長岡市医師会たより No.525 2023.12


もくじ

 表紙写真 「初立山初アーベントロート(2014/10/4)」 佐伯牧彦
 「83kg、中年肥満が……痩せた」 村山慎一郎(喜多町むらやまクリニック)
 「野球小僧」 齋藤良司
 「中庸を尊ぶ放射線ホルミシス」 福本一朗(長岡保養園)
 「4年ぶりのリアル旅行」 三上 理(三上医院)
 「巻末エッセイ〜クィーンエリザベス(前編)」 富樫賢一



「初立山初アーベントロート(2014/10/4)」 佐伯牧彦


83kg、中年肥満が……痩せた 村山慎一郎(喜多町むらやまクリニック)

 大学入学当初は172cm、58kgだった私の体重は、医師になったときには70kgを超えていました。学生時代は弓道部に所属し文化的運動のみ、勤務医時代は専ら病院内での移動のみでした。長岡赤十字病院に勤務している際に結婚し、その翌年に佐渡総合病院に転勤することになりました。長岡赤十字病院泌尿器科のK先生がロードバイクを始めて急激に体重を落としていたのを目の当たりにしていて、佐渡ではロングライドなどの自転車イベントもあることも重なり、ロードバイクを始めることにしました。K先生にも佐渡に来ていただいたり、MRさんと佐渡を回ったりとそれなりに運動していましたが痩せるには至りませんでした。2.5年の佐渡勤務ののち本土に来てからは乗る前・後のメンテナンスも大変なこともあり、また運動から遠ざかってしまいました。75〜77kgほどになっても太っている自覚はありません。
 2015年に開業し院内での移動距離も益々減少し、かわりに体重はMax83kgまで増加しました。患者さんからも太ったとか言われてさすがに体重増加や肥満をやや認識するようになりました。
 そんな私にいきなり転機が訪れます。2022年2月ころに妻が4月に行われる見附市民マラソンで50回記念のため昭和50年生まれの市民(私)は無料参加できるから一緒に出ようと誘ってくれました。今まで運動をしていなかったので気の乗らない一方で、妻から誘われたことや走るのに5,000円ほどの参加費を払うのが理解できなかった貧乏性な私でしたが「無料」とのことで10kmに参加してみることにしました。
 10kmなんて高校時代に校内マラソン大会で無理やり走らされた覚えしかありません。50分強くらいで何とか走り切った記憶はありましたが、その後はわざわざ苦しくなるようなランニングなどするわけもありません。
 走ると決めましたが今まで運動していなかったので、とりあえずクッション性の高い「HOKA」のランニングシューズを購入し、走ったり歩いたりしながら練習し、何とか5km走れる日も出てきました。ペースは体の調子に合わせて、体が動くように走るので、調子がいいとオーバーペースになって走れなくなったりすることが生じることになりました。この時はなぜこうなるのか分からず対処のしようもありませんでした。迎えた本番、体の赴くままに走って5?6kmは何とか走ったのですがもう体が動かなくなりぼてぼてと動いているうちに妻に逆転され何とか1時間1分5秒、121人中95位でゴールしました。苦しいのだからもうやめればよいのに、その大会で立川綜合病院泌尿器科のS先生がハーフ1時間33分くらいで走っていて、練習すればそうなれるものかと錯覚を起こしてしまいランニングを継続することにしました。中野ジェームズ修一さんの「マンガでわかる新しいランニング入門」を読んでみて、オーバーペースにならないようペースコントロールをするのにランニングウォッチが有用であることがわかり「Garmin ForeAthlete745」を購入しました。超初心者にもかかわらずゴールデンウィークに10kmずつ毎日のように走っていたら、趾に豆ができたり、膝外側が痛くなる腸脛靭帯炎を発症し数週間の休養をしました。再開しても脛の内側が痛くなるシンスプリントを発症し再度一ケ月休養したりと、初心者に起こる脚のトラブルを様々経験し、トレーニングを継続して筋力をつけることや妻の助言で「On」のシューズに変えてからはトラブルが減ってきました。
 今年は年男だったようで「ぼん・じゅ〜る」のアンケートで書いた新潟シティマラソン5時間以内完走も、3分の2に当たる28kmまでは走ってその後は歩きながら4時間50分ほどで戻ってきました。完走できずまだ改善できる余地が残っていることで来年の参加も考えたいですが、フルマラソンはあまりにもきつくて苦しい長時間の連続運動でした。
 一人で早朝に走っているのですが、次男が中学から陸上部の長距離に入ったことで見附市駅伝チームの方々やコニカミノルタでニューイヤー駅伝を走った松宮祐行さん(セキノ興産陸上競技部監督)とも話をする機会が作れてアドバイスをいただきながら楽しく運動しています。
 中一の次男とは2023年10月29日に第一回出雲崎マラソンのロング(15・8km)に参加して、次男は初めてのコースだからゆっくり景色を見たいと言っていたのと体調も思わしくなかったようで走りきれないかもというので、私と一緒にゆっくり6〜6.5分/kmくらいのペースから走ろうかと提案して受け入れられました。実際には周りに流され5分半くらいのペースで入ることになり1kmほど一緒に走りましたが次男は余裕そうだったので「自分のペースで走っていいよ」と言ったら途端にどんどん置いて行かれてしまいました。海岸沿いから次男が生まれ育った佐渡も見え楽しめたようでした。次男は1時間16分、私は1時間27分で完走することができました。
 翌日の仕事に差し支えても毎日飲酒を続けるようなアル中状態だったのですが、ランニングをしてからは翌朝快適に走るために休息日や天候不良日以外には飲まないようになりました。だけど、給水所に給ワインもある「メドックマラソン」にはいずれお祭り気分で参加したい!
 肝心の体重ですが67kgくらいまで落ちて停滞がずっと続いています。プロランナーの方々は50kg前後や60Kg前後なので60kgくらいまで体重が落ちればいいなとずっと思っています。次男は太りすぎていた父親が恥ずかしく見えていたようで話しかけると「まず痩せてから言って!」と言われ続けてきましたが最近は言われなくなりました。洋服を着ることはなくなり、いつでもトレーニングウェアばかり着ているためか義母からは「(今度は服装が)みすぼらしい」と言われて困惑している今日この頃です。

