長岡市医師会たより No.523 2023.10


もくじ

 表紙 「千曲川の秋(小諸辺り)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「閉院を迎え、今想う事」 小林眞紀子(小林真紀子レディース・クリニック)
 「ロシアかぜと富太郎」 江部佑輔(江部医院)
 「理乙時代」 齋藤良司
 「夜のピクニック≠フ真実」 佐伯牧彦(さえき内科)
 「ゴルフコンペ優勝はホンモノか」 風間治男(風間医院)
 「巻末エッセイ〜気が付けば八十路(下二)」 星 榮一



「千曲川の秋(小諸辺り)」  丸岡 稔(丸岡医院)


閉院を迎え、今想う事 小林眞紀子(小林真紀子レディース・クリニック)

 平成2年4月16日に開院し、33年5か月の歳月が流れました。開院当時、私は妊娠7か月でした。7月10日に娘を出産、娘が100日目になった時に父が他界。激動の一年でした。
 開院初日、患者さんは一人だけ。「患者さんが来られたら呼んでね!」と自宅で待っていても、夜まで呼ばれない日が続きました。1人の患者さんに看護師3人で点滴をして一日が終わるという状態。父が「今日はどうだった?」と毎日毎日聞くので「同じことを聴かないで!」と喧嘩をしたのも、今思い出してみると懐かしい思い出です。患者さんに来て頂くにはどうすればよいのか?と思考錯誤した末に思いついたのは、新聞にチラシを出すことでした。それも、何曜日にするのが効果的か?と悩んだ末に、日曜日に決めました。チラシを出した翌日はどんなに多くの人が来て下さるか?と非常に期待し、ドキドキして外来を開始致しましたが、3倍になっただけでした。3倍というと非常に多そうですが、たった3人です。
 そこで肝を据え、自分の出産が終わるまではゆったり過ごす事に決めました。
 7月10日に無事、娘を出産し8月1日から仕事を再開致しました。当院の最初の分娩は8月21日4050グラムの大きな赤ちゃんでした。初診時すでに妊娠7か月でした。ご本人は4人目の出産にて、とても落ち着いていられましたが、私は大きなお腹を見て無事経腟分娩が可能か?とても心配でした。彼女の退院時には、産まれた赤ちゃんを中心に、ご家族、スタッフみんなで記念撮影まで撮りました。彼女の御主人からは「まるでスターの様だ」と喜ばれました。
 当然の事ながら経営は苦しく、赤字続き。黒字に転じたのは開院3年目からでした。
 銀行からの多額の借金もあり、必死に働きました。加藤政美先生(厚生連柏崎総合医療センター)が当時県立十日町病院に勤務しておられ、「カイザー(帝王切開術)が必要になった時に、スタッフは対応できるのか?」と聞かれ、対応できないことに気づき、看護師と一緒に先生の勤務先の十日町まで何回も通いました。そして私もカイザーの術者を何回もさせていただきました。先生には感謝の気持ちでいっぱいです。
 平成16年6月30日の分娩を最後に出産の取り扱いを止めました。理由は、この期間の分娩数約6000件、母体死亡0だったからです。母体死亡は5000分の1と言われております。当クリニックでの母体死亡0はただただ運が良かったためと思っております。
 分娩の取り扱い中止の直前にカイザー後の脳梗塞が発生いたしました。たまたま後遺症無しで助かりました。救急車で長岡中央綜合病院に搬送させていただき後遺症なしで助かりました。後になって分かった事ですが、もともと脳に基礎疾患が有ったとの事でした。
 私は本当に運が良い人間だと思います。
 平成16年8月に「小林医院」から「小林真紀子レディース・クリニック」と名称変更し、婦人科として再スタートし現在に至っております。診療内容も思春期外来・更年期外来・妊娠・避妊・性感染症など幅広い分野に携わらせていただき、婦人科医としても、とても多くの経験をさせて頂きました。私を支えてくれたスタッフ、そしてわたしを信頼して受診して下さった患者様に感謝の気持ちでいっぱいです。ここまで続けてくることが出来たのは新潟大学産科婦人科学教室の田中憲一元教授、榎本隆之前教授、吉原弘祐現教授をはじめ医局の先生方、長岡赤十字病院、厚生連長岡中央綜合病院、立川綜合病院の先生方、長岡西病院の須藤先生、長岡市医師会の先生方、そしてJOY会の先生方のおかげと深く感謝致しております。また高桑好一先生(厚生連新潟医療センター)には10年間もの長きにわたり、指導医として一か月に一回、我がクリニックの外来診療を支えていただきました。おかげで、大きな見逃しも無く診療を継続できたと感謝の気持ちでいっぱいです。
 「夢の終わりは、新しい夢の始まり、そして夢は諦めなければ叶うもの」
 私の大好きな言葉です。
 人生には限りがあります。
 この先に何が待ち受けているか分かりませんが、いつも夢を持ち続けて生きていきたいと思っております。
 長い間、支えていただきまして本当にありがとうございました。
 (編集委員注:小林真紀子レディース・クリニックは令和5年8月30日付けで閉院されました。)

