長岡市医師会たより No.524 2023.11


もくじ

 表紙絵 「いつも一人で」〔1967・F100〕 丸山正三
 「犬にまつわる話」 木村嶺子(木村医院)
 「まだ走っているの?」 阿部博史(立川綜合病院)
 「二人の師匠」 谷 由子(長岡赤十字病院)
 「少年老い易く(その3)」 三宅 仁(悠遊健康村病院)
 「蛍の瓦版〜その79」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「丸山正三生誕110年記念展に寄せて」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「巻末エッセイ〜クマにあったら〜柿の木の下で〜」 郡司哲己
 「丸山正三生誕110年記念展2023



「いつも一人で」〔1967・F100〕 丸山正三


犬にまつわる話 木村嶺子(木村医院)

 7月末日に、長岡技大留学生だった彼が、十数年振りにマレーシアから家族5人で、我が家を訪問してくれました。玄関に入るなり彼の一声は「犬いる??コトは吠えない?」でした。彼は15年前に長岡に腰を落ちつけた直後の数カ月間、我が家に泊っていました。その折、半日程彼に犬の世話をお願いしました。エサやりと飲み水の交換でしたが、イスラム教徒の彼にとっては犬は怖くて相性の悪い、苦手な動物だったのです。
 そんな強い印象を残していたコトですが、1年前に、16才10カ月で旅立ってしまいました。コトが我が家に来たのは、生後2カ月めで、両手に乗る程に小さい可愛いミニチュアダックスフンドの雌犬でした。初冬のその日の午後は、亡くなった母のお壇が片付けられた日であり、まるで母と交代してやって来たかのようでした。冬の間は、室内での排泄の躾が主でしたから私が世話をしていました。春の到来と共に散歩デビューを迎えました。当時は二人ぐらしでしたので、朝食の準備と犬の散歩を手分けでやらなければ仕事に支障をきたします。熟慮の末、夫は犬の散歩を選びました。それが始まりで、それ以降亡くなるまでずっとコトの世話をしたのは夫でした。お客様が来ると、夫の隣にはいつもコトが座っていて、お帰りの際には抱っこされたコトも一緒に玄関先までお見送りが定番でした。
 人づてにペットと一緒に泊まれるホテルがあるのを知ったので、二回利用しました。一回めは、生後4〜5カ月の頃、ケージを持参して福島まで行きましたが、連泊成功でした。二回めは、2才の頃で物事がわかる成犬になっていたので、他の犬の泊った後の臭いがする部屋はイヤだと、一晩中クンクンと鳴き、その世話で夫は眠れない夜を過ごしました。この経験から、夫はそれ以後外泊することなく、コトと共に留守番にまわり私だけが旅をさせてもらっていました。
 私が台所で野菜をきざみ始めると、それまでソファーでまったりと寝ていたのに疾風の如く足元に寄って来て、「コトにそれを頂戴」と催促していました。野菜好きの犬なんて珍しいとよく言われましたが、中でも茹でキャベツが大好きでした。犬も飼い主に似るのかしらと思ってしまいました。
 また5年前、夫は脊椎圧迫骨折で、整形外科医から前かがみはしない事と重い物は持ってはならないと注意を受けていました。毎日の散歩では5kgの犬を抱いたり、洗面所での足洗いとブラッシングも中止する事は出来ず夫の代理を私がつとめる事になりました。数日間は、私に従ってくれたのでしたが、5日めになったら「お父さんのやり方と違うので、もうがまん出来ん?」と猛烈な抗議に出て大声で吠えまくり私に噛みつく様に威嚇して来ました。おとなしい犬の変わり様には私も怖くなって急遽診療中の夫を呼びに走り、足洗いの続きをやってもらいました。その日から再び重さ5kgを前かがみで持ちあげたり、おろしたりしていた事実を主治医が知ったら、さぞかし怒られた事でしょう。
 犬との生活では色々な事が体験出来ましたが、大きく変わった事の一つは夫の気配りでした。我が子を育てていた時は熱を出しても、ケガをしても知らん顔でしたのに、コトに関しては、どこか悪いらしいとなればすぐに病院に連れて行きました。動物病院の先生の態度が気に入らんとの理由で、やさしく診察してくれた与板の先生に出会うまでに2回も獣医さんを変えた程です。与板への受診には、私の運転する後部座席に車酔いをするコトに励ましの言葉がけをしながら抱いて座っていました。もう一つは規則正しい散歩です。早寝早起きをして歩く習慣が出来たことと、犬友だちとの出会いで会話が弾み人とのつながりが豊かになって行った事もあるかと思います。
 初盆の今年、命日の7月23日にはお寺様が小さい「塔婆」を持参してお仏壇に納まっている骨箱の隣に立てかけてお経をあげて下さいました。卒塔婆には「南無妙法蓮華経為愛犬コト之霊第一周忌如是蓄生頓生菩提」と明記されており人間と同じような扱いです。私の中には、姿のない今でもコトはソファーの上で留守番をしてくれています。
 夫の作った句を載せておしまいにします。
 
