長岡市医師会たより No.527 2024.2


もくじ

 表紙 「最上川早春(村山市大淀」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「人類はどのように進化したか〜『サピエンス全史』を読んで」 藤田俊夫(長岡赤十字病院)
 「令和6年 第53回 新年ボウリング大会優勝記」 窪田 久(窪田医院)
 「令和6年長岡市医師会新春麻雀大会」 新保俊光(新保内科医院)
 「巻末エッセイ〜柿の木」 木村慶太(木村医院)



「最上川早春(村山市大淀」  丸岡 稔(丸岡医院)


人類はどのように進化したか〜『サピエンス全史』を読んで 藤田俊夫(長岡赤十字病院)

 唐突ですが、皆さんは、人類はどのように進化したと認識しているでしょうか?正確には、我々現生人類であるホモ・サピエンスはどのように進化したかです。図に示すような「人類進化の行進図」を皆さんもご覧になったことがあるかと思います。手をついて歩く「ナックルウオーク」姿の類人猿から、徐々に手を地面から離して、腰をかがめた姿勢から直立二足歩行になっていく、教科書でもお馴染みの図です。ホモ・サピエンスはこの「人類進化の行進図」のように段階的に進化し、道具を使い、火を操り、言葉を使ってこれまで進化してきたと理解している方も多いのではないでしょうか。私もつい最近まではそのように理解していました。しかし、このような一直線の系統図に並べて進化を考えることは『誤りだ』と、この『サピエンス全史』には書かれています。我々現生人類であるホモ・サピエンスは、図のように進化したのではないというのです。一体どういうことでしょうか?
 ホモ・サピエンスの進化について述べる前に、この『サピエンス全史』について少しご紹介します。皆さんも書名だけは聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。しかし、上・下巻全部読んだという方は多くはないかと思います。イスラエルのヘブライ大学歴史学教授である、ユヴァル・ノア・ハラリ先生が、2011年にヘブライ語で出版し、2014年には英語版、さらに2016年に日本語版が出版され、全世界で1200万部の大ベストセラーとなった本です。ホモ・サピエンスの超過去から過去・現在、そして未来までの全史にわたって記述された本です。そして、このホモ・サピエンスがどのように進化し、結果的に地球上唯一生き延びた人類種となったかが、この『サピエンス全史』での前半のハイライト部分となります。You Tube?でも中田敦彦や岡田斗司夫など多くの人がこの『サピエンス全史』について解説しています。私も最初は?You Tube?での解説を視聴して興味を持ち、たまたま我が家には上巻のみがあったため、アマゾンで早速下巻も購入して、今回読んでみました。
 ホモ・サピエンスとはホモ(ヒト)属のサピエンス(賢い)という生き物で、以前はこのホモ属に属する人類種は、サピエンス以外にも数多く存在したようです。東アフリカで先行する猿人からアウストラロピテクス属が進化、一部が北アフリカ、ヨーロッパ、アジアの広範囲に進出して、それぞれの地で異なる方向に進化していきました。ヨーロッパとアジア西部では、ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)、アジアの東ではホモ・エレクトス、ジャワ島にはホモ・ソロエンシス、インドネシアのフローレス島にはホモ・フローレシエンシス、そしてシベリアのデニソワ洞窟ではホモ・デニソワなど多くのホモ属の化石が発見されています。そして、東アフリカでも進化は止まらず、ホモ・ルドルフェンシスやホモ・エルガステル、そしてついにホモ・サピエンスと多くの種が進化しました。さらに重要なことは、約200万年前から1万年前頃までは、この世界にはいくつかの人類種が同時に存在していたということです。そして、ホモ・サピエンス以外の種族も道具を使い、火を操り、言葉を使用していたようです。訳者後書きでは、ホモ・サピエンスは当初は、捕食者を恐れて細々と暮らす、「取るに足りない動物」であったと表現しています。その「取るに足りない動物」が、どのようにして現在のような地球上唯一の人類種となり、これまで繁栄できたのか。
 この『サピエンス全史』では、『認知革命』『農業革命』『科学革命』の3つの大きな革命により、ホモ・サピエンスがこれまでに進化してきたと記述しています。最初の革命は、約7万年前にホモ・サピエンスの脳内に突然変異による回路の変更が起こり、この『認知革命』が起こったと書かれています。そして7万年前から3万年前にかけて、新しい思考と意思疎通の方法が登場し、『虚構』、すなわち架空の事物についても語ることができるようになり、精霊や神などを大勢の人が共有できるようになりました。そして、大勢の人による集団を形成できるようになって行ったのです。チンパンジーは意思統一ができ、秩序を保てる集団の数は20〜50頭で、ネアンデルタール人も秩序を保てる集団の数は150人で、それ以上では秩序が保てず、別の群れに分裂していくのです。その数を社会学ではダンバー数と呼ぶようです。しかし、ホモ・サピエンスはこのホモ属のダンバー数である150人を優に超えて集団化することができるようになりました。ホモ・サピエンスはネアンデルタール人に比べて、脳容積も小さく、身体能力も劣っていたようですが、大勢の集団を形成できるようになり、大勢の集団内では道具の改良・普及が可能となり、徐々に他の種族を圧倒して行ったのです。そして、ホモ・サピエンスが地球上のそれぞれの地域に進出するに従って、そこにいた種族は次々と絶滅して行き、また大型動物も同じように次々と絶滅していきました。『サピエンス全史』の中では、交雑説と交代説の2つが挙げられていますが、ホモ・サピエンスが滅ぼした交代説の方が可能性としては高いようです。こうしてホモ・サピエンスは地球上唯一のホモ属の種族となったのです。
 今回は『サピエンス全史』の前半のハイライト部分にスポットしてお話しましたが、この後も『農業革命』『科学革命』を通して、ホモ・サピエンスの社会の進化、発展、そして未来について書かれています。更に、『認知革命』で共有できるようになった『虚構』は貨幣・国家・宗教・資本主義や社会主義などのイデオロギーなど、現代社会において重要な要素の根幹となっているのです。そしてこの本の最後には、発展した現代社会に生きる我々に、『現在の状況で幸福ですか?』と問いかけてくるのです。人類の進化だけでなく、他の分野でも大変勉強になった一冊でしたし、考えさせられる一冊でもありました。
 皆さんもぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

