長岡市医師会たより No.521 2023.8


もくじ

 表紙 「8月の奥入瀬渓流」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「自己紹介」 横山 令(横山皮膚科)
 「70年代特撮」 薄田浩幸(長岡赤十字病院)
 「少年老い易く(その1)」 三宅 仁(悠遊健康村病院)
 「サルトルの『壁』」 富樫賢一
 「かぐや姫のカルテ」 福本一朗(長岡保養園)
 「巻末エッセイ〜あなたはアリ それともキリギリス?」 福本一朗(長岡保養園)



「8月の奥入瀬渓流」  丸岡 稔(丸岡医院)


自己紹介 横山 令(横山皮膚科)

 横山皮膚科院長の横山令と申します。なぜ私のような若輩者が現在院長として開業しているのか、説明も兼ねて、自己紹介させていただきたいと思います。
 私は1990年1月29日に生まれ、中学校を卒業するまで長岡市で過ごしました。現在33歳です。長岡花火は毎年見ていましたし、中越地震は受験勉強をしていた中学3年生のことでした。父は長岡中央綜合病院皮膚科に勤務後、1995年6月に横山皮膚科を開業しました。高校は新潟高校に通わせていただくことになり、家族全員で新潟に引っ越し、父は新潟−長岡間を通勤する形となりました。現在私も同じく通いの形ですが、父に改めて感謝するとともに、この方が気楽だったりしていい面もあるな、と思っています。大学は、2008年4月に東京医科大学医学部医学科に入学いたしました。親族に同大学の出身者はおらず、裏口入学ではございません。部活はアイスホッケー部と児童ボランティア部に所属しました。アイスホッケー部は体育会系で、楽しくも地獄のような日々を過ごしました。2年間キャプテンを務め、卒業する寸前まで参加していました。大学時代の大半はアイスホッケー部の思い出です。今では問題となるようなエピソードはたくさんありますが、厳しい指導が自分を叩き上げ育ててくれたと、今は感謝でいっぱいです。児童研究会という怪しい名前の児童ボランティア部では1年間副部長を務め、血友病の子供たちとキャンプに行ったり、児童館の子供を遠足に連れて行ったりしていました。アイスホッケー部とは打って変わって、癒しの時間でした。初期研修はそのまま東京医科大学で行いました。部活ばかりしており将来設計をちゃんとせずになんとなく進んだわけでは断固としてありません。歌舞伎町、新宿2丁目、新宿御苑、西新宿などたくさんの思い出がある新宿は僕のアナザースカイです。研修修了とともに2016年に新潟大学医歯学総合病院皮膚科学講座に入局、そして2018年から長岡赤十字病院に勤めさせていただいたので、私の名前を知っている方もいらっしゃるかもしれません。2年間勤務の後、大学院生として大学に戻りました。専門医をとり、博士号をとり、海外留学し、数年お礼奉公をした後に父の医院を継承するつもりでいましたが、専門医を取るところまでしか叶いませんでした。父親の療養のため私が当院を引き継ぐ形となり、大学院を辞めて退局し、2022年5月に横山皮膚科で勤務開始をいたしました。しばらくの間、人手の関係から大学時代の外勤も継続しており、それに合わせて診療日がバラバラで皆様には大変ご迷惑をおかけしました。2023年4月に院長に就任し、2023年6月5日に敷地内の新しいクリニックへ移転、心機一転頑張っていこうと思っているところです。しかし旧医院の取り壊し工事中であり、駐車場が完成してしっかりとしたリスタートができるのは11月ごろの予定です。分かりづらいですが診察しておりますので、皮膚疾患にお困りの患者様がいらっしゃいましたらぜひご紹介ください。若輩者ではございますが、今後ともよろしくお願いいたします。
 P.S.親子ともに大変お世話になった森下皮膚科様の閉院に伴い、光線療法の機械や電気メス等を引き継ぎました。地域の皆様のために先生の思いも引き継いで頑張っていきたいと思います。森下先生、長い間お疲れ様でした。

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70年代特撮 薄田浩幸(長岡赤十字病院)