 過ぎし日にコトと歩いた散歩道
  たったひとりで歩く空しさ

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まだ走っているの? 阿部博史(立川綜合病院)

 まだ走っているの?と聞かれる歳になって来ましたので、この原稿依頼を機に自分のラン歴史≠振り返って見ようか思います。
 1982年に大学を卒業し脳神経外科に入局後、先輩の元新潟市民病院院長小池哲雄先生(東医体800m優勝)に誘われ、学生時代はサッカー部で走ることも嫌いでなかったので走り始めました。
 入局3年目に佐渡総合病院に出張(この年に脳神経外科がスタート)し、週末ごとに走りつないで佐渡を1周しました。更に佐渡ではナース休憩室に忍び込んだ窃盗犯(10代)を1kmほど追いかけて捕まえ警察から金一封3000円をいただきました。なんとその数日後に犯人の弟が両津病院で捕まりました。
 フルマラソンを初めて走ったのは入局5年目で新潟マラソンでした。当時は五十嵐の新潟大学スタートでシーサイドラインを角田の方に向かって折り返す起伏のあるコースで4時間制限。最後はヘロヘロになりコース脇にあった飲み残しのコーヒー缶に救われ何とかゴールしました。
 アメリカに留学した際には、週末ごとに地元のレースに出ました。大体朝7時のスタートで当日参加費を払えば年齢を問わず誰でも参加OK。ゴール後の果物やクッキーなどは安くて豊富でそれも楽しみの一つでした。当時小学2年だった息子も頑張ってハーフマラソンを走り、その歳で走る子は少なかったので州の記録に残りました。しかし息子は今や自分の子が小学3年ですが走る気は全くないようです。留学中いろいろなマラソン大会に参加しましたがボストンマラソン(当時は瀬古選手が活躍)にも参加できたのはいい思い出です。帰国後医局長に参加レースの一覧を見せたところおまえは走りに行ったのか≠ニ少々呆れられたことを覚えています。
 走っていると大体長い距離に挑戦したくなるもので、1998年に第1回のえちご・くびき野100Kに参加しました。これは2年ごとのレースで、昨年2022年まで連続参加しゴールドゼッケンをもらいました。また山を駆け上がるレースとして富士登山競走(富士吉田市役所スタート富士山頂ゴール21K、標高差3000m、制限時間4時間半)にも参加し、今までに2回完走しました。
 2004年から初期研修医制度が始まりましたが、その秋に中越地震を経験し、翌年2005年に復興祈願を兼ねて研修医全員で24時間リレーマラソンに参加しました。毎年中村杯(10Kレース)を主催されていた中村敬彦先生にもご参加いただきました。自分は彼らとは別に24時間個人レースに参加。寝ずに走る自分に休んでいる研修医らは温かい?応援をくれました。翌年から研修医全員での24時間マラソン参加は毎年の恒例行事となりました。