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ロシアかぜと富太郎 江部佑輔(江部医院)

 朝ドラ「らんまん」をご覧の方ならご存じのロシアの植物学者カール・ヨハン・マキシモビッチが8月第2週の放送で亡くなった。1891年の出来事です。ドラマでは、東京大学での研究を諦めざるを得なくなり、マキシモビッチの元へ留学を決心した槙野万太郎(牧野富太郎)のもとに、マキシモビッチの妻からの手紙が届き、そのことを知ります。死因は肺炎とのことでした。ただ、富太郎は「植物記」で、彼の死を流行性感冒(インフルエンザ)であったと記しています。さて釈迦に説法のような話ではありますが、このころまだ病原性微生物研究は始まったばかりです。1876年、ロベルト・コッホが感染症は病原性細菌により発症することを発見し、その後、1892年にイワノフスキーが細菌を通さないろ過器を使用して得られた液体でタバコモザイク病が感染することを突き止め、ウイルスの存在が示唆されます。ただし、ウイルスそのものを視覚的に確認できるようになるためには、1931年の電子顕微鏡の発明を待つ必要がありました。
 マキシモビッチが亡くなった1891年には、1889年ロシアに端を発したロシアかぜが世界中に広がっていたころです。のちの研究でこの感染症はインフルエンザのパンデミックだったと結論づけられました。しかし、さらに今世紀になり、このロシアかぜの研究が進みました。高齢者が高率に亡くなること、嗅覚障害や中枢神経症状など後遺症が残ることなど、まるで今のCOVID-19のような特徴があったことがわかりました。そして、2005年にウイルスの変異の周期からの推測と、当時のカルテなどの記録の解析から、このロシアかぜの原因が牛コロナウイルスを起源とするコロナウイルスOC-43であった可能性が高いという研究結果がデンマークの研究機関から発表されました。コロナウイルスOC-43はSARS-CoV2ウイルスが流行する以前から、風邪ウイルスの一つとしてよく確認されたもののひとつです。この研究が正しければ、19世紀末に流行したロシアかぜはコロナウイルスのパンデミックだったということです。
 ロシアかぜは1889年に流行が始まり、終息するまでに7年ほどかかっています。それからすると、今回のSARS-CoV2ウイルスによるCOVID-19の流行が落ち着くのもあと数年は必要なのかもしれません。
 富太郎の人生を大きく左右したのがコロナウイルスだったとすると、何か感慨深いものを感じます。ただ、彼はその後の人生において自身の信念を曲げず、日本の植物相研究の大きな礎を築き上げました。我々もこの3年、SARS-CoV2ウイルスに大きく振り回されてきました。そしてまだしばらくこのウイルスと付き合っていかなければいけません。しかし、そんなことに屈せず、人生の目標に向かった歩みを止めてはいけないのだと先人は教えてくれます。「植物記」に東京帝国大学で研究を始めたころの記載があります。当初は彼を快く研究室に受け入れてくれた植物学教室教授の矢田部のその後の掌を返したような仕打ちに理不尽さを感じながらも決して研究をあきらめませんでした。そして、富太郎はその後40年以上に渡り東京大学で研究を続け、植物学の歴史に大きな足跡を残します。
 富太郎に多大な影響を与えたマキシモビッチは1860年から4年ほど日本に滞在し、主に北海道中心に植物採取を行いましたが、長崎でシーボルトからも教えを受けています。シーボルトは医師であるとともに、大変な博物学者であり、日本の植物も多く採取し標本としていました。マキシモビッチはシーボルト没後にその標本を手に入れました。現在、サンクトペテルブルグの植物園にその標本はあるそうですが、今しばらくはお目にかることは困難な状況です。コロナ禍が明けるとともに、ウクライナの戦火が収まり平和が戻ることを心から祈ります。

