに前泊。ところがなんとこのホテル宛に送っておいたスーツケースが届かない。ホテルマン(外人)の手違いらしい。直接会社と交渉してなんとか真夜中に届けてもらった。

 6月29日午前11時出港。汚れた東京湾を抜けると紺碧の海。その海を見ながらデッキでサンドイッチとビールの昼食。周りはほとんど若者。たまに年寄り。高級そうなカメラを持っている。お出迎えのカツオドリの写真でも撮るつもり?

 6月30日午前11時父島二見港到着。「ホテルブーゲン」のオーナーがお出迎え。なんとホテルの従業員はこのオーナー一人。しかも朝食が出される一階レストランのコックも兼任。若い時は船乗りをしていたとのこと。

 午後はさっそく島内周遊ツアー(半日)。ガイドが運転するマイクロバスに乗る。参加したのは3組(夫婦)だけ。まず初めにウェザーステーション展望台。冬だとザトウクジラが見られると言うが今は夏。クライマックスは沈む夕日だと言うがまだ明るい。そして次に。

 旭平展望台。江戸幕府巡検隊が日本国旗を立てた(1675年)旭山までは30分。年寄りツアーのため省略。次は初寝浦展望台。緑色のウグイス砂が混ざった浜辺が見下ろせる。この入口の反対側に首のない二宮尊徳像があった。日本軍が大村小学校から運んだものだと言う。一体何のため。ちなみに米軍は父島には上陸していない。

 翌日(3日目)は島内ハイキング(一日)。コペペ海岸から小港海岸まで固有種のカニやトカゲを見ながら歩く。泳いでいる人発見。ここは父島最大のビーチ。ガイドが崖の上を指さし「あそこまで登ろう」と。女房が「無理、無理」と言ったが却下。しぶしぶ上りだす。結構急だ。ちなみにこの日の参加者は我々と若い女性一人だけ。

 頂上の椅子で一休み。絶景!と、急に黒い雲が近づいてきた。熱帯特有のスコール。「すぐ止むよ」とガイド。しかし止まない。仕方ないので豪雨の中急な坂を下りることに。容赦なく打ちつける雨。服はずぶ濡れ。なんてこった。砂浜に着く頃やっと止んだ。

 4日目はボートツアー(一日)。いざ南島へ。波が高いと上陸地点に接岸できないこともあるとのこと。でもその日はOK。1日100人以内。上陸は2時間以内。荷物も途中で置いていけという。少し歩くと扇池(海)に着いた。海と砂浜とのコントラスト絶妙。水着に着替えひと泳ぎ。気分爽快。その後は父島周辺の海を巡航。時々止まってはシュノーケリングでドルフィンウオッチング。なんと我々以外はマイ・シュノーケルを持参している。こういうツアーだったとはビックリ。

 さてさて疲れた。1日の締めくくりはアオウミガメ料理。刺身や煮込み料理が定番。が、女房が嫌だというのでそれはスルー。代わりにカメのロースト、生ハム、カルパッチョにトライ。どれも余りお勧めではない。四角豆の天ぷらだけはお勧め。

 父島の人口は約二千人。半分はよそ者(若者)。働きながら観光をしている。診療所はあるが病院はなく、年寄りは住みにくいようだ。

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