2010年には学生時代にマラソンを3時間以内(サブ3はマラソンランナーの憧れで自分は3時間2分がベスト)で走った陸上部上がりの3人の研修医がたまたま入ってきて、当時53歳の自分に挑戦したいと一緒に24時間個人レースに参加。しかし結果は、年寄りのひたひた走りが、若者のストライド走法を上回った形でした。ストライド走法は筋肉への負担が大きく脚を大きく腫らした一人のCK値は>20000を示し、さすがに焦って腎臓内科の青柳先生にお聞きしたことを思い出します。その恒例行事も全員強要や??ハラはアウトとともに2011年で終わりを告げました。
 ウルトラマラソンも長い距離のものがあり、佐渡一周206Kレースや、小江戸・大江戸200Kレースにも参加しました。小江戸・大江戸レースは川越をスタートし荒川に沿って北上し戻って来て、その後南に下って東京都内の名所を回って戻って来る1日半のレースです。主催のNPO法人の会長は元医師会長太田裕先生のお兄様で、いつも真っ黒で今でも走っておられます。毎年お会いしては元気をいただいています。
 2010年頃から山を走るトレイルレースが日本でも拡がり始め参加するようになりました。通常のロードレースと違い足腰への負担が大きく、悪天候の時は滑って登れず転倒も必至。2015年には山頂付近で大きく転倒。ポールも折れ、何十回も転げながら痛みをこらえて漸く800mを下山し何とか車を運転して帰宅。結局腓骨を骨折しており数日後に手術。じっとしていなかったので整形外科の先生達には呆れられましたが、松葉杖でより速く移動できることを体験しました。
 今も100K,100マイルのトレイルレースにも参加していますが、やはり老いには勝てません。年々遅くなっています。100マイルレースでは累積標高は7000−8000mくらいですから富士山を麓から山頂まで2回登り降りするほどの標高になります。当然プロ選手もいますが、年寄りの市民ランナーはその倍の時間を要し、この4月の富士山100マイルレースは何とか43時間(45時間制限)で完走しました。その間の仮眠は15分程度。眠さとの戦いでした。登りは根性で何とか踏ん張るも、下りは腰が引けて容易に尻餅。それに比べ若い女子はいとも簡単にバランスよくぴょんぴょん下り、情けなくなるばかりでした。
 最後に、今は85歳になった患者さんでまだ現役のランナーの人が以前教えてくれました。何歳から走り始めても初めの10年は速くなり、次の10年はそれを維持し、その後はさすがに遅くなると。ランニングはいつから始めても20年は速いままでいられると言うことです。でもこれはランニングに限ったことでないように思われます。何歳からでも始めれば成長するということです。どうぞ皆さんも年齢を気にせず好きなことを始めて見て下さい。
 自分はもうとっくにとっくに下り坂です。それでも抗うように何とか踏ん張っているこの頃です。はい、まだ走っています!