 この度、原稿依頼をいただきましたが、無趣味なため以前「ぼん・じゅ〜る」の年男・年女アンケートの趣味欄に書いた「マイナーな70年代特撮」について補足させていただきます。ウィキペディアを参照したくらいで、後は記憶だけに頼っているため、間違いもあると思いますがご容赦ください。
 マイナーなものだけではなく、メジャーな特撮ものも好きです。
 「ウルトラマン」は新潟日報のテレビ欄の下4分の1いっぱいに本日放送開始の告知が出て初めて知りました。昭和41年生まれなので、同年開始の本放送ではなく、再放送だと思います。家には白黒テレビしかないので、近くの祖父母の家のカラーテレビで見ました。生まれ育った新潟市の民放は当時5チャンネル(BSN)とUチャンネル(NST)しかありませんが、「帰ってきたウルトラマン」からのシリーズは東京と同じ金曜夜7時から放送していました。当時読んでいた小学館の学習雑誌の記事とリンクしており、かなり記憶に残っています。雑誌では星人たちの会議の様子が載っていました。ウルトラマンタロウを倒すのにエレキングを使わないでキングジョーにすべきだったとの意見に、キングジョーは作るのに3年かかるから無理と言う事でした。自分にとってのウルトラマンはウルトラマンタロウまでのウルトラ六兄弟+ウルトラマンレオです。「ウルトラマンレオ」で毎年の放送が終わり、その5年後くらいにアニメの「ザ・ウルトラマン」で復活、「ウルトラマン80(エイティ)」で実写に戻りましたが、そちらはあまり印象に残っていません。特に最近のウルトラマンの番組内容はおもちゃとして売っている変身アイテムの取説動画のようにみえます。
 仮面ライダーは「仮面ライダーアマゾン」までは日曜日の午前10時からの放送のため見逃す回も多く、小学館の雑誌にも掲載されていないので、ウルトラマンほどは記憶に残っていません。仮面ライダー1号から仮面ライダーストロンガーまでの7人ライダーで一旦終了となり、ウルトラマン80と同時期くらいにスカイライダーで復活しました。7人ライダーまでが一番面白かったです。仮面ライダーも近年は主役以外に粗製乱造?されたような多数のライダーがいて、敵も数人の若者?など、昔とは異なります。そもそもバイクにあまり乗らないようです。
 ゴジラシリーズは宝塚会館でみた対ガバラ戦が最初ですが、当時ナイター中継が雨天中止になると、対キングコング戦と対キングギドラ戦が繰り返し放送されていました。何回みても飽きないので、野球中継中止をいつも願っていて野球は嫌いでした。ちなみにキングギドラは平成になってから何体も出てきますが、昭和のキングギドラと鳴き声が全く異なるので違和感が大きいです。
 当時、平日夕方は子ども番組の時間で、保育園から小学校の間は毎日必ず見ていました。「テレビまんが」も多くありましたが、特撮番組が好きでした。土曜の夜はほとんどの人が「8時だョ!全員集合」をみていましたが、「人造人間キカイダー」の方をみていました。東京12チャンネル(テレビ東京)など5局民放がある東京に比べ、2局しかない新潟でも、時差はありますが大体の特撮番組をみた記憶があります。
 マイナー特撮は字数が足りないので省略しますが、好きなところに共通点はあります。最後はあっけなくやられてしまいますが、敵側は「首領」のようなちゃんとした組織の長がいることが多いです。最近は悪の方にも正義があるとかで、勧善懲悪は避けられるようですが、難しく考えないで単純に世界征服を企む悪の組織で良いのではと思います。1話完結で最後は主役が勝ちます。この点は当事の時代劇も同じで、祖母がよくみていた「水戸黄門」「遠山の金さん」などは面白かったです。
 最近流行りの「シン・」がつくものはテレビで「シン・ゴジラ」くらいしかみていませんが、現代向けの印象を受けます。その他にも昭和の特撮番組風のものがたまにありますが、コメディ色が強かったり、子供たちへのメッセージを意識しすぎたりしているように思います。当時、半年、1年の放送の中にそのような回もありましたが、それだけを強調しても、ちょっと違うような感じがします。