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野球小僧 齋藤良司

 病院の隣りの中学校の校庭から時々野球の歓声が聞こえてくる。中学校の部活の練習生達の声だ。
 ネット裏の金網にもたれてこの少年達を見ていると、無性に私もキャッチボールがやりたくなってくる。二次大戦後の間もない頃、布製の手袋のようなグローブを各自が作り、よくキャッチボールをした。ある日、父が革製のグローブを一個見つけてきてくれた。勿論掌部はまっ平らで、くぼみは殆どない。それからはこのグローブの奪い合いだ。そこで落球したらグローブを次の人に取られるというルールを決めた。私が一番捕球もうまく、かなりの剛球を投げ強肩の片鱗も見せた。それからはキャッチボール漬けの毎日となった。
 中学生になり勇躍して野球部に入った。しかしこれがその後幾度も切歯扼腕させられる野球人生の始まりとなった。上手いのは沢山居るものだ。狙っていた3塁手は同級生に何時の間にか奪われていた。三年生になったらと憧れていた遊撃手のポジションも、全く野球センスのない奴に取られてしまった。俺はもう監督から見放されているのかも知れないと思った。しかし私にも思い当たることがあった。いつも練習では上手くいくのに肝心なところで暴投やボンヘッドがでる。どうも私の精神修養の問題だったかもしれないと悩んだ。この癖はなかなか抜けず高校時代もまたレギュラーを逃した。
 理乙を終え、専門課程に進み再度憧れの野球部に入った。しかしここで私は私の身体の異変に気ついた。遠投すると右肩にツーンとする痛みがはしる。失望に落胆、フットワークやスナップスローで胡麻化したが、強肩どころか弱肩は丸見えだ。目指す3塁手は下級生にとられ、医学部卒業の前年にようやく二塁手のレギュラーになれた。
 でもこの三流野球小僧にもすこし誇りたい様な懐かしい思い出が幾つか残った。一つは大学時代最後の東医体だった。対戦相手は忘れたが私は無心にバットを振った。全く手ごたえは無かった。しかし白球は新宿の日生球場の外野の芝生観覧席に吸い込まれた。柵越えのホームランだ。ホームベースの上で皆にポンポンと頭を叩かれたあの嬉しい感覚は今も忘れられない。
 野球が縁で泌尿器科に入局した。入局一年目、医学部医局対抗野球で憧れの三塁手で出場した。決勝まで勝ち上がり、決勝は白山球場で大敵外科チームとの対戦だった。一対一の接戦で延長9回日没引き分けとなり、優勝カップと優勝旗を分け合い、両科優勝となった。白山球場のベンチ前で、洋行帰りの高安教授を囲んで撮った記念写真は同窓会誌創刊号の一ページを飾っている。
 三流野球小僧の密かな自慢をもう一つ書かせて頂く。
 私の長岡赤十字病院勤務時代に院内部局対抗野球大会があった。私は外科系のメンバーで出場した。
 事務部との試合であったと思う。私は先発ピッチャーで打順は四番で始まった。まさに草野球のエース気分だった。第1打席シングル安打、第2打席3塁打、次打席が2塁打、最終打席が本塁打、正に今でいうサイクルヒットだ。その頃そんな野球用語はなかったようだ。スコアブックが残っていたらなあと思った。かくして私は首位打者賞に輝いた。院内部局対抗戦の結果は私の3連力投にも拘わらず、若手の多い放射線科と同点引き分けとなり、優勝を分かち合う事となった。これも野球小僧の忘れられない、ささやかな誇りの一つである。
 今日もネット裏で野球小僧達の?めのキャッチボールを眺めながら楽しかった昔に想いを馳せている。

