長岡市医師会たより No.519 2023.6
表紙 「ある日曜日の悠久山」 丸岡 稔(丸岡医院)
「あの夏、蜂を追いかけて」 渡邊浩之(長岡中央綜合病院)
「大雪の日の救急車」 永田 寛(立川綜合病院)
「日残りて昏るるに未だ遠し」 福本一朗(長岡保養園)
「蛍の瓦版〜その77」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
「巻末エッセイ〜ハリマオが見たマレーの月」 富樫賢一
「ある日曜日の悠久山」 丸岡 稔(丸岡医院)
ある日突然、「ぼん・じゅ〜る」から寄稿依頼が来た。ふと振り返ってみると、書くことなんてたいしてない。しばし悩んだ末、印象に残っている子供の頃を書いてみることにした。
私は小千谷市の山本山の麓で生まれた。山本山といえばバブルの頃に西武系列のスキー場ができたほど雪深い所だ。子供の頃は特に雪が多く、消雪パイプもないので数ケ月地面が見れないなんて当たり前、要するにど田舎だった。小学校は小千谷小学校に通っていたが、田舎のせいか昆虫採集が一部で盛んだった。皆さんは夏休みの自由研究を覚えているだろうか。私はきっかけは忘れたが、なんとなくの流れで自由研究に昆虫採集をしていた。
はじめは王道の蝶から始めた。と言っても小学3、4年位だったので、行動範囲は狭くひたすら町内をぶらぶら歩き周り、目についた蝶を取って回っただけなのだが。それでも暇な時間は外に出てずっと採集していたので、自分としてはそれなりに結構集めたと思っていた。
ところで、皆さんは新潟県では昆虫採集の県大会的なものがあることを知っているだろうか。小千谷小学校では自由研究での昆虫採集はその大会にエントリーしていた。今は長岡市役所・アオーレ長岡がある場所に、昔は厚生会館という多目的ホールがあり、そこが発表会場となっていた。私は、都会の長岡にお上りさん的に結果を見に行ったわけだ。そこに並んだ昆虫採集標本は壮観だった。参加者は小学生のみならず、中学やたぶん社会人もいたと思う。同じ蝶でも、見たこともない珍しいものや、同じ種類を地域別に山のように集めたり、とにかく数と種類が半端なかった。そう私は井の中の蛙だったのだ。あまりのレベル違いに愕然としたことを覚えている。優秀者には金や銀賞が贈られるのだが、当然私には縁のない話だった。
そこで私は考えた、行動範囲の狭い小学生にあんな種類と数を集めるのは無理な相談だった。できる範囲で対抗するにはどうすればいいか。そこで私が思いついたのが、誰も集めないものを集めてみたらどうだろう、ということだった。私は蜂を採集することにした。
同じ蜂といっても色々いる。その頃、近所でよく見るのは脚長蜂だった。蓮の実のような巣を軒先に作り、昆虫を食べる肉食だ。二紋と背黒脚長蜂をまず捕まえた、小さいので特に問題はない。次に狙ったのは花蜂系だ。夏になると花に集まってきて花粉や蜜を食べる。色々種類はいるが、特に目立つのが黒くて大きいクマバチだ(クマンバチと呼んでいたが)。クマバチの巣は独特である。昔は物干し竿に竹を使っていることが多かったが、その竹の中に数珠つなぎに部屋を作って子供を育てる。よく物干し竿の先から出入りするクマバチを見たものだった。大きくて羽音もでかく恐怖を感じるが、草食のせいか気は優しめな感じがする。あと珍しいのにドロバチというのがいる。文字通り泥で巣を作るのだ。近所の庭の木に大きな泥がぶら下がっておりそれが巣だった。巣ごと標本にした。
色々捕まえて慣れた頃にスズメバチに挑戦した。近所でよく見るのは、今でもよく問題になる黄色雀蜂だった。黄色雀蜂は軒先に巣を作ることも多いが、当時の住宅の壁は木板が多く、断熱材も大して入っていないので、節穴から壁の中に入り込み、壁の中に巣を作ることがあった。スズメバチは肉食で凶暴である。ただ黄色雀蜂は比較的小さめなので私はあまり気にしていなかった。それが悲劇を呼ぶことになる。
