長岡市医師会たより No.518 2023.5


もくじ

 表紙絵 「宇宙のメロディー」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「長部先生の思い出」 児玉伸子(こしじ医院)
 「閉院のご挨拶」 森下美知子(森下皮膚科医院)
 「強く賢く美しい北欧女性」 福本一朗(長岡保養園)
 「巻末エッセイ〜アピシウスについて」 八百枝 潔(やおえだ眼科)



「宇宙のメロディー」  福居憲和(福居皮フ科医院)

宇宙はエネルギーにあふれ、天体は固有の周波数でメロディーを奏でています。それは、生命の誕生と育成を調和させるためのものなのです。それを聞くコツは観音です。


長部先生の思い出 児玉伸子(こしじ医院)

 先日、自称一整形外科医≠サして元三条総合病院院長と元長岡中央綜合病院副院長であった長部敬一先生の訃報を受けとりました。2年近く前から病状が優れず自宅で療養されていることは存じていましたが、現実となるととても残念です。心より御冥福をお祈りします。
 長部先生は本当にすごい方でした。過日、整形外科の某先輩が言われていました。「長部先生はすごい、本当にすごい。先生の患者さんは結果が良かった人だけでなく結果が悪かった人も含め、だれも長部先生のことを悪く言わない」。診療経験を重ねる程、このことのすごさをしみじみと感じています。
 私と長部先生の出会いは長岡中央綜合病院における私の研修医時代に遡ります。先生は、いつも口をむすんで少し前かがみに肩をいからせてのしのしと病院内を歩いていられました。ちょっと見はこわい印象でしたが、不思議なほど病院の職員全員からはちょうべいさん∞ちょうべい先生≠ニ広く敬愛されていました。とにかくどこの部署でも先生のことを悪く言う職員はいませんでした。ぶれない心情といつでもどこでも誰に対しても同じように接していられたことが、その理由だったようです。当時の私には理解できませんでしたが、ベテランの看護師さん達には「こわい顔で笑うところがかわいい」との評判でした。
 また、とても勉強熱心な先生は毎朝早く医局に出勤しては一人でJBJS(Journal of Bone and Joint Surgery)を始め関連雑誌等を読まれていました。朝の検討会に遅れずに出勤するだけで精一杯の私には、何年経ってもとても真似のできることではありません。また長部先生のデッサンは絶品で、これもとても真似できるものではありませんでした。当時の手術記録の多くは自筆のデッサンを添えて記載されていましたが、長部先生の書かれたものは絵の中から指が動いて出てきそうなものでした。それもそのはずで、当時新潟大学医学部整形外科学教室の教授であった田島達也先生の書かれた手の外科の教科書≠フ挿絵を担当されたと伺っております。
 あのころの病院ではお花見会や忘年会、歓送迎会といった様々な公の会はもちろんですが、私的ないわゆる飲み会も多数あり、先生はそれらでもいつも率先して楽しんでいられました。この様に仕事も5時から行事も、いつもすごい先生でした。当時の私は病院内の先生しか存じませんでしたが、長部先生は中央病院の副院長だけでなく長岡市医師会の理事もされていました。今になって顧みると、先生は病院内での診療だけではなく、その他病院内外でも幅広くご活躍されていたことが窺がわれます。そして平成4年に、三条総合病院の院長として赴任されました。あのころから私にとっては神様みたいにすごい存在でしたが、当時の先生はまだ50歳代だったのですね。先生が中央病院を離れても、私事に関して相談にのっていただきましたが、いつもぶれない先生の意見にはとても助けられました。
 もうひとつ、長部先生のすごいところはゴルフの腕前です。確かオフィシャルでもシングル寸前だったと記憶しています。しかし、三条総合病院へ行かれてからは、ゴルフを楽しむ時間もないとハンディは増えていったそうです。それ程三条での仕事に精魂こめ病院を大切に考えられていました。そのためご自分の後任の院長選びには、周囲の思惑を押し切って病院の生え抜きの方を強く推薦されたと、何度か言われていました。そんな先生は三条総合病院でも多くの職員に敬愛されていたと、別件で偶然同席した三条の看護職の方から伺いました。
 長部先生、どうぞ安らかにお眠り下さい。次にあの世とやらでお会いするときも、例のちょっと引きつったような笑顔の先生でいて下さることを楽しみにしております。