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二人の師匠 谷 由子(長岡赤十字病院)

 長岡赤十字病院放射線診断科の谷由子です。旧姓の松月(まつづき)の頃から医師会の先生方にはお世話になっております。神奈川県三浦市出身で長岡には何の縁もありませんが、新潟大学を平成3年に卒業後、医師としての大半の時間を長岡で過ごしてまいりました。初めは卒後3年目、福住にあった長岡中央綜合病院での勤務でした。入局した頃、新潟大学放射線医学教室には「3人の怪物」がいるといわれており、どなたも常人離れし、才能にあふれ、故に大変近寄りがたい大先輩でしたが、その一人が同院の放射線科部長をされていた原敬治先生でした。ある年齢以上の先生方には、強い印象とともにご記憶の方も多いと思います。
 本来、私はその前年度に同院に勤務予定だったのですが、原先生の「女医は嫌だ」と、今なら許されない理由で拒絶され、1年遅れでようやく私を受け入れたと勤務初日に「俺が間違っていた」の言葉とともにご本人から伺いました。直観的で好き嫌いが明確な方でしたが、幸運にも私はすんなり受け入れていただいたようでした。
 原先生は、診断レポートの常套句「〜と思われます」が大嫌い、画像所見を説明しようとすると「診断は?」と早々に遮る、「10分前に聞いたことも10年前から知っていた顔で話せ」と3年目の私に平気で言う、そんな指導医でした。大学に戻った私は検討会で「結論から言うな」と注意され、日赤に赴任後は外科の先生に「最近放射線科のレポートが断定的なんだけど…」と首を傾げられ、完全に影響されていました。
 「お前は画像診断医か臨床放射線科医か」ともよく問われ、後者であれとの意味と解釈しました。私は「画像診断」が大好きですが、同時に患者背景、検査に至るまでの経緯、自分の診断が及ぼした影響、その後の経過が気になります。当時原先生から1冊のノートを渡され、気になった症例を記録し経過を確認すること、それが私の一番大事な仕事だと指導されました。「あの症例はどうなった?」とよく聞かれるプレッシャーもあり、電カルもない時代、各科医師に聞く、外来・病棟にカルテを見に行く、の繰り返しでした。今でも、自分が診断した症例の「前」と「後」を確認するのが私のルーティンです。
 原先生はフィルムの中央管理に反対の立場でした。フィルムレスの時代の方々のため補足すると、当時画像は「フィルム」で見るしかなく、その保管場所が重要でした。大学は早々に放射線科での中央管理を行い各科に貸出すスタイルでしたが、原先生はこれに大反対だったそうです。理由は、中央管理になると各科の医師が自分で画像を見なくなるから。見たいときに手軽に画像を見られる状況がいかに大切か、今なら当たり前のことを当時は周囲に煙たがられながら主張していました。ご自身は圧倒的な読影力をお持ちでしたが、画像は多くの人の目で見るべき、担当医が主体的に診断すべきというお考えでした。
 「要精検となった患者が次の検査を待つ間の精神的負担に思いを寄せるように。眠れないほど気に病む人もいる。」とも言われていました。安易な診断はしない、自分の診断が診療に活かされるように、あいまいな言葉でお茶を濁さず、自信をもって表現する、そのための覚悟を持って励むこと、そして失敗から学ぶこと。注腸検査の読影で1日に3件も大腸癌を見落としたことがあり、全て原先生に指摘され事なきを得ましたが、どのような画像だったか今でも記憶しています。この病院での1年間で私の医師としての方向性が決まりました。
 もう一人の師匠は、私の入局時の医局長、小田純一先生です。呼吸器を専門とされ、大学で胸部班に属していた私の直属の上司でした。その頃の新潟市の肺癌検診は、間接読影から二次精検まで原則として全て新潟大学放射線科胸部班が担当するシステムで、小田先生はその中心的立場でした。間接読影、比較読影、保健所での直接撮影を経て最終的な要精検となり、二次精検も原則として新潟大学放射線科検診外来の受診を推奨し、CT、気管支鏡やCT下生検、その後の経過観察まで検診外来で行っていました。私は間接読影から保健所での比較読影、直接撮影の読影まで小田先生のダブルチェックを受けていました。後で伺ったところ、私の未熟な読影に呆れながら、どう間違ったか体験することがためになると、まずは口出しせずよいタイミングで修正する、という絶妙な指導をされていたようです。自分が有所見とした症例の最終結果を直接見ることができる状況におかれた数年間が、今の私の胸部診断を支えているものと思っております。
 残念ながら小田先生は癌により闘病の末亡くなられてしまいました。最後にいただいた年賀状のコメントに「なんとか生きています」。先生が会いたくないのでは、と勝手に判断してお見舞いに伺うこともせず、ご存命中にお礼の言葉も伝えられませんでした。毎年、長岡市胸部検診の読影をしながら思います。先生、おかげさまで何とかまともになりました。いただいたご恩は後輩に返さねばと思ってきましたが、うまくできているでしょうか。
 寄稿の内容は問わないとのことでしたので、最初で最後のつもりで普段はできない昔話をさせていただきました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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少年老い易く(その3) 三宅 仁(悠遊健康村病院)

