長岡市医師会たより No.515 2023.2


もくじ

 表紙絵 「フェニックス2022」 加藤方子
 「和紙絵画」加藤 熙(悠遊健康村病院) 
 「犬との生活」上原 徹(立川綜合病院) 
 「我が家の挂甲武人」 加勢宏明(長岡中央綜合病院)
 「巻末エッセイ〜気が付けば八十路(下一)」星 榮一



「フェニックス2022」  加藤方子


和紙絵画  加藤 熙(悠遊健康村病院)

 私の母の加藤方子は和紙絵画作家をしています。和紙絵画は和紙のみを用いて作られている絵画で、絵の具等は一切使っていません。和紙を手でちぎったり、時にはハサミやカッターで切ったりして、和紙を何枚も何枚も重ねて糊で貼って絵を作っていきます。母は1989年から和紙絵画(和紙ちぎり絵 平野流)を始め、現在では公益社団法人日本和紙絵画芸術協会の理事を務めています。毎年12月上旬頃に東京都台東区上野公園の東京都美術館で開催される日本和紙絵画展に、毎回絵を出展しています。絵はF30号という大きさです(大体新聞紙見開きの倍近くの大きさです)。今まで沢山の絵を作ってきましたが、例えば、私が小学校に入学した時の絵、家族で旅行したシドニーの風景をバックにしたコアラの絵、オーケストラで私がヴィオラを演奏しているイメージの絵、沖縄の美ら海水族館で見た美しい魚達、家族でよく行っていたホノルルのモアナサーフライダーホテルの中庭にあるバニヤンツリー、ハワイのプルメリアの花、越後湯沢の公園で見た枝垂れ桜、等々、思い出に残ったことを絵にしてきているような気がします。
 今回は、家族の夏の思い出として「復興祈願花火 フェニックス2022」をイメージした絵が出来上がりました。昨年4月から私が長岡で勤務させて頂くことになり、8月に3年ぶりに長岡まつり大花火大会が開催されるとのことで、家族皆長岡に呼びました。長岡の花火は日本一だといつも聞いていましたので、家族にも是非見せたかったのです。初めて見た長岡の花火は想像以上に迫力があり、素晴らしくて感動しました。一生に一度は見るべき花火だと地元の方々が話して下さった意味がよく分かりました。それだけではなく、太平洋戦争での空襲により多数の尊い命が奪われ、平和への祈りや希望が花火に込められていることを知り、ますます心を打たれました。立ち上がり挫けない「長岡魂」が人々に感動・感謝と勇気を与え続けているということを強く感じました。特に「復興祈願花火 フェニックス2022」には心を打たれました。平原綾香さんの歌う「Jupiter」のメロディーに乗せて、長岡の夜空を舞う美しいフェニックス達。こんなに美しい花火は初めてであり、私達家族にとって忘れられない夏の思い出となりました。そこで母は「フェニックス2022」というタイトルで絵の製作に取り掛かりました。「左斜め上には一羽だけ青いフェニックスがいて、大きく羽根を広げて夜空を翔んでいく姿がとても輝いていて印象的であり見ていて幸せな気持ちになった。長岡の花火は世界一。」と母は話していました。それから、製作にあたりせっかくなので小国の和紙も使いたいということで小国まで出掛けていきました。白いふわふわした煙のところ等、小国の和紙を使って表現したとのことです。
 私が東京の実家に帰ると、少しずつフェニックスの絵が出来ていく様子を見て、出来上がるのが待ち遠しく感じていました。そして実際に東京都美術館に飾られたこの絵を見て、夏の長岡花火のことを思い出して頭の中に花火の音と共に「Jupiter」の歌が駆け巡り、感動したことを思い出しました。
 今回、ここに母の絵を載せさせて頂けることに感謝しております。これからもシンボルであるフェニックスが長岡の夜空に美しく羽ばたきますように!

