長岡市医師会たより No.517 2023.4


もくじ

 表紙 「信濃川早春(小千谷)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「『弓道』をもっと身近に」」 桑野魁人(長岡赤十字病院)
 「山菜は美味い(1)」 江部達夫(江部医院)
 「卒業写真のあなたは誰?」 福本一朗(長岡保養園)
 「巻末エッセイ〜花ミモザの春を迎える」 郡司哲己



「信濃川早春(小千谷)」  丸岡 稔(丸岡医院)


『弓道』をもっと身近に 桑野魁人(長岡赤十字病院)

 医学生の9割以上は何かしらの部活動に所属し、更にその大半が運動部に所属する。一方で、卒業と同時に仕事や家庭と環境が大きく変わる中で、学生時代から継続して競技に取り組む人は限られるように思える。私は現在、長岡赤十字病院にて研修医として初期臨床研修をさせて頂いている。その中で、学生時代から続けている弓道競技に取り組んでいる。今回、寄稿の御依頼を頂いたので、弓道について書こうと思う。
 弓道という競技は、テレビ中継で流れることもなく、実際に観戦する機会もなく、多くの人には関わりが薄く実際にどういう競技なのかが分からない人が多いと思う。弓道競技は、大きく「近的」と「遠的」の二種類に分かれる。「近的」は多くの人がイメージする弓道競技で、高校や大学の部活動を行っているのを見たことがある人もいるだろう。28m先にある36pの的に矢を中てる競技である。こちらは基本的に的のどこに中ててもよく、中った数で勝敗を競う。一方、もう一種類の「遠的」は見たことない人がほとんどだろう。60m先にある100pの的に矢を中てる競技である。こちらは的の中心に近いほど点数が高く、合計点数で勝敗を競う。京都府の三十三間堂にて毎年1月に行われている「通し矢」という行事を見たことがある方なら想像しやすいかもしれない。
 新潟県は弓道人口1300人程度とされている。人口当たりの弓道人口率では47都道府県の中で下から5番目というデータがあり、弓道に関しては後進県である。一方で、隣県である長野県は非常に弓道競技が活発である。高校生の弓道部人口は新潟県の3倍であり、人口当たりの弓道人口率では47都道府県の中でも1桁の順位である。新潟県も高校生の弓道部人口は少なくないが、大学生や社会人になる段階で辞める人が圧倒的に多いとされており、これが一因であろう。年齢を重ねてから初めて弓道競技を始める方も少ない。
 医療従事者も例外ではなく、新潟県の医療従事者で弓道をされている方は非常に少ない。ましてや医師となると数える程度しかいない。これは新潟県の医師不足により医師の多忙が根本にあると思われるが、そもそも先人がいないということも問題だと考える。奈良県の吉本清信範士(昨年12月16日に逝去された)は、弓道の最高峰の大会である天皇杯(全日本弓道大会)で2度優勝され、奈良県弓道連盟の会長・全日本弓道連盟の副会長も務められた弓道界を代表する方である。吉本範士は東北大学医学部を卒業し、岩手県で勤務した後、地元の奈良県に戻られ、奈良県山添村の診療所で日々診療されながら、弓道を続けられていた。また、吉本範士が診療所に赴任された後、吉本範士の活躍に感銘を受けた当時の村長が、地域活性化と弓道を通じた子どもたちの成長を願って、診療所近くに弓道場を建設した。このように、医師の傍ら弓道競技を継続することで、行政を動かすほどの影響力を持ち、それによって更に弓道人口が増えていくという例がある。吉本範士だけではなく、全国各地に医師として働く傍ら、弓道競技に真摯に取り組み、弓道競技の発展に尽力している方がいらっしゃる。こういった先人の方がいらっしゃると、医師としても弓道競技を続けやすい環境であると言えるだろう。
 私は、学生時代に新潟県の国民体育大会代表選手として新潟県を背負って出場したが、結果は残せず終わってしまった。その悔しさもあり、医師となっても弓道競技は継続しようと考えていた。実際、長岡赤十字病院の初期臨床研修中にも、多忙でありながら時間を見つけて弓道場に通い、可能な時は大会にも出場していた。北信越地区大会に新潟県代表選手としても出場している。また、新潟県弓道連盟の強化部役員として、国民体育大会優勝に向けてのお手伝いもさせて頂いている。この春より後期研修が始まる予定であり、更に多忙となる。それでも、今後も時間を見つけて弓道競技は継続していくつもりである。国民体育大会は1週間程度お休みを頂けなければならないため、現在はお手伝い側にまわっているが、将来もう一度出場したいと考えている。このように、自分なりに新潟県の弓道の更なる発展に関わっていくつもりである。医療従事者、とりわけ医師の弓道人口が増えることを心より願っている。是非とも興味を持った先生方は、お近くの弓道場(旧長岡市内であれば長岡市市民体育館にて初心者弓道教室も行っている)に足を運んでみてはいかがだろうか。