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理乙時代 齋藤良司

 理乙(理学部乙)と言っても、もはや知らない人が殆どであろう。だが私にとってはあの2年間の理乙時代の諸々の経験は、今も繰り返し頭に浮かぶ忘れられない青春の一頁である。
 昭和29年、新潟大学理乙に合格した。意気揚々として新津の自宅から新潟までの汽車通学は快適で、もはや勉強などうわの空だった。
 しかし通学後しばらくして同級生達の様子が何か変だと気づいた。市外通学生の私にはどうしても情報の入りが遅い。その内の一つは独逸語の模擬試験が間もなく始まるという話だ。また模試か。模擬試験はうんざりだが仕方がない。2年後には独逸語が必修の医学部進学試験が控えているのだから。だが、皆を更に驚愕させたのは、来年からは理乙が無くなるという情報だ。新しい制度では、来年の新入学生は直接医学部医学科入学になるという。制度改革の話である。新制度では単位さえ取れば自動的に専門課程へ自動進級出来るとのことだ。しかも定員は70名という。今の理乙より10増えるとのことだ。
 ここで理学部乙制度について少し説明をしておこう。理乙とは医学部入学への予科であり、2年後医学部医学科へ合格出来なければ医師になれない。
 しかもこの試験が全国募集で、例年4〜5倍の競争になる。今年合格出来なければ来年から医学部の定員80名と今年の新入学生70名との差10名の枠を全国の応募生と争うことになる。今年失敗すれば現理乙生は永遠の医学部志望浪人生となる確率が極めて高くなる。震え上がった。今年入学の理乙生は全く踏んだり蹴ったりだ。
 私の場合合格には独逸語が問題であった。独逸語は不得手で、担当のN助教授も好きではなかった。最初の独逸語の出欠点呼の時に「君は何処の高校かね」と聞かれた。「新津高校です」と答えた。すると「あ!元の女学校ですね」と返ってきた。私は何か妙に惨めな気持になった。これは私の自尊心に触ったのかも知れない。独逸語の成績は散々だった。
 大変だ。お陰で待ちに待った大学1年目の夏休みは吹っ飛び、春休みも夢と消えた。結局、元の県庁(現在の新潟市庁舎)の脇にあった県立図書館へ毎日通い、独逸語の特訓をやらざるを得ない羽目になった。
 間もなく独逸語の模試も始まった。評価は10段階にグループ分けされ、毎回公表された。そして教官曰く「下位4段階以下の者は医学部を諦めよ、東大農学部へ推薦する」と申し渡された。
 ところが二年生になって妙なことが起こった。独逸語の講義で、N助教授は何を間違えたのか私に突然しかも頻回に独文解釈を当ててくるのだ。いつもは5〜6回の講義に1回当たるのが普通だった。時には「君、この?sich?は何格ですか」と来る。そのため私はその後毎日予習をして行かねばならなくなった。
 その内に私の模試の成績が不思議と下位3グループから上位3グループにまで徐々に上ってきた。この時漸くN助教授の真意と有難味が私に判ってきた。感謝、感激。
 そのお陰で何とか専門課程に滑り込みで合格した。嬉しかった。私はお酒を一本買って、同級生のO君を誘ってN先生のご自宅にお礼の挨拶に伺った。先生は囲炉裏端に胡坐姿で、頭を掻きかき、破顔一笑しながらも気持ち良く迎えて下さった。何を話したかは殆ど思い出せないが、丁寧に合格のお礼を述べ、早々に辞去した。
 私が無事医師になり、今日があるのは全くN先生のお陰だと今も信じている。
 なお私が初めて買った洋書は、LEHRBUCH DER INNEREN MEDIZIN VON LUDWIG HEILMYER(1957)の海賊版であった。今もその本は書棚の隅に鎮座している。その後も教室の抄読会では無意識に独逸語の論文を選んだ記憶がある。今もって独逸語は難物ながら不思議な魅力を私に感じさせる。
 