 

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犬との生活  上原 徹(立川綜合病院)

 子育てが終わって、子供たちは自立していなくなった。残った老夫婦の徒然を癒すため、以前から欲しかった犬を飼うことにした。犬種は予てから決めてあって、バセットハウンドという、あまり見かけない犬。ずーと以前、とある公園で遭遇し、その堂々たる風格に惚れ込み、犬を飼うならこれだと思っていた。何しろ、特異な形態をしている。足は短く太く、胴は太く長く、耳がウサギのように長い。全体にダブダブしており、歩く時は、太く長いしっぽをビンビンと振る。一見しょぼくれた、やる気のない顔だが、憂いを秘めた哲学的な面相だと言う意見もあり、賛否両論である。少し年配の方は、刑事コロンボに出ていた犬ということで、お分かりだろうか。また、某靴メーカーのマスコットドックになっている。
 ペットショップに購入を依頼したが、なかなか返事がこない。約半年たって、忘れかかった頃、入荷しましたとの電話。行ってみると、生まれて3か月で、まだチマチマした体で眠そうにしていたが、黒白茶色のトリコロール、結構イケメンの男の子で、気に入って家に連れて帰った。しばらくは、とてもやんちゃで、植木鉢の植物はかじるし、家の柱もがりがりとする。ところが、ワクチンが終わって散歩デビューをしたが、歩かない。犬は散歩が大好きで、元気に歩くものだと思っていたが、押しても引いても動かない。そのくせ、飯はかなりガツガツと食い、瞬く間に体重20数キロとなった。飯を催促する時以外は、吠えないので、番犬の役にはたたない。近所には犬を飼っている方が多く、一緒に散歩してくれるが、いつも置いてきぼりになる、しかし全く動じない。ただし、若い女性から、かわいい、と言われると、スタスタと寄っていく。おっさんが声をかけてもダメ。犬は飼い主に似るというが、本当か? ちなみに彼の名前は、ロティという。大好きなワインの名前にちなんでいる。成長してからも、一日の大半はケージの中で寝ており、どうもグータラな犬だ。獣医に、長生きをさせるには去勢したほうがいいです、と勧められた。泌尿器科医としての職業柄、また大学医局時代、いささか犬の実験を行っていたので、解剖には熟知しており、俺がタマを取ろうかと言ったが、家人にそれだけはやめてくださいと言われ、結局獣医に取られた。
 タマタマがなくなったら、一層動かなくなった。それではいかんと、女の子がそばに居ると少しは活気づくかと思い、知り合いになったブリーダーに相談した。バセットハウンドがいっぱい生まれたと聞き、飛騨の山奥まで見に行った。その中で、白と茶色のいわゆるレモンカラーの女の子を連れて帰った。その子はハチャメチャ元気で、来た早々ケージの天井を破り脱走した。そのくせ寂しがりやで、しばらくの間夜は泣きっぱなしで眠らない。その迫力に負けて、ロティはますます動かなくなった。ちなみに彼女の名前は、パルメという。とにかく活発で、散歩大好き。他の犬がいると、全速力で走って行き、すり寄る。妙なハイブリッドが生まれると困るので、獣医に子宮卵巣摘除術をしてもらった。1泊入院で翌日には帰ってきたが、手術を全くものともせず、駆け回る。人間ではそうはいくまい。よく食べよく動く。飛騨で会った母親は、大グラマーで、その血筋を引いており、見る間に体重が30キロになった。
 彼らと散歩をするうちに、色々な方が珍しい犬だと、かわいがってくれ、知り合いになった。中には、畑をやっている方が、余ったキュウリやナス、キャベツなど、もって行けと、頂戴した。我が家の家計を助ける親孝行な連中だ。
 そんなこんなで、ロティが来てから15年、パルメが来てから10年たった。大型犬の寿命は10歳程度と聞いていた。数年前から、ロティはいろいろな病気を抱え、マラセチア皮膚炎、そして皮膚腫瘍が頻発し、数回手術を受けた。良性腫瘍とは言われていたが、モグラたたきのように出てくる。その内、麻酔が危険になるから、もう手術はしないと、獣医から宣告された。ステロイドを飲んだり、シクロスポリンを飲んだり、毎月のように獣医通いで、高額医療費を払った。目は白内障になり、さらに動きが悪く、排泄のための家の外周だけの散歩になった。周りの人からも、ロティちゃん頑張れと激励されていた。しかし飯はちゃんと食い、時間になると、早く飯にしてくれと、吠える。
 だが、さすがの彼も、目に見えて衰弱し、食べられず、水も飲めなくなった。見るに見かねて、生食の点滴を数日続けた。昨年10月のある夜、隣のケージで寝ていて、夜中に吠えることのないパルメが、異変を感じたのか騒ぎ、起こされた。そしてその早朝、ロティは安らかに旅立った。今まで仕事や身内などで多数の方を送ってはいるが、やはり寂しさはある。今、彼の存在の大きさを感じつつ、老女になったがまだまだ元気なパルメとの生活を勤しんでいる。