2022年12月の大雪の際の長岡市民体育館弓道場

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山菜は美味い(1) 江部達夫(江部医院)

 私は少年期から春は山菜採り、夏は渓流釣り、秋は茸狩りと、山を遊びの場として、美味い食べ物を手に入れる場として、この年まで(八十六歳)生きて来た。
 山菜や茸に関する本はたくさん出ているが、美味い、不味いはともかく、食べても中毒を起こしたり、死ななければいいじゃないかと、飢饉の時に農民たちが食べたという味や風味もないものまで紹介されている。自分で味付けすればよいのだが。
 私はよく「山菜の中で何が一番美味しいか」と訊ねられるが、「どれもみな美味い」と答えている。何故なら自分で美味いと思うものしか採ってこないのだから。その数三十種類くらいか。
 一般に好まれる山菜とは、畑の野菜とは異なる味や風味を持っているものであろう。
 畑の野菜も元々は野生の植物を人手により長年かかって改良されたり、突然変異で生まれたりしたものである。万人の口に合うマイルドな味や風味を持ったものになっている。中には南蛮類のような強烈な辛みを持ったものもあるが。
 美味い山菜はウコギ科、キク科、ユリ科、イラクサ科、オシダ科に多い。私のお勧めは先ずはウコギ科だ。
 ウコギ科は双子葉植物セリ目の1科で、熱帯圏を中心に700種ほど知られており、熱帯雨林を形成する大木になるものと、低木や草本状のものとがある。
 温帯地方の日本のウコギ科、私は調べていないので、その数はどれだけあるかは分からないが、山菜として食用にしているウコギ科の植物は10種にも満たない。
 25mは越す大木になるハリギリやコシアブラ、5m以下と低木のウコギ、ヤマウコギ、タラ、メダラ(葉や茎に棘がない)、タカノツメ等の木に生える新芽を食材とするものや、多年生草本であるウドやミヤマウド(ウドより小形)の若芽を食するものとがある。強壮剤で有名な朝鮮人参もウコギ科だ。
 ウコギ科は分類上セリ目に属するためか、食材にしているこれらの山菜には共通する匂いがあり、その上種独特の香りがある。どれも旨い山菜であるが、大木へと進化する前は草本であったと思われるので、美味い山菜としてウドをあげてみよう。
 ウドは日本中広く分布し、低山帯から深山、沢添えから山腹にかけて自生し、初夏の山歩きで、時に伸び出した若芽の群生(コロニー)に出会うことがある。そのような場所を掘ってみると、大根ぐらいの大きさの黒い木質の地下茎が横たわっている。そこから数本ないし十数本の芽が伸びている。コロニーを形成する。
 20年前の晩秋に地下茎10本ほど掘って来て、関川村の友人宅の庭に植えた。春に備えて、赤黒い小さな芽をたくさん付けていた。翌春、コロニー状に多くの若ウドが地上に現れた。今でも春には芽を出し、ウド畑になっている。
 ウドは成長すると硬くなり、役に立たないものと、「ウドの大木」とさげすまされているが、先端に伸びて行く若葉は軟らかく、天ぷらやゴマ味噌和えにすると美味い。花芽の付く7月中頃まで楽しめる。単なる大木ではなく、夏は地下茎に養分をしっかりと蓄えている。
 万人の好む食べ方はきんぴらであろう。一皮むいた身に味噌を付けて頂くのが一番おいしい。私はウド採りに出かける時は味噌を持って行く。地上に現れまだ10センチにも満たないウド、沢水で洗い、味噌をつけて食べる。採れたての若いウドはリンゴのデリシャスの香りがある。沢水に冷やしておいたビールと頂くと生きている喜びを覚えるのだ。
 
 沢水に冷やす一缶独活と味噌

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卒業写真のあなたは誰? 福本一朗(長岡保養園)

 2023.3.1朝日新聞朝刊の天声人語に、ユーミン(荒井由美=松任谷由美)の名曲「卒業写真」の〈人ごみに流されて変わってゆく私を/あなたはときどき遠くで叱って〉の歌詞中のあなた≠ヘ誰ですかという問いがありました。筆者はこれまで憧れの異性だと思っていたが、コロナ禍の今では、18歳の自分と考えるようになったとおっしゃいます。流石天下の朝日新聞論説委員の目の付け所は違うと感心しました。素晴らしい青春を送られた人は、純粋さと一途さに溢れた若い頃の自分と比べて、理想を失い日常生活に埋没して平凡な日々を送っている年取った自分が情けないと思うのもよく分かります。
 でもですよ、ちょっと待ってください。卒業写真の歌詞全文を見てみると次のようです。
 