 3 イヨウデンシ

 東京大学医学部医用電子研究施設の初代施設長は大島正光先生である。人間工学の泰斗であり、「疲労の研究」で有名である。人間工学は欧米のergonomicsやhuman factorsの訳とされており、文字通り、労働学がベースであり、現在の産業医学の基礎である。大島先生の後年はまさに人間を工学するという学問分野にまで発展させた。前任の航空医学実験隊長時代はジェット戦闘機パイロットのさまざまな生理的反応を調べられ、それは現在の宇宙医学へ繋がっている。すなわち、極限環境下の労働(通常の労働でも暑熱環境、騒音環境、振動環境、飢餓環境などさまざまな極限状態がある)では、それに適応することは疲労を含めて重要な生体反応である(例えば熱中症)。
 お隣の講座の古川俊之教授は医学者というより数学者であり、いわゆる統計学や数学モデルの医療応用のエキスパートであった。COVID-19でおなじみのコンパートメントモデルなどは当時盛んに議論されており、初心者の筆者にはちんぷんかんぷんであったが、今では西浦博京大教授のモデルはむしろ古くさく感じるのはそのお蔭かもしれない。ただ、まだベイズ統計はほとんど議論されておらず、多変量解析を用いて博士論文を書いた身には急速な医学応用に目を見張るばかりである。
 もうひとつの講座の齋藤正男教授は電気工学(当時、電子工学は最先端であった。医用電子も当然最先端)の泰斗でME技士の誕生に多大な貢献をされた。因みに長岡技術科学大学初代学長の川上正光先生が「電子回路」という言葉を初めて使われた。
 毎週土曜日朝のコロキウムと称するカンファランスではこの3講座に所属する大学院生・研究生約30人程度が入れ替わりそれぞれの研究成果を発表され、とても刺激的であった。特に工学系の生体(生物)に対する考え方は医学教育の範疇では習わない形態と機能のより深い関係(次元解析やバイオミメティックスなど)や非線形現象の取り扱い、原因と結果の考え方(特に統計、関数としての説明変数や評価関数など)等々は大変新鮮であった。
 渥美先生の後輩に当たる桜井靖久先生(東京女子医科大学医用工学施設長)は、バイオマテリアル(英語も同じ)やDDSという概念を発明された。
 渥美先生の医学部の同級生で工学部教授となられた石井威望先生もまさに異才であろう。50年前すでに自動車の自動運転ができており、これをトラックに応用してトレイン走行させるのだという説明であった。それ自体は理解できたが、この技術を医学にどの様に応用するかについてはとてもついてはいけなかった。
 医学以外では日本機械学会会長も歴任された早稲田大学の土屋喜一教授も忘れられない。新潟県人として大変お世話になった(なっている)方である。すなわち、先生の発明された流体素子は上越新幹線の融雪装置に応用され、定時運行を可能とした。渥美先生はこの流体素子を人工心臓弁に使おうとされ、失敗に終わったが、これが縁となり、土屋先生はもちろん、そのお弟子さんが多数、人工心臓のみならずその他の人工臓器や生体応用装置、福祉機器などの研究開発に参入されることとなった。また、同大には鉄腕アトムならぬ本物のロボット研究の第一人者であった加藤一郎先生のお弟子さんも多数おられ、現在でも多くの研究者がヒト型ロボットのみならず、人工義手や内視鏡ロボットなどの研究に従事されている。東京女子医大と地理的にも近く、桜井先生と土屋先生のお弟子さんたちが共同で設立した「東京女子医科大学・早稲田大学 連携先端生命医科学研究教育施設」、通称「TWIns(ツインズ)」は有名であろう。
 海外の研究者としては人工臓器の父と呼ばれるUtah大学のWillem J.Kolff博士(前回参照)は格別の存在である。オランダ出身で人工腎臓(血液透析)を最初に臨床応用された方であり、米国に招聘されてからは人工心臓に重点を置かれた。同大のデブリース博士が世界初の永久使用を目的に臨床応用を行ったことはまだ記憶に新しいのではないだろうか。それに先立つ動物実験で世界初となったのは名古屋大学出身の阿久津哲造先生であり、後にテルモ社長となり、さらに女子医大出身の野尻知里先生に引き継がれたが、残念ながら野尻先生は早世された。クリーブランドハートクリニックで名を馳せた北大出身の能勢之彦先生も人工心臓研究者三羽ガラスのおひとりである。人工心臓の話は尽きないのでこれくらいにしておくが、渥美先生が夢見た人工心臓は完全埋め込み型のエネルギー源も含めてメンテナンスフリーのものであり、これはまだまだ多くの研究者の夢である(現在は移植に頼るドナー心を再生医療として創ってしまうというアプローチもある。これも言葉の上では人工心臓。人造臓器という表現もあろう)。
 いずれにせよ、多くの著名の(故人となられた)先生方の謦咳に接し得たのは生涯の宝となった。(続く)