 

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我が家の挂甲武人  加勢宏明(長岡中央綜合病院)

 早いもので2007年4月に長岡に来てから、16年目になりました。長岡出身では有りませんでしたが、早々に永住?を決意し、2008年秋には今の家を建築しました。一軒家は建てたものの、庭仕事などはあまり得意ではなく(ほぼ妻まかせ)、それでいて目立つものは?と当初考えました。
 前任地の佐渡では、庭先に建っているウルトラマンの石像などを見かけていたので(この場所が分かる方はマニアックです)、まずは新潟の石材店などを回りました。結構面白いものもあったのですが、一体数万円し、運ぶのも大変そうなので、決められないままでした。
 ある時、車で行った学会のついでに、埼玉県行田市の古墳群に行きました。小学生のころ、小学館の「○○のふしぎ」のような本(ネットで調べても、本のタイトルが分かりませんでした。モヤモヤしています。)で、古墳時代の本をずっと読んでいた記憶があったからです。古墳群は綺麗に整備された公園であり、十分に楽しめました。そこの売店で見かけたのが、多量の埴輪でした。一体50pの埴輪が5000円ほどで購入でき、喜んで二体購入して帰宅しました。最近その店を検索したところ、火事で焼失閉店しているようです。
 さて、帰宅後は、これだ!と感じ、多数の埴輪が玄関前の芝生スペースに置かれる絵を想像し、ネットで検索しました。どうやら製造元は栃木県益子町の大塚はにわ店、と解明しました。当時は、2009年3月から始まっていた「高速道路1000円乗り放題」がされており、妻とともに日帰りでの出陣となりました。この頃は関越自動車道と東北自動車道を横につなぐ北関東自動車道は、全通しておらず、途中で一般道に降り、昼には佐野ラーメンを食しました。目的地・大塚はにわ店は、益子焼販売店が並ぶメインストリートの中にあります。埴輪が外まで多量に陳列されている店であり、迷うことはありませんでした。初めて行った時は、これもこれもと5体ほど購入しました。店主が一体一体丁寧に新聞紙で梱包し、車のトランクに寝かせてくれます。この状態で検問にかかるとちょっと面白い、などと想像していました。
 芝生スペースに並んだ埴輪も少しずつ増え、現在は、大小12体になっています。(正確には2体は遮光器土偶であり、埴輪ではありません。背景が全く違うので、詳しくは検索してみてください。)長年の風雨と長岡の雪のため、少しずつ欠けたりしますが、その都度ボンドで補修し、「味が出てきた」とひとりふけっています。冬は直接雪の下に埋没すると壊れてしまいます。購入した初めての冬では、雪囲いの時に置きっぱなしにしていたので、庭師さんの配慮で、庭木とともに荒縄で縛られていました。世間体も良くないので、その後は、毎年、雪囲いした木の下にまとめ置き、耐え忍んでもらっています。
 最近、新しい個体が欲しくなり、久しぶりに益子町に行きました。高速道路から降りずに、宇都宮市となりの益子町まで行くことが出来ます。はにわ店に行ったところ、店には僅かな埴輪しか無い状態でした。店主も高齢になっているせいもあると思うのですが、最近では埴輪で町おこしを考えているところもあるようで、そこのイベントに大量納入したりもしているそうです。以前から訊いていたのですが、親から引き継いだ埴輪製作ですが、跡継ぎはいない、とのことで残念です。
 今回は、いつもよりも巨大な120pほどの挂甲武人などを購入しました。この大きな武人が欲しい、とオーダした時の、店主の寂しそうな顔が今でも浮かびます。さすがに今回は高額な購入でもあったので、外には置かず、玄関内に置いています。毎朝挨拶をして出勤しています。我が家の猫たちと共に家の警護を任せているのですが、(つい最近のNHKの歴史探偵で知ったのですが)挂甲武人のモデルは当時の国王級の方とのことで、かなり不遜な行動をしているようです。たまにやってくる銀行などの営業マンは、何故か誰も見ようとせず、話題にもせずに帰って行きます。よーく顔を見てあげるとカワイイとは思うのですが、どうでしょう(眉毛もちゃんとあります)。今までの13年間で向かいの幼稚園から園児が怖がる等のクレームは来ていません。
 