 「卒業写真」
 作詞・作曲/荒井由美
 悲しいことがあると 開く皮の表紙
 卒業写真のあの人は
 やさしい目をしてる
 町でみかけたとき 何も言えなかった
 卒業写真の面影が
 そのままだったから
 人ごみに流されて 変わってゆく私を
 あなたはときどき 遠くでしかって
 話しかけるように ゆれる柳の下を
 通った道さえ今はもう
 電車から見るだけ
 あの頃の生き方を
 あなたは忘れないで
 あなたは私の 青春そのもの
 人ごみに流されて 変わってゆく私を
 あなたはときどき 遠くでしかって
 あなたは私の 青春そのもの
 
 「卒業写真のあの人」とユーミンは言ってるじゃないですか! さらに「町で見かけた時」「あなたは私の青春そのもの」のところでも、やはり自分自身ではないことを証明しています。
 そこで筆者自身の18歳の頃の日記帳が見つかったので読み返してみました。そこには人生経験少なく思慮分別の欠けた猪突猛進の若者がいました。とても「遠くで叱って」もらいたい自分ではなく、むしろその頃の自分が恥ずかしく、いまだに未熟な自分でさえも若い頃の自分を叱ってやりたいと思いました。
 そう考えると、やはり「あなた」は若い頃に出会った「大切な人」だと考えられます。ただその人が異性≠ナあるかどうか、それは分かりません。ユーミンは立教女学院出身だそうですので、あるいは同性の同級生かもしれません。
 しかし、本人によると実は「あなた」は予想外の人だったのです。実家が呉服屋であったため将来着物のデザインをしてみたいと考えたユーミンは高校生時代、東京芸大美術科受験を希望して放課後毎日美術教室に通っていました。そこで会った20代の女性教師に熱心に指導していただきましたが、その人が「あなた」だというのです。ただ受験結果は不合格で「来年もまた受ければいいじゃない、一緒に頑張りましょう!」「はい頑張ります!」しかし家庭の事情から浪人は許されず、同時に合格していた多摩美大に進学したのです。美大生になった時、その先生に街で会った時、声を掛けられず思わず隠れてしまいました。それは浪人せず芸大を諦めただけでなく、折角美大に進学したのに音楽にのめり込んでいる自分に後ろめたい気持ちが一杯だったからです。「荒井さん、表面だけでなく裏側まで想像して描きなさい。描けなかったら自分のスタイルが見つかるまで描きなさい。」その先生の言葉がユーミンの創作活動の源となりました。
 それで私は一旦は納得がいったのですが、稀代の天才シンガーソングライターたる松任谷由美さんの詩はもっと奥が深いのです。「卒業写真の面影」および「私の青春そのもの」の言葉からは、「異性の思い出」に浸っている乙女の姿がはっきりと浮かび上がってきます。やはりこれは叶わなかった恋の歌だったのです。
 もう一つ「通った道さえ今はもう電車から見るだけ」という句は、単に昔通った通学路を懐かしむだけなのかとスルーしていたのですが、ある雨の日、御茶ノ水駅で快速の窓から向かいのホームの中央線電車を見ている時に、突然竹内まりやの「駅」のフレーズが浮かんできたのです。竹内まりやも慶應出身の天才シンガーソングライターで、その詩にはいつも深い意味が込められています。
 
 「駅」
 作詞・作曲/竹内まりや
 見覚えのある レインコート
 黄昏の駅で 胸が震えた
 はやい足どり まぎれもなく
 昔愛してた あの人なのね
 懐かしさの一歩手前で
 こみあげる 苦い思い出に
 言葉がとても 見つからないわ
 あなたがいなくても こうして
 元気で暮らしていることを
 さり気なく 告げたかったのに…
 二年の時が 変えたものは
 彼のまなざしと 私のこの髪
 それぞれに待つ人のもとへ
 戻ってゆくのね 気づきもせずに
 ひとつ隣の車輌に乗り
 うつむく横顔 見ていたら
 思わず涙 あふれてきそう
 今になって あなたの気持ち
 初めてわかるの 痛いほど
 私だけ 愛してたことも
 ラッシュの人波にのまれて
 消えてゆく 後ろ姿が
 やけに哀しく 心に残る
 改札口を出る頃には
 雨もやみかけた この街に
 ありふれた夜が やって来る
 