 新潟大学教授 野田先生を忍んで
 

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夜のピクニック≠フ真実 佐伯牧彦(さえき内科)

 20年ほど前でしょうか、私の出身高校(水戸一高)の歩く会≠モデルとして恩田陸が長編青春小説「夜のピクニック」を出版し本屋大賞を受賞。その後映画化もされ評判になりました(多部未華子主演)。キャッチコピーは「みんなで夜歩く。ただそれだけなのに、どうしてこんなに特別なんだろう」。映画はきれいな女子が出てきて素敵でしたが、実際はかなりMなイベントです。今回ぼん・じゅ〜るの原稿依頼がありましたので当時を思い出して書いてみたいと思います。
 まあ、一言でいえば戦前の行軍演習の名残でしょう。約70kmの道のりを同級生と夜を徹して歩く会です。お弁当が傷むので実施は11月頃だったかと思います(やや寒い)。コースは学校の辺りから出発して周辺市町村を回る周回コースと早朝の列車で遠くまでいってそこから一路学校をめざす片道コースの2種類5,6コースで、毎年コースを変えて楽しむ(?)わけです。朝から3食分のお弁当を背負って歩きます。1時間に1回小休止。食事は公園などで三々五々とります。夜通し歩いて学校まで後20kmくらいの地点まで行くと、予め借りた地元の学校の体育館に入れてもらいます。最後の食事を食べ終わるとそのままの格好で体育館の床で仮眠。朝5時に起こされると、荷物を全てトラックにのせて身軽になり、最期の自由行軍(学校まで20kmを走っても良し、歩いても良し)となります。
 さて、9月に入ると我が高校では、体育の授業は全部マラソン、コースは決まっていて堤防の上を往復4.5km(母校は65分授業だったので何とか帰ってこれる)。勿論武術(剣道・柔道)の時間もマラソン、担当の先生の都合で自習になった時間もマラソンになるので、1日1回平均週4,5回はマラソンをさせられます。それが11月中旬まで2ケ月半に渡って続くのです。これははっきり言って、辛かった。我が高校は、旧徳川家水戸藩のお城の跡に建っており、敷地は川面からは実に高低差30mほどの台地の上にあるため、疲れきったマラソンの最後にこの台地の急な坂を登らなければならないのです。
 私の学年は運が悪いようで、1年生2年生のときともに片道コースでしたが悪天候で中止となりました。マラソンは全く無駄になったことになります。そして3年の秋は周回コース、最後の機会に、ばかだった私は1回の歩く会で3回分の体験をするためには実行委員になるしかない、と考えたらしく立候補してクラスの実行委員になりました。
 朝水戸駅南側の公園で現地集合、1年1組を先頭に2列縦隊でノロノロと歩く会は始まりました。昼間はずっとダラダラ歩いて、夕方有名な大洗海岸まで来ました。私はおにぎりを一杯持って来過ぎてリュックが重く、その体で実行委員長の指示にしたがって、隊列維持目的にクラスの最前列へ最後列へと移動し、食事休止の度に人数把握の点呼をし、その人数分のOB差し入れ特製豚汁も手配したので、すでに少々ばて気味でした。でも夕食に熱い豚汁を食べたら、まだ歩けそうでした。
 ここからは海岸沿いを歩いて、原発で有名な東海村の中学校までひたすら平坦な道路が続きました。中学校に着いた前後から私の記憶はあやふやです。疲れていたからでしょう、働いていたはずですが……。朝5時に起こされて、しぶしぶ走り出しました。先頭には1位をねらう各運動部の体力自慢たちが、一部は短パンですごい勢いで走っていきました。まだ暗い東海村の国道の脇を、全身クリーム色の運動着をきた1000人近い高校生が静かに走っていく様は、はっきりいって不気味でした。後からよその高校の友達に聞いたところによると、朝トイレに行ったときにたまたま窓からこの光景をみて、あまりに幻想的だったのでしばらく見とれていたとか……。その次覚えているのは、自由行軍の途中、ふと眼が覚めたらクラスの女子に抜かれそうになっている私です。必死に走ったのを記憶しています。その直後、1位の人が学校に到着したことを知らせる花火、これは吃驚、がくっときました。だって私の前にはまだ自由歩行の半分の10kmも残っているのですから。クラスの女子にはあっさり抜かれました。
 そこから先は、もっとよく憶えていません。歩いていてたまに走ったかもしれませんが、気がついたら学校のふもとに着いていて、だらだらと急な坂を上がり、学校の門で完走900人中5百何十位かの証明書を貰い、荷物を探して逐次解散だったように記憶しています。自由行軍に4時間半もかかって、もう日はすっかり高くて10時過ぎだったでしょうか。
 憶えているのは、帰りのバス(日曜の午前中の乗り合いバス)で、何度かバスの窓でしこたま頭をうったことと、もう少しで降りるべきバス停乗り過ごすところだったことです。何とか直前で起き、やっと降り、そこまで父親に迎えに来てもらいました。帰宅後は泥のように寝ました。
 問題は、こんな会なのに……何故か経験した現役そしてOBは、この会はよい、この会は思い出深い、この会は是非存続すべきだ、といいます。nを大きくしてもその意見が大半をしめるのは何故なんでしょう。私には解りません。母校の職員・OBはおろか、警察・近隣市町村の公立学校関係者まで巻き込んだ大変人騒がせな会であることだけは確かです。もしかしたら、僕は辛かったと言いたくないがための意地かも。でも、理由はいいんです、兎に角私は1回は完走しました。終り。
 