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閉院のご挨拶 森下美知子(森下皮膚科医院)

 本年6月森下皮膚科医院を閉院することになりました。平成5年に開院いたしましたので30年間診療を続けてきたことになります。これまで続けてくることができましたのは皆様のご厚情のおかげであり心より御礼申し上げます。
 私は岩手県盛岡市の生まれで大学は6年間仙台で過ごしました。卒業後結婚して新潟市に転居、新潟大学の皮膚科学教室に入局、その後新潟市民病院勤務を経て長岡市荻野に開業いたしました。今思い返しても縁のない長岡の地でよく開業にふみ切ったものと、若気の至りに身の縮む思いです。
 開業当時長岡で面識のある先生方を思い返してみますと、もちろん皮膚科の先輩の先生方には入局後からご指導を頂いておりましたので存じ上げておりました。しかし皮膚科以外の先生には知り合いがなく、唯一三間孝雄先生が大学の先輩であり新潟市民病院勤務も先輩であり頼って相談に乗って頂きました。先ずは医師会長にご挨拶をということで、当時の医師会長でいらした関根先生のお宅に緊張して伺いました。とても優しくお話をして下さり緊張が解けたのを思い出します。その後医師会の事務長さんや皆様に手続きを教えて頂き何とか開業にこぎ着けました。開業後は大勢の先生方に患者さんを当院に紹介して頂きました。どんなに心強かったことか、本当にありがとうございました。一方で難しい患者さんは病院の皮膚科の先生方に大勢お願いいたしました。長岡赤十字病院の岡先生、渡辺先生はじめ歴代の勤務の先生方本当にありがとうございました。3病院の形成外科の先生方にも大変お世話になりました。また皮膚病変は全身との関連も深く、多くの科の先生方にも大変お世話になりました。お忙しい先生方にたびたび診察を御願いしましたが快くお引き受け頂き感謝しております。
 長岡市医師会に入会させていただき、仕事の面はもちろん仕事以外でも大変お世話になりました。とにかくわからない事、困ったことがあれば直ぐに医師会にお電話して教えて頂きました。医師会旅行にも何回か参加させていただき楽しかったことを思い出します。またJOY会を結成し食事会や温泉旅行などご一緒させて頂きました。このような結びつきができましたのも医師会のおかげで感謝しております。
 さて閉院に至る経緯ですが、色々と重なり決断しました。年齢を考え、またIT化が進み自分一人でできることが限られてきて引き際をどうしようと思っておりました。継承のお話があったのですが、近くに同じ科の施設ができ残念ながら立ち消えになってしまいました。そうこうしていたところ職員から退職希望が出され、それで閉院の日を決めました。働けない体力ではないのですが、今決心してほっとしております。一方で長年にわたり受診されていた患者さんのこれからを思うと申し訳ない気持ちやら寂しい気持ちでいっぱいになってしまいます。紹介状を書かせていただきますので先生方どうぞよろしくお願いいたします。これまで一緒に働き医院を支えてくれたスタッフの今後も心配ですが、皆それぞれに良い人生が続くように願っています。
 閉院にあたっての手順を医師会に教えて頂き進めておりますが、なかなかの作業で少々疲れております。閉じるにもエネルギーが必要で、パワーを残していた方がいいようです。閉院後は私の人生のアディショナルタイムです。サッカーの試合ではアディショナルタイムにいろいろなドラマが起きることがあります。J1ではVARが導入されアディショナルタイムが長くなりました。私の人生のアディショナルタイムはどんな展開になるか楽しみにしております。先ずはこれまでに出来なかった、サッカーアルビレックス新潟の試合を全部観戦することをめざそうと思っております。長岡市医師会には引き続き在籍させて頂きますので、今後ともご厚誼を賜りますようよろしくお願いいたします。