 そうだ、「見ていたのは道≠ナはない! あなた≠探していたのだ!」一瞬も留まらない非情な時の流れと同じように、一度失った恋は二度と戻りません。しかし青春時代の苦くも「美しい思い出」は、この身は朽ち果てようとも永遠に残るのです。ポール・ゴーギャンが最後に描いた大作に記した、『我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?: D'o? venons-nous ? Que sommes-nous ? O? allons-nous ?』の問いの答えは各人が生涯をかけて求めるしかありません。ただその答えが如何なるものであろうとも、その中に「愛」がなければ永遠には残らないと思うのは、私だけでしょうか?

Fig. 1 文化功労者選出時の松任谷由美(1954〜)肖像写真

Fig. 2 竹内まりや「駅」

Fig. 3 我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?

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巻末エッセイ〜花ミモザの春を迎える 郡司哲己

 年末の大雪がそのまま根雪になり、「かって経験したことのない寒波」などの天気予報の大げさな表現に惑わされての冬ごもりでした。雪解けすれば季節の移ろいは急加速で、例年通りの雪国の春です。水仙、梅に始まり、クロッカス、スノードロップと追っかけて咲いています。いまや桜やチューリップも咲き始め、散歩道の林に初鶯が鳴き、庭先を初蝶が舞い、蟻も歩き始めています。

 ミモザの花が育ててみたいと家人が言い出したのは昨春のことでした。自粛生活の中でそんなささやかな希望くらいはと、さっそく苗木を園芸店より通販で購入しました。ただしその育て方のポイントを、ふたりでユーチューブ動画で学んでからのスタートでした。

 ミモザは南欧の春の花のイメージが強かったのですが、日本で人気のある「ミモザ」として流通しているのは「銀葉アカシア」が本名のマメ科の植物で、実際はオーストラリア原産なのだそうです。

 ミモザの木の特徴は、たくさんの小さな黄花が垂れた枝にあふれる咲き方です。栽培上の欠点は、この垂れ下がる枝や幹がとてもやわらかで折れやすいこと。当地なぞでは積雪でたやすく雪折れしてしまうわけで、地植えは困難と判断されました。数日後に宅急便で届いた「ミモザこと銀葉アカシア」の苗木は、枝が数本あり、細い支柱に結わえられた丈は70センチ程のものでした。

 大きめの鉢に植えることにして、夏は外で育て、冬は風除室に取り入れることにしました。なお鉢植えは水やりで過湿となりやすいとの動画の師匠の言葉を念頭に、水はけのよい土質に調整して植え込みました。師匠の説明では、小枝が先折れするとその枝まるごとが主幹の生え際までだめになるそうです。(これも強力注意喚起の気象庁的な表現かもしれないですが。)そこで夏場の強風でも枝折れの危険性がありますので、中央の支柱から支え吊りの紐を垂らして各枝を結わえました。勝手知ったる「雪吊り」の要領です。

 順調に若葉や新芽が出始めてから、2か月後に小さな蕾がたくさん出たのに気づきました。すわや遅咲きかと期待しました。到着時に花や蕾がないシンプルな苗木で、がっかりしたせいもあります。検索では、ミモザは7月頃からなんと翌春の花芽、蕾をつけるそうで、その準備の早いことにびっくりしました。

 暑い夏は乾きやすい鉢植えの水やりに追われながら乗り切りました。嚇かされたので、水はけのよすぎる土壌に仕上げてしまったのでした。晩秋には早めに風除室に鉢を移動しました。狭いスペースにフクシアの大鉢、100匹のメダカが冬越しする睡蓮鉢などと雑居です。

 日脚の伸びた2月中旬、黄に色づいていた一枝が開花しました。外の庭は1メートルの積雪です。3月初めにほぼ満開となり、玄関先の風除室に移動していわば公式デビューです。と言っても豆腐屋さん、牛乳屋さんと宅急便しか来訪者はないんですが。ちょうど数個の実を収穫してジャムを作ったばかりの夏みかんの木の鉢と入れ替えです。突然の変化に気づいたある配達の人が「あれ、こんなきれいな黄色の花咲いてましたっけ?」と驚いてほめてくれました。

 玄関先をいかにも明るい春爛漫な黄色の小さい花があふれ、3月いっぱいはきれいに花もちよく楽しませてくれていました。

 よく晴れた4月1日に庭先に出しました。さすがに花色が一部変化し、散りはじめていましたが、元気一杯なようです。

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