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中庸を尊ぶ放射線ホルミシス 福本一朗(長岡保養園)

 貝原益軒はその養生訓の中で、「腹八分目、飲酒房事も控えめ」として、人生には中庸≠ェ大事と戒めていますが、それは釈尊が「沙門は苦行に安住せず、さりとて懈怠にも陥らない不苦不楽の中道≠守るべきである」と諭されたことに対応しています。西洋でもギリシャの哲学者アリストテレスは、中庸≠「過剰と不足を調整するもの」と考え、その両者を足して2で割った状態がバランス取れていて最適である状態というのです。デルフォイのアポロン神殿入口には「汝自身を知れ!(=γν?θι σεαυτ?ν)」と言う有名な格言と共に、「度を過ごすなかれ!(=μηδ?ν ?γαν)」と言う七賢人の言葉が掲げられています。エピクロス派は快楽至上主義と誤解されていますが、実は「真の快楽を得るためには節制が必要で食事も酒も娯楽も適度でなければならない」としてかなり禁欲的です。またイギリス貴族達の伝統的製造工場であるパブリックスクールでは、紳士たるもの極端に走る≠アとは避けるべきだと教えられていて、怠惰はもちろんガリ勉までも戒められています。医学でもヒポクラテス以来「過ぎたるは及ばざるが如し」としており、特に東洋医学では猛毒の付子(ぶし)が漢方薬(君臣佐使の使薬)に加えられていること、また当帰芍薬散などアルコールと共に服用する酒服剤があるなど、「毒も使い様で薬」として絶対的に不健康な物質はないと考えられています。スウェーデン医学部の薬理学の講義で教えられる代替医療の一つにホメオパシー(homeopathy)というものがありますが、それはヒポクラテスの「同じようなものが同じようなものを治す」との言葉に基づき、1796年ドイツの医師?Samuel Hahnemann(1755〜1843)が、熱帯地方の民間薬であった植物キナの樹皮(発熱、悪寒、腹痛、下痢などマラリアに似た症状を示す)がマラリア患者を治すことは当時知られていたが、それ以外の様々な物質を摂った時にどのような反応が出てくるかを、自分自身と弟子達の体を使って実験観察し症状変化を詳細に書き留めたものを『MATERIA MEDICA』としてまとめたものが元になっています(Fig.1)。それは近代西洋医学の様に症状を抑え込む療法とは正反対の、「症状には同じような症状を出すものを天文学的に希釈振盪して与える」という「同種の法則」に基づいています。スウェーデン医学会では眉唾≠ニ考える先生が多いのですが、民間治療として政府によって認められており、街中ではホメオパチー専門の薬局が流行っています。
 中庸といえば、飲酒については非飲酒者より低頻度飲酒者(週1回未満)や1日に純アルコールで23g未満(日本酒1合またはビール500ml程度に相当)の少量飲酒者で総死亡のハザード比が有意に低いJカーブパターンを示しました。さらに男性では癌、心血管疾患、脳血管疾患による死亡も同じ様なJカーブを示すと報告されています(Fig.2)。
 2011年3月の東日本大震災津波では東電福島第一原発の炉心融解で深刻な放射能汚染が生じ、ピーク時には47万人の人々が無慈悲に故郷を追われました(Fig.3)。
 2022年になっても約3万人の県外避難者が残されているだけでなく、東北の農林水産業は根強く残る放射能汚染の風評被害で甚大な被害を被っている。確かに広島長崎の原爆被災者や第五福竜丸乗組員の悲惨さを忘れることができない日本人は放射能汚染に対して世界で一番真剣に対応してきており、かけがえのない地球と子孫を放射能汚染から守ることは我々に課せられた神聖な義務です。ただそれは迷信や誤った知識に惑わされず、科学的に誠実な態度で行わねば社会的心理的に二次被害を生じる可能性があります。