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強く賢く美しい北欧女性 福本一朗(長岡保養園)

 北欧では、毎年クリスマス前のアドベント(待誕節)が始まる12月13日のルチア祭において、白い天使の衣装を着た光の美少女(=ルチア姫)≠ェ選ばれ、お付きの侍女や少年少女を引き連れて、ナポリ民謡サンタルチアを歌いながら病院内を巡り、この日だけは職員や医学生のためにサンタに扮した病院長がコーヒーとサフランパンを自身で給仕します(Fig. 1)。
 中世シチリアの貧しいルチア(Lucia:ラテン語で光)は、父を早く亡くし、病弱な母の病を祈りで治したものの、生活のため異教徒に嫁がされました。しかし既にキリストに身を捧げた彼女は処女を守り抜いたので夫から憎まれ、両目をくり抜かれ火炙りになるなど拷問を受けにもかかわらず、視力を回復できたと言う奇跡を起こして聖人に列せられました。
 ただ北欧では古代から処女性は重視されておらず、例えば愛と美・豊穣の女神であるフレイヤは、神々をも魅了する黄金の首飾り(Brisingamen)を手に入れるために製作者の4人の小人達と4夜をともに過ごしたり、夫がいる身でありながら人間や神々の中にも多くの愛人がいたとされています。しかしバイキング達はフレイヤの行為を温かく認め、篤く信奉してきました(Fig. 2)。
 北欧はフリーセックス≠ニ日本では誤解されてきましたが、現実の北欧女性は合理的精神に富み、恋愛も自らの幸せを第一に考えて人生設計を立てていて、セックスも決して一時の感情に流された放銃なものとは考えていません。それはスウェーデンの誇る二人の女優グレタ・ガルボ(Greta Garbo1905?1990)やイングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman1915?1982)の生き方に象徴されています。
 ミステリアスな美貌で人気を博した初期ハリウッドの伝説的スターでスウェーデンの誇る女優グレタ・ガルボは「わたしと一緒になろうなんて人はいないわ。わたしは料理が出来ないの。」「人生のパートナーとして親友を持つためには、必ずしも結婚なんかしなくてもいいわ!」「結婚していてもしていなくても、あなたが幸せならそれが幸せなのよ!」として生涯独身を通し、36歳で引退後は一度も公の場に姿を見せず、1954年アカデミー名誉賞授賞式にも出席しませんでした(Fig. 3)。
 これに対してイングリッド・バーグマンは、13歳で孤児となり親戚を転々として、人生でも三回の結婚を繰り返しました。イングリッドは、五カ国語を話し、詩的な優雅さと徹底的な現実主義とを両立させた女優としてアカデミー賞を3回、エミー賞を2回受賞して、アメリカ人女性の理想≠ニ称賛されハリウッドを代表する女優の一人となりました(Fig. 4)。
 このような他人の目を気にしない確固たる人生観と透徹した合理的精神は、一般庶民のみならず北欧の王女様にも共通しています。ノルウェー王太子ホーコンの妃メッテ=マリット(Kronprinsesse Mette?Marit, 1973〜)は11歳の時に両親が離婚したため母に育てられましたが、父親が麻薬常習者で服役していて少女時代の生活は荒れたものであり、麻薬に手を染めたこともありました。交際していた男性との間に子を身ごもったが、男性は妊娠が判明すると彼女を捨てたのでシングルマザーとして長男のマリウスを出産。これを機に彼女は今までの生活を改めることを決意して麻薬を断ち切り、育児をしながら飲食店などで働くかたわら、猛勉強をしてノルウェー最難関のオスロ大学へ入学し、学生だった1990年代後半、王太子ホーコンとロックフェスティバルで意気投合しマリウスを連れてホーコンと同棲を始めました。王太子が結婚もしないまま同棲するのはもちろん、彼女がシングルマザーであること、過去に麻薬パーティーに参加した経歴があることなどが次々と暴露されたため、「王妃として相応しくない!」と婚約前にマスコミは連日糾弾しました。しかしホーコン王太子の愛は強く、同じく平民から苦難を乗り越えソニア妃を迎えたハラル国王の支援もあって、2000年11月に正式な婚約を発表しました。会見時には涙ながらに、自らの過去を国民に謝罪して「残念ながら過去は変えられません。どんなに変えたいと願っても……。しかし未来は変えられます」と語り、その誠実で率直な姿に、国民は強く共感を覚え、国王夫妻も認める婚約となって王室の支持率も83%まで回復し、2001年8月25日オスロ大聖堂で結婚しました(Fig. 5)。