人類進化の行進図

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令和6年 第53回 新年ボウリング大会優勝記 窪田 久(窪田医院)

 昨年私のメジカルボウリングの成績は、月例会優勝なし、ハイゲームも1回のみ、惨憺たる状態でした。しかし、最後の12月の月例会で、ハイゲームと優勝ができて、久々にボウリングを楽しむことができました。そんな最中、新年ボウリング大会は1月15日にポップボウル長岡で12名の参加で行われました。
 1ゲーム目はノーミスが続き、7フレからターキーがでたのですが、10フレでスプリットがでてしまい、203点でした。2ゲーム目は前半で、スプリットがでたあとに9本ミスを連発してしまい、142点となり、はっきりこれで終わったと思いました。3ゲーム目はスペアミスが二つ、ターキー一つで191点でした。4ゲーム目はスペアミス一つとスプリット一つとダブル一つで180点でした。こんな出来では、優勝は無理だと思っていましたが、私が優勝と聞いてびっくりしました。2位の茨木先生とはわずか2ピン差で、3位は高野先生でした。また、200アップは私だけで、ハイゲーム賞もとれてしまい、1年分のツキを使い果たした気がしました。
 ここで、今までの私のボウリング人生について振り返りたいと思います。父の武久がメジカルボウリングクラブにはいっていたので、中学生の頃から、よく一緒に投げに連れて行ってもらいました。私がメジカルボウリングクラブに入会したのは、開業にも少し慣れ、2年目の平成11年、私が42才のときでした。ボウリング場においてあるハウスボールを投げて、当時のアベは160点くらいでした。実はマイボールとボウリング場に置いてあるハウスボールとは全くの別物で、マイボールは表面の材質や中心の重りで回転力を強くするようにできており、ボールに強い回転をかけると、ピンの手前で急激に曲がってピンを勢いよく弾き飛ばすことができます。平成13年2月からマイボールを数多く購入し、ボウリングマガジンを年間購読し、月に100ゲーム以上、毎ゲームパーフェクト(300点)を目標に練習を続けました。すると平成14年5月1日には299点、5月25日には念願の300が達成できました。この当時アベは180点台でしたが、平成15年頃には200点を超えるようになり、ボウリング場の大会や県医師会の大会などでも優勝できるようになりました。」
 平成16年10月10日には新潟県で20年ぶりに全国医師ボウリング大会が行われ、シングルス戦で2位、種目総合で4位、4人チーム戦で4位とハイゲーム賞(268点)を獲得できました。ところが、その喜びもつかの間、2週間後の平成16年10月23日土曜日の午後6時前、ボウリング場で練習を終え、帰宅の運転中に激しい揺れに襲われました。中越地震です。自宅はそれほどの被害はありませんでしたが、私の通っていたアルピコボウル長岡はスプリンクラーが作動してしまい、大量の水が天井から流れたため、レーンが水浸しになり、閉鎖に追い込まれてしまいました。そのため、車で20分ほどかかる遊ボウルとサウンドボウル見附とアルピコボウル柏崎の3カ所で、練習を繰り返す日々を迎えました。平成17年6月には被災したボウリング場は、ドリームボウル長岡と名を変え、営業再開されました。その後7月には練習のしすぎで、腰痛がでたため、痛くならないようにゆっくり、バランスよく投げるように心がけたところ、投球が安定して、どんどん点数が出るようになり、4回目のパーフェクトを達成。9月の月間アベは220を越え、全国大会が早く来ないかと待ち遠しく思っていました。こんな絶好調の中、平成17年10月に大阪で開催された全国医師ボウリング大会で、個人総合優勝(12ゲーム合計2681点。アベ223点)と種目総合準優勝とハイゲーム賞(265点)をとることができました。思えばこのときが絶頂期でした。その後投球フォームの改造に失敗し、迷路から抜け出せなくなってしまい、翌年の全国大会では、前年度優勝者としては恥ずかしいスコアをたたいてしまい、ボウリングがいやになってしまいました。そのうち練習もしなくなり、どんどん下手になって、現在にいたっています。しかし、今回久しぶりに連続優勝でき、ボウリングがまた少し楽しくなってきました。週に2回くらいは練習して、かつての自分に少しでも近づければと思っています。
 この機会に、新年ボウリング大会優勝回数を調べてみましたので、興味のある方はご覧下さい(故人を除く、敬称略)。茨木政毅9回、窪田久6回、野村権衛5回、田村隆美4回、中村敬彦3回、三上理3回、三上英夫2回、明石明夫2回、福本一朗2回、杉本伸彦1回、小林司1回、木正人1回、吉田正弘1回、佐藤充1回、高野吉行1回、廣田千尋1回。最多優勝者の茨木先生は85才ですが、昨年の月例会でも優勝され、継続は力なりを地で行っている方で、本当に頭の下がる思いです。