 そもそも宇宙は137億年前にビッグバンで生成された時から放射線に溢れており、35億年前に地球上で生命が誕生した時も放射能はゼロではなく、生物は常に微量の宇宙線や自然放射線に晒されながら進化してきました。その点が人工的な化学汚染や公害などとは異なります。むしろ放射線は自然放射線の10倍から100倍くらいの低濃度に用いれば、逆に有益な作用をもたらす現象が見つかり、それは放射線ホルミシス≠ニ呼ばれています(Fig.4)。
 なお火山国の日本では、放射能があるラドン温泉が古くから健康に良いとされていますが、川嶋朗博士の調査による三朝温泉の空間放射線量では野外で0.5μSv/h、露天風呂内で1.6μSv/h、源泉付近で18μSv/hと、まさにこの放射線ホルミシス≠フ生じる線量範囲内であることがわかりました。ラドン温泉の効用としては、リウマチ、高血圧症、高脂血症、動脈硬化、脊髄性/脳性小児麻痺、貧血症、白血球減少症、肝機能異常症、皮膚病などの改善、免疫力/筋力増強、疲労回復、若返り効果などが挙げられています。この様な体に良いことが起こる理由はまだ解明されていませんが、一つには有害な活性酸素の抑制効果が低線量放射線にはあるためとされています。
 ここで原発廃止派の筆者が申し上げたいことは、この放射線ホルミシス≠ヘあくまで「正しく恐れるため」、そして風評被害を防ぐためにのみ用いられるべきであり、決して原発推進派の恣意的な悪用に任せてはならないということです。そしてもし「放射線が体に良い!?」と主張するのなら、科学的検証を経て決められた正確な安全線量と厳密な適用対象を堅持することが重要であり、絶対に政治家の恣意により安全限界値を変化させることがあってはなりません。原発処理水についても、日本政府はあくまで科学的データのみに基づいて隠さず臆せず、「線量〇〇までなら放出しても日本の海は安全である」と堂々と宣言すべきだと思います。
 しかし可愛いウサギもその旺盛な繁殖力で、ヒノキやスギなどの若木の枝葉、樹皮への食害、キャベツ、豆類などの露地野菜や果樹への食害など農林業への打撃となることもあります。例えばオーストラリアにはもともとウサギは生息していませんでしたが、1859年に兎狩りのために輸入された24羽のウサギが、1920年には100億羽にまで増殖して植物を食べ尽くし土壌の浸食や水不足を引き起こして、花卉栽培などに数十億ドルの被害を与えました。そのため政府は数千マイルに渡るウサギ除けフェンスを張り、1950年にはウサギだけに罹患する粘液腫ウイルスを保有する蚊とノミが野生に放出されました。そのため今度はオーストラリアのウサギの90〜99%が滅亡してしまい、雑草が生い茂って農地を脅かすとともに、ウサギを食料とする野生動物が激減して生態系に大きな擾乱を与えるようになりました。人間の浅知恵に振り回されたウサギこそ大迷惑ですし、人類は自然に対してもっと謙虚に賢く対処すべきとの教訓を与えてくれたようです。
 「私の心は小さいの 幸せ過ぎたら不安に 不幸せ過ぎたら惨めに ちゅうかげんの幸せが一番いいの(やなせたかし)」

Fig.1 貝原益軒

Fig.1 ザムエル・ハーネマン

Fig.1 ホメオパシー治療箱

Fig.2 総死亡と飲酒量のJカーブ相対危険度(男性)(JACCスタディによる)

Fig.3 東京電力福島第一原発の炉心崩壊

Fig.4 放射線ホルミシス(線量率と健康度の相関)