その日私は朝のラジオ体操を終えたあと、友達数人に黄色雀蜂を捕まえようと誘った。今から思うと無謀かつ残酷な誘いだったが、当時は遊び感覚だった。前から目をつけていた巣があった。壁の節穴から蜂が盛んに出入りしている。捕虫網を2つ用意して節穴から出てくる奴と戻ってくる奴を片っ端から捕まえた。夢中で捕まえているとなんだか頭がもぞもぞした。(私は帽子すら被っていなかったのだ)なんだろうと思って手で触ったら痛みが走った。頭と手を刺されていた。子供心に結構やばいと思い、病院まで行った。近所に開業医などというものはなく、小千谷総合病院まで行ったが、延々と数時間待たされたときには痛みも腫れも引いていた。子供心に「役に立たねーな」と思ったが、当時は病院は待たされて当たり前の所だった。でも結構泣いたような記憶がある。あとになって蜂は黒いものに寄ってくることを知った。皆さんには蜂がいるようなところに行くときは白系の服と帽子をお勧めしたい。
極めつけのラスボスはオオスズメバチである。何しろ日本最大最強、今ネットで調べると全ての陸海空の有毒生物中トップクラスの毒を持ち、かつ攻撃性も高い危険な種である。オオスズメバチは木の根元などの土中に巣を作る。私が見つけた巣は町内の外れの林の木の根元にあった。何しろでかい、羽音も半端ない、なんとも言えない重低音なのである。普通の蜂が家庭のテレビの音としたら、ライブのデカいスピーカーの前に立ったような、心を震わせる迫力がある。でも当時の私は大物を見つけたと、まずは喜び勇んでいた。運がいいことにほぼ一発で捕まえた。でもそれからが大変だった。
虫を捕まえたら標本にする。そのためには残酷ではあるが、まず殺さないといけない。蝶の場合は胸を指で挟んで圧迫する、では蜂はどうするのか。熱湯に浸けるのである。いつも私は蜂を捕まえると網ごと家に持って帰り、瞬間湯沸かし器で熱湯を沸かしピンセットで掴んで浸けていた。そこでオオスズメバチである。奴は網の中でも凶暴だった。何しろ顎が半端ないし羽音も半端ない。捕った場所が町内の外れなので、いつもより時間がかかる。いつ網が噛み破られるかとヒヤヒヤしながら家に帰った、ピンセットで挟んで出すときは寿命が縮む思いがした。
そんなこんなで結構捕まえた。多分20から30種類程度は捕まえたような気がする。そして再び長岡の厚生会館を訪れた。入った瞬間、広い展示場で台の上に平置きで並ぶたくさんの標本箱、その中で入り口のすぐ正面に3つだけ斜めに目立つように立てかけられた標本箱があった。私の蜂たちだった。見事金賞を勝ち取った。
令和4年12月19日の大雪で、久しぶりに長岡市内の交通が麻痺しました。私が覚えている限り市内でこれほど渋滞したのは平成27年1月以来でした。
その日私は産婦人科当番だった。夕方5時過ぎのこと、産婦人科病棟の電話が鳴りました。「もしもし…」電話をとったスタッフが受話器の口元を塞ぎながら振り返りました。
「先ほど陣発の連絡があった経産婦さんのご主人からです。渋滞にはまって動けないのだけれど、○○さんの痛み(陣痛)は強くなってきているそうです。病院の近くのカントリーエレベーターの前まで来ているというのですが…」
カントリーエレベーターは病院から国道17号を挟んだ向こう側にあります。直線距離で300−400m、しかし道なりに回ると1kmほどあるでしょうか。
「そこまで来ているなら…行くか…」
つぶやきながら振り向くと、分娩番の助産師はすでにゴム長靴(病棟の入浴介助のときの白いやつ)を履いて救急蘇生セットのバッグを担いで立っていました。
救急セットのバッグとビニール袋に入れた数枚のバスタオルをもって、降り積もった雪で渋滞する道を助産師と二人で走りました。国道を渡るとご主人が手を振って呼んでいました。
妊婦本人はSUVの助手席に乗っていました。車に到着した私達は、助手席足下に助産師が乗りこみ、私は運転席に乗り込みました。
「5−6cmですね」内診した助産師が私を見ます。よし、まだ少し時間はあるな。走ってきて荒くなった息を整えながら車内を見渡しましたが、車内は想像していた以上に狭い!SUVといえども分娩を介助するにはさすがに狭い!来たはいいが、どうやってお産しよう。子供は受け止められるだろうけど、羊水や出血で相当汚れてしまうな。正直途方に暮れました。
そこへご主人が外から「今ほど救急車もよびました!」と報告が。といってもこの渋滞で救急車だって来られないでしょう、と思っていたらそのわずか数分後救急車のサイレンが聞こえてきたではありませんか!どうやって?