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令和6年長岡市医師会新春麻雀大会 新保俊光(新保内科医院)

 1月20日、3年ぶりに「雀荘坂之上」で大会が開催されました。参加者は田村先生、明石先生、渡辺先生、小林先生、児玉先生、新国先生、新保の計7名でした。コロナ前は3卓でしたが、今回は2卓になりました。毎年幹事をしてくださる高橋先生が参加できず、平均年齢は上がりました。私は18年前に長岡市医師会に入会させていただきました。その年の麻雀大会で優勝し、「ぼん・じゅ〜る」に初投稿させていただきました。新参者としてチャッカリ自己PRさせていただき価値ある優勝でした。その後コロナによる大会中止まで、毎年参加しておりましたが、ようやく天運わが身に味方し今回2回目の優勝ができました。賞品のスターバックスコーヒーを家族に渡すと喜ばれました。ありがとうございます。
 大会はゲームだけでなく色々の雑談が場を盛り上げました。ビール片手に硬軟織り交ぜたお話、さすがです。この大会以外で牌を握ることがない、すなわち3年間麻雀からご無沙汰の先生もおいででしたが、大会で久しぶりにお会いし一緒に麻雀ができ楽しかったです。ご無沙汰していても、麻雀牌の取り扱いや点数計算に逡巡される先生はおりませんでした。よほど若いころに鍛錬?した賜物でしょうか。熱いうちに打った鉄は錆びないなーと思いながら打っていました。
 私は年末に甥っ子や姪っ子と麻雀を打ちました。若い人にも麻雀は普及しています。しかし、彼らは、ネット麻雀の天鳳や雀魂で麻雀を覚えたので、牌を積むのはまだしも点数計算ができません。私は点数計算だけはハッキリ覚えていて、50符3ハン6400点などと教えているうちに、皆から「点数が計算できるおじさん」と呼ばれるようになりました。夫婦がタッグを組んでの参加もありで、妻の横に旦那が座りアドバイスする役目です。若嫁2人は未経験者でしたが結構楽しんでいました。このような状況は皆さん想像がつくように突っ込みどころ満載で、大いに場がにぎわいました。「ミルク代リーチ」や「旅行先格下げ振り込み」など大騒ぎでした。進行は遅くなりますが、そこでさまざまな茶々をいれて混ぜ返すのが楽しかったです。夫の権威失墜を恐れていましたが、案外タッグチームは強く、夫のドヤ顔がみれたのはよかったです。もちろん初心者とはいえ負けた方からは授業料をいただきました。年に1〜2回しか会わなくても、お酒をのんで麻雀するとこんなに楽しいのだなと思いました。点数が計算できるおじさんとしては、心の中でこれからの時代は、これだなーとつぶやいておりました。
 来年も元気に麻雀大会に参加できたらよい一年と思わせてくれる楽しい一日でした。参加された諸先生方、MRの皆さん、星事務長さんありがとうございました。本年もよろしくお願い申し上げます。
 
