長岡市医師会たより No.520 2023.7
表紙絵 「夜空のファンタジー」 福居憲和(福居皮フ科医院)
「夢のような話」 大橋正和(おおじま心療クリニック)
「悠久山鉄道(栃鉄)の思い出」 羽賀正人(ながおか生協診療所)
「マイ・ミッション・インポッシブル」 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)
「巻末エッセイ〜医院の新築を通して」 木村慶太(木村医院)
「夜空のファンタジー」 福居憲和(福居皮フ科医院)
花火が愛のかけ橋となり、思いがデュエットとなって信濃川を彩り流れていくのです。
20歳位の時、炬燵で聞いたラジオからのクラシックに魅かれたのが、そもそもの始まりだった。
家のピアノを弾いたりしたが、大学でも楽器を弾きたくなり、先生を探し、楽器を習った。
その当時一緒に習っていた中学生に負けないように、必死で練習した(彼女はその後、音楽大学に入り、さらにオーケストラに入った)。
下宿のおばさんには、「大橋さんは、勉強の息抜きに音楽でなくて、音楽の合間に、勉強をするんですね」と皮肉をいわれたこともあった。昼食を節約し、遠くの音楽会にも通った。
夏休みに、楽器とレコードが詰まった段ボール箱を持って帰ったときには、親に「大学には行っているの?」と詰問された事もあった。
そんなことでへこたれることはまったくなかった。本場ヨーロッパで音楽を聴きたい一心から、ついに(専門領域での)奨学金を得て、当時の西ドイツに渡った。
留学中はあちこちの演奏会や音楽祭にでかけた。ザルツブルク音楽祭、ルツェルン音楽祭はとくに良かった。教会のオルガンコンサートやミサ曲なども存分に楽しめた。
ザルツブルクは、どの風景も素晴らしく、モーツァルトの生家や住居、ゴシック後期やバロック期の教会や修道院、ミラベル庭園など、さらにはケーブルカーや徒歩で上れるホーエンザルツブルク城、そこからの眺望にも感動した。街を歩けば家々の窓から歌や楽器の音が聞こえた。
特にザルツブルク音楽祭の三日目位までは、ヨーロッパのいわゆる上流階級の人を一目見ようと、歌劇場の道を挟んだ向かい側には、人だかりができるほどであった。
カラヤン指揮(モーツァルトの)「魔笛」「フィガロの結婚」ベーム指揮の(R・シュトラウスの)「影のない女」を観た。当時若手でカラヤンの弟子のクラウディオ・アバド指揮のモーツァルトのピアノ協奏曲(ピアノはK・カーゾン)の演奏会で、人だかりの中に、カラヤン夫妻を見ることができた。
また、スイスの美しい湖畔で開催されるルツェルン音楽祭では、W・ケンプのオール・シューベルト・プログラムの演奏会が素晴らしかった(アンコールもシューベルトのスケルツォだった)。
そこでも、カラヤンの演奏会をいくつか聞くことができた。これらの音楽祭では、その他、室内楽、歌曲などできうる限り多くの演奏会を聴いた。
ロンドンのコベントガーデンでの、ドニゼッテイのあまり上演されないオペラ「マリア・ストゥアルダ」(イギリス女王エリザベッタとスコットランド女王マリア・ストゥアルダの会見からマリアの復讐に至るまでの物語)はとくに素晴らしかった。
東ドイツでもモーツァルトのオペラ「後宮からの逃走」を観た。このときチケットはなかったが、ポスターを見て、東ドイツと西ドイツに分断される前のベルリン歌劇場をどうしても見たくて、窓口で、キャンセルを待って、手に入れることができた。窓口のおじさんが、オペラの開始前、私の腕をひいて、歌劇場内を案内してくれた。
ミラノに行ったときには、ちょうどシーズンオフで、オペラは見ることができず、ローマに行く予定の時は、ローマは感染症が流行っていたため、断念した。
ウイーン国立歌劇場、ベルリン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、その他ウルム、アーヘンなどの歌劇場でもいくつかのオペラを観た。
また、フランス、オランダなども巡り、管弦楽、室内楽、歌曲、古楽の演奏会と楽しく飛び回った(ドイツに行くと聞いた友人が、アウトバーンを走ると楽しいから、運転免許を取れというので、免許を取り、ヨーロッパ中を走り回った)。