 P.S. そういえば、各クラスは自分のクラスの番号(1年1組だったら11組)と、そのクラスのモットーを書いたのぼりを各クラスの先頭に掲げてましたね。あれは誰が書いたのでしょう。誰が持っていたのでしょう、今となってはそれもわかりません。すみません。終り。
 

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ゴルフコンペ優勝はホンモノか 風間治男(風間医院)

 9月10日長岡市医師会ゴルフコンペが長岡C・Cで開催されました。厳しい残暑のなか一人の脱落者もなく全員無事にホールアウトしました。
 私はゴルフ狂ではありませんがゴルフはとても愉快です。広い大きなフィールドに小さなボール。このスケール感のなさ、好きです。球技として一人当りの占有面積が一番大きい(たぶん)、大のオトナが雨ニモ負ケズはしゃぎまわってプレーする、嫌いじゃありません。雨合羽を着てまでも熱中するこの姿勢? 林に打ち込んだボールを探す、満更でもありません。トレジャーハンターとはいいませんが、見つけたときのボールに対する無償の愛。
 ゴルフは健康に良いでしょうか? よく循環器のドクターがゴルフ程度のスポーツは良いでしょうと仰いますが、今や時短の時代。コース内にカートを乗り入れボールの近くまでプレーヤーを連れていく。歩きません。そのうちポロの様にカートに乗ったままで打つのでは。
 さてコンペです。私、T辺先生、S木先生の酉年トリオで、トリではなく1組目のスタートとなりました。前半の東コースは多叩きすることもなく平和に廻り、後半の西コースです。西4番ロングホールで2打目がコース中央のバンカーに掴まり、バンカーショットがOBとなりグダグダの11打と多叩きです。この西の4番こそK嶋先生伝説のホールです。ティショットがこのバンカーに入ったとか。御本人に伺ったところ事実とのこと、すごい?
 この様に11打の多叩きにもかかわらず優勝できたのはダブルペリアというハンディの御陰です。よって私の優勝は抽選会での当りの様なものであり実力とはほど遠いものでした。
 