 令和6年新年麻雀大会
 順位 氏名  1回戦  2回戦  3回戦  計
 1 新保俊光   211  282   66   559
 2 田村隆美  −12   50   111   149
 3 渡辺庄治   156  −41   18   133
 4 明石明夫  −32   150   7   125
 5 児玉伸子   35   −95  −48  −108
 6 小林 徹   −9  −105  −78  −192
 7 大竹(MR) −112  −67  −129  −308
 8 新国恵也  −237  −184   53  −368
 

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巻末エッセイ〜柿の木 木村慶太(木村医院)

 前回の原稿のあと、写真にも写っていた古い医療器具のことなどをもっと紹介してほしいという話がありました。

 しかし自分としては一番古いものからまず書くべきだと思ったので柿の木について書きます。

 今新築の医院の中心にそびえ立つのは樹齢200年以上になると思われる柿の木です。木村医院は私で11代目、230年くらい続いているのですが実際に今の位置に移ったのは5代目らしいので柿の木は医院が建つよりも前から生えていたのでしょうか。

 どうして樹齢が200年もありそうだと言えるかというと100歳近くで亡くなった親戚のばあちゃんがそう言っていたからです(信じるかどうかはお任せします)。そのばあちゃんが小さいころには既に2階よりも高くて樹齢100年と言われていたそうです。

 木村医院が現在地に移った当初は漢方医でした。だいぶ減りましたが今も多少は庭に薬草の片鱗があります。柿もそんな薬草の一種として使われていたのではないかと私は勝手にそう思っています。

 柿と言えばタンニンです。私は柿を食べる時期になると便秘っぽくなります。下痢の時には下痢止めに使ったのではないでしょうか?あるいは殺菌作用も何かに使われていたかもしれません。

 私の祖父、猛の時代ですらスイカを煮詰めた汁を飲ませて利尿剤にしたと聞きました。自然で使えるものは使っていたはずです。

 さて200年を生きてきた柿の木ですが医院新築に伴い危機にさらされました。どうしても柿の木を残そうとすると敷地面積が小さくなってしまいます。いっそ切り倒してしまうかとも考えました。古いものを捨てて新しくすることは簡単です。効率が良いのはその方でしょう。しかし柿の木を一度切り倒せば今と同じ柿が成長するまでには200年かかります。当然全く同じものが生えてくるわけでもありません。

 オンライン資格確認や電子処方箋、電子カルテなど、便利かもしれませんが(オン資は便利ではありませんが)新しくすれば良いというのはくだらない幻想です。

 私は医院の柿の木になる柿の実が大好きでした。品種は知りませんが甘柿です。同じく家に生えている竹を切って作った柿もぎ網(大きな虫取り網のようなもの)で秋になると自分で取っては自分で食べていました。昔の診察室の屋上(2階相当)で食べる柿が実にうまかった。子供にも味合わせたかったので3人の子それぞれと一緒に柿をもいだものでした。今回の新築医院でも柿もぎまでを考慮してもぎやすいように屋上を作りました。

 しかし新築後1年目の令和5年、柿はほとんど実をつけませんでした。葉は茂ったので死んではいないのでしょうが、建築に伴い根っこの端っこをいじめたからでしょうか?来年は実をつけてくれるでしょうか?

 人の命は一度きり。木の命も一度きり。200年生きても決して永遠ではないことは理解できます。いつかは最期の時が来ます。私は人の命も長引かせたいとは考えない質なので、柿の木も寿命が来れば苦しませずに一思いに、と思います。しかし生きている間は充実して生を全うしたい、させたいと思います。どう生きることが全うすることになるのか?どう生かすことがその助けになるのか?日々考えることです。

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