その答えはすぐにわかりました。国道の交差点で移乗しましょうということになりましたが、そのためには数十mは前進する必要がありました。しかしやっぱり渋滞で動けない…と思いきや、救急隊員が渋滞中の車を一台一台、少しずつ少しずつ道をあけるように誘導してくれました。ここまで来るときもこうして来てくれたようです。道さえあけばSUVの出番です。穴ぼこだらけの雪道を難なく進むことができました。
こうして移乗予定の交差点中央にきた我々は、妊婦を救急車に移乗させました。そこはご自身で歩いていただきました。救急車に乗ったときの安堵感といったらありませんでした。ヒトが沢山いる、暖かい、広い、汚しても気にならない(掃除はそれなりに大変でしょうが)!
しかしその後も救急車はなかなか出発できず、結局国道の坂を少し登ったところで停車中に分娩になりました。さすがに経産婦で、上手な努責を数回しただけで分娩となりました。ベビーも元気に啼泣し、持ってきたバスタオルでよく羊水を拭き取って、あとは助産師が抱いて暖めました。
その間も救急隊の交通整理は続いていました。救急車が動き出したのは児娩出から間もなくでした。
病院に到着するとまずはベビーを抱えた助産師が救急車をおりて病棟へ走りました。母親はそのままストレッチャーでおもむろに分娩室へ。それから子宮収縮剤を用いて胎盤を娩出させ、会陰裂傷を縫合して終了しました。
児はとくに低体温症にもならず元気に経過し、母児ともに通常通りに退院しました。
まとめ
・分娩に向かう車中で大雪の渋滞にはまり、救急車内で分娩となった一例。
・いくつもの幸運が重なりことなきを得た。
▼病院の近くまでは来られていたこと
▼当日当院が指定日で、救急車が病院に溜まっていたこと
▼分娩自体にはトラブルがなかったこと
・大雪の中、交通整理という救急隊の奥義をみた。
・救急車と救急隊はやっぱりとてもありがたい。
いつも以上に救急車と救急隊のありがたみを痛感した出来事でした。一方私はといえばバスタオルをもって走り、助産師と救急隊の活躍を見守っていただけでした。
「海坂藩」は、?しぐれ(1988)・たそがれ清兵衛(1988)をはじめ江戸時代を舞台に貧しい庶民や下級武士の切なくも真摯な生活を描いた小説家、藤沢周平(1927−1997)が創作した架空の藩で、そのモデルは藤沢の出身地山形県鶴岡市と考えられています(Fig. 1)。
山形県の鶴岡・酒田へは新潟から美しい観光列車「海里」が週末運行され、ミス分水花魁道中の副島アンバサダーが、一般人にはなかなかの事では味わえない新潟市古町の高級料亭「鍋茶屋」「一〆」「行形亭」からの豪華弁当を、付きっきりで給仕してくださいます(Fig. 2)。
海里が新潟から村上・笹川流れ・あつみ温泉などの日本海の景勝地を巡ったのち停車する最初の大都会、鶴岡市にあるのが独自のクラゲ研究所を備えて、世界一の80種のクラゲ生態展示を誇る加茂水族館です。そこで養殖したクラゲを用いた海月ラーメン・海月アイスでも有名で、かつては年間70万人以上の入館者がありました(Fig. 3)。しかしコロナ禍と大雪のダブルパンチで来館者が激減し、ついに2023年1月10日「入館者0人、ダレカキテ…」という痛酷なツイートがSNSに投稿されました。加茂水族館に行くためには雪の山越えをするか、または終点の酒田から海岸線の細い道を1時間以上たどらねばならず、そのアクセスの悪さから来館者がゼロになったようです。水族館の危機を訴えたところ、今ではクラゲファンのみならず全国的な支援の輪が広まっているとのことです。
ところで鶴岡に隣接する酒田は「シニア世代が住みたい田舎」部門全国一に選ばれましたが、1672年に河村瑞賢が開いた「西廻り航路」によって「西の堺、東の酒田」と言われるほど栄えた港町です。「本間様には及びもせぬがせめて成りたや殿様に」と謡われた日本一の大地主本間家が活躍し、三十六人衆という自治組織により町は運営されていました。その繁栄は江戸時代からの高級料亭「相馬屋」に象徴されていました。その木造の主屋は1894(明治27)年の庄内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を取り囲んで建てられたもので、1996(平成8)年11月、国の登録文化財となっています。しばらくは閉店していましたが、伝統に新しい息吹を加えて修復し「相馬樓」として2000年に復活しました。1階の20畳部屋を「茶房くつろぎ処」とし、2階の大広間は舞娘さんの踊りとお食事を楽しむ演舞場に、また、かつての厨房は酒田舞娘のけいこ場となっています(Fig. 4)。また、樓内には雛人形や古美術品の展示のほか、竹久夢二美術館も併設されて美人画や写真なども観覧することができます。