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少年老い易く(その1) 三宅 仁(悠遊健康村病院)

 1 渥美和彦先生追悼

 「少年老い易く学成り難し」とは良く言ったもので、まことにそのとおりである。筆者は約30年前、岡山大学を卒業し、東京大学の大学院に進学してから、研究者の道に入ったわけであるが、元々は研究者、学者になろうとは露とも思わず、開業医であった父の跡をとりあえずは継ぎたくない、若いうちは少し遊んでやろうという傲慢な気持ちで上京したのであった。恩師である渥美和彦先生はコロナ禍直前の2019年12月31日に亡くなられた。葬儀は近縁者で行われ、お別れ会(偲ぶ会)は後日計画する(恐らくかなりの大人数となるので簡単に設定できないという事情もある)というので知らせを待っていたが、COVID-19?の蔓延となり一度は秋にと延期されたが、残念ながら3年を過ぎた今でも開催できずにいる。弟子としては歯がゆいばかりである。その秋のお別れ会で奥様が弟子の追悼文集を配布したいというので原稿依頼があった。次にその追悼というには申し訳ない駄文を再録しておく。
 

 『裏口入学』

   長岡技術科学大学名誉教授 三宅 仁
 渥美先生と最初にお目に掛かったのは本郷3丁目の駅前であった。医学部最後の年、進路をいろいろ考えていたが、モノは試しとばかり、お茶の水博士(この頃は東大がお茶の水にあるものと思っていた。実際には御茶ノ水駅前は医科歯科であり、東大はそこから地下鉄でもう一駅かバスか徒歩であった。)の弟子になるのも悪くはないかと考え、渥美先生に弟子入り志願の手紙を書いたのは8月のお盆過ぎであった。すぐに返事が来て、秋の大学院入試を受けろという内容だった。当然、田舎者をすぐさま受け入れてくれる方ではないと思ったが、こちらも万一通うとしてもどんなところか一度見ておきたかった。というわけで、9月早々だったと思うが、渥美研を訪ねて上京した。(本郷3丁目の地下鉄の)駅の改札を出た目の前の本屋に見覚えのある方がおられ、声を掛けるとまさに渥美先生その人であった。ちょうど先生を訪ねてきた旨を告げると、では付いてきなさいと先に歩かれる。しかし、赤門の方向ではなく、違う方向にどんどん行かれる。果たしてこの方は本当に渥美先生なのかと訝っていると、小さな路地に入り、さらに小さな門をくぐるではないか。騙された!?タヌキではなく、ヤギの化物?と思った瞬間、「三宅君、これが実験用のヤギだよ」との声。3号館裏のヤギ小屋であった。その後、人工心臓を装着したヤギを見るにつけ、ますます希望が膨らんだ。また、藤正巖先生を紹介されたが、入試の詳細などを聞くとかなり不安であった。英語、独語、専門の3科目あり、このうち独語が一番難しく、鬼門であると。実際、問題にあったキーワードが分からず苦労したが、あとで辞書を見ると何と「美の女神」であり、結果として微笑んでくれた。
 このようにして、渥美先生との最初の出会いは、東大の裏門をくぐるという裏口入学であったが、無事大学院を修了し、晴れて赤門から長岡へ旅立った。
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 渥美和彦先生のご業績はよくご存知の方が多いと思われるが、若い方はご存じないかもしれない。手っ取り早く言えば鉄腕アトムに出てくるお茶の水博士のモデルである。しかし、手塚治氏とは同級生だったので、マンガに出てくる頃はせいぜい30代後半のはずであり、やや違うと思われる。しかし、ご本人はモデル説をお気に入りだったように思う。人工心臓をはじめとする人工臓器・医用材料、医用超音波、医用レーザー、生体磁気、医用サーモグラフィ、医学におけるコンピュータ応用(医療情報)などの日本での創始者のひとりであり、晩年は統合医学の推進にも尽力された。もうひとりの恩師、助教授だった藤正巖先生は医用マイクロマシンや『人口減少社会の設計』で有名であり、東大先端研の初代教授となられ、英国王立科学研究所の金曜講話会(通称ファラデー講話会)に招かれた。サーモロジーという言葉を創出し、商用ワゴン車をキャンピングカーに改造する創始者のひとりでもあった(絶版であるが、その著書もある)。
 渥美先生の思い出は当時の助手で後任の教授となった井街宏東大名誉教授も同様のエピソードを書かれている(生体医工学:2020年58巻2−3号p.75−79)。(続く)