 スウェーデン国王カール16世グスタフの王妃のシルヴィア王妃(Drottning Silvia,?1943?)は、ドイツ人ビジネスマンの父とブラジル人の母の第4子として生まれ、母の故郷サンパウロで育ちました。1972年、ミュンヘン・オリンピックでグスタフ国王担当のコンパニオンをつとめたのがきっかけで知り合い交際を開始して1976年3月12日に婚約を発表しましたが、父ヴァルターが戦時中にナチス党員であったことや、ドイツの一般家庭出身の平民で貴族階級でないこと、スウェーデン語が話せないドイツ人のため「スウェーデン王妃に相応しくない」と、国民の間には拒否反応もありました。そんなシルヴィアの支えになりたいと立ち上がったのがスウェーデン出身のポップグループABBAで「ダンシング・クイーン」を制作しました。ABBAはその歌詞の中に女王シルヴィアを鼓舞するメッセージを込めます、「私たちの愛するシルヴィア、さあ人生を楽しんで! あなたこそクイーンだ!」。式典当夜バルコニー席の新王妃シルヴィアは緊張でこわばった面持ちでしたが、宮廷風ドレスを着たABBAが登場して『ダンシング・クイーン』を披露すると、シルヴィア王妃は満面の笑みをたたえて喜び、国民も感激の涙とともに新しい王妃を受け入れたのでした(Fig. 6)。
 国王との間に、王位継承者ヴィクトリア、カール・フィリップ、マデレーンの一男二女をもうけて、スウェーデン語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語・英語を流暢に話すほか、手話も会得しておられます。また非常にチャリティー活動に熱心で、スウェーデン国内で数多くの聾文化支援を含む福祉団体を後援して1999年に世界子供基金を設立するほか、他に環境保護・原発反対・難民保護・戦争反対に積極的に発言し、母の認知症介護経験から認知症の老人施設支援を、また夫カール・グスタフ国王がディスレクシア(=発達性読み書き障害)だったことからディスレクシア障害者の支援をも行っています。さらに少女時代にサンパウロのスラムを見た経験から、児童福祉特に児童ポルノの禁止に尽力されていて、今では国王よりも国王らしい≠ニ全国民から敬愛されています。(Fig. 7)。
 男女平等オンブズマンによって国家的にも守られて世界で最も男女平等が進んでいる北欧の女性達(ジェンダーギャップ指数の1位から5位までを北欧諸国が独占!?日本は116位?)は、オリンピックでも金メダル獲得数は男性より女性選手の方が多く、一人の人間として人生を生き抜ける自信を持っていて、賢く強くそして映画俳優のように美しい人が多いように思えます。しかし妥協を許さない強さは同時に、世界最高の離婚率につながっています。ただ残された子供達にとって、親同士が離婚してもすぐに次の相手と結婚し、新しい家庭に迎えられるため、「私にはお父さんが三人いて、夏休みになると町から旅行費用がもらえるのでそれで順番に遊びに行くの!」と、他の国に見られるような暗さや悲惨さはありません。「スウェーデンの家に住み、アメリカ人の給料をもらい、中国人のコックを雇って、日本人の妻を持つ」のが男性としての最高の人生であり、これが一つずつずれると地獄の人生だ、という笑い話が北欧にはあります。確かに日本人女性の献身・慎ましさ・情愛の深さは世界に誇れる美点ですが、9年半のスウェーデン生活を経験した筆者からみると、ここにどうして「スウェーデン人の妻」が言及されないのか、とても不思議に思えます。