相馬楼のような高級料亭の常連客は豪商や大名・上級武士に限られていたことでしょうから、藤沢周平が好んで描いた下級武士や庶民には関係がないと思われがちです。しかしその数少ない例外が、海坂藩の用人を勤めた「三屋清左衛門残日目録」の主人公清左衛門です。
三屋清左衛門は藩主の用人にまで昇進した後、妻に先立たれ52歳で長男又四郎に家督を譲って隠居し、優しく賢い嫁里江に傅かれながら余生を楽しみ日記をつけていましたが、その生活は意外にも退屈と平穏には程遠いものでした。無外流の達人にして、藩内に豊富な人的ネットワークを持ち、裕福で自由な身の清左衛門は様々な相談がもちこまれます。先代の殿がお手つきにした女の縁結びや、お城の前で切腹した男の調査などに尽力するうち、藩のなまぐさい派閥争いに巻きこまれたりするなど、老いゆく日々の輝きが見事な筆致で描かれています(Fig. 5)。
なお「残日録」とは「死ぬまでの残りの日を数える」ことではなく、「日残りて昏るるに未だ遠し」という意味だと主人公は嫁の里江に説明しています。これは、「死期は迫っているのに為すべきことは多い」という、越の伍子胥の「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」と述べた故事に似たものと、今まで誤解していました。
しかし考えてみますと、「日残りて」とは「まだ日がくれるには時間がある」ということですし、「昏るるに未だ遠し」とは「日没までにはまだ時間がある」ということと、あるいは「日が暮れつつあるが目的地にはまだ距離がある」ということの両者を意味していると考えられます。
つまり「隠居してもまだ人生は終わりではない!」「衰えて死が訪れるその時は、己をそれまで生かしめたすべてものものに感謝を捧げて生を終われば良い。しかしいよいよ死ぬるその時までは、人間に与えられた命を愛おしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ(藤沢周平「三屋清左衛門残日録」文藝春秋?1998, p436)」という積極的老年感を意味しています。
禅宗にもそれと似た「看々臘月尽(かんかんろうげつじん):臘月(=十二月)が去るのを見よ=月日の流れの早さを知り自分の人生をしっかり見つめて今という一瞬を懸命に生きよ=vという禅語があり、いずれも武士の澄み切った人生観を教えてくれています。
さらに「老鶴萬里心(ろうかくばんりのこころ)=老いた鶴でも挫けない心を持ってさえいれば万里をも越えることができる=vという禅語もありますが、それは志を高くして生きるのに年齢は関係ない≠ニ諭しているものと思えます。
これに対して「人間は生きて来た様にしか老いることができない(だから若い時から老いに備えるべきだ)」という箴言がありますが、定年を迎えて社会から離脱し、健康・美貌・体力も老化し、身近な人も亡くなって周りが寂しくなってしまっても、これまでの生き方をそのまま堅持できる人は、ある意味で恵まれた強い人と言えるでしょう。しかし筆者のような凡人でも心身の柔軟性と寛容受容心を持って、年とともに変化してゆく内外の環境に適切に対応できるように努力してゆくことは、幸せに人生を終えるために必須と思えます。そのためには常に「Memento mori(死を忘れるな=j」と意識しながら(Fig. 6)、極端な終活に走ることなく現在の生を愛おしみつつ、「日残りて昏るるに未だ遠し」と希望を失わずに明日を見つめ、和顔愛語の心で周りの人々を思いやり老後を送る清左衛門の生き方は、現代の隠居高齢者にもそのまま通用するのではないでしょうか?
Fig.1 藤沢周平(1927〜1997)
Fig.1 藤沢周平記念館
Fig.2 JR東日本の観光列車「海里」
Fig.2 JR東日本の観光列車「海里」副島アンバサダーの鍋茶屋弁当!