2016年6月に長岡で開催した第29回日本サーモロジー学会役員会後にへぎそばを振る舞った際の渥美先生御夫妻。右端は筆者

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サルトルの『壁』 富樫賢一

 長岡花火が来週に迫った平成26年夏、肺がん治療について聞きたいと読売新聞社の記者が訪ねてきた。その女性は北大卒でロシア語専攻とのこと。突然「先生は医者でなければ何になりたかったですか」と本題には関係ないことを聞いてきた。私は「哲学者」と答えた。あまりに意外な答えだったのか彼女は暫く黙っていたが、こらえきれずに笑い出した。「そんなにおかしいですか」「だって……」
 だって哲学者ほどわけのわからない人間はいない。どうでもいいことをわざわざ難しい言葉を使って、さも重大なことのようにまくしたてる。「哲学者のどこいいんですか」「別に、ただなんとなく」
 サルトル(1905−1980)はフランスの小説家、劇作家、そして実存主義者。1964年ノーベル賞を辞退。多くの著作を残している。いずれの著作においても非決定論もしくは『人間的自由』に対する自己信念が強調されている。『自由は責任、罪責、悔恨、罰を伴い人類の重荷となっているが、人間的尊厳の唯一の源泉である』
 『壁』はサルトルの同名短編集(1939)中の作品。『私たちは大きな白い部屋に押し込まれた』(伊吹武彦訳、以下同じ)というパブロ・イエビタ(主人公)の言葉で始まる。彼は無政府主義者でスペイン内戦(1936−1939)に参加していて捕らえられた。一緒に押し込まれた二人のうちトムは国際部隊の戦闘員、ファンは無政府党員ホセの弟だというだけで逮捕された少年。数時間後病院の地下室だった監房に司令官がやって来て三人に明朝銃殺刑だと告げた。
 ほかの二人には銃殺されるだけの理由があったが、少年にはなかった。少年は怯えきっていた。『この子はむしろぞっとするほど不気味だった。もう何も言わず、土色になっていた。顔も手も土色だった。腰を下ろし眼をむいて床を見つめていた』
 ほどなくベルギー人の医師が監房にやって来た。死を目前に控えた人間の生理反応や精神的苦悩を観察するのが目的らしい。『「ここへ何しに来られたんです」「何にでもお役に立ちましょう。この数時間が少しでも楽にすごせるように、できる限りのことをするつもりです」』この医師の登場はパブロに無様な姿を見せたくないという気持ちを起こさせた。
 だが、『私はハッと気がついて顔に手をやった。汗びっしょりとなっている。冬の真最中、風の吹きこむこの地下室にいて汗をかいているのだ。髪の毛をなでると汗のためにじっとりとしている。と同時にシャツが濡れて肌にくっついているのに気がついた。少なくとも一時間前から汗を流していながら、てんで感じなかったのだ。ところがベルギー人の奴、これを見逃しはしなかった』
 やがて朝。ほかの二人は刑場に連れていかれ銃殺された。だがパブロは残され、一時間後二階の小さな一室に連れていかれた。ラモン・グリス(中心的活動家)の居場所を明かせば助けてやると言う。パブロは知ってはいたが教えなかった。
 『ただ私は自分の行動の理由を知りたいのだ。私はグリスを奴らに渡すくらいなら死んだほうがましだと思っている。それはなぜだろう。私はもうラモン・グリスが好きじゃない。あの男に対する私の友情は夜明け少し前、コンチア(愛人)への愛と一緒に、生きる欲望と一緒に死んでしまった。……あの男の命は私の命以上に価値なんかありはしない。……私にはスペインも無政府主義も糞くらえだ。何もかもくだらなくなってしまった。ところが私はここに生きている。グリスを渡せばこの身は助かる。だのにそれを私は拒絶している。私はそれをむしろ滑稽だと思った。これは意地なんだ』
 パブロは相手をからかうために?の居場所を教えた。ところがグリスは前の隠れ家からその教えた場所に移っていて、逮捕に向かった兵隊に射殺されてしまった。それを聞いたパブロは『あたりがグルグル回りだした、気がつくと私は地面に座り込んでいた。私は涙が出るほど笑って笑って笑いこけた』とこの小説は終わる。
 一晩中死について考え、究極のストレスにさいなまれ、もう何もかもがどうでもよくなっていたパブロ。だが何故か裏切りだけは出来ない。そこで死ぬことを前提に相手をちょっとからかってみたのだが、そのことで思いがけなく命拾いをしてしまった。幸運?それとも悲愴?どちらにしろ、何もかもくだらなくなってしまった世界でまた生きていかなければならなくなった。笑って笑って笑いこけた後に。