 Ps.県医師会で勤務医ニュースの担当をさせて頂いています。こちらでは原稿を依頼する立場です。皆様、今後もよろしくお願いします。

 

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巻末エッセイ〜気が付けば八十路(下一) 星 榮一

 一年間のインターンの後、昭和四十一年四月に新潟大学整形外科学教室に入局した。同年六月より「がんセンター新潟病院」に二年間の出張を命じられ、整形外科の研修を行った。この期間も毎週水曜日の夜は、大学の手の外科ミーティングには出席した。

 昭和四十三年八月に大学の教室に戻り、手の外科の研修に入った。本格的な形成外科研修は、塩谷信幸教授の横浜市立大学形成外科と、鬼塚卓弥教授の昭和大学形成外科にお世話になった。

 新潟大学で形成外科外来診療を始めたのは、横浜市立大学での研修が終わり新潟に戻った昭和四十七年八月からで、毎週金曜日午前に行った。

 丁度その頃、日本形成外科学会と日本整形外科学会が相次いでシンボルマークを募集した。両学会に応募し、両学会とも僕の作品が採用された。しかし、形成外科学会のマークは改変されていて気に入らない(図)。

 昭和四十七年秋の岩手医大での日本形成外科学会総会で、昭和四十八年秋の第十五回日本形成外科学会総会の会長に整形外科学教室の田島達也教授が選任された。それから一年間、形成外科学会の運営は新潟大学に委ねられた。それに伴い、僕は田島会長から形成外科学会幹事を命じられた。東京で行われる形成外科学会理事会と委員会に、田島会長と共に、月二回、片道四時間の「特急とき」での日帰りが一年間続いた。

 形成外科学会では昭和四十九年より「認定医制度」を発足すべく、精力的に委員会で一年間検討した。昭和四十九年九月二十七日から二十九日に第十六回日本形成外科学会総会が新潟市公会堂で開催された。

 僕のアイデアで、学会としては初めての企画として、一般市民を対象に、形成外科を理解していただくために、小林デパート(旧三越デパート)で「形成外科展」を一週間開催した。予想以上の反響で十分成果を上げることができた。

 新潟での形成外科学会総会が終わって暫くして、聖マリアンナ医科大学(以後・聖マ医大と略す)形成外科の荻野洋一教授から田島教授を通じて、形成外科講師として招聘された。聖マ医大は昭和四十五年四月より学生を受け入れ、昭和五十一年より学生の病院実習を始めるために、昭和四十九年より附属病院を開院しなければならなかった。昭和四十九年二月一日の病院開院に当たり、聖マ医大に赴任した。

 一月三十一日に一家五名で雪の三国峠を車で越えて行った。

 聖マ医大の附属病院は、五十床一ユニットだけで出発した。徐々に増床して行き、形成外科は四月になり小児患者二名の入院が認められた。

 聖マ医大時代にも、月一回第三金曜日に新潟大学で形成外科外来診療を続けた。

 昭和五十四年になり、新潟大学にもそろそろ形成外科を独立させようということで、八月に整形外科助手(病院講師)として新潟大学に戻った。整形外科内形成外科外来診療は月曜日で、病床は三床、全麻手術日は水曜、外来手術日は土曜日午前と決まった。

 新潟でも患者さんは徐々に増加し、唇顎口蓋裂の新生児は全県下から受診し、漏斗胸の患者さんも県内は勿論、周辺県、関東や関西、九州からも受診された。

 残念ながら、ここまでで八十路に届きませんでした。

私が応募した日本形成外科学会のマーク

採用された日本整形外科学会のマーク

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