Fig.3 加茂水族館
Fig.3 加茂水族館のクラゲ生態展示は世界一!
Fig.4 酒田相馬楼
Fig.4 酒田相馬楼の舞娘さん(一花・小夏さん)
Fig.4 酒田相馬楼の「宝石ちらし」
Fig.5 三屋清左衛門残日目録(文庫本)
Fig.5 三屋清左衛門残日目録(テレビドラマ)
Fig.6 Bernt Notke(1435〜1508)の絵画「死の舞踏」
Fig.6 古代ローマ人の墓石に刻まれている「Memento mori(死を忘れるな)」
新潟県医師国民健康保険組合のお話
1.初めに
お久しぶりの瓦版です。今回は医師会A会員の多くが加入されている新潟県医師国民健康保険組合について、その他の公的医療保険制度と併せてご紹介します。
国民皆保険の日本では、国民は年齢と就業形態に拠っていずれかの公的医療保険に加入しなければなりません。公的医療保険は社会保険方式が基本で、平時から収入に応じた保険料を積み立てておき、疾病に罹患した際には医療費が支給される仕組みになっています。しかし現在では1年間の総保険料は総医療費44兆円の半分に過ぎず、患者さんの自己負担分12%を除いた4割に相当する17兆円の公費が投入されています。
2.公的医療保険
医療保険制度は会社員や公務員等が加入する被用者保険≠ニ、その他の方々を対象とした国民健康保険≠フ2制度から始まりました。
現在、被用者保険(いわゆる社会保険)には正規労働者とその家族約8千万人が加入し、その特徴は保険料を組合員と事業主の双方が負担することと、扶養家族の保険料が無料となっていることです。国民健康保険加入者に比べ、平均年齢は30歳代と若く平均所得は2?3倍と高い一方、年間医療費は半分以下です。
昭和36年に制定された国民健康保険には、職種別の国民健康保険組合≠ニ、都道府県単位で居住地別の 市町村国保≠ェあります。市町村国保は、74歳以下で被用者保険や国保組合の対象外である2千6百万人が加入し、国民皆保険を支えるセイフティーネットです。制度設立当初には農林水産業者や自営業者が中心でしたが、現在は非正規労働者や年金生活者等の無職者が7割を占め、加入者の平均年齢は54歳と高く平均所得も後期高齢者並みです。
高齢者医療を社会全体で支えることを目的に平成20年に旧老人保健制度を改定し設定された制度が後期高齢者医療制度≠ナす。約1千9百万人の後期高齢者の年間医療費は18兆円掛かり総医療費の40%以上に相当し、一人当たり年間百万円近くになります。このうち高齢者自身の保険料と自己負担分は併せても2割以下で、残りの8割以上は税金と被用者保険等からの協力金によって補填されています。
3.新潟県医師国民健康保険組合
新潟県医師国保は国民健康保険組合の一つで、これは小規模の自営業者とその従業員および家族を対象として、業種や職種ごとに組織されています。国民健康保険法に基づいており、扶養家族にも保険料が必要で雇用者負担はありません。医師国保の他には歯科・薬剤師・美容・建築・衣料等160余組合あり、約3百万人が加入しており、自営業で働く人のための国民健康保険です。無職者の多い市町村国保とは異なり、組合ごとの特性が強く収入に応じた保険料率や傷病手当金等の現金給付が設定されています。
医師国保は医師を対象に都道府県単位で設立されており、新潟県では新潟県医師会の副会長である川合千尋先生が理事長を務められ、郡市医師会から選出された理事と代議員によって運営されています。組合員は新潟県医師会の会員である第1種組合員と、従業員5人以下の診療所に勤務する従業員(第2種組合員)およびそれぞれの家族です。75歳以上の高齢者は全員が後期高齢者医療制度の対象となり、その他にも医療機関の規模や形態によっていくつかの除外規定があります。
新潟県医師国保組合の主な収入は加入者からの保険料と国庫からの補助金です。現在の加入者は、医師会会員である第1種組合員961人と、従業員である第2種組合員およびその家族がそれぞれ2千人程度です。第2種組合員と家族の保険料はいずれも定額ですが、第1種組合員の保険料は収入に応じて上積みされます。医師国保は、就労者の割合が非常に高く平均収入も保たれていることから、保険料の所得割を比較的低く抑えることが可能でした。しかし2種組合員数はほぼ横ばいですが、保険料収入を支える第1種組合員数は年々微減している上に今後さらなる減少が見込まれています。また国庫補助金も32%から13%と減額されいずれゼロとなる見込みです。