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かぐや姫のカルテ 福本一朗(長岡保養園)

 保険診療のルールを定めた「保険医療機関及び保険医療養担当規則」によると、診療録(カルテ)の「保存期間」は完結の日から「5年」と定められています。そのため古いカルテは廃棄されても仕方ないのですが、中には医師として捨てるに忍びないものがひっそりと保存されていることもあります。ただパソコンもワープロもなかった時代のカルテは、普通ボールペンで書かれていましたため、経年劣化で判読困難になることもしばしばです。
 半世紀前のカルテに挟まれた若い女性患者さんの手紙が見つかり、濡れていたらしく字は滲んで読みづらかったのですが、なんとか判読できました。もちろんプライバシー保護が気になって躊躇していたのですが、看護師さんから「先生は女心のわからない朴念仁ですね!」と叱られました。登場人物はみんな帰天されていることですし、著作権も消尽していますので、個人情報を守りながらご紹介させていただいても良いのではと思いました。
 
 「赤提灯」
 歌:かぐや姫
 作詞:喜多條忠
 (1947〜2021)
 作曲:南こうせつ(1949〜)
 あのころふたりの アパートは
 裸電球 まぶしくて
 貨物列車が 通ると揺れた
 ふたりに似合いの 部屋でした
 覚えてますか 寒い夜
 赤ちょうちんに 誘われて
 おでんを沢山 買いました
 月に一度の ぜいたくだけど
 お酒もちょっぴり 飲んだわね
 
 雨がつづくと 仕事もせずに
 キャベツばかりを かじってた
 そんな生活が おかしくて
 あなたの横顔 見つめてた
 あなたと別れた 雨の夜
 公衆電話の 箱の中
 ひざをかかえて 泣きました
 生きてることは ただそれだけで
 哀しいことだと 知りました
 
 今でも時々 雨の夜
 赤ちょうちんも 濡れている
 屋台にあなたが いるような気がします
 背中丸めて サンダルはいて
 ひとりで いるような気がします
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 先生には私の白血病治療にご尽力いただき感謝の言葉もありません。最後の骨髄移植が不成功に終わりましたのも、私の運命とようやく諦めることができました。ただ一つ心残りは、あの人に会えずに天国に逝かねばならない事です。もしあの人にお会いになることがありましたら、この手紙をお渡しください。いいえ、これから留学される先生にそのようなことをお願いするのは無理なことは分かっていますので、最初から諦めています。ただ一人の人だけを生涯愛した娘がいたと言うことを、覚えておいていただきたいのです。
 先日の病棟クリスマス会で、先生がかぐや姫の「赤ちょうちん」を歌ってくださった時、{あなたと別れた雨の夜/公衆電話の箱の中/膝を抱えて泣きました}のところで、泣いてしまったのを覚えておいでですか? 実はあの曲の公衆電話で泣いていたのは、私だったのかも知れません。
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 あの日突然、父が私たちの三畳下宿にやって来て、私を拐って郷里に連れ帰ろうとした時、貴方は止めてくださりませんでした。ご実家が倒産されて苦学生だった貴方は、見合い話のある私の幸せを考えて黙っておられたのでしょうが、私には貴方の優しさが理解できず、抜け殻の様になって女子大寮に連れ戻されました。その後貴方は授業料が払えず大学を中退されたそうですね。でも根が努力家で真面目な貴方は、職を転々と変えながらも立派な作詞家になられたと風の噂に伺いました。貴方と暮らした二年間は貧しかったけれど、心優しい友人達にも恵まれて幸せでした。ただ私の青春はその二年間で燃え尽きてしまったのです。ありがとうございました! そして本当に大切なものを追い続けなかった私を許してくださいね!
 これまでも、そしてこれからも、永遠に貴方のお幸せをお祈り申し上げております。
 女子大の寮母シスターから教えていただいた祈りの言葉を、愛する貴方に捧げます。
 Utinam felicitas! Per mare per terram!(お幸せに! いつも心はおそばに!)
 私だけの貴方、天国の赤ちょうちんでお会いしましょう! 貴方だけの私より