最後に、音楽会は、いつも楽しいものと思っていたが、楽しいというよりも、疲れたという演奏会もあった。二十数年前に東京文化会館の演奏会で、ショパンコンクールで入賞した中村紘子が、一晩で、ベートーベンのピアノ協奏曲全五曲を演奏するというものがそれである。途中一時間前後の休憩を挟み、終わったら夜中になっていたというもので、このときは演奏の中身よりも、疲れたというのが正直な気持ちだった(演奏者はもっと疲れたと思うが……)。
それ以降演奏会に行っていない。
今は夢から醒め、ラジオから聞こえる音楽で癒されている。
今は昔、長岡に悠久山鉄道(通称:栃鉄:とってつ)という軽便鉄道があった。
先日、施設に往診した際、迅速検査判明までの間、食堂集会室にあった「長岡むかしの写真集」を何気なく開いた時の事。「これ、悠久山鉄道(栃鉄)の下長岡駅だ。なつかしいなあ」とつぶやいた。小生は、生まれがその下長岡駅の近くで、もの心ついたころから小学校卒業まで、栃鉄は一番身近な乗りものだった。写真を見ていると当時の思い出が、次から次へと浮かんでくるから不思議なものだ。先日、無芸、無趣味の小生に突然頂いた原稿依頼は、これでいくかと筆をとった。50年以上前の長岡にゆかりのない人にとっては、さっぱり分からない話と思いますが、栃鉄と悠久山を中心とした思い出、しばしお付き合いを。
「下長岡」から「悠久山」まで駅名は今でも容易にそらんじることができる。長岡駅をすぎると「高校前」「大学前」駅があり面白い。詳細は成書、You-Tubeで。
春は悠久山へ花見。当時も「花より団子」であるが、屋台は今よりもにぎやかだった。公園は人であふれ、場所取り大変。そこら中で宴会。どんちゃん騒ぎも。
また、小学校見学授業で悠久山駅の隣にある農事試験場(現、農業総合研究所)に。覚えているのは自動田植え機。「これから田植えはこの機械がやります」と。研究員の説明はほぼ分からなかったが、開発への熱意は伝わった。まだ自家用車すら普及していない時代、本当?と思ったが確かにそうなった。プロジェクトXものかも。
夏は悠久山プール。8月10日頃の市民水泳大会。選手で参加することになり、大会前4・5日間、連日始発便で朝練に。下長岡駅から悠久山まで。始発便は大きな荷物を背負ったおばちゃん達でいっぱい、驚いた。「今日は5日だから五十(ごとう)の市だよ」隣のY君が教えてくれた。一人のおばちゃんが「どこ行くが」と尋ねてきた。「プール」というと笑顔で飴をくれた。大変な仕事だと荷物の量でわかった。悠久山プール、夏とはいえ水はとても冷たかった。小学校の25mプールと違い50m、長く感じた。でも、帰りに悠久山駅前の茶店で飲んだラムネはうまかったなあ。
秋は悠久山球場に世界の王を見にいったことがある。巨人―大洋戦。超満員の栃鉄にゆられ球場へ。一本足打法をこの目で見れたのはこれが最初で最後。
冬はスキー。今は亡き父がよく連れて行ってくれた。栃鉄で土合口駅を過ぎ、栖吉川を渡り、長倉駅へ。そして終点悠久山へ。白い山々がだんだん近づいてきて、胸が高鳴る。友達と「今日はどこの斜面をすべる?」などとしゃべりながら。当時はリフトがあり、頂上(松山 現ゴルフ練習場)では、長岡高専はじめ駅近辺まで一望できた。リフトを降りてすぐ右に降り、あわや瓢箪池に突っ込むというような急斜面を直滑降で降りるのが流行っていて、よくやった。まるで肝試し。思えば、比較的急で、とても短いスロープのスキー場であったが、当時はスキーヤーでごった返していた。レジャーの多様化など程遠い時代のことだから。
思えば、小学生のころ、楽しかった思い出は、栃鉄、悠久山が多くを占めた。小学校卒業と共に親の転勤で長岡を離れ、県外に。4年後、長岡に戻れたその春に、栃鉄は廃止になった。下長岡駅から高校前駅まで栃鉄で通えることを楽しみにしていたのに。でも結局、この5駅間は、自転車で20分の距離でしかなかった。
それから20年以上して、生協で診療所新設の際、予定地を見学した。「ここは栃鉄土合口駅のあった場所?星野製菓の看板がありましたよね」と地主さんに。「そうです。栃鉄、覚えてますか?」と聞かれ「大好きでしたね」と答えた。診療所の裏は廃線路で、今はマイロードとなり整備されている。ここを通って悠久山まで週1・2回ジョギングしている。悠久山近いよ。医師会の紹介で前述の農事試験場(農総研)、長岡高専の産業医を担当しているのも不思議な縁だ。