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蛍の瓦版〜その79 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 HPVワクチンのキャッチアップ接種

 1.初めに

 今年の4月より子宮頸がんの原因となるHPV(ヒトパピローマウイルス)ワクチンのキャッチアップ接種が開始されました。キャッチアップとは追いつくという意味で、HPVワクチンの接種機会を逃した方を対象に、従来の定期接種の対象年齢を超えて接種を実施する制度です。

 2.HPウイルスと子宮頸がん

 子宮頸がんはHPウイルスが子宮頸部に持続的に感染することで異形成を生じた後、浸潤がんに進行することが明らかになっています。5年生存率は75%近くあり、早期に診断されれば生命予後は比較的良好です。しかし子宮頚がんは比較的若い世代に発症することが特徴で、30歳代後半に発症のピークがあり、毎年わが国では1.1万人の方が新たに罹患されています。このうち約3千人の方が死亡され、25歳から40歳の女性のガン死亡では乳がんに次ぐ第二位を占めています。育児中の母親世代が亡くなることからマザーキラー≠ニも呼ばれ、がん治療のために30歳代までに妊孕性を失う方も年間千人います。また前がん病変のために年間1.3万件の子宮円錐切除術が行われていますが、この処置によって流早産のリスクは高まります。

 3.我が国におけるHPVワクチン

 ヒトパピローマウイルスは100種類以上の型がありその一部が、がん化に関与することが分かっています。腫瘍原性のHPウイルスが同定されるとワクチン開発が始まり、平成18年にはFDA(アメリカ食品医薬品局)が16/18型に対する2価ワクチンを認証しています。
 わが国でもHPVワクチンは平成21年に接種が開始され、翌22年にはワクチン接種緊急促進事業≠フ対象としてHibワクチンや小児肺炎球菌ワクチンとともに、公費助成が進められました。さらに平成25年4月には予防接種法に基づく定期接種に位置付けられ、市町村からは個別に積極的な接種勧奨が行なわれ、保護者には接種を受けさせる努力義務が果たされました。
 しかし、その直後から副作用について一部マスコミの過剰反応や不適切な副作用報告に加え、丁度その頃に一般的に普及したSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)等によって様々な情報が錯綜拡散し、国内での反ワクチン運動が高まりました。その声に押されるように厚労省は早くも定期接種開始の2か月後の6月には、ワクチン接種について積極的には勧めない旨の公示を出しています。そのためその後のわが国におけるHPVワクチン接種率は0.3%前後と低迷を続けていました。
 この間にも世界では接種が進められ、その効果と副作用に関する知見が積み重ねられました。平成25年にはWHO(世界保健機関)から日本発の副作用報告は日本特有のものであることが指摘され、さらに27年には名指しで接種の差し控えは不当であると非難されました。同時に日本医師会や日本医学会等の関係学会からもワクチン接種の推進が提言され、医療界のみならず世論を巻き込んだ動きとなってきました。そして令和3年12月になってやっと厚労省は積極的接種の再開を決定しました。

 4.キャッチアップ接種

 国がワクチン接種を勧奨しなかった間にワクチンの定期接種の対象である小学校6年生から高校1年生であった方々(平成9年度から18年度生まれ)が、キャッチアップ接種の対象です。この制度は定期接種と同様に全額公費負担のうえ副作用救済も充実していますが、令和7年3月で終了予定です。HPVワクチンは3種類あり接種のスケジュールは若干異なりますが、いずれも3回の接種完了には半年近くが必要です。そのため対象者には早めの接種開始を勧めて頂きたくお願いします。
 HPウイルスは性交によって感染するのでワクチン接種は性交経験前が理想的ですが、大半の感染ではウイルスは排除され自然消褪するため経験後でも一定の効果は期待できます。