Fig. 1 北欧のルチア姫

Fig. 2 女神フレイヤ

Fig. 3 グレタ・ガルボ

Fig. 4 イングリッド・バーグマン

Fig. 5 メッテ=マリット(ノルウェー王太子妃)

Fig. 6 ABBAのダンシングクイーン

Fig. 7 シルヴィア(スウェーデン王妃)

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巻末エッセイ〜アピシウスについて 八百枝 潔(やおえだ眼科)

 言わずと知れた、それこそバブルの時には日本一のフレンチレストランと評価され、今でもクラシカルなグランメゾンとして人気がある有楽町「アピシウス」。私が40歳になった頃、それまではインターネットや雑誌を情報源に、東京を中心に「美味しい」と評価が高い予約困難店を見つけては伺っていましたが、「何か違う」と思うようになりました。「東京に行きつけになれるお店を探したい!」と思ったのです。予約困難店に一度だけ伺って、美味しい美味しくないを評価するという行為が楽しくなくなったのですよね。それで目を付けたのはアピシウス。理由は2点。HPを確認したところ、ワインの値付けがめっちゃ安かったこと(親会社が道楽でやっているお店で、かつ古いワインをその当時の価格で出しているからなのだけど)、老舗なのであと何十年もお店が無くなることがないのだろうと思ったことです。

 初めて伺ったのは同業のお友達と。その当時落ち込んでたお友達を励まそうと高いワインを注文すると、ついて下さったのは後記さんというお方。アピシウスと言えば2019年ゴエミヨベストソムリエ賞に輝いたシェフソムリエ情野さんが有名ですが、後記さんはその当時ソムリエですらありませんでした。この後記さん、見た目がかっこいいだけではなくて、トークが超絶面白くて、お友達の悩み話が全く頭に入ってこなくて、今でも記憶に残る楽しい夜でした。当初の予定通りにこちらには顧客にならせてもらおうと、年1〜2回通い詰めるようになり、電話で予約すると「いつもありがとうございます」と名前だけで話が通じるようになりました。今に至るまで、神様と呼ばれる伝説の醸造家アンリジャイエ氏のワインを3本、前述のお友達に「結婚したらロマネコンティ開けてあげるよ」と言ったら、一年以内に結婚しちゃって、仲間でワイワイ。今のネット価格の十分の一くらいで用意して下さったんですよね。母親が亡くなった時に親父を慰めようと「1939年のワインを探して下さい」とお願いしたら、何とシャトー蔵出しのシャトーラトゥール。2度リコルクがなされていて、そのせいで古酒感が少なくて生き生きとしていて、何だかまだ母親が生きているかのように思えて二人で泣いちゃったんですよね。もちろん親父が亡くなった時も1938年のブルゴーニュワインを用意して下さり、献杯させて頂きました。料理については紹介が後回しになってしまいましたが、スペシャリテは日本の海亀の十分の一を入手して作る海亀のスープで、独特の粘着感があり、他ではない味わいです。

 アピシウスは、40歳以降の私の人生を彩って下さるというか、寄り添って下さる、無くてはならないお店になりました。前述の後記さん、あれから日本でも数少ないインターナショナルソムリエの資格を取得し、新しくできたラグジュアリーホテル、ブルガリホテル東京のメインダイニングのシェフソムリエに大抜擢。個人的な伝手で予約を取って下さり、この原稿が出る頃には私も伺っていると思います。アピシウスに行かなくなるかと言えばそんなことはなく、支配人始め、情野さん、その他仲良しのメートルもまだまだ在籍していますし、今のペースで通い詰めたいなあ、と思っています。

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