 ●長岡市医師会会員ゴルフ大会
 令和5年9月10日?
 長岡カントリー倶楽部
 優勝:風間治男
 準優勝:田島健三
 3位:河路洋一
 4位:川嶋禎之
 5位:青柳竜治
 6位:田中 弘
 7位:渡辺修一
 8位:田辺一彦
 9位:鈴木俊太郎
 10位:大塚武司
 11位:荒井義彦
 12位:吉田正弘
 13位:立川 浩
 14位:田村隆美

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巻末エッセイ〜気が付けば八十路(下二) 星 榮一

 新潟大学整形外科内形成外科では、昭和五十四・五年は整形外科入局の新人が、形成外科の外来診療や入院患者の受け持ちを手伝ってくれた。昭和五十五年に大谷和雄君(新大五一卒)が形成外科に入局し、昭和五十七年には藤田祐子君(新大五七卒)、昭和五十八年には西巻啓子君(新大五八卒)、昭和五十九年には梶川明義・碇千恵子君(新大五九卒)が入局してくれて徐々にスタッフが充実してきた。

 昭和六十二年に附属病院外来棟の改修が行われ、中央検査部の旧細菌検査室だった場所が形成外科外来となり、診察室二室、処置室、外来手術室が新設され、漸く自分たちの城が出来た。

 昭和五十四年に聖マリアンナ医大から新潟大学に戻り、十六年目の平成七年の秋に、平成八年度に新潟大学の形成外科が国立大学として十二番目に新設される事が本決まりとなった。

 形成外科研究室は、平成八年三月に中央検査部より四十六平方メートルを割譲していただき、五月二日に引越しすることができた。

 平成八年六月二十五日の教授会で柴田実君(新大五一卒)が、新潟大学形成外科初代教授に決まった。

 その後の身の振り方ですが、昭和五十六年から毎月お世話になっていた長岡中央綜合病院にお世話になるのが一番良いのではないかと考え、杉山一教院長の御理解を得て、吉川哲哉君(新大平成三卒)と二人で、平成八年十月一日に赴任した。

 当時僕は五十八歳で、長岡に骨を埋めるつもりで赴任した。僕の郷里は会津若松で、長岡とは浅からざる縁があった。

 中央病院では、出来るだけ早く形成外科診療を軌道にのせ、中越・上越地方の形成外科の拠点病院とすることでした。小児の形成外科診療を行う上では、育成医療の施設認定を受けることが必須ですが、難無く年内に許可がおりた。

 形成外科の入院病棟は、小児と女子は産婦人科病棟に、男性は外科病棟に入院させていただいた。外来は整形外科外来と薬局の間のスペースで、ここはリハビリが金曜日の午前に使用しているので、金曜日の形成外来診療は午後に行った。全身麻酔の手術は火曜日に、局所麻酔の手術は木曜と金曜日の午前に行った。

 平成十七年十月より新築された新病院に移り、形成外科外来も、形成外科病棟も、形成外科手術室も、自分達の物が出来た。設計の段階から自分たちの希望が入った建物なので、使いやすくなった。

 中央病院では吉川君と二人で大体のことはこなせた。私共が得意としている漏斗胸手術は年に二十例以上も行い、平成二十五年に引退するまでに四百八十例も経験することができた(新潟大学以来の総計)。鳩胸は漏斗胸の一割の頻度なので約五十例の手術を経験した。鳩胸は漏斗胸よりも矯正し易い。

 中央病院で良かったことは、漏斗胸手術後の経過観察で、術後半年・一年・二年目にCT撮影をしますが、大学病院では撮影予約をして帰宅し、改めて来院しなければならないが、中央病院では当日に撮影してもらえるので、患者さんにとっても我々にとっても好都合であった。

 平成八年に長岡中央綜合病院に赴任して十七年、平成二十五年三月に七十五歳で病院を退職した。昭和四十七年八月に新潟大学で形成外科診療を始めて四十一年間の形成外科医生活を終了した。

平成17年 移転新築

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