 5.最後に

 ワクチンは持続感染となったウイルスの排除や病変の進行を止めるものではなく、ワクチンの効果が無い型のウイルスもあり、接種によって子宮がん検診を省略できるものではありません。
 我が国では女性の子宮頸がんが注目されていますが、男女の中咽頭がんや肛門周囲のがんの原因でもあり、子宮頸がん同様に予防可能です。性交行為を媒介に感染が伝播されることからも男女共に思春期前のワクチン接種が望ましく、一部の国では既に始まっています。また16歳以下の若年層では少ない接種回数でも高い効果が認められていることから、早めの接種が推奨されています。胃がん撲滅のためにピロリ菌除去を行うように、予防可能な若年発症のがんを予防してゆきましょう。
 
 キャッチアップ接種の開始期限は1年をきりました。平成9年度から18年度生まれの貴女が対象です。

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丸山正三生誕110年記念展に寄せて 丸岡 稔(丸岡医院)

 医師会館のロビーに、丸山正三先生の大きな絵が3枚飾られています。
 医師と画家、二つのワークを全うされた丸山先生の、3000点に及ぶ作品を後世に遺すべく、先生のご生前から、有志が中心となって作品の収蔵と展示館の設立を模索していました。幸いに長岡造形大学の敷地の提供を受け、長岡市内外の多くの賛同者を得て、今から10年前に「M?Ro?の杜」が誕生しました。広いキャンパスの一角、モリアオガエルの住むビオトープを控えた展示館です。太田 裕先生が、当時会長であった長岡市医師会も大きな力になって下さいました。
 丸山先生は、お元気で満100才の誕生日を迎えた翌月、制作中に発症した肺炎で、「M?Ro?の杜」の完成を目前にして急逝されました。
 先生のアトリエには、二つの大きなイーゼルに描きかけの大作の下絵が遺されました。
 丸山先生の100年の生涯に於ける画業は、初期のハルビンシリーズから壁派、アメリカ黒人シリーズそしてヨーロッパシリーズと、四つの大きな変遷が見られますが、先生はこの変遷のきっかけを、「そのテーマを描き尽くして、もう昨日の自分を模倣するだけになった時だ。」と言っておられます。まさに先生の生き方を伺わせる言葉で、會津八一の「学規」にある「日々新面目あるべし」に通ずるものがあります。
 先生は人生観のようなものをご自分から話すことは殆ど無かったのですが、ある時、先生の大学時代の恩師である平澤 興先生の文を見せてもらったことがあります。
 丸山先生は、昭和13年に新潟医大を卒業され、「十三年会」という同期の会を作り、折々に記念誌を発行していましたが、編集と装丁は専ら丸山先生の担当でした。
 卒業五十周年記念誌は、「風花片々」という表題の美しい立派な本で、この巻頭に平澤 興先生の文章が載っていたのです。90才の師から75才の教え子に送った言葉です。
 その一部を紹介いたします。
 「この歳になってしみじみ私が感謝していることが三つある。その一つはよくも人間に生まれて来たということであり、その二は、そのお陰で知能的に無限の可能性を与えられているということであり、その三は、数十兆の細胞からなる複雑なからだでありながら、今日も健康を恵まれているということである。」
 「進化論はこともなげに単細胞から人間に至るまでの経過を語るが、その元の元の隠れた力を我々は知らないのである。」
 「研究が深くなればなる程、一方では知識は増すが、他方ではそれ以上に不明のことが多くなり、研究が深くなる程、最後の真理がいよいよ遠いことを知り、自然に頭も低くなるのである。」
 「この歳になってしみじみ感じることは、世に平凡などと言うことは何一つなく、平凡に見えるのは、ものの見方が粗末だからと感じている。こんな気持で生きていると、日々まるで幼き日の童子のような心で毎日興味を持って楽しく生きている。」
 丸山先生の100才に至るまで、あの瑞々しい感性と美しい作品を描き続けられた理由が分かったような気がしました。
 丸山先生は「ピカソやマチスと同時代に生きられたことは幸せであった」と仰っていましたが、私は丸山先生と同時代に生きたことを本当に幸せに感じています。
 この度、長岡市美術センターで、先生の生誕110年と「M?Ro?の杜」設立10年を記念して、大規模の展覧会を開催することになりました。我が長岡市医師会の皆さんにも一人でも多く観て頂きたいと希っています。
 