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4年ぶりのリアル旅行 三上 理(三上医院)

 急に寒くなった11月11日の14時、医師会館を12名の先生+星事務長、計13名で村上、瀬波温泉に向けて出発しました。4年ぶりの医師会旅行の開催です。私は30分前に到着し、先に着いていた小林徹先生とバスの中で早速缶ビールを!昼間のアルコールは気持ちいいです。予定通り14時に出発しました。サロンカーの後方にほぼ乗れる人数でしたので、高速に乗る前に宴会開始です。ビールに始まり、草間先生からのワイン、そして日本酒も。実はこの旅行、初めての参加でしたが呑めばすぐに溶け込めます!瀬波温泉まで2時間弱ですが、あまり早く到着しても夜の宴会まで時間があり、途中二カ所でトイレ休憩。それでも予定通り、16時前に瀬波温泉、大観荘に到着。ちょうど日の入りの時間でしたが残念ながら雲が多くて夕陽は拝めませんでした。塩気の多い温泉で温まり宴会まではまだ時間が… 部屋で呑みながら18時半からの宴会を待ちます。せっかくの村上開催であり、村上市岩船郡医師会から伊賀芳朗会長、村上総合病院副院長 杉谷想一先生、村上総合病院 渡邊直純先生の3名の先生方をご招待しました。村上総合病院院長の林達彦先生は緊急手術のため残念ながら欠席でした。また村上市岩船郡医師会からは〆張鶴と大洋盛をいただき宴会が大いに盛り上がりました。2次会では館内のカラオケでさらに盛り上がり、有志はその後3次会でラーメンを。ちなみに某S先生はラーメンを食べたことは覚えていないとのことでした(笑)。部屋に戻りいつの間にか12日朝5時に目が覚め、同室のお二人の先生を起こさないよう雲の合間から青空がのぞく露天風呂へ。前日のアルコールもほぼ抜けてすっきりとお部屋に戻りましたが同室の某K先生はすでにビールの大瓶を…。朝ご飯も終わり9時30分にホテルを出発。最初の目的地イヨボヤ会館へ向かいます。前日の11月11日はポッキーの日でしたが、同じ11日は鮭の日でもあり(鮭の字のつくりが十一+十一)、遡上してくる鮭の姿に期待したのですが今年は気温が高すぎで鮭は日本海に留まっており会館内には一匹も鮭がいない状況でした。ショートカットで館内を案内していただき、次の目的地、村上の町屋に向かいます。酒屋の裏の駐車場にバスが停車し酒屋の店の中を通って隣の「きっかわ」へ。お店の奥の干してある鮭を見ながら説明を聞きお店で買い物。皆様いろいろ買われていたようです。私は鮭の皮のチップスを目当てにしていたのですが店員に聞くと春のお雛様、秋の屏風祭りの期間限定だそうで買えず残念でした。その後皆様は通りを散策されたようですが私は村上茶を求めて駅の方へ。歩くと意外に遠くて少し汗ばみながら時間を気にして酒屋に戻りました。折角なので大洋盛を一本購入しバスへ戻りました。一行を乗せたバスは笹川流れ方面へ。道の駅より大分手前の古民家をリノベーションしたお店でお昼ご飯です。道ばたに旗が立っていないと見過ごしてしまいそうですが中はこぢんまりとして居心地の良いお店です。予約貸し切り状態で誰にも迷惑をかけない宴会状態でした。コースの乾杯に当然アルコールも有りおいしく南欧料理を頂きました。乾杯の一杯では当然足りず私のテーブルではスパークリングワインと、なぜか日本酒のオーダーがあり、ここでも〆張鶴と大洋盛。小瓶でした(笑)。ここでは書けないような会話もあり13時過ぎに出発。試飲と泡で気持ちよくなり最終目的地の岩船港鮮魚センターへ。ここもなじみの場所なのでアジの開きを購入し早めにバスに戻り心地よくお昼寝へ。後ろのサロンでは宴会も継続中。途中黒崎で休憩を入れ、与板の小林先生をお送りし16時過ぎに無事医師会館到着しました。今から思うとどれだけ呑んだのか、さっぱり見当も付かないのですが、呑まなくても非常に愉しい会です。こうやって大勢の先生方と一晩過ごすことはいろいろと情報交換もできますし、なかなか聞けない裏話も聞けて本当に有意義な旅行でした。まだまだ?COVID-19、インフルエンザが完全には落ちつきませんが来年もまた皆様と一晩楽しく過ごせる旅行ができることを期待しております。最後にいろいろと面倒見ていただいた医師会の星君に感謝し拙文を締めたいと思います。