昨年、認知症の人が診療所に紹介されてきた。昔の思い出は長岡空襲で布団かぶって逃げたことと、行商で苦労したこと。重度の亀背である。だが良くしゃべる。「苦労したけど働らかんきゃ喰っていかんねかて」「最後まで頼むて」を繰り返す。あの栃鉄で飴をくれた笑顔のおばさんとダブってしまう。
小生も年を重ねて、あと何年仕事ができるかわからない。だがあの時代を共有した人、楽しい思い出をくれた地域のために、もう少し恩返しができればと思っている。悠久山鉄道(栃鉄)本当にありがとう。
マイ・ミッション・インポッシブル 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)
今回ははっきり言って尾籠な話です。ですので、気に入らない方は読み飛ばして頂いて結構です。
もしかしたら、気分を害されるかもしれません。ご容赦ください。
田舎育ちでしたので、中学時代は、自転車通学でした。ヘルメットをかぶって、自宅から中学校まで片道30分(約10キロ)。雨の日も、日照りの日でも、自転車通学でした。部活動で遅くなって暗くなっても、自転車で通学しました。冬になり、雪が降ると、1日朝夕数本のバス通学に代わりました。
さて、その日も普通に朝ごはんを食べてから、学校に行こうと自転車にまたがりました。
ちょっとお腹がシクシクとしましたが、気のせいだろうと自転車をこぎました。
中学生になり我がまま言って買ってもらったばかりのお気にいりの自転車です。
なんと自転車なのにウインカーがついているのです。そして、後ろのテールランプはクルクルと回るのです。
カッコいいと思っていました。(今考えるとかっこ悪くてしかたありません。どこがかっこいいのやら)
中学の授業は午前は4限まで。3限の途中でお腹の痛みに気が付きました。そして、グルグルとなり始めました。下痢の痛みです。我慢すると痛みが消えてしまいます。しかし、数分後また、便意が襲ってきます。
皆さんも経験あると思います。便意の波状攻撃。だんだんと間隔が短くなってきました。白目を向くほどの攻撃でした。3限と4限の間の休み時間にトイレに駆け込もうと計画を立てました。
友達に見つからないように、となりの3年生の校舎まで走っていこうと考えました。
そして、休み時間、おかしな欽ちゃん走りで先輩のいる3年生校舎に行くと、怖そうな先輩ばかり。
で、戦意喪失(便意喪失か)。
4限に突入しました。で、なんと4限の終了15分前に便意ががまんできなくなりました。
冷や汗が出てきます。でも脳内のリトル磯部君達が囁きます。
(おならだから、大丈夫。音が出ないようにスーッと開栓してやれば大丈夫。誰にも気づかれないよ)
とデビル磯部君が悪魔のささやきをします。
エンジェル磯部君も言います。(がまんするのは体によくないよ)とささやきます。
で、片方のお尻を軽く持ち上げて、スーッとおならをしてしまいました。
で、その時に違和感、有り!
ちょっと生の液状便が漏れてしまいました。少々脱糞してしまいました。
さあ、大変。4限の終了時刻のチャイムが鳴ってもだらだらしゃべる先公をにらみました。
で、お尻に濡れる感覚あり。
やっと授業が終わり、トイレにダッシュして、パンツに汚れ発見。次の5限は、体育です。
で、覚悟が決まりました。
重大ミッション@
【昼休みの45分で自宅まで、自転車で行って帰って着替えて戻ってくる】
と、いうミッションが決まりました。
友達に「『忘れ物したので、家に取りに行ってくる』と先生に言っておいて。」と告げてから、後先考えずに、自転車に飛び乗りました。
お尻が汚れているので、終始立ちこぎ、物凄いスピードがでます。6段変速がついています。
自転車をこぎながら、選択肢を考えます。
1)近くの服屋さんでパンツを買う⇒お金がない。
2)原信でブリーフを買う⇒お金がない。
3)学校近くの親戚の家に駆けこむ⇒そもそも替えがない。理由が言えない。
4)パンツなしで5限に突入⇒おかしい。着替えの時に、おかしい人とレッテルが貼られる。
5)パンツを捨てて、「パンツはいてくるの忘れちゃった」とおどける。⇒どこに捨てればいいかわからない。
6)タクシーで自宅に帰る⇒お金がない。
7)保健室に逃げ込む⇒保健室ってどこにあったっけ?