 (註)平澤 興
 (1900〜1989)
 新潟県味方村出身
 脳神経解剖学者
 元京都大学総長

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巻末エッセイ〜クマにあったら〜柿の木の下で〜 郡司哲己

 「あれって、なに?クマじゃないかしら。」と家人が小声で話しかけます。水面の水鳥を撮影していたわたしは、カメラを離して目を上げ、家人の指差すほうを見やりました。数十メートルほど遠くに、四足で走りゆく黒いケモノの背中が見えました。「クマだね、たしかに。こっちに近寄って来なくてよかったね。びっくりポンだね。」と安堵の胸をなでおろしながらのわたし。自宅からほど近くの長岡市斎場の近くの大池にバードウオッチングに家人と連れだって来ていました。その際に遠くで藪に駆け入る一頭のクマを目撃したのでした。

 この目撃現場付近の橋には真新しい「クマ出没注意」の標札が、現在は立っています。

 わたしが住むのは市街地ではなく、東山の山裾の新興住宅地。里山の自然に恵まれ、野鳥が多く、雪解けの春先は庭をキジが歩き回ります。周辺の散歩道ではリス、キツネ、タヌキ、アナグマ、イタチなど、つい昨年からイノシシまで加わり、住民の目撃談に事欠きません。夏の「町内だより」のある住宅の庭にタヌキが侵入して作物を食い荒らしたという記事も、他人事と思っていたところ、我が家の家庭菜園にもミニ獣害事件の勃発です。

 この夏は庭先で昭和なつかしのマクワウリを育てていました。カラス除けのネットをかいくぐり、完熟寸前の一個が盗まれました。丸ごと持ち去りの手口から、タヌキの犯行と推定されました。数日前に路肩を走るタヌキ二頭を近所で目撃したばかりです。これはがっかりで、里山の自然も良し悪しなのでした。

 さて今年はクマに襲われて死亡者が出たり、負傷する事故が北海道や東北・北陸地方で急増しています。新潟県でも佐渡を除き、ほぼ県内の全域で700件以上の目撃・痕跡確認報告があり、ついに十月下旬には「クマ出没特別警報」が発令されました。

 『クマにあったらどうするか』(姉崎等・片山龍峯)ちくま文庫。長岡駅にオープンしたK書店のユニークな品揃えの書棚に並び、まず解説を立ち読みすると、筆者は自分のクマ遭遇の経験を語る遠藤ケイです。骨太の外観がクマのような地元三条出身のアウトドア作家。彼の民俗文化のイラストが好きで「熊を殺すと雨が降る」などの著書も数冊愛読したものでした。

 『クマにあったら』のポイント:「背中を見せて走って逃げない。大声を出す。じっと立っている。にらみ返す。」これがアイヌのクマ猟師の古老の体験の極意。ちなみに新潟県の推奨は「慌てずゆっくり後退する。襲われた場合は地面に伏せて頭や顔を守る。」

 「クマ撃退スプレー」(五千円以上の高額のシロモノ)の携行も今どき。

 ところで山村部の放置された柿の収穫や伐採もクマの獣害対策に推奨されています。クマが好む柿の実を減らせば、民家に近寄らないとの期待です。

 秋の深まるなか、我が家の柿が赤く色づきます。「次郎柿」なる甘柿で秋の楽しみです。隣家は数本の柿の木に鈴生りです。熟柿にして真冬まで保存してゼリー状で食べるというご主人もご高齢で、作業がままならなく、わたしが柿収穫は代行してあげているのです。もちろん早めの柿の処置に越したことはなくとも、「柿大好き人間」としては、せっかくの柿はぜひ熟してから収穫したいのです。

 こうして「クマ対策の使命」(!?)とのジレンマに悩みながらも、我が家と隣家のいわば「柿番」を務めている毎日のわたしです。タヌキと違って、本性では人を嫌い、恐れているというクマは、こんな住宅地の庭までは入り込まないと信じたいです。

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