Fig. 1 都電15系統面影橋駅

Fig. 1 赤ちょうちん(神楽坂)

Fig. 1 かぐや姫

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巻末エッセイ〜あなたはアリ それともキリギリス? 福本一朗(長岡保養園)

 夏の間、アリたちは冬の食料を蓄えるために働き続け、キリギリスはヴァイオリンを弾き、歌を歌って過ごしました。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、最後にアリたちに乞い、食べ物を分けてもらおうとしますが、アリは「夏には歌っていたのだから、冬には踊ったらどうだい?」と食べ物を分けることを拒否し、キリギリスは飢え死んでしまったという、「アリとキリギリスのイソップ寓話(Fig. 1)」は、世界中の子供たちが知っています。もっともこれは小アジアの原作では「アリとセミ」のお話でしたが、欧州北部ではセミは生息していないためキリギリスに翻案されたものが、日本に伝えられたのです。

 作者のイソップ(Α?σωπο?:B.C.619〜B.C.564?)はエーゲ海のサモス島市民イアドモンの奴隷でした。トラキア人の美女ロドピスと秘密の恋仲であって、語りに長けていたため共に解放され、寓話の語り手として各地を巡りましたが、デルポイの市民に妬まれて殺されました(Fig. 2)。イソップ自身はアリではなく、キリギリスの人生だったようです。

 この寓話には、キリギリスが飢え死ぬのでは残酷だというのでアリは食べ物を恵み、それを機にキリギリスは心を入れ替えて働くようになるという教育的配慮をした国もありますが、いずれも子供たちに勤倹備蓄をすすめる道徳教育寓話となっています。ただ「夏に遊んで暮らして冬に苦しむ」キリギリスは不幸な人生を送ることになったと考えられるかもしれませんが、実はキリギリス本人にとっては、夏に遊んで暮らすことが短い人生にとって大切だったという解釈もあるのです。なるほどキリギリスの寿命は1年ですので冬に備えることは無用ですし、セミも地中で6年以上過ごして地上では1ケ月も生きてゆけず、その間に子孫を残して一生を終えるのです。これに対してジュラ紀に空を飛ぶミツバチ(Apoidea)の祖先から進化して地中生活に適応したアリは10年から100年以上生きると言われており、冬眠もしないので夏の間に食料を蓄えておく必要があるのです。日本でも290種類、世界では一万種もの蟻がおり、世界全体で合計2京匹が生息していて、そのバイオマス総量は炭素換算で1200万トンと野生の哺乳類(700万トン)や鳥類(200万トン)を上回り、土壌の撹拌や植物の種子運搬など生態系で重要な役割を担っています(Fig. 3)。かといってセミやキリギリスが地球上の生物相に不要な存在というわけではありません。それぞれに大事な生き物仲間たちなのです。

 人生を楽しんだイソップなら「働いて働き抜いて休みたいとか遊びたいとか思うたら、そん時は死ね!」などとは決して言わず、「君の人生は君自身のものだ。アリのように生きるのも、キリギリスのように生きるのも自由に選んでいいのだよ!」と優しく諭してくれると信じます。

Fig. 1 アリとキリギリスの寓話

Fig. 2 イソップとロドピスとサモス島

Fig. 3 日本全国に広く生息するトビイロシワアリと日本蜜蜂

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