8)仮病を使って、早退。⇒早退は、そもそもプライドが許さない。(なんのプライド?)
9)そもそも体調悪いから帰宅。⇒まだまだ、体調は大丈夫。まだまだいける。ここからが、本来の頑張れる自分だ!自分はまだまだ伸びしろがある!
以上のほか、さまざまな選択肢が自転車上で風を受けながら浮かんできました。
でも、今はミッション@に人生かけています。
中学生には他の選択肢は思い浮かんでも、実行機能がありません。家がどんなに遠くとも、自宅に帰って綺麗なパンツに着替えて、何事もなかったかのように、平然とクールに過ごす。⇒女子にモテる!ことが肝心かなめ。
終始立ちこぎで予想以上に早く自宅に到着。父と母は仕事で家にはいないはず。大好きな婆ちゃんがいるはずだが、畑仕事にいってるらしく誰もいなかった。ラッキー。
汚れたパンツを脱いで、洗濯機に入れて、新しいパンツを速攻で履いて、学校に向かいました。
すでに残り時間は20分。
時間が迫〜る? 気は焦る〜ウ〜?
と、「アスレチックランドゲーム」の音楽が脳内で流れています。
そして、そして、なんと、信じられないことに5限に間に合いました。
神様はいる!神様、ありがト〜ウ!
自転車ごと滑り込むように中学校に突入し、投げるように自転車置き場に自転車を放り投げ、体育館に走り込みました。
俺はやったぜー!と心の中でガッツポースをとりました。
で、体育が無事終わり。
部活も無事終了。
夕方には自宅に帰りました。
1日に自転車で2往復(約40キロ)したことになります。
夕ご飯の美味しかったこと。おいしかったこと。空腹と達成感は最高の調味料!
下痢は治っていました。(病は気からといいますよね)
その日の夜、家族団らんのひと時が終わりかけた時です、
ばあちゃんが私に向かって言うのです。
その一言ですべてが台無しになりました。
「まあちゃん。おめえ、アッパ垂れたな!パンツ、洗っといてやったよ〜」ガハハハッと笑ったのです。
言い返せない私に追い打ちをかけるのです。
「腹こわしたんらろ〜。正露丸でも飲めや!」
と大笑い。だから、年老いた女性は下品でやだなあと思いました。(そうでない女性の皆さんごめんなさい)
もう、すべてが台無しで、ショックな1日になってしまいました。
以上、ミッション台無しの話でした。
(でも、私は最後まで婆ちゃん子でした。優しい祖母で、大好きでした。)
(私の生まれた故郷、南蒲原郡では大便のことを『アッパ』といいます。何故かわかりませんが……。知っている人がいたらご教授ねがいます。)
うちの医院は古い医院でした。先々代が昭和30年頃に、空襲にあっても壊れないことをコンセプトに建てたものでした。
数年前のある冬、ものすごい異臭がしてその悪臭がコンセントの穴の奥から匂っていたようだったのでガムテープで目張りをしたりしました。鉄筋であるにも関わらず建具の木材を伝ってシロアリも発生していましたし、2階の住居部分ではカビが大量発生していました。
かくして建て直しを決断。令和3年の開院を目指し令和元年からハウスメーカーとの打ち合わせを開始しました。共に働く職員の意見も取り入れて使い勝手が良くて患者さんにやさしい医院にしようとしましたが、なかなか意見が合わず、疲れてしまい、建築を1年先に延ばしました。
結局1年遅れで令和4年11月に何とか開院にこぎ着けました。建設中も医院の住所を変えたくなかったので敷地内にプレハブを建てて診療しつつ、新医院にあっては樹齢200年を超える柿の木を活かして建てるように精一杯こだわりました。
しかし完成して(というか引き返せない段階まで来て)気付きました。
私は新しい物が嫌いだったのです。
靴は穴があくまで履き、パジャマは擦り切れるまで着て、PCは電源を入れて10秒以内に何かキーを押さないと立ち上がらないくらいのポンコツになるまで使い続ける私です。
どうして新築してしまったのか…晴れやかな新医院を前にして今もなお、そう思ってしまうのでした。
新築の失敗経験から少しでも気が乗らないことはしない方針で進みたい。オンライン資格確認や電子処方箋も取り入れないという選択肢があってもいいのでないかと思います。選択肢がない国の方針に大いに不満です。