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巻末エッセイ〜クィーンエリザベス(前編) 富樫賢一

 まだ海外ツアーや日本発着クルーズが休止されていた2022年夏、いつもの旅行社から早割のお知らせが届いた。もちろん催行は未確定。が、以前から乗船したかったクィーンエリザベス、食指が動いた。
 申し込むと、1年も先の話で催行も決まっていないというのに、海外用コロナワクチン接種証明書が必要だとか、ヴズィトジャパンに登録が必要だとか、海外でも使える携帯電話を用意しろとかうるさく言ってきた。しかも乗船前48時間以内のコロナウイルス抗原陰性証明が必須とのこと。これはみんなコロナ対策なのだが、なんと面倒くさいことだ。
 2023年3月中頃になってようやく政府の許可が下り催行決定。さっそくHP「マイキュナード」にアクセス。乗船手続きは自分でやらなければならない。旅行社が予約時基本情報を登録してあったので、手続きは意外に簡単にすんだ。が、事前登録に余りに間違いが多いのにはびっくりした。
 そして乗船1週間前、接種証明書も抗原陰性証明も必要ないとの連絡。なってこった。めげずにHPからボーディングパス(乗船券)とバゲージタグを印刷。ボーディングパスにはチェックイン時刻と最終乗船時刻が、バゲージタグには船名と客室番号が記載されている。そのタグをつけると荷物は自宅から船室まで運ばれる。もちろんタダではない。
 そもそも宇宙は137億年前にビッグバンで生成された時から放射線に溢れており、35億年前に地球上で生命が誕生した時も放射能はゼロではなく、生物は常に微量の宇宙線や自然放射線に晒されながら進化してきました。その点が人工的な化学汚染や公害などとは異なります。むしろ放射線は自然放射線の10倍から100倍くらいの低濃度に用いれば、逆に有益な作用をもたらす現象が見つかり、それは放射線ホルミシス≠ニ呼ばれています(Fig.4)。
 5月15日集合場所の山下公園(横浜)へ。そこから大黒埠頭客船ターミナルまではシャトルバスでのピストン輸送。チェックインは簡単ですぐに終わった。乗船するとシアターに行けと言う。何で?行くと「緊急時の集合場所はここだ」と。これで避難訓練(すべてのクルーズで義務付けられている)は終わり。今までで一番簡単。
 客室に行くと、早々に客室係がやって来て部屋の使い方を説明してくれた。フィリピン出身のその男性は24年もここで働いていると言う。米ドルでチップを渡す。この船の名前は英国的だが船籍はアメリカ。通貨は米ドル。もちろん英語しか通じない。ちなみに今回の乗船人数は1620人で日本人が634人と最多(当然でしょう)。英国人397人、米国人180人、豪人162人、その他41か国の人が乗船したとのこと。
 早速パンフレット「船内の歩き方」を見ながら船内を歩き回る。クルーズ船の内部構造はほとんど皆同じ。慣れたものだが今回は何か雰囲気が違う。厳か、豪華、シック、そして静か。クルーズ船特有の浮かれた感じが全くない。年寄ばっかりで若者や子供が居ないせい?さっそくロイヤル・アーケードのビッグベンを模した時計を背景に写真撮影。
 この船は2010年からの就航で2代目。昨年逝去したエリザベス女王が名付け親。船内には女王の若い頃から亡くなる直前までの写真が飾られている。この船主キュナード社は1840年代から英国と米国を結ぶ王立郵便船を運航しており、1914年タイタニック号沈没時最初に駆け付け救助に当たったのもこの社のカルパチア号。そうした歴史を感じる船だ。
 そうこうしているうちにディナータイム。今日のドレスコードはスマート・アタイアー(カジュアルとは違う)。決まっていた席に案内されると日本人夫婦と相席。女房は「この席は暗くてメニューが見難い」と文句たらたら。前菜、メイン、デザートはそれぞれ5種類からのチョイス。面白いのはメインに必ず30p位のペパーミルで胡椒を振りかけること。味は日本人に会うように料理されていてまずまず。
 そして出航。さてさてどんな旅になることか。

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