支出に関しても今後の展望は厳しく、後期高齢者医療制度への支援金は、後期高齢者の年間医療費の増大に伴い平成30年には月額3千5百円から5千円に増額されています。これは後期高齢者医療制度の当初の設定目的から、家族を含めた会員全員への均等割りとなっています。支出の主なものは医療給付ですが、このように5千人程度の小規模の組合では、一件でも超高額の薬剤使用の請求があると当該月の支出が目立って突出します。こちらも今後の使用状況によって、支出が大きく変化すると推測されます。このように収入の減少と支出の増額が予想される等、今後新潟県医師国保組合の経営は一層難しいものになると思われます。
真夜中クアラルンプールに到着。早々空港内ホテルへと向かう。そのホテル、外見は豪奢だったが室内はひどく荒んでいた。コロナの影響なの?そのことが私達をひどく困惑させた。気を取り直してシャワーを浴びる。寝る前に何気なく外を見ると満月。なにか寂しげな満月。
正味3時間の睡眠。朝食後すぐにランカウイ島に移動。クアラルンプール空港からは1時間、マレーシア北端でタイ国境に近い。その島の中心クアタウンで中華料理のランチ。ハラールだと言うが実に美味しい。それにビールが安い(半額以下)。それもそのはず。この島は酒税無しの特区。時の大統領が島を活性化しようと決めたとのこと。ただし持ち出しは禁。島外から来た人はホテルに籠りひたすら飲み続ける。島の発展はというと遅々として進んでいない。「マレー人は働かないから」と現地ガイドの林さん(親が華僑)は言う。マレー人は飲酒しないが林さんお酒大好き。
昼食後はテーマパーク、オリエンタル・ビレッジへ。園内のアジアで一番?というケーブルカー(スカイキャップ)で山頂駅に。そこからさらに400段の急な階段を登り、谷間にかかったスカイブリッジを渡る。遠くに見えるのはマラッカ海峡やタイの島々。足元に見えるのは谷底。
そして膝痛の女房が恐れていた下山。「迷惑になるから先に行くわ」と、肥満気味の2人と共に行ってしまう。私は1人で添乗員を待つことに。やがて皆が集まり下山タイム。半分も下らないうちに先発隊の3人に追いつく。それからは女房に歩調を合わせてゆっくりと下った。
翌日はマングローブクルーズ。野生動物(主にサル)見学後、フェリーでペナン島に移動。夕食前ヒンズー教のマハマリアマン寺院を見学。マレーシア人の5%位がインド系(ヒンズー教)。10%位が中国系で、残りが正統マレー人(イスラム教)。多民族(多宗教)国家だがお互いを尊重し仲良く暮らしているとのこと。
そもそも宗教の違いが諍いのもとだというのは間違い。諍いの原因は利害対立。マレーシアは石油産業が盛んで、ガソリンは水より安い。天然資源も豊富なうえ、工業化も進んでいる。自動車は安い国産が人気。それに年中暖かい。豊かで過ごしやすいと諍いも起こらない。
ペナン島では世界遺産ジョージタウンを見て回り、高速ボートでオラウータン保護島まで行って来る。その後キャメロンハイランド(海抜1800m)へ。翌日そこで紅茶畑を散策後ティータイム。そしてクアラルンプールに戻った。夕食前ペトロナスツインタワー(452m)のスカイブリッジ(連絡橋)に上がる。日本が建設した側と韓国が建設した側を行き来しながら景色を楽しむ。
最終日世界遺産マラッカへ。マラッカはマレーシア南端でシンガポールに隣接している。シンガポールは1965年マレーシアから独立した華僑の国。そこでは海峡に張り出すモスクを見学。肌の露出度が多いとモスク内に入れてもらえない。入り口でチェックされ、不合格だとマントですっぽり覆われる。思いがけない体験を喜ぶ人もいた。
やれやれ今回も強行軍で疲れた。熱いバスで汗を流そう。が、お湯が出ない。これもコロナの影響?仕方なく冷たいシャワーを浴び、外を見ると下弦の月。諦観漂う月だ。幼少期にワクワクしながら見ていた連続テレビドラマ「ハリマオ」(本名 谷豊 1911‐1942)。彼は戦前ここで暮らしていた(本業は盗賊)というが今と同じ月を見て